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近くの水田に行きました。台風によって、干上がっていた水田や休耕田にも水が入りました。しかし、それらの水田や休耕田には鳥はいませんでした。結局、クサシギやイソシギ・ケリを見かけたのは台風接近前から水の張っていた休耕田です。コチドリは休耕田の水か深くなり、浅瀬がなくなったため見かけませんでした。 | |
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先日と同じように、水路のコンクリート部分にシギがとまっていました。イソシギと思って撮影したのですが、イソシギの特徴である胸側部の白く食い込んだ部分がありません。クサシギの幼鳥か冬羽のクサシギとも考えられるのですが、翼(初列風切)と尾の長さが尾の方が長いのでやはりイソシギかも? | |
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先日と同じように休耕田にクサシギがいました。 | |
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背の羽紋のまだら模様は大いので、タカブシギとも思えるのですが、下尾筒が真白で夏羽のクサシギではないでしょうか。 | |
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シギ類はこのように目をつぶるような姿をよく見かけます。 |
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鹿児島県南さつま市金峰町池辺 塩屋堀 「嘉永4(1851)年」
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南さつま市金峰町の田の神像右は立派な台石に乗った像が目立つ。その中でも特に優れた台石は池辺中の田の神とこの塩屋堀の田の神である。請花にした三段の基礎上に円形の竿を置きその上に流水文の彫った台座の像高よりも高い台石である。赤子を抱くように両手でメシゲを持ち、ツトを背負った像である。 笠ヶ野の田の神の流れを組む長袴をはいたメシゲ両手持ちの僧型立像の田の神であるが、一見すると座っているように見えるずんぐりした体型の田の神である。丸顔でおだやかな美しい表情が印象に残る。田の神の前には美しい田んぼが広がっている。 |
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鹿児島市松元町直木 山陰 「寛政4(192)年」
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山陰の田の神は全面を削った自然石に、深く彫り窪みをつくり、薄肉彫りで、シキをかぶり、メシゲと大きな椀を持った田の神像を表したもので、寛政4(1792)の紀年銘を持つ。 目鼻はやや風化しているが、丸い庶民的な顔つきで、薩摩の僧型立像の田の神像であるが、ずんぐりとした農婦のような体つきで、個性豊かな造形の田の神である。 |
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近くの水田に行きました。台風が近づいていましたが、まだ雨は降らず、水の張った休耕田は2ヶ所しかありませんでした。そこにはケリ・コチドリ・イソシギ・クサシギがいました。クサシギは今年初めてです。 | |
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頭部を見たとき褐色の縦紋があったので、タカブシキかと一瞬思ったのですが、背の羽紋のまだら模様は大きくなく、ハッキリしていないのでクサシギと考えられます。 | |
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先日と同じように、水路のコンクリート部分にイソシギがいました。 | |
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休耕田に10羽ほどコチドリの幼鳥・若鳥がいました。その中の成鳥に近い個体です。 | |
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コチドリの若鳥です。 | |
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コチドリの幼鳥です。前頭に黒色はありません。 |
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鹿児島県姶良市蒲生町久末畠田 「元文4(1739)年」
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畠田の田の神はキノコ状に広がった笠のようなシキをかぶり、右手にメシゲを左手に宝珠を持った像で、切れ長の鋭い目で、頭から肩にかけて長い総髪がなびかせている。胸から腹まではだけた上衣に裁着け袴、背にはワラヅトを背負う。シキのらせん状の編み目や目鼻の大きい厳しい面容、着衣などの表現は荒々しく力強く、山で修行をする山伏を思わせる魅力ある像である。元文4(1739)年の作。 |
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鹿児島県鹿屋市野里町山下 「寛永4年(1751)」
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大隅地方の特色ある田の神像として、神像型・神職型流れでは神職型座像と神舞神職型を、仏像型・僧型の流れでは、女性的な表現の僧型立像と旅僧型を取り上げてきたが、もう一つ、この地方特色ある田の神像がある。神舞神職型とメシゲ持ち田の神と融合したもので、シキを被り、右手にメシゲを持ち左手に振り鈴を持つた田の神舞を踊る田の神像である。上衣の衿から胸にかけて可憐な飾りがついていた野里の田の神はこの型の田の神の代表的な作である。「寛永4年(1751)」の作で県の民俗有形文化財に指定されている。 野里の田の神の周りは美しい田んぼが広がっていて、田の神像のある風景の撮影には絶好の場所である。3回目に訪れたときは桃色の田の神像が美しいさば雲が広がる空に映えていた。桃色の凝灰岩でつくられたこの型の田の神像は1qほど離れた上野町芝原の田の神などこのあたりに数点見られる。 |
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近くの水田地帯に行きました。今年は梅雨明けが早くその後の記録的猛暑によって、水田も休耕田も干上がった状態です。1ヶ所、水の張った休耕田があり、3日前、イソシギを撮影しました。今日はその時より水が少なくなっていましたが、何とか残っていてケリやコチドリがいました。コチドリは幼鳥が3羽いました。 | |
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逆光で遠い場所からの撮影になりました。 | |
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水面に映った姿が可愛いです。 |
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鹿児島県鹿屋市吾平町上名車田
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車田の田の神は、岩を丸彫りにした像で、余った岩に山水と磨崖仏風の小さな浮き彫り像を刻み添えている。メシゲとスリコギを持つ像で、渦巻き模様のシキをアミダにかぶっていてるため、シキが光背のように見える。頭の上と胸元にも小さな仏像が付けてある珍しい田の神像である。 山水は修験道場としての山を示し、その山で修行する効験あらたかな僧を田の神としたのではないだろうか。穏やかな面相と端正な姿の僧型田の神像である。刻銘がないが、かなり古い時代のものと考えられる。 |
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鹿児島県肝属郡肝付町宮下 「慶応4(1868)年」
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19世紀後半になると旅僧型の田の神像は形式化が進んで、上衣や裁着け袴(たっつけばかま)など着衣などのしわや衣紋を省略した、おおざっぱな表現のものが多くなる。そのような田の神の一つが宮下南(みやげみなみ)の田の神である。 この田の神は写実的な表現という点では下名真角の田の神などと比べれば劣り、体躯は金属でできたロボットのようである。顔も素朴で、下名真角の田の神の托鉢僧らしい厳しさや、波見下の田の神のような女性的な優美さとはほど遠い。しかし、この抽象的で素朴な表現が、素朴で愛らしい顔が石の持つ素材の力を引き出し、この田の神の魅力となっていて、私のお気に入りの田の神の一つである。 「慶応4(1868)年」刻銘があり、江戸時代最後の年の作である(慶応4(1868)年ぱ9月から明治元年となる)。 |
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鹿児島県肝属郡東串良町川東中園 「明治42(1909)年」
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田の神像が造られ広まった18世紀・19世紀初頭を中心に田の神像を取り上げてきたが、その後も多くの田の神像が造立された。明治以降、昭和まで田の神像は鹿児島県と宮崎県の旧薩摩領の各地で造立されている。鹿屋市・肝属郡でも明治以降の田の神が多くある。そして、その多くが旅僧型である。その一つが「明治42(1909)年」の紀年銘を持つこの中園の田の神である。 中園の田の神はシキを後に頭巾風に長く垂らして被り、胸に宝珠を描いた頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持つ托鉢僧姿の田の神である。今まで紹介した旅僧型の田の神と比べると迫力を感じられない。支え石を使わず表現した托鉢僧と思えない細い足や、華奢な体つき、面長の顔などが要因と思われる。しかし、決して上手と言えない彩色や、頼りなさそうな青年風の容貌などが、かえって庶民の信仰として今でも息づいていることを感じさせ、好感の持てる田の神像である。 |
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近くの水田地帯に行きました。このあたりは水の張った休耕田が多くあり、毎年シギ・チドリ類をよく見かけます。この季節はケリ・コチドリ・クサシギなどを見ることができるのですが、今年は梅雨明けが早くその後の記録的猛暑によって、水田も休耕田も干上がった状態です。1ヶ所、水の張った休耕田があり。そこにはケリが集まっていました。シギを見かけたので「クサシギならいいかな。」と撮影しましたが、予想どおりイソシギでした。 | |
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甲高い鳴き声が聞こえて、電線にカワラヒワがとまりました。 | |
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鹿児島県鹿屋市吾平町下名真角 「安永4(1775)年」
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長衣を着たすらりとした鍬持ちやメシゲ・宝珠持ちの田の神以外に大隅地方で特色ある僧型の田の神として、シキを後に頭巾風に長く垂らして被り、胸に大きな頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持つ托鉢僧姿の田の神がある(旅僧型)。鹿屋市や肝属郡を中心とした地域では最も多い田の神像であるため大隅型とも呼ばれる。 下名真角(しもみょうますみ)の田の神は旅僧型の田の神の代表作の一つである。右手にはスリコギ、左手にはメシゲ、この二つを直交する位置に持たせ、右足は左足より少々上げて台石にのせて、歩く姿を表している。シキの下には総髪姿のはえ際がくっきりしていて、山伏僧の風貌がうかがえる。この型の田の神の最も古いのは「明和8(1771)年」で、この田の神はそれとほぼ同じ頃の「安永4(1775)年」の作である。 |
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鹿児島県肝属郡肝付町波見波見下
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旅僧型の田の神が急増するのは十九世紀初頭以降である。十九世紀初頭には鹿屋市の大牟礼田の田の神・大脇の田の神塚・芝原の田の神などの秀作もあるがそれ以降は形式化・画一化が進んで、上衣や裁着け袴(たっつけはかま)など着衣などのしわや衣紋を省略した、おおざっぱな表現のものが多くなる。 波見下の田の神は十九世紀初頭以降の作と思われ、着衣など形式化は見られるが、頭に被ったシキは編み目をしっかりと表現していて、全体に丁寧に彫られた秀作である。特に顔は西横間の田の神によく似た女性的な優しく引き締まった顔で印象深い。 側面から見ると台石に座っているように見えるが、座っている角石は背後の支え石と考えられる。下名真角の田の神など僧旅僧型の田の神の多くは台石と共石で踏み出そうとする像を支えるための支え石を置いている。 |
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鹿児島県鹿屋市野里町岡泉 「享和3年(1803)」
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岡泉の田の神は肝付町(旧高山町)などによく見られる大きな袖のついた長衣を着たすらりとした姿の田の神である。両手で杖のように鍬を持ち、背後には斜めに大きなワラヅトを負い、ワラヅトにはメシゲがさしてある。顔面は摩滅しているが、田んぼの中に祀られていて風情がある。 |
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鹿児島県肝属郡肝付町野崎塚崎 「延享2年(1745)」
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塚崎の田の神はワラヅトを背負い鍬を持つた中福良の田の神などと同じように大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の田の神である。鍬を持たず、2俵の俵の上にスラリと立って、手にはメシゲと宝珠を持ち、帯にはヒョウタンと木の葉杯を下げている。顔は女性的で西横間の田の神とならぶ美しい容貌である。中福良の田の神などから派生した亜型の僧型立像の田の神である。 「延享2年(1745)」の紀年銘があり、この亜型の僧型立像の田の神はメシゲ・宝珠持ちの像もワラヅトを背負い鍬を持つた像と同じ頃から造立が始まったと考えられる(ワラヅトを背負い鍬を持つた像の最も古い紀年銘は2体の東大園の田の神の1体の「寛保3年(1743)」)。他に東串良町新川西下の下伊倉の田の神もメシゲ・宝珠持ちのスラリとした田の神像である。 |
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地元のハイキングコースへ出かけました。鳥のさえずりもあまり聞こえずキビタキの幼鳥を見かけただけです。 | |
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鹿児島県鹿屋市吾平町上名中福良
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大隅半島の中部の肝付町(旧高山町)や東串良町・鹿屋市にはワラヅトを背負い鍬を持つた、シキを肩に垂らしてかぶり、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型の田の神がある。これらは薩摩半島の僧型のメシゲ・鍬持ち・ワラヅト負いの形が、伝わって、変化して生まれたものと考えられる。 このような鍬持ち、ワラヅト負いの田の神の代表と言えるものの一つが中福良の田の神である。鍬は薩摩半島の僧型田の神と違い、両手を鍬の柄に置き、メシゲは背負ったワラヅトにさしている。近くの肝付町の東大園によく似た田の神があり、それには「明和8年(1771)」の紀年銘があることから、この像も同じ頃の作と思われる。 |
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鹿児島県肝属郡肝付町新富西横間 「天保七年(1836)」
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肝付町(旧高山町)の西横間の田の神1は、ワラヅトを背負い鍬を持つ像で天保八年(1836)の紀年銘を刻む。 傷みが少なく、目鼻立ちが美しい女人風の顔が素晴らしい。この田の神の横には、右手にスリコギ、左手にメシゲを持つ男性的な顔の田の神が、まるで夫婦のように並んでいる。 |
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鹿児島県日置市日吉町日置 笠ヶ野 「宝暦7(1757)年」
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笠ヶ野東の田の神は、自然石に舟型の彫り窪みをつくり、大きなメシゲを持つ田の神を半肉彫りにした田の神で、宝暦7(1757)年の紀年銘がある。船型碑の地蔵の錫杖を大きなメシゲに替えて彫った仏像型立像の田の神像ではないだろうか。 |
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鹿児島県南さつま市金峰町浦之名 「寛政12(1800)年」
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メシゲと先がカギ状に曲がった小さな鍬のようなものを持つ円筒形の僧型立像の田の神像の他に、薩摩地方の僧型の田の神として、鍬とメシゲを持ち、ワラヅトを背負った田の神ある。特に南さつま市金峰町には、白川東の田の神、浦之名の田の神、池辺中の田の神などこの型の魅力的な田の神像がある。多くは台石だけでなく蓮華台にのる。白川東の田の神は円筒形僧型立像と同じ享保年間の作である(「享保5年(1720)年」紀年銘)。 浦之名の田の神は縦に長い基壇にのった田の神で、重たそうなシキをかぶる。袖の長い長衣をつけて、ワラヅトを背負って、右手に台鍬を、左手にメシゲを持つ。翁風の顔か魅力的な田の神像で基壇正面に「寛政12(1800)年」の紀年銘がある。 |
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鹿児島県南さつま市金峰町池辺 中 「文化2(1805)年」
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池辺中の田の神は、鍬、メシゲ、ワラヅト持ちの田の神像の代表作である。首をすくめたような表現や、穏やかな翁風の顔などは浦之名の田の神などと共通する。角石台と反花と蓮弁の蓮台(計高70p)の上に立つ像高63pの像で、キャブ状のシキを被り、袖の長い長衣をつけ、帯紐を前にたらしている。右手に持った台鍬は浦之名の田の神の田の神のものよりは短い。 浦之名の田の神よりはずんぐりと低い姿であるが、均整のとれた美しい姿の田の神像である。文化2(1805)年の紀年銘を刻む。 |
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宮崎県小林市東方仲間 「享保7年(1722)」
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宮崎県の田の神の中にも僧衣を着た田の神が見られる。「享保7年(1722)」 の刻銘を持つ小林市の仲間の田の神が代表作といえる。狛犬の彫られた台の上に上にのり大きな笠状の頭巾を被り、ひだの多い長衣をつけた像でベンガラで見事に彩色されている。 手は指の間にものを差し込むように穴があいていて、右手には御幣をかざし、左手に竹製のメシゲのような杓子を持っている。衣服と帽子と台座は濃い紅に塗られていて、白塗りにの顔は黒い墨で目鼻が描かれている。顔の彫りは墨で描かれた目鼻口が目立ちわからないが、体躯、台座の彫りはすばらしい。 |
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鹿児島県鹿児島市山田町一丁田 「享保8(1723)年」
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田の神石像は初め、神像及び仏像として出発したと思われる。「(15)中津神社の田の神」までは神像型→神職型→田の神舞型・神舞型という流れで神像・神職型の田の神を取り上げた。もう一つの流れの仏像型→僧型→旅僧型のという流れである。 僧型の最も古いものは、円筒形につくられた特異な姿の頭巾風のシキをかぶった僧型立像の田の神像である。享保年間につくられたものが多く、最も古い紀年銘を持つのが日置市の中田尻の田の神享保2年(1717)」である。他に鹿児島市の永田の田の神「享保6(1721)年」、南さつま市金峰町の宮崎の田の神「享保17(1732)年」などがあげられる。 残念なことに、これらの像は摩滅欠損が目立つ。その中で、最も保存状態がよいのが、この山田の田の神「享保8(1723)年」で、像高約60pで美しくよく整った像である。右手にメシゲ、左手に棒先がカギ状になった鍬のようなものを持っている。県の有形民俗文化財である。 |
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鹿児島県南さつま市金峰町宮崎 「享保17(1732)年」
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宮崎の田の神は山田の田の神や中田尻の田の神などと同じように頭巾風にシキをかぶり、メシゲと先がカギ状に曲がった小さな鍬のようなものを持つこけしのように円筒形に作られた田の神である。「享保十七壬子年二月九日」「奉供養庚申敬白」と両袖部に刻銘があり、台座には庚申講の講員の名を刻まれている。(県民俗資料文化財)は |
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鹿児島県薩摩川内市入来町副田中組 「宝永八年(1711)」
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最も古い紀年銘を持つ田の神は「宝永2(1705)年」の紫尾の田の神である。それに次ぐのが「宝永8(1711)年」の紀年銘のある中組の田の神である。ともに仏像型の田の神である。中組の田の神は、背中を曲げた立像で、地蔵のような姿の田の神像である。地蔵を表す梵字のカが「田神大明神」などと共に台石に刻まれていて、地蔵を本地として田の神にしたもので、仏像型田の神の典型である。紫尾の田の神もこれに似た田の神像であるが頭部が欠けている。共に県の有形民俗文化財に指定されている。 |
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鹿児島県鹿屋市下高隈町上別府 「明和2年(1765)」
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鹿屋市の高隈町付近には中腰で神舞(カンメといい神楽のこと)を舞う神職を表した田の神像が、何体か見られる。その中で最も古く(「明和2年(1765)」)、優れているのが上別府の田の神である。 烏帽子をつけ、袂の短い上衣に、長袴をつけている。右は振り鈴を持っていたと考えられるが欠けてない。左手は輪を作って孔がある。弊などをさして持たしたと思われる。御幣を腰に2本さしている。顔は歯を出して笑っていて、調和のとれた整った舞姿の田の神像である。 |
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鹿児島県鹿屋市上高隈町高隈中央
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中津神社の参道の手前の石垣の上に祀られている神舞を舞う田の神像である。中腰で烏帽子をつけ、赤・黒・白で見事に彩色されている。デフォルメされた下膨れの顔である。白塗りの顔で頬とおちょぼ口は赤く塗られているため、おかめの面をかぶっているように見える。同じような顔の神舞神職型の田の神は高隈町谷田にもある。 |
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鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北久保 「享保16年(1731)」
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川北の田の神は享保16(1731)年に建てられたもので、大隅半島では最も古い紀年銘を持つ。台に俵と三つの丸い団子のようなものが彫ってあり、頭巾風にメシゲをかぶり、膨らんだ裁着け袴(たっつけばかま)をはき、メシゲとスリコギを逆八の字に持つ神職立像型の田の神である。県の有形民俗文化財に指定されている。 |
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鹿児島県志布志市有明町吉村豊原 「寛保3年(1743)」
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薩摩地方にはあまり見られず大隅半島に多く見られる田の神像として神職型座像の田の神が上げられる。頭には冠や烏帽子の代わりにシキをかぶり、手には笏ではなくメシゲとスリコギを持つ。 神職型座像の田の神の代表的な像が右膝を半ば立てた趺座の形で組む志布志市有明町の豊原の田の神である。シキは頭巾風で編み目はない。神職型座像の田の神としては「寛保3年(1743)」という古い紀年銘を持ち、庶民的な顔であるが、重厚で安定した座像で、威厳のある像である。「野井倉の田の神」の名称でで県の有形民俗文化財に指定されている。 |
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鹿児島県鹿屋市串良町細山田堂園
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大隅半島の神職型座像の田の神像は広津田の田の神や森山の田の神のように安座する像もあるが、メシゲとスリコギを持ち膝を立てた趺座の形で組む神職型座像が多く見られる。 特に鹿島市串良町の串良川流域の神職型座像の田の神は口や顔をゆがめた個性的な顔をした田の神像が多い。映画「望郷」(1993年・斎藤耕一監督)のロケ地となった串良川沿いの土手にある堂園の田の神は口をゆがめて笑う庶民的でユーモラスな田の神である。 |
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セッカを狙って近くの川へ行きました。さえずりは聞こえたのですが、撮れませんでした。前にセッカを撮ったススキによく似た雑草セイバンモロコシの穂にはカワラヒワの幼鳥がとまり、実を食べていました。 | |
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ホオジロの幼鳥もいました。 | |
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川の中州ではアオサギ・カワウ・カルガモ・ダイサギなどが休んでいます。アオサギの1羽は羽づくろいをしていました。 | |
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水の張った休耕田にはケリが多数いました。8月から9月にかけてはクサシギやタカブシギ、ジシギなどが見られるのですが、今はケリしかいません。この休耕田には一昨年にはセイタカシギやアオアシシギも来ました。 |
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地元のハイキングコースへ出かけました。ハイキングコースを登っているとキビタキのさえずりは聞こえたので、カメラを向けたのですが、谷底の方へ飛んで行ってしまいました。展望台まで向かおうとしたのですか、雷が聞こえたので途中で引き返しました。帰り道、キビタキの地鳴きが聞こえて、近くの枝にキビタキがとまりました。 | |
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久しぶりにキビタキを撮りました。 | |
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しばらくすると、さえずりながら遠くへ飛んでいきました。 |
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鹿児島霧島市横川町上ノ3104-1 「延享元年(1744)」
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鹿児島県では神官型田の神の多くは安座姿で県の有形民俗文化財の般若寺の田の神・上木田の田の神などがそれである(腰掛け型は宮崎県近くの伊佐市菱刈町に数体見られる)。紫尾田の田の神から正保元年(1664)という田の神像としては最古の刻銘が見つかり話題になった。元は山中の洞窟にあったという。赤いベンガラの彩色が残り像高60pで両手を輪組にし安座する。 正保元年(1664)の造立とすると、神像(神官)型の田の神像は宮崎から始まったと言われている定説が覆る。ただ、霧島市教育委員会の発行するの「霧島市の田のかんさぁ」(2010年刊)では、銘を「正保元年十一月」ではなく「延享元甲子十一月」と解読し「延享元年(1744)」としている。 |
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鹿児島県日置市東市来町養母元養母 「明和6年(1769)」
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鹿児島県の薩摩地方の神官型の田の神で特色あるものとして神像型立像がある。延享4年(1747)の紀記銘がある坂下の田の神や明和6年(1769)の紀年銘のある養母の田の神がそれである。 養母の田の神は笏を持ち冠をかぶる像高86pの像で、下に垂れる纓(えい)も表現している。眉のつり上がった憤怒相の顔が残っていて、長い袖などの着衣の線も伸びやかで神像型立像の田の神を代表する像である。県の有形民俗文化財である。 |
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地元のハイキングコースへ出かけました。サンコウチョウらしき声やキビタキのさえずりは谷沿いの森から聞こえるのですが、近づけません。結局撮影したのは道に下りてきた3羽のキセキレイの幼鳥でした。 | |
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カメラの設定を変える暇もなかったので、ピントは1羽にしか合わせることができませんでした。 | |
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前日の8日はセッカを狙って近くの川へ行きました。さえずりは聞こえたのですが、撮れませんでした。悠然と口を開け、舌を出して飛ぶアオサギを撮影しました。(7/8撮影) | |
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田んぼではチュウサギを撮りました。(7/8撮影) |
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鹿児島市川上町川上宮之前 「寛保元年(1741)」
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川上町の川上小学校近くにある川上の田の神は、大きなシキを笠の用にかぶり、右手にメシゲ、左手にスリコギを持って、田の神舞を踊る姿を表した田の神である。顔は西田や触田の田の神のような、カリカチュアライズされた表現ではく、慎ましげに微笑む。長袴ではなく、裁着け袴(たっつけばかま)をはき、左足を一歩上げて踏み出す。県の有形民俗文化財に指定されている。 |
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鹿児島市花尾町茄子田 「宝暦3年(1753)」
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鹿児島市花尾町の茄子田の田の神はメシゲとスリコギを持った田の神である。鼻の一部や中を中空に彫った口の一部が欠けているため、一見不気味に見えるが、よく見ると川上の田の神のように微笑んでいる。この像も裁着け袴(たっつけばかま)をつけていて、軽く左足を踏み込む。長袴をはいた西田や触田の田の神に比べるとより動的になっている。鹿児島市の有形民俗文化財に指定されている。 |
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鹿児島県さつま町山崎山崎上 「寛政5(1793)」
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シキを被りメシゲを持った田の神の中には、端正な姿で静かに立つ、神職をモデルにした田の神が薩摩地方に何体かある。その代表といえるのが山崎麓の田の神である(「寛政5(1793)」)。 着衣は上級公卿の日常着の直衣で、衣冠束帯の神官型立像の田の神が、シキをかぶりメシゲを持ち田の神舞を踊る神官の田の神に変化していった典型的な例である。着衣の袖や裾など膨らみのある写実的な曲線で端正な顔と共に柔和な表現となっている。鹿児島の田の神を代表する像の一つである。 |
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宮崎県小林市真方新田場 「享保5年(1720)」
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田の神像はシキを被りメシゲを持ったものだけでなく、笏を持った衣冠束帯や直衣・狩衣の神官(神像)姿の田の神もある。これらの田の神は制作年代も古く、江戸時代中期にさかのぼる。神官型は宮崎から始まったと言われていて、その代表といえるのが「享保5年(1720)」の刻銘がある小林市の新田場の田の神である。 木造の覆堂に、牡丹の花が彫られた見事な台座の上に、椅子のようなものに腰かけた衣冠束帯の神官姿の丸彫りの田の神が祀られている。右手は軽く握っていて、指の間にものを差し込むように穴があいている。左も同じような形だと思われるが、手首から先は欠けてしまっている。 田の神の魅力のは農民型に代表される素朴さにあると私は思っていたが。上品で優美な像なこの田の神を見たとき、私のそのような認識を改めざるえなかった。1月初旬に訪れたときには、白塗りの顔とともに、衣服はピンクに台座は水色とピンクにあざやかに彩色されていた。 |
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宮崎県都城市高崎町前田谷川 「享保9年(1724)」
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都城市高崎町の谷川の田の神(「享保9年(1724)」)も神官(神像)姿の田の神である。谷川の田の神は、彩色の跡は一部残るが、現在、彩色されていないため、黒質の緻密な岩肌の滑らかさが際だった優美な石像となっている。 衣冠束帯姿の腰掛け型で、新田場の田の神と同じように、右手は軽く握っていて孔をつくっている。左も同じような形だと思われるが、手首から先は欠けてしまっている。切れ長の目と筋の通った鼻(鼻先がかけているのが惜しい)、引き締まった口など端正な顔である。束帯姿の衣服の表現も、両側に振り広げた袖口など写実的で、新田場の田の神と共に、宮崎の田の神を代表する像である。 |
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鹿児島県姶良市姶良町平松触田 「元文二年(1737)」
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田の神舞を舞う神職の姿を表した田の神像で「享保3年(1718)」という最も古い刻銘を持つ像は姶良市蒲生町の漆の田の神である。触田の田の神像も古く「元文二年(1737)」の紀年銘を持つ。幅のシキを被り、右手でメシゲをかかげ、左手で椀を持って田の神舞を踊る丸彫りの田の神で、大きな丸い顔と、垂れ目で少し笑った独特の面貌の田の神である。 西田の田の神と同じく赤くベンガラで彩色されている。稚拙ながらユーモアあふれる西田の田の神と比べると、カリカチュアライズされた表現ながら神職らしい威厳が感じられる田の神である。 |
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鹿児島市東佐多町東下
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触田の田の神から1qほど離れた鹿児島市東佐多町東下の神社にある田の神像で触田の田の神とそっくりな像である。シキを被り、右手でメシゲをかかげ、左手で椀を持って田の神舞を踊る像で像高は触田の像と同じく89pで、大きな丸い顔と、垂れ目で少し笑った独特の面貌は全く同じである。 ここより1.2q離れた西下集会施設内にもこれらの像とそっくりな鵜木の田の神像があり、添えられた碑には「享保21年(1736)」の紀年銘と前田喜八という作者名が刻まれていて、触田・東下・鵜木の田の神は前田喜八の作と考えられる。東下の田の神も触田・鵜木と同じ頃の作と思われる、顔は触田の田の神像と違って白く彩色されていて、触田の像より穏やかな顔に見える。 |
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鹿児島県姶良市下名西田 「文化2(1805)年」
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鹿児島県から宮崎県の一部にかけて特色ある石像として「田の神」石像がある。村々の田のあぜ道に立つ、田の神石像は、「田の神様(タノカンサア)」として現在も信仰を集めている。田の神像で最もよく知られているのが、シキを被りメシゲや飯椀またはスリコギを持ち微笑んだり、ユーモラスな顔をした田の神である。これらは神職や氏子が田の神となって祭りの時などに舞う、田の神舞の姿をモデルにしたものである。 この西田の田の神は私が田の神石像に興味を持ったきっかけとなった田の神像である。県の文化財として指定されたものではないが、田の神像のおもしろさを表した田の神像として、江戸時代の庶民の息吹を感じさせる田の神像として、田の神サア50選の最初として取り上げた。自然石の前面を平らにして、舟形に彫り窪めて浮き彫りしたもので、下がり目と、大きな鼻・ふくれた頬などべそをかいたような滑稽な顔が印象的な田の神像である。 |
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セッカの鳴き声を聞いたり、飛ぶ姿は見たのですか撮影できず、いつものコチドリです。 | ||
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コチドリにとっては迷惑でしょうが、今日も擬傷行動などいろいろなアクションをしてくれました。 | ||
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