奈良市内の石仏U
 奈良町にある十輪院は、石龕内に安置された鎌倉時代の地蔵石仏を本尊とする寺院で、本尊以外にも多くの古い石仏や石造物があり、奈良の石仏鑑賞では見逃せない寺院である。

 東大寺周辺や若草山周辺にも仏頭石や三国台三体仏、空海寺地蔵十王石仏、五劫院見返り地蔵などバラエティーに富んだ石仏がある。

 般若寺はコスモスをはじめとしてヤマブキ・アジサイなど花の寺として知られている。この寺には鎌倉時代、宋より渡来し活躍した石工の伊派の祖、伊行末の作の十三重石塔がある。江戸時代の西国三十三所観音石仏もあり、夏から秋にかけて美しく咲いたコスモスに映えた石塔や石仏の姿は美しい。



奈良市内の石仏(4) 十輪院の石仏
奈良県奈良市十輪院町27 
 奈良町にある十輪院は元正天皇の勅願寺で、元興寺の別院といわれ、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)の開基と伝えられる古寺である。創建当時の建物はなく本堂(国宝)や石龕内に安置された本尊の地蔵石仏など鎌倉時代の文化財が多く残り、中世以降は地蔵信仰の場として知られた寺院である。

 本尊の地蔵石仏は錫杖を持たをず右手を下に垂らし与願印を示し、胸の前で左手で宝珠を持つ、像高1.5mの古式地蔵である。おおらかで優雅な顔の表情で、豊かな厚肉彫りの重厚な作風は、地蔵石仏の再興傑作である。

 地蔵石仏は様々な切石で構築された石室風の石龕の奥正面に納められていて、一括して石仏龕として国の重要文化財に指定されている。石室風の石龕の左右両壁に十王像を線彫りし、前面の左右の扉石に釈迦と弥勒の立像を半肉彫りする。その他、不動・観音の立像や仁王・四天王などが刻まれている。彩色の跡が残り、やさしく、軟らかな表現の釈迦・弥勒像など、美しい石仏龕である。

 南門を入った右に庭園があり。その中に鎌倉時代の不動・観音をはじめとして十三重石塔・愛染曼荼羅石・興福寺曼荼羅石が配置されている。本堂の右奥にある御影堂の向かって右には魚養塚とよばれる小さな塚があり、塚の奥壁に如来像が刻まれている。


魚養塚如来像
「年代不明」
 本堂の右奥にある御影堂の東隅に魚養塚(うおかいづか)とよばれる小さな塚があり、十輪院の開祖、吉備真備の長男で弘法大師の書道の師とされている朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)とされている。真偽のほどはわからない。

 方形古墳状になっていて、北側に横穴式の小さな石室があり内部を覗くと、奥壁に如来像が刻まれている。右手で袈裟の隅を握っているように見え、阿閃如来と考えられる。
 
不動石仏
「鎌倉中期」
 境内の庭の北側の小堂内に鎌倉中期の作で高さ2mほどの板状石の全面に半肉彫りされた不動立像がある。燃えさかる火焔を光背として表し、両眼を見開いて、右手に剣を、左手に羂索を持つた迫力のある不動石仏である。火焔には赤と黄の彩色された跡が残る。
 
合掌観音石仏
「鎌倉時代」
 十輪院合掌観音石仏(鎌倉中期)は高さ2mの板状の花崗岩に等身大の合掌する観音像を薄肉彫りしたもので、斜めに傾けた顔の部分は半肉彫りで、張りがあり、顔を姿は気品があり、魅力的な石仏である。境内の庭の北側不動石仏の覆堂の近くにある。
 
十三重層塔四方仏
「鎌倉時代」
阿弥陀如来・釈迦如来
釈迦如来
薬師如来
薬師如来・弥勒如来
 南門を入った右の庭園の中央に鎌倉時代の十三重石塔がある。初重軸部の四方に四方仏を刻む。軸部の下方に蓮華座を薄肉彫りして、その上に二重円光背状の彫り窪みをつくり、その中に坐す如来像を半肉彫りしたもので、東面、薬師・南面、釈迦・西面、阿弥陀・北面、弥勒の四仏である。



奈良市内の石仏(5) 京終地蔵院阿弥陀三尊石仏
奈良市北京終町1  「鎌倉後期」
 北京終町の街中に京終地蔵院と呼ばれる小さな寺院がある。その寺院入り口の覆堂に鎌倉時代後期の阿弥陀三尊石仏が祀られている。

 高さ180pほどの大きな船型光背をつくり、阿弥陀三尊像を厚肉彫りしたもので、阿弥陀如来は像高130pの来迎印の立像で蓮弁を刻んだ頭光背を負う。合掌する勢至菩薩と蓮台を持つ観音菩薩は像高70pの立像で主尊と同じく蓮弁を刻んだ頭光背を負う。

 鎌倉初期や中期の像に比べると力強さに欠けるが三尊とも穏やかな面相で、衣紋の表現も流麗である。



奈良市内の石仏(6) 若草山周辺の石仏
 若草山の山麓の南に水谷川(みやがわ)が流れている、その川沿いに春日山原始林へと続く林道(春日山遊歩道)になっている。入口ゲートの少し手前の山麓の小高いところに、六角石柱に阿弥陀如来の仏頭を彫った仏頭石と洞の地蔵と呼ばれる倒れたままの鎌倉時代の地蔵石仏がある。また、若草山山頂近くの十国台には船型光背に阿弥陀・弥勒・十一面観音を半肉彫りした鎌倉時代の十国台三体仏がある。


仏頭石
奈良県奈良市春日野町  「室町時代」
十一面観音
准胝観音
如意輪観音
聖観音
千手観音
馬頭観音?
 若草山の南麓の春日山遊歩道の入口ゲートの少し手前の山麓の小高いところに、仏頭石と洞の地蔵と呼ばれる倒れたままの地蔵石仏がある。 仏頭石は六角石柱に阿弥陀如来と思われる仏頭を丸彫りし、柱の各面に観音を刻んだ石仏で、頂上の仏頭は阿弥陀如来をあらわし、阿弥陀信仰に付随する六観音を配した珍しい石仏である。鎌倉時代からの花崗岩を刻む確かな技術の伝統が息づいた石仏である。



洞の地蔵石仏
奈良市春日野町 「建長6(1254)年」
 若草山の南麓の春日山遊歩道の入口ゲートの少し手前の山麓の小高いところに、仏頭石と倒れたままのこの地蔵石仏がある。仏頭石は六角石柱に阿弥陀如来と思われる仏頭を丸彫りし、柱の各面に観音を刻んだ石仏で室町時代の作である。

 地蔵石仏は、高さ110pの板状の安山岩自然石の表面に、蓮華座に立ち、二重円光を負い、右手に錫杖、左手に宝珠を持った像高75pの地蔵菩薩を薄肉彫りしたものである。摩滅が少なく引き締まった顔やのびやかな衣紋表現が鮮明に残っている。鎌倉中期の建長6(254)年の紀年銘が残る。



十国台三体仏
奈良市川上町  「鎌倉後期」
 奈良の若草山の頂上に近い十国台には、高さ135p、幅100pの広めの船型光背を造って、阿弥陀を中尊に向かって左に弥勒仏・右に十一面観音を半肉彫りした、十国台三体石仏がある。

 阿弥陀如来は右手をあげ、左手を下げた来迎印の立像、向かって右の十一面観音観音は立像は、念珠と蓮華nを持つ。左の如来立像は右手をあげて施無畏印、左手を下げていて、弥勒仏と思われる。鎌倉後期の作。



奈良市内の石仏(7) 東大寺周辺の石仏
 東大寺二月堂裏の谷沿いの自然石に地蔵立像が線刻されていて「まんなおし地蔵」と呼ばれている。鎌倉後期の作である。東大寺大仏殿の北側には正倉院があり、その北側には知足院・空海寺・五劫院などの寺院があり、多くの石仏が祀られている。空海寺の本堂前には地蔵十王石仏、五劫院の墓地の入口の小さな覆堂、見返り地蔵と呼ばれる地蔵が安置されている。


まんなおし地蔵
奈良市雑司町  「鎌倉時代後期」
 東大寺二月堂の北東の谷沿いに「まんなおし地蔵」と呼ばれる地蔵石仏がある。高さ約120m、幅150m程の自然石の表面に像高約70cmの地蔵立像を線彫りで刻み出している。大きな頭光背を背負う。風化していてわかりにくいが、右手に錫杖を持っているように見える。

 地蔵の左右には閻魔と、その従者を線彫りする。「まんなおし」とは「不運を幸運に転ずること。縁起直し。」という意味で、この地蔵は現在も信仰を集めているようで煤の跡が残る。


空海寺地蔵十王石仏
奈良県奈良市雑司町167  「室町時代」
 空海が草庵を営み、空海作の「阿那地蔵尊」を本尊として石窟に安置したのにはじまるとされる寺院で、俗に「穴地蔵」と呼ばれている本尊の地蔵石仏は秘仏で60年に一度の公開。  本尊の地蔵菩薩石像は 俗に「穴地蔵」と呼ばれている。

 その空海寺の本堂の前に高さ180pの船型光背を背負った厚肉彫り地蔵十王石仏が蓮華座の上に立っている。光背の左右に浮き彫りの十王像を配している。地蔵の像高は133pで白毫寺や新薬師寺の地蔵十王像とは違い錫杖・宝珠の地蔵像である。他の地蔵十王石仏と同じく、地蔵尊によって地獄からの救済を願って造立されたものである。

 台石や線香立石に矢田山・矢田地蔵尊等の刻銘があり、もとは大和郡山の矢田寺(金剛山寺)にあったことがわかる。


五劫院の石仏
奈良市北御門町24
 五劫院は鎌倉時代、重源上人が中国から将来した五劫思惟阿弥陀仏像を本尊とする華厳宗の寺院である。鎌倉時代の重源上人についで江戸時代、東大寺大仏殿を再建した公慶上人の墓が、本堂裏の墓地にある。その墓地の入口の小さな覆堂に2体の等身大の地蔵石仏が安置されている。
五劫院見返り地蔵 「永正13(1516)年 室町時代」
2体の向かって左の像が見返り地蔵である。高さ約2mの船型光背形に造った安山岩に高さ152pの地蔵立像を厚肉彫りしたもので、錫杖を軽く肩に当てて、右足を踏み出して、顔をやや左に見返り、体を斜めに向けて歩く姿を表した地蔵である。衣の裾は後にたなびいている。

 遊行する地蔵が、救済に漏れた衆生を、見身を振り替えして救済する姿を表したものである。像の左側に永正十三(1516)年の刻銘があり、室町中期の作であることがわかる。
五劫院地蔵石仏 「室町時代」
 覆堂の2体の地蔵石仏の向かって右の像がこの像である。花崗岩製で見返り地蔵と同じく約2mの船型光背を背負った像高150pほどの厚肉彫り像である。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ通常の姿の地蔵である。鎌倉期の地蔵のような力強さはないが、繊細な表情の、室町時代としては優れた出来栄えの地蔵である。

 頭上に地蔵の種子「ア」を刻み、右に「三界万霊」、左に「念仏講中」と多数の法名の刻銘がある。



奈良市内の石仏(8) 般若寺の石仏
奈良市般若寺町221
 創建は飛鳥時代と伝わる古刹、天平のころ平城京の鬼門を鎮護する寺として栄えたが、平安時代に平重衡の焼き討ちにあい衰退。鎌倉時代、病者や貧者の救済に力を尽くた叡尊と弟子の忍性によって再興。

 宋から招かれた石工・伊行末の傑作として有名な鎌倉時代の十三重石塔が境内の中心に立つ。国宝に指定されている楼門は鎌倉時代の建立。十三重石塔や西国三十三所観音石仏と初夏のヤマブキ、梅雨時のアジサイ、秋のコスモスと折々の花々が境内を彩る。 


   
般若寺十三重塔
「建長5年(1253) 鎌倉時代」
 高さ12.6mで宇治浮島十三重石塔につぐ高さの十三重石塔塔である。初重軸部の四方に薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒の四仏が浅い薄肉彫りで刻まれている。昭和39年の解体修理で「建長5年(1253)」の墨書のある木造教箱が発見され、造立年時がはっきりした。

 境内にある二基の笠塔婆の「宋人伊行吉が父の亡き伊行末と母の後世ために造立した」という内容の銘文から、この十三重石塔塔は伊派石工の祖、伊行末が晩年に創立したものと考えられ。
 
十三重塔四方仏東面(薬師如来)
 十三重石塔塔の初重軸部の四方に東面、薬師・南面、釈迦・西面、阿弥陀・北面、弥勒の四仏が浅い薄肉彫りで刻まれている。
 
十三重塔四方仏北面(弥勒如来)
 
十三重塔四方仏西面(阿弥陀如来)
 
十三重塔四方仏南面(釈迦如来)
 、
 
三十三所観音石仏
「元禄16年(1703) 江戸時代」
千手観音・十一面観音・千手観音
十一面観音
千手観音
馬頭観音
十一面観音・千手観音・十一面観音
千手観音
 奈良にも江戸時代以降の三十三所観音石仏は多くあるが磨崖仏はなく、優れた石仏はあまり見当たらない。その中で最も知られているのが奈良市の般若寺の三十三所観音である。江戸時代中期の1703年(元禄16年)に山城国の寺島氏が病気平癒の御礼に寄進したもので、その端正な姿は、夏から秋にかけて美しく咲いたコスモスとマッチして絶好の被写体となっている。 




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