| 奈良市内の石仏 |
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| 奈良市の旧市街地は平安時代以降、平城京の外京と呼ばれるエリアを中心に東大寺・興福寺・元興寺などの門前町として栄えた場所で、江戸時代には幕府の直轄地になり奈良奉行所が置かれた。ここではその旧市街地(奈良町)と旧市街地に隣接する若草山・春日山・高円山の麓の寺院などにある石仏と旧市街地につながる奈良街道沿いや西大寺周辺の石仏を「奈良市の石仏」と題してT・U・Vに分けて紹介する。 ここには奈良時代の「頭塔石仏(史跡)」や「新薬師寺如来立像石仏」、鎌倉時代の「十輪院石仏龕(重要文化財)」・「尼ヶ辻地蔵石仏」・「十国台三体仏」・「十輪院不動石仏」など古い石仏が数多くあり石仏を鑑賞には見逃せない所である。鎌倉時代以降の石仏でも「仏頭石」「地蔵十王石仏(百毫寺・新薬師寺・空海寺)」・「般若寺三十三所観音」・「喜光寺釈迦初転法輪像」など特色ある石仏が多くある。 |
| 奈良市内の石仏T |
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| 春日山と高円山の麓の高畑町は大正から昭和にかけて多くの画家や作家に親しまれた地域で、古色の土塀が残る町並み、奈良市写真美術館、新薬師寺、志賀直哉旧居などの名所がある趣深い所である。また、その南の白毫寺町には五色の花をつける五色椿や参道の石段を覆う萩で知られた白毫寺がある。 新薬師寺や白毫寺には地蔵十王石仏など多くの古い石仏があり、石仏愛好家にとって見逃せない地域でもある。頭塔は土壇からなる奈良時代の塔で、自然石を利用した石積みの各壇に石仏が配置されていて、現在浮彫や線彫の石仏22基が「頭塔石仏」の名称で、一括して重要文化財に指定され、奈良時代の数少ない石仏群として知られている。 |
| 奈良市内の石仏(1) 頭塔石仏 |
| 奈良県奈良市高畑町921番地 「奈良時代」 |
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| 頭塔は方形の7段からなる奈良時代の土の塔で国の史跡になってい。古くより僧玄ムの頭を埋めた墓との伝説があり、その名の由来とされてきたが、本来の土塔「どとう」がなまって頭塔(ずとう)と呼ばれるようになったものと思われる。 頭塔の造営については、神護景雲元年(767年)に東大寺の僧で二月堂修二会(お水取り)を創始した実忠が、造った塔であるとされている。 1980年代からはじまった本格的な発掘調査で、この場所にはもとは6世紀つくられた古墳があり、それを壊して造られていること、天平宝字4年(760)に最初の土塔は現状より小規模(3段)につくられ(下層頭塔の造営)、その後あまり時期を経ずして、<神護景雲元年(767)頃か?>その上にかぶせるようにして現在の7段の頭塔(下層頭塔の造営)がつくられたことがわかった。(奈良国立文化財研究所の「史跡頭塔発掘調査報告 2001年」参照) 現在の頭塔は、発掘調査により遺構解明された、南面(頭塔の森としての価値を認めそのままにした)以外を昭和61年から平成12年まで奈良県教育委員会が復元整備を行い、1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造を復元したものである。 頭塔の各段には、浮彫(一部線彫)の石仏が配置されている。復元前には13基の石仏が露出していていたが(他に郡山城の石垣に一基転用されたいたのが確認されている)、発掘によってあらたに14体と抜き取り痕跡5個所を発見された。東西南北の各面に11基ずつ、計44基設置されていたものと推定される。頭塔石仏の構想には法華経の影響が入った華厳教学の影響の下、東大寺大仏と同じ造像構想を東大寺大仏と同じ造像構想を背景に持つとされている。(各石仏の説明参照)。 東・西・北面の石仏は復元整備後、屋根付きの壁龕に安置されていて、デッキ式の回廊をめぐらした見学路から見学できる。隣のホテルウェルネス飛鳥路のフロントにて受付をすれば、予約無しで当日見学が可能。 |
| 東面の石仏 |
| 如来三尊像 |
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| 東面の第一段の中央には北面と同じく上方に宝相華の天蓋と飛雲を配し、群来のある蓮華座で、宝相華の飾りをつけ、中尊下方の左右に合掌する小菩薩(侍者)を刻んだ大型の如来三尊像の浮き彫り像が配置されている。二重円光背を背負った中尊如来座像は、衣を通屑に着け、腹前に置く両手先を組んで印相を表さない(定印?)。中尊にに向けて坐す両脇持像は穏やかでふくよかな面相である。頭塔の石仏の中では最も保存状態がよく見ごたえがある。 東方を浄土する如来として薬師如来が知られているが、この像は多宝如来と思われる。薬壺を持たない薬師如来像もあるため断言はできないが、薬壺を持たない定印の薬師如来像の例はなく、法華経見宝塔品には、多宝仏の宝浄国土は東方世界にあると説かれるから、この石仏は多宝仏浄土を表したものと考えられる。 |
| 如来及四菩薩二比丘像 |
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| 東面の第五段の北にある石仏である。中尊の如来座像の左右に脇持の菩薩座像、その左右に合掌礼拝する小菩薩、中尊の背後に2体の比丘像を浮き彫りしたもので、彩色の跡が残り、1986年から始まった奈良文化財研究所発掘調査で新しく見つかった石仏である。宝樹を背景にして花茎を伸ばした蓮華上に坐す中尊如来は、右手は第一指と第二指を捻じた施無畏印で、左手は掌を上にして膝上に置く。 宝珠の下、菩薩や比丘像を従えたこれと同じ印相の如来像は、奈良時代に描かれた現在ボストン美術館にある「法華堂根本曼荼羅図」や奈良国立博物館の国宝「刺繍釈迦如来説法図」に見られ、霊鷲山(りょうじゅせん))で釈迦が法華経を説く情景を表わしたものと考えられる。 |
| 二如来像 |
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| 東面第五段南側にある石仏である。格狭間のある台座に結蜘扶坐する二如来は、左が施無畏・与願印、右は衣のうちに印相を収めたもので、左は釈迦如来、右は一段中央の三尊像と同じ多宝如来である。ともに二重円相光背を負う。前方(下)には六菩薩と合掌のー比丘が表されている(見学路から見上げることになり、見学路からは菩薩・比丘像は見られない)。 |
| 北面の石仏 |
| 如来三尊像(弥勒如来) |
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| 七段の階段状の石組みの四方の一段目中央には大型の如来三尊像の浮き彫り像が配置されている。四体とも如来座像の中尊と座像または半跏像・立像の両脇持からなる三尊で、上方に宝相華の天蓋と飛雲を配し、群来のある蓮華座で、宝相華の飾りをつける。中尊下方の左右に合掌する小菩薩(侍者)を刻む。四方の大型如来三尊の中尊はそれぞれ東は多宝如来、西は阿弥陀如来、北は弥勒如来、南は釈迦如来と考えられる。 北面の一段目中央の如来三尊は中尊如来座像は二重円光背を背負って、左手を上げて掌を開き、右手を垂下して右膝で掌を伏せる印相で弥勒如来と考えられる。頭光を付けた両脇持立像は腰を左右に捻った優美な姿である。 |
| 如来及両脇侍二侍者像 |
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| 北面の第三段の中央の石仏は、楼閣に背にして、右手を施無畏印、左掌を左膝に伏せた中印相で蓮華上に坐す如来像を中心に左右に如来に向けて坐す菩薩像と合掌礼拝する侍者像(菩薩像)を彫った浮き彫り像である。 奈良国立文化財研究所の「史跡頭塔発掘調査報告 2001年」ではこ中尊は弥勒仏で弥勧仏浄土を表したものとしている。 |
| 菩薩座像及び一侍者像 |
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| 北面の第一段の西端の石仏は、蓮台上に坐す菩薩形像と合掌礼拝する一人物が表された小型の薄肉彫り像である。南面、西面にも同じような供養あるいは礼拝合掌する一人物を 配した如来座像の小型の薄肉彫り像がある。 奈良国立文化財研究所の「史跡頭塔発掘調査報告 2001年」ではこれらの像を華厳経入法界品にもとづく普財童子の善知識歴参図と解釈し、北面像の主尊は弥勅菩薩、合掌礼拝する一人物は善財童子としている。 |
| 西面の石仏 |
| 如来三尊像(阿弥陀如来) |
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| 西面の第一段の中央には、南北東面と同じく上方に花蓋と飛雲宝珠を配した大型の如来三尊像の浮き彫り像がある。説法印を結び、半跏像の脇持菩薩を従えた阿弥陀三尊像で、東面の多宝如来三尊とともに保存状態も良く、優れた彫刻美を誇る石仏である。 二重円相の光背を負い、説法印を結び、左足を前に組んて千蓮華上に坐す中尊像は当麻曼荼羅の阿弥陀像と特徴を同じくする。半跏像の脇持を従えた説法印の阿弥陀三尊像としては奈良市法蓮町にある興福院(こんぶいん)の木心乾漆造像が知られていて、頭塔石仏と同じ8世紀後半の作である。 |
| 如来坐像 |
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| 西面第三段中央にある。二重円相光背の周囲に十体の化仏を表した如来坐像で、北面や南面にも同じ像があり、盧舎那仏像と考えられる。 |
| 南面の石仏 |
| 如来三尊像(釈迦如来) |
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| 南面の第一段の中央には東西北面と同じく上方に花蓋と飛雲宝珠を配した大型の如来三尊像の浮き彫り像がある。中尊下方の左右に合掌する小菩薩(侍者)を刻むが、見学路からは土に隠れて確認できない。 二重円相光背を負う中尊如来座像は、右手は大指と頭指を捻じた施無畏印、左手は掌を開いて与願印を結ぶ。左右に頭光を付けた二菩薩像が腰を軽く捻って立つ。忠尊の印相等は「法華堂根本曼荼羅図」や大仏蓮弁線刻画の釈迦浄土の中尊と一致することから、この石仏は釈迦浄土を表したものと考えられる。 |
| 奈良市内の石仏(2) 白毫寺の石仏 |
| 奈奈良市白毫寺町392 |
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| 白毫寺は高円山のふもとにあり、雲亀元年(715)志貴皇子の没後、その地を寺としたのに始まると伝えられ古寺で、鎌倉時代に再興され、閻魔堂や地蔵堂が建てられ、人々に地獄の恐ろしさを教えるとともに、極楽往生のための教えを広げる寺として栄えた。現在でも阿弥陀像や地蔵像とともに閻魔王像や太山王像など冥府に関する諸尊が残っていて、寺の行事として「えんまもうで」もおこなわれている。石仏もそのような信仰に関わるものが多い。 天然記念物の五色椿が植えられた境内の片隅には南北朝時代の十王地蔵石仏を初め、鎌倉時代の不動石仏や慶長15(1610)年の弥勒石仏・地蔵石仏が並べられている。また、山門前には薬師如来石仏がある。白毫寺の東と南には市営墓地があり、墓地の入り口付近には鎌倉時代の丸彫りの地蔵石仏が立っている。 |
| 地蔵十王石仏 |
| 「南北朝時代」 |
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| 地蔵十王石仏残欠 「鎌倉時代」 |
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| 天然記念物の五色椿が植えられた境内の片隅にある十王地蔵石仏は、厚肉彫りの地蔵石仏で左手で宝珠を持ち、右手に錫杖を持たず阿弥陀来迎印を結んだ姿の地蔵像である。 光背は七条の放射光を刻んだ頭光と、左右に秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王の十王を薄肉彫りした身光の二重円光である。地蔵と阿弥陀の両徳を備えた地蔵を中心に、人が死後、罪の審判を受ける十王を配して、地蔵を拝むことにより、極楽往生を願って造立されたものである。 白毫寺墓地にあったこの像とほぼ同じ姿・寸法の鎌倉時代の地蔵菩薩の残欠が横に置かれていて、その像を南北朝時代に再建したものがこの十王地蔵石仏と思われる。 |
| 不動明王石仏 |
| 「鎌倉時代」 |
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| 高さ130pの花崗岩の石材に、右手に剣、左手に羂索を持つ像高1mの不動明王立像を薄肉彫りしたもので、像の上部の右端が破損している。摩滅もすすみ判然としないが、憤怒相の面容などに鎌倉時代の面影を残す。 |
| 弥勒石仏 |
| 「慶長15(1610)年 江戸初期」 |
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| 船型光背を負った像高118pの蓮華座の上に立つ半肉彫りの如来像である。右手は肩まで上げて施無畏印、左手は下げて甲を見せて指をのばす印相(触地印)で弥勒仏と考えられる。光背に江戸初期の慶長15(1610)年の年号が刻まれている。 |
| 白毫寺門前薬師石仏 |
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| 白毫寺の山門の近くの民間の横のブロックでつくった覆堂に安置されている円光背を負った丸彫りの薬師如来像である。右手は肩まで上げて施無畏印、左手で薬壺をかかげる。衣紋等の表現は形式的で、近世の作と考えられる。 |
| 東山霊苑前の地蔵石仏 |
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| 白毫寺墓地(現在は市営墓地東山霊苑)の入口付近の県道脇に立つ丸彫りの地蔵石仏で、像高は150pで下部分は埋まっている。 右手は下げて与願印を結び、左手で宝珠を持つ古式像である。摩滅が進んでいるが穏やかで引き締まった面相で写実的な衣紋表現が残る。あまり知られていないが鎌倉時代の優れた地蔵石仏である。 |
| 奈良市内の石仏(3) 新薬師寺の石仏 |
| 奈良市高畑町1352 |
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| 新薬師寺は天平19年(747)に光明皇后が、聖武天皇の眼病が治るように建立した。かつては七堂伽藍が整った由緒ある寺院であるが、創建当時の建物は本堂(国宝)のみがとなっている。本尊木造薬師如来坐像(国宝)とそれを囲む等身大の奈良時代の塑造十二神将立像(国宝)が有名である。 その新薬師寺の境内の南の端に多くの石仏を集めた覆堂があり、芳山二尊石仏に似た奈良時代後期の如来立像をはじめとして多くの石仏や板碑が安置されている。覆堂の中央には永正3年の造立銘のある地蔵石仏と鎌倉後期の阿弥陀石仏が安置され、地蔵石仏の向かって左に奈良時代後期の如来立像がある。如来立像の向かって左には鎌倉時代の地蔵十王石仏が置かれている。 他に覆堂には名号石や大永5年の地蔵石仏などがある。他に稲荷社の北にも多くの石仏が置かれていて、その中には双仏石や古式の地蔵石仏などがある。。 |
| 如来立像石仏 |
| 「奈良時代後期」 |
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| 地蔵十王石仏の向かって右に芳山二尊石仏と似た如来立像の石仏が安置されている。高さ1.5mほどの不整形の自然石に、高さ138pの二重円光背を彫りくぼめ、像高109pの蓮華座に立つ如来像を半肉彫りしたもので、右手を胸前に上げて掌を下に、左手は腹のあたりで掌を上にした珍しい印相の石仏である。 薄い納衣をまとった重量感のある体躯、裾前からの円状の衣紋、張りのある厳しい面相など、奈良奥山の芳山二尊石仏と共通する。奈良時代後期の作と考えられる。 |
| 地蔵十王石仏 |
| 「鎌倉後期」 |
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| 芳山二尊石仏に似た如来立像の側に総高90p程の地蔵十王石仏が立っている。船型光背を造り、白毫寺と同じく、錫杖を持たない像高75pの地蔵で、右手は人差し指を捻じた施無畏印である。摩滅が進んでいるが引き締まった顔で衣紋表現も巧みで鎌倉後期の様式を示す。 光背の左右に5体の十王像を浮き彫りにしている。光背の上部には獄卒と思われる人物や馬や鳥が刻まれていて、地獄に落ちた冥府の世界を表していると思われる。 |
| 阿弥陀石仏 |
| 「鎌倉後期」 |
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| 新薬師寺の境内の南の端の地蔵十王石仏など多くの石仏を集めた覆堂にある。永正三(1506)年の地蔵石仏の向かって右にある阿弥陀石仏である。この覆堂では一番大きな石仏である。 蓮華座下部が土の中に埋まっていて正確な高さはわからないが高さ190p以上の船型光背を背負った、厚肉彫りの像高155pの来迎印阿弥陀立像である。頭部は丸彫りに近く、鎌倉後期の作風を示す重厚な阿弥陀石仏である。 |
| 永正三年地蔵石仏 |
| 「永正3(1525)年 室町時代」 |
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| 新薬師寺の境内の南の端の地蔵十王石仏など多くの石仏を集めた覆堂にある。高さ180pの船型光背を背負った、右手に錫杖、左手に宝珠を持った蓮華座に立つ像高121pの地蔵菩薩の半肉彫り像である。 像の左右に「為八万四千大塔婆供養也 永正三年丙寅二月廿四日寺家宗」の刻銘があり、重宗なる人物が、八万四千の塔婆の供養のため造立したことがわかる。(インドの阿育(アショカ)王が八万四千もの仏舎利塔を 各地に建立し仏教を全国に広めた故事に由来する。)室町時代になると庶民の中でも塔婆造立供養が盛んにおこなわれるようになり、そのような供養のためにこの地蔵石仏が造られた。 |
| 古式の様相の地蔵石仏 |
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| 境内の南西の土塀に双仏石など多くの石仏が並べられている。その石仏群の中央に円光背を背負った丸彫りの地蔵石仏がある。右手を下げて与願印、左手を胸前に上げて宝珠を持って立つ古式の様相の地蔵菩薩である。 |