大隅の田の神さあ6
(霧島市U 国分地区2・横川地区)
 「大隅の田の神さあ5」では庶民的な笑顔の丸顔で右手でメシゲを立てて持ち、左手で椀を持った中腰の「早鈴神社西の田の神」「埒上の田の神」「森ノ木の田の神」を紹介したが、これらの像はこの地方でよくみられる江戸時代の田の神像の様式を受け継ぎ洗練した昭和期の田の神である。それに対してこの「大隅の田の神さあ6」では伝統を引き継ぎながらも近代彫刻の影響を受けた個性的な田の神像を3体紹介する。そのうち丸顔で庶民的な笑顔がすばらしい「口輪野の田の神」と「鎮守尾橋の田の神」は地元の石工の田畑喜蔵の作で「口輪野の田の神」に「昭和七年」の刻銘がある。「剣之宇都の田の神」は作者はわからないが写実的な穏やかな顔の像で「昭和十一年」の刻銘がある。

 他に国分地区の田の神として明治時代の素朴で可愛らしい「上之段の田の神」と弘化4(1847)年の新田開拓時に作られた「小村新田の田の神」を紹介する。国分地区と隼人地区以外にも優れた田の神像ややユニークな田の神があるが、横川地区の正保元年(1644)という田の神像の中で最も古い紀年銘が見つかり話題となった神官型座像の「紫尾田の田の神」以外撮影できていない。



口輪野の田の神
鹿児島県霧島市国分川内口輪野  「昭和7(1937)年」
 昭和になっても、地元の石工によって田の神像は作られた。稚拙な像もあるが、伝統を引き継ぎながら近代的で個性的な田の神像も何体かつくられている。その中でも優れた田の神像が口輪野の田の神である。像高73pの長袖の衣を着た、大きな笠のようなシキをかぶり右手にメシゲを下げて持った立像である。丸顔で歯を見せて笑う庶民の顔のすばらしい像である。石工は田端喜蔵で、台座正面に「口輪野部落中 昭和七年四月十六日」刻銘がある。



鎮守尾橋の田の神
鹿児島県霧島市国分川内鎮守尾 「昭和初期」
 国道10号線の「国分鎮守尾」の交差点と県道491号線をつなぐ橋が鎮守尾橋である。この橋の近くにあったため霧島市教育委員会刊の「霧島市の田のかんさぁ」では「鎮守尾橋の田の神」と名付けられている。「霧島市の田のかんさぁ」の写真では半分草むらにうずまった状態であったが、撮影した時は県道491号線脇に移され石碑や水神などとともに丁寧に安置されている。この像も「口輪野の田の神」と同じく石工田端喜蔵の刻銘がある。像高67pで「口輪野の田の神」と同じように笠のようなシキをかぶり長袖の衣を着た右手にメシゲ、左手に椀を持った立像である。残念ながら顔は大きく破損していて「口輪野の田の神」のような笑い顔は見られない。昭和期の作なので人為的に破損したとしか考えられない。


上之段の田の神1・2
鹿児島県霧島市国分上之段(うえのだん) 「宝暦13(1763)年」・「明治20(1887)年」
 国分上之段は国分川内から国道10号線は山の中を通って南下し霧島市福山町へ向かう。その山中が上之段(うえのだん)である。その上の段の田の神を霧島市教育委員会刊の「霧島市の田のかんさぁ」では4体紹介している。そのうちの2体がこの田の神である。この田の神を「霧島市の田のかんさぁ」では飯富神社西側の田の神@Aと名付けている。

 向かって左側の田の神は神官型座像の田の神「田の神1」である。像高66pで両手で笏を持っていることは確認できるが大きく風化・破損している。首はセメントでつながれている。「宝暦13(1763)年」の刻銘がある。右側の「田の神2」は右手にメシゲをかかげて左手で椀を持って座す田の神で、稚拙であるが愛らしい素朴な田の神である。背中に「御田神 明治二十年正月十四日」などの刻銘がある。



剣之宇都の田の神
鹿児島県霧島市国分剣之宇都町
 「剣之宇都の田の神」は剣之宇都町の横に水路がある道路脇に祀られている。像高80pの大きなシキをかぶって左手にメシゲ、右手に振り鈴(神楽鈴)を持った半跏像である。台座に「昭和十二年(1937)」の紀年銘がある。

 振り鈴を持った田の神像は神舞(カンメといい神楽のこと)を舞う神職を表した神舞神職型や神舞神職型とメシゲ持ち田の神と融合した「野里の田の神」などの田の神舞神職型など大隅にみられる(薩摩では男女並立型の女神が振り鈴をもつものがある。)。神楽や田の神舞に使う振り鈴を持った半跏像は他にみられない。江戸時代からの田の神像の様々な様式を融合した、写実的な穏やかな顔や力強い量感のある表現で、近代の田の神像の秀作である。



 
小村新田の田の神
鹿児島県霧島市国分広瀬  「弘化4(1487)年)」
 「小村新田の田の神」は弘化4(1847)年に小村新田開拓の時に豊作を祈ってたてられたもので、もとは堤防近くの遊水池脇にあったという。現在は国道10号線沿いに、神祠・保食神と3体並んでいる。像高100pのシキをかぶって裁着け袴を着けた立像で、現在は破損しているが右手にメシゲ、左手に椀を持っていたという。顔も風化して表情はわからない。


紫尾田の田の神
鹿児島県霧島市横川町上ノ3104-1  「延享元年(1744)」
 霧島市の田の神は隼人地区と国分地区以外の地区にも優れた田の神や特色ある田の神があるが、横川地区の「紫尾田の田の神」を除いて訪れることができなかった。「紫尾田の田の神」は最古の神官型田の神と聞いていたので、鹿児島空港に向かう途中にこれだけは見たいと帰りの飛行機の時間が近づく中、無理して訪れた。

 鹿児島県では神官型田の神の多くは安座姿で県の有形民俗文化財の般若寺の田の神・上木田の田の神などがそれである(腰掛け型は宮崎県近くの伊佐市菱刈町に数体見られる)。「紫尾田の田の神」から正保元年(1664)という田の神像としては最古の刻銘が見つかり話題になった。元は山中の洞窟にあったという。赤いベンガラの彩色が残り像高60pで両手を輪組にし安座する。正保元年(1664)の造立とすると、神像(神官)型の田の神像は宮崎から始まったと言われている定説が覆る。ただ、霧島市教育委員会の発行するの「霧島市の田のかんさぁ」(2010年刊)では、銘を「正保元年十一月」ではなく「延享元甲子十一月」と解読し「延享元年(1744)」としている。



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