| 奈良市内の石仏V |
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| 奈良市の西部にも多くの古い石仏がある。特に、西大寺・尼ヶ辻周辺の街道沿いの辻や墓地には中世の地蔵菩薩が多く祀られている。代表的なものとして鎌倉時代の作の尼ヶ辻地蔵石仏、二条の辻地蔵石仏、青野墓地地蔵石仏などがあげられる。尼ヶ辻地蔵石仏の近くにある尼ヶ辻阿弥陀石仏や仏願寺阿弥陀石仏も鎌倉時代の作である。 奈良西部の特色ある石仏として、役行者石仏があげられる。富雄川沿いの霊山寺や阿弥陀寺・法融寺、堀辰雄がミュウズと称した技芸天で知られた秋篠寺などに役行者石仏が見られる。 行基菩薩の入滅の地として知られる喜光寺には古い石仏はないが、平成8年にインドからから将来した初転法輪像や江戸時代の稚児文殊石仏、伊舎那天像・地天像など珍しい石仏がある。 |
| 奈良市内の石仏(9) 西大寺周辺の石仏 |
| 西大寺は、奈良時代、南都七大寺の一つとして、鎌倉時代、叡尊上人によって密教と律宗の研修の根本道場として、栄えた大寺院であるが、当時の建物は残っていない。そのためか、観光客や参拝者は少ない。しかし、最近国宝に指定された興正菩薩叡尊上人や国宝十二天画像など多くの文化財を所有している。 西大寺には奥の院の叡尊五輪塔以外古い石仏は見当たらないが、西大寺周辺の辻や墓地には地蔵菩薩など多くの石仏がある。その中でも平城宮跡の北東の二条町の三差路の真ん中の地蔵堂にある二条辻の地蔵石仏と西大寺の南西400mの青野墓地の南西の入口付近の民家の前に立つ地蔵石仏は鎌倉時代の地蔵石仏である。ともに船型光背を背にした厚肉彫りの優れた石仏である。 西大寺の北1qにある秋篠寺は、堀辰雄が「大和路・信濃路」のなかで技芸天像をミュウズの像として賞賛したためか、西大寺より多くの人が訪れる有名寺院となっている。この寺の本堂西側の小さなお堂に役行者石仏が祀られている。この像は奈良県の行者石仏の中では最も古い天文15(1546)の記銘を持つ。 |
| 二条の辻地蔵石仏 |
| 奈良市二条町1丁目 「鎌倉後期」 |
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| 旧街道の辻にはよく地蔵石仏が見られるが、それは人の迷いそうな分かれ道の道しるべと同時に、迷える人を救う意をあらわしていて、仏の道を広めるために造立されたものである。そのような辻の地蔵の一つが、二条の辻の地蔵石仏である。 二条の辻の地蔵石仏は平城宮跡の北西の「二条町」の交差点の真ん中の地蔵堂にある。高さ190pの船型光背を背負った、左手で宝珠を持ち、右手で錫杖を持った丸彫りに近い厚肉彫りの像高140pの地蔵石仏である。錫杖は光背面に直立させて彫り出していて、下げた右手て手首を捻るようにして錫杖を持っている。穏やかな表情の地蔵石仏で、納衣などの表現は丁寧で、鎌倉後期の作風を示す。 |
| 青野共同墓地の地蔵石仏 |
| 奈良市青野町 「鎌倉後期」 |
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| 西大寺の南西400mに青野墓地と呼ばれる西大寺と本教寺の共同墓地がある。その墓地の南西の入口付近の民家の前に、優れた鎌倉後期の地蔵石仏が立っている。 高さ1.6mの船型の石材に像高1.2mの地蔵菩薩を丸彫りに近く厚肉彫りしたもので、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ通常の姿の地蔵である。衣紋の表現は写実的で、穏やかな表情の面相は、二条の辻の地蔵石仏によくにていて、洗練された作風の地蔵石仏である。 |
| 秋篠寺役行者石仏 |
| 奈良市青野町 「天文15(1546)年 室町時代」 |
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| 高さ1m、幅60pほどの上部を丸めた長方形の花崗岩石材に船型の彫り窪みをつくり、その上部に像高44pの役行者像、下部に像高22pの前鬼・後鬼像を半肉彫りした役行者像である。奈良県の行者石仏では最も古い天文15(1546)の記銘を持つ。 |
| 奈良市内の石仏(10) 喜光寺の石仏 |
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| 喜光寺は奈良時代、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したとされ、行基菩薩の入滅の地として知られる古寺である。現在、天文13年(1544)に建て直され本堂と平成になって建てられた南大門、行基堂が主な建物である。本堂には平安時代の丈六の阿弥陀如来(重要文化財)が祀られている。本堂の西の境内には多くの蓮の花が植えられた鉢が置かれていて、蓮の花は本堂や石仏とマッチして絶好の被写体となっている。 蓮の鉢が置かれた境内の奥には、インドから将来された仏足石・初転法輪像と室町後期から江戸時代の約150体の石仏が並べられている。その中には獅子に乗ってお経を読み上げる稚児文殊や伊舎那天像、地天像、錫杖を逆手に持った春日地蔵、横を向く来迎阿弥陀像など珍しい石仏が多数ある。 |
| 喜光寺釈迦初転法輪像 |
| 「平成8年(1999) 現代」 |
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| 釈迦がはじめて説法したというインドのサールナートから平成8年(199)に将来した釈迦初転法輪像である。 サールナートには「鹿野苑」(ろくやおん)と呼ばれる園があって、そこで、釈迦が5人の修行者に「四諦八正道」を説いたとされる。この最初の説法を、初めて法の車輪が回ったということで、「初転法輪」という。釈迦初転法輪像はその時の釈迦の姿を表現したものである。 喜光寺の釈迦初転法輪像とそっくりな仏像がサールナート考古博物館にあり、喜光寺像はこの像を模刻したものと考えられる。サールナート考古博物館の初転法輪像はグプタ王朝の時代の5世紀頃の作とされる傑作である。 |
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| 釈迦の最初の説法(初転法輪)を表した像で、その時の印を「転法輪印」と言い、両手を胸の前で法輪を転ずる形とする。インドでは「輪」は世界を支配する帝王の象徴で、法輪は最高の真理を意味している。「法輪を転ずる<転法輪>」とは最高の真理を余に宣布することで、釈迦の説法を指す。 |
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| 光背の左右には二人の天人が対称的に置かれ、花模様も美しい。 |
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| 台座レリーフ |
| 中央に法輪があり、それを囲んで右に3人、左に2人の計5人の弟子となった修行者がいる。左端には母と子が描かれている。また法輪の両側に鹿が2頭配置され、鹿野苑での説法であることを表わしている。 |
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| 釈迦初転法輪像と仏足石 |
| 初転法輪像の前には仏足石が置かれている。この仏足石は釈迦が修行した前正覚山の石を使って成道の地ブッダガヤの仏足石を模写し、平成8年(1996)に初転法輪像とともにインドから将来したものである。 |
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| 十二天像 |
| 「江戸時代」 |
| 蓮の鉢が置かれた境内の奥には、インドから将来された仏足石・初転法輪像と室町後期から江戸時代の約150体の石仏が並べられている。その無造作に並べられた石仏群のなかに伊舎那天・帝釈天などの十二天像が混ざっている。 |
| 伊舎那天 |
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| 石仏が集められた基壇のほぼ中央の前列にある天部像である。船型光背を背負い、右手に三鈷戟(さんこげき)を持ち、左手で杯を肩まで上げて持つ立像の厚肉彫りである。杯は血を入れた髑髏杯と思われる。 髑髏の首飾りなどは見られないが十二天の一体、伊舎那天(いしゃなてん)像と思われる。伊舎那天は大自在天(シバ神)の憤怒相と考えられ、仏教では東北方向の守護神とされる。 |
| 帝釈天 |
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| 基壇に並べられた150体程の中に十二天と思われる像が三体確認できた。その内の一体がこの像である。 船型を造り宝冠をかぶり、右手に独鈷杵を持つた像を厚肉彫りしたもので、帝釈天と思われる。地天像と同じく頭光背が火焔光背である。 |
| 地天 |
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| 石仏が集められた基壇の向かって右側の上段にある石仏である。 船型を造り、宝髻・宝冠姿の立像を厚肉彫りした像である。一見、観音菩薩などの菩薩像に見えるが、頭光背が火焔光背であることや、花を飾った籠か鉢のような物を左手に持つことから、伊舎那天と同じ十二天の一つの地天と思われる。 地天はバラモン教の女神プリティヴィーであったが、後に仏教に取り入れら、男性化して表されることになる。地持菩薩とも呼ばれ、菩薩として扱われる場合もある。この像は菩薩のような端整な顔立ちで、喜光寺の石仏の中でも印象に残る像である。 |
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| 不動石仏 |
| 基壇に並べられた150体程の中に4体の不動石仏がある。その中でも基壇の中央付近にある迫力ある2体の不動石仏を取り上げた。 |
| 不動石仏1 |
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| 4体の不動石仏の中でこの像が一番力強い。頭上に蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣、左手に羂索を持ち、両牙は下唇をかんで、左を向いて動き出そうとしているように見える姿は迫力がある。 |
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| 不動石仏2 |
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| 毎年3月2日の行基會大祭の際に、この不動石仏の前に柴燈大護摩が組まれ、像の前で法要が行われる。「喜光寺不動」とよばれている。頭上に蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣、左手に羂索を持ち、両牙は下唇を噛む像である。 |
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| 喜光寺来迎阿弥陀石仏 |
| 釈迦初転法輪像の向かって左には基壇を設けて150体程の石仏が安置されている。その中の一体で、船型光背を背負った来迎印の阿弥陀立像の厚肉彫り像である。極楽浄土へ迎えとるために、来迎する様子を横を向いたすがたで動的に表したもので、関西ではあまり見られない。 |
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| 釈迦初転法輪像の向かって左には基壇を設けて150体程の石仏が安置されている。その中の一体で、船型光背を背負った来迎印の阿弥陀立像の厚肉彫り像である。極楽浄土へ迎えとるために、来迎する様子を横を向いたすがたで動的に表したもので、関西ではあまり見られない。 |
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| 文殊石仏 |
| 基壇に並べられた150体程の中に獅子に乗った菩薩像が三体ほどみられる。これらの像は文殊菩薩である。 |
| 文殊石仏1(経よみの稚児文殊) |
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上段の右端に置かれているのが、獅子の上に半跏で座って膝の上でお経を開いている稚児姿の像である。稚児姿で半跏で座って膝の上でお経を開いているのは一般に稚児普賢である。しかし、この像は稚児普賢のように象に乗るのではなく獅子に乗っているので稚児文殊と考えられる。(一般的な稚児文殊は宝剣や如意棒を持つ。) 船型光背と頭光背を背負って半跏で獅子に乗って横を向いて経典を開く稚児姿の文殊菩薩を丸彫りに近い厚肉彫りで彫った像である。光背の右に文政十丁亥年十一月(1827年)の紀年銘がある。 寺のHPではこの象を「文殊菩薩騎獅像(経よみの文殊)」として紹介している。 |
| 文殊石仏2 |
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| 約150体の石仏の中で獅子に乗った石仏が稚児文殊石仏以外2体ある。これらの石仏も文殊菩薩である。石仏の並んだ基壇の中央の最上段にある文殊石仏で髻が一つで左手に蓮華を持つ。右手は何も持たないが、よく見ると指を輪組にして宝剣や如意棒を差せるようにしている。 古くから行基菩薩は文殊菩薩の化身であるという信仰があり、行基菩薩ゆかりのお寺では文殊菩薩が多くのこされている。 |
| 文殊石仏3 |
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| この文殊石仏も石仏が並んだ上段にあり、前の石仏と重なって全容を見られない。右手に宝剣、左手に蓮華を持つ。文殊菩薩では珍しく宝冠をつけている。 |
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| 喜光寺弁財天像 |
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| 本堂前北側の弁天池の中の弁天堂の御神影の御前立ちとして祀られている。江戸時代の作で可愛らしい木彫の弁財天像である。秘仏の御神影、宇賀神(うがのかみ)像は人頭蛇身姿で石造である。宇賀神は穀物~~、福の神として弁財天と同一視されている。 |
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| 中世以降、弁財天は日本の在来の作神、宇賀神と結びつき翁面蛇体の宇賀神をいただく姿の宇賀弁才天がうまれた。この像は宇賀弁才天で頭の上に鳥居と宇賀神がのっている。 |
| 奈良市内の石仏(11) 尼ヶ辻・仏願寺・霊山寺の石仏 |
| 暗峠を超えて大阪と奈良を結ぶ奈良街道(国道308号線)は江戸時代まで栄えた。かつては、沿道の峠村に本陣や旅籠、茶店が立ちならんでいたという。この街道沿いには中世の阿弥陀石仏や地蔵石仏が多数ある。生駒市内の奈良街道沿いの伊行氏の作の石仏寺阿弥陀三尊石仏・藤尾阿弥陀石仏・西畑阿弥陀磨崖仏・暗峠の地蔵石仏・応願寺地蔵石仏などが鎌倉時代の石仏である。 奈良市に入っても奈良街道沿いには尼ヶ辻地蔵石仏や尼ヶ辻阿弥陀石仏・佛願寺阿弥陀石仏なとの鎌倉時代の石仏がある。尼ヶ辻地蔵石仏のある交差点は奈良街道と郡山道の交差する辻で、尼が辻地蔵石仏は街道沿いの辻堂に祀られた体表的な辻の地蔵で、鎌倉中期の洞の地蔵石仏や朝日観音などとよく似た引き締まった顔の秀作の地蔵石仏である。 霊山寺(りょうせんじ)は聖武天皇の勅命で行基が建立したといわれる古寺で鎌倉中期(1283)に改築された本堂(国宝)や薬師三尊像(重要文化財)など、優れた建築や彫刻を所蔵している。昭和32年に開園した1200坪のバラ園には春と秋に約200種2,000株のバラが咲き誇り、現在はバラの寺としても知られる。霊山寺境内にはこれといった古い石仏が見当たらないが、江戸時代の役行者石仏が本堂北側に2体ある。 |
| 尼ヶ辻阿弥陀石仏 |
| 奈良市尼辻北町6 「鎌倉後期」 |
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| 奈良市に入っても奈良街道沿いには尼ヶ辻地蔵石仏や尼ヶ辻阿弥陀石仏・佛願寺阿弥陀石仏なとの鎌倉時代の石仏がある。尼ヶ辻地蔵石仏のある交差点は奈良街道と郡山道の交差する辻である。 尼ヶ辻駅から東へ230mほど旧奈良街道を進むと、古跡「伏見崗」として整備された小さな公園があり、繋がった大小の2棟の真新しいお堂が見えてくる。大きい棟のお堂にこの尼ヶ辻阿弥陀石仏が祀られている。 伏見崗は「伏見翁(ふしみのおきな)」ゆかりのの霊地である。伏見翁は東大寺大仏建立にさいして、この崗で、何も言わず3年間伏して、時々東方の東大寺造営を見ながら過ごし、東大寺造営の土地を鎮め守護したという。東大寺造営が完成したとき、立ち上がり菅原寺(喜光寺)へ下り、行基や婆羅門僧らと共に歌い舞ったという。 尼ヶ辻阿弥陀石仏は高さ2mほどの船型光背を造り、蓮華文様の頭光背を背負って立つ像高150pほどの来迎印阿弥陀如来の厚肉彫り像である。力強さや引き締まった緊張感に欠けるが、おおらかな表情で、巨大な体部の量感は魅力的である。鎌倉後期の作風である。 |
| 尼が辻地蔵石仏 |
| 奈良県奈良市四条大路5丁目 「文永2(1265)年 鎌倉時代」 |
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| 「三条大路5丁目」交差点にあるディスカウントショップの駐車場横の立派な地蔵堂に安置されている。「三条大路5丁目」交差点は旧奈良街道と郡山道の交差する辻道で、尼が辻地蔵石仏は街道沿いの辻堂に祀られた体表的な地蔵石仏である。 黒い安山岩製で、高さ210pの二重円光を背負った、像高170pの半肉彫りの地蔵石仏である。右手を垂らして与願印、左手は胸前で宝珠を持つ古式の印相の像である。鼻の一部は欠けいるが引き締まった顔で、鎌倉中期の洞の地蔵石仏や朝日観音などとよく似た顔の表情や作風である。朝日観音と同じ文永2(1265)年の紀年銘がある。 通称「縁切り地蔵」と呼ばれ、尼寺に入る女性が、この地蔵の前で俗生と縁を切ったという。 |
| 佛願寺阿弥陀石仏 |
| 奈良県奈良市宝来4-3-27 「鎌倉後期」 |
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| 佛願寺の門前脇の堂内に安置する。高さ160pの船型の光背を背負った厚肉彫りの来迎院阿弥陀立像で鎌倉後期の作風を示す。尼ヶ辻地蔵石仏のような重厚さないが面相や納衣衣紋はそつなく写実的に彫られている。 |
| 霊山寺役行者石仏 |
| 奈良県奈良市中町3879 「江戸時代」 |
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| 本堂前北側に二基の役行者石仏がある。共に江戸時代の像で、この一基は、高さ140pの自然石に船型の彫り窪みをつくり、中央に頭巾、高下駄、右手に錫杖姿で腰掛ける行者を両脇に前鬼・後鬼像を半肉彫りしたものである。もう一基は役行者一尊像で文化7年の紀年銘がある。 |