「フォトギャラリー 石仏と野鳥」 新版 2021年8月 

 
7月 9月



   
令和3年8月31日撮影  近くの水田地帯にて
タマシギ親子
 朝早く休耕田に行ってタマシギ親子を撮りました。上ったばかりの陽が当たり、タマシギの姿や隣の水田の育った苗が水面に映りきれいでした。
雛は卵からかえって3週間ほどになります。産毛も少なくなり、大きくなって、目もぱっちりとしてきました。



   
令和3年8月30日撮影  近くのため池にて
カイツブリ親子
ため池の岸の近くに4羽のカイツブリがいました。カメラを向けてみるとカイツブリの幼鳥でした。
4羽の幼鳥は岸から池の真ん中に向かいました。そこには親鳥がいました。
親鳥が羽ばたきました。
羽ばたいた後、羽づくろいを始めました。



   
令和3年8月29日撮影  近くの水田地帯にて
セッカ・イソシギ・ハクセキレイ
 毎年、25日にセッカを撮影したポイントへ行きました。今日も2羽のセッカがいて、「チャッ チャッ チャッ チャッ」と鳴きながら上空を飛んだあと畑に立てかけていた竹の枝にとまったのですがピントが合いませんでした。その後、また飛び上がり川の堤防の草にとまって鳴いていました。カメラを向けると何とか写すことができました。黒い口を開けて鳴いていました。
 ジシギを探して水田の畦を廻っているのですが、最近はイソシギとバン幼鳥しか写せません。この日は、イソシギを撮っているとハクセキレイがも飛んできました。
イソシギはこの地方の水田や川で最もよく見るシギです。



   
令和3年8月27日撮影  近くの水田地帯にて
チュウサギ・アマサギ・コサギ・バン幼鳥・タマシギ親子など
 この水田地帯では最近、コサギやダイサギなどの白いサギをよく見ます。その中に、チュウサギも混じっていると思って探していると、ようやくサギがよく休んでいる水路でチュウサギを見かけました。
 水路横の農道に、6羽の白いサギがいました。その中でまず目に入ったのは、後頸・胸・背が燈黄色のアマサギでした。他に、嘴が黒く足の指が黄色のコサギと、アマサギと同じ大きさの白いサギが2羽いました。このサギはチュウサギではなく、アマサギの冬羽と思われます。
後頸・胸・背の燈黄色は夏の終わりになってかなり薄くなっています。後ろに一部顔が見えているのはダイサギです。
冬羽のアマサギです。よく見ると胸の一部に燈黄色が残っています。
水田の畦の奥にカルガモと一緒に茶色の鳥がいました。
カルガモが水田に隠れてしまって、茶色の鳥が畦に残りました。茶色の鳥はバンの幼鳥でした。
この日も休耕田の畦にタマシギ親子がいました。今までで最も近くで撮影できました。トリミングなしの画像です。



   
令和3年8月25日撮影  近くの水田地帯にて
セッカ・バン幼鳥・タマシギ親子
 毎年、真夏にセッカを撮影しているポイントへ行きました。2羽のセッカがいて、「チャッ チャッ チャッ チャッ」と鳴きながら上空を飛んだりするのですが、なかなか良いところにとまってくれません。ようやく、畑に立てかけていた竹の枝にとまってくれたのですが、遠くてまともな写真になりませんでした。
 セッカのいた水田地帯では3年前までジシギをよく見かけました。畦に茶色い鳥がいたのでジシギと思ってシャッターを切ったのですが、バンの幼鳥でした。
タマシギ親子のいる休耕田に寄ってみると、今日も姿を見せました。



   
令和3年8月24日撮影  近くの水田地帯と自宅前にて
タマシギ親子・カワセミ・イソヒヨドリ
カワセミを撮影した後、タマシギ親子がいる休耕田に行きました。この日は非常に近い場所にいたので、車の中から撮影しました。
水田の側溝にカワセミがいました。
自宅に帰ると自宅の斜め向かいの会社の寮の非常階段でイソヒヨドリ雄が鳴いていました。



   
令和3年8月23日撮影  近くの水田地帯にて
アマサギ・タマシギ親子
久しぶりにアマサギを見ました。後頸・胸・背の燈黄色の部分が鮮やかさがなく、薄茶色に見えます。
タマシギ親子は前日と同じ休耕田にいました。前日と違う畦にいて、草が多く、どうしても草が被ります。



   
令和3年8月22日撮影  近くの水田地帯にて
タマシギ親子
 去年よく見かけたジシギやクサシギ・タカブシギがいないかなと、水の張った休耕田や田んぼの畦をさかして廻るのですが、なかなか見ることができません。ジシギは何回か畦から飛び立つところを見ているのですが、撮影できません。

 結局、いつも通りタマシギの撮影になります。前日いた休耕田の畦にはいないので探して見ると田んぼ3枚分離れた別の休耕田にいました。この日も、細長い休耕田の畦の真ん中にいて、近くでは撮影できませんでした。
親鳥が雛に嘴移しで餌をあたえているように見えます。
親鳥は畦の真ん中で羽づくろいをしながら休憩です。



   
令和3年8月22日 天部諸尊像石仏[ (12)(13)
天部諸尊像石仏[ (12)   羅漢寺十王石仏
大分県中津市本耶馬渓町跡田1519番地 「室町時代」
倶生神像・閻魔王像
五官王
 無数の奇峰と渓谷が織りなす美しい景観で知られる耶馬溪の荒々しい岩山・羅漢山の中腹に位置する「羅漢寺」には五百羅漢をはじめとして多数の石仏が岩屋やその周辺にある。中心となっている岩屋は「無漏窟(むろくつ)」で釈迦三尊を中心に梵天・帝釈天・四天王・十大弟子などと五百羅漢が安置されている。一部は窟の周辺に広がっている。

 十王石仏は岩屋に建てられた「普済楼(ふさいろう)」にある千体地蔵と呼ばれる石仏群にある。大型の地蔵を囲むようにおびただしい数の小型の地蔵で構成された石仏群で、十王石仏はその千体地蔵の前に並んでいる。木彫の十王像のように一体一体、表情豊かな十王像である。これらの石仏は室町時代に来山した普覚円智という禅僧の造立と伝えられている。小型の地蔵はいくつかの図像のパターンがあり、これらは地蔵座像や十王などの造立以降、多くの人々によて奉納されてきたものである。



天部諸尊像石仏[ (13)   竹成五百羅漢十王像
三重県三重郡菰野町竹成2070 「江戸末期」
閻魔王像
 竹成五百羅漢は高さ約7mの四角錐の築山をつくり、頂上に金剛界大日如来と四方仏を置き、その周りに如来・菩薩・羅漢をはじめとした500体ほどの石像を安置したもので、七福神や天狗、猿田彦などもあり、大小様々な石仏・石神が林立する様は壮観で、見応えがある。江戸末期、当地竹成出身の真言僧神瑞(照空上人)が喜捨を求めて完成したもので、発願は嘉永5(1852)年で、桑名の石工、藤原長兵衛一門によって慶応2(1866)年に完成した。

 ほとんどの石仏は築山に並べられているが、十王石仏と照空上人像は入口の左側に平地にある。十王像は二段の基壇がつくられそこに安置されている。上段の中央にひときわ大きな閻魔大王像があり、その前に浄破璃の鏡(じょうはりのかがみ)と人頭幢(にんずどう 人頭杖)が置かている。上段に閻魔大王を含む5体、下段に5体の十王が並べられていて、少し離れた場所には奪衣婆も置かれている。



   
令和3年8月21日  近くの水田地帯にて
タマシギ親子
昨日に引き続いて子育て奮闘中のイクメンのタマシギです。



   
令和3年8月20日  近くの水田地帯にて
タマシギ親子
 タマシギの巣へ行ってみると巣はもぬけの殻です。昨日、激しい雨か降ったので、水が入って抱卵をあきらめ巣を放棄したのかなと思いました。周りを探したのですが、タマシギは見あたりません。

 隣の休耕田を見てみると、畦にいるタマシギを見つけました。よく見ると雛が2羽います。激しい雨の中、卵からかえったようです。ただ、長い畦の真ん中にいて、残念なことに近づいてくれませんでした。畦の両端から写したのですが、遠くてピンボケ気味の写真を大きくトリミングしてのせることになりました。
一番近づいてくれた時の写真です。



   
令和3年8月19日 天部諸尊像石仏[ (10)(11)
天部諸尊像石仏[ (10)   浄土の十王石仏
奈良県天理市福住町浄土 「江戸時代」
 福住浄土の都祁氷室神社の近くの道端に、 総高160cmの笠石仏形式の十王石仏がある。身部表面に枠取りをして三段に十一体の像を半肉彫りする。上段中央の像は阿弥陀像で、他は笏を持ち道服を着た座像の十王像である。年号を刻むが摩滅して読めない。江戸中期の作と思われる。近世になると各王を一体ずつ別々に彫ったもののほか、このように1つの石に10体を全部彫刻したものや、石祠や石憧の各面に10体を分けて彫刻しているものが多く見られるようになる。



天部諸尊像石仏[ (11)   鵜戸神宮磨崖仏閻魔大王像
宮崎県日南市宮浦鵜戸鵜戸山  「明和2(1765)年 江戸時代後期」
閻魔大王像
四天像
 鵜戸神宮は山幸彦、海幸彦の物語で知られる山幸彦(彦火火出見尊〔ひこほほでみのみこと〕)と海神のむすめ豊玉姫命〔とよたまひめのみこと〕の子どもの「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」を祀る神社で、国定公園日南海岸の風光明媚な海岸にあり、参拝客・観光客が絶えない。明治以前は「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と称した寺院でもあった。

 その鵜戸神宮駐車場の南西側の小さな山の岩肌に、不動明王磨崖仏と閻魔大王磨崖仏と四天像と称される磨崖仏がある。(新駐車場の登り口に案内板がある。)「鵜戸山仁王護国寺」の第47世の別当隆岳が明和元年(1764)から同2年に仏師延寿院に彫らしたのがこれらの磨崖仏である。不動明王は北斜面の突き出た三角形の岩に厚肉彫りしたもので、江戸時代の磨崖仏としては出色の作である。

 山の南側の車道に沿った樹林下の小広場には、大型の転石が数個並んでいて、左端の石には閻魔大王の厚肉彫りの倚座像が彫られている。保存状態は良く、整った木彫仏を思わせる石仏である。右手の石には四天像と称される、亡者や獄卒などを彫った像がある。



   
令和3年8月18日  近くの水田地帯にて
タマシギ♂・イソシギ
 今日も休耕田の畦の抱卵中のタマシギを見に行きました。巣にカメラを向けたのですがタマシギがいません。周りを探して見ると少し離れた場所で食事中でした。
この後、巣に戻リました。
周りの田んぼや休耕田を15分まで廻って戻って見ると、タマシギはまた食事中でした。
再び、巣に戻って抱卵を再開しました。
 ジシギが飛び立つのを何回か見ているので、何とかジシギを写そうと田んぼの畦を見て廻ったのですが、イソシギしかいませんでした。



   
令和3年8月17日  近くの水田地帯にて
タマシギ♂
 雨が止んだので休耕田の畦の抱卵中のタマシギを見に行きました。休耕田の水かさはまだあまり増えていないようで、何とか巣は水没を免れています。休耕田に来て、しばらくするとタマシギが数分間、巣から離れて、何回も嘴を水につけて採食?しました。
巣に戻ってきました。
抱卵を再開しました。



   
令和3年8月16日  近くの水田地帯にて
タマシギ♂・カルガモ親子・コサギ
 この水田地帯で久しぶりにタマシギを見ました。休耕田の畦の巣の上で雄がじっとしています。昨日から全く移動していません。卵を抱いているようです。雨が続き、畦は水面すれすれです。豪雨が来ないことを祈ります。タマシギは雄が抱卵と子育てをします。
近くの水田や畑を廻ってタマシギの所に戻って見ると、タマシギの近くの枯れた草の上にシオカラトンボがとまっていました。
水の張った田んぼではよくカルガモを見かけますが、親子のカルガモは田んぼでは初めてです。
コサギが水の張った休耕田でよく見かけるようになりました。



令和3年8月11日〜15日 天部諸尊像石仏[ (1)〜(8)
天部諸尊像石仏[
閻魔十王
  
 閻魔は、梵語ののヤマ( Yama)の音訳で、焔摩・夜摩とも書く。古代インドの神話ではヤマ(閻魔)は人類最後の死者とされ、天上界であって死後世界の支配者であった。のちに転じて地獄の主となり、死者の生前の罪を裁く法王の性格も備えた。仏教に取り入られて焔摩天となり、運命、死、冥界を司る。密教においては各方位を守護する八方天、十二天の一尊となり、南方を守護する。その像容は左手に人頭幢を持ち、右掌を仰ぐ二臂像である。石仏としては単独像は見当たらず、竹成五百羅漢焔摩天像のように十二天像の一体としての造立が見られるのみである。

 閻魔が中国の冥界観と混淆して特異な発達を見せたのが、死者の裁判官としての閻魔王である。中国土着の冥府の支配者の泰山府君が泰山王として、閻魔の異称の平等王など、冥府における十人の裁判官、十王が唐代末に、中国における死者の七日ごとの供養と結びつき成立する。十王とは、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王、以上の十神をいう。

 死してのち未来の生を受けるに至っていない亡者は初七日に秦広王の庁で裁判を受けるに始まり、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百力日、一カ年、三年の十回まで次々に各王の庁舎で罪の軽重を判定され、次の世の生処を定められるといわれている。そして生前にあらかじめ十王に対して供養を行なった者は、死後十王の裁判を受けるとき業報を軽くすることができるといわれ、十王信仰は鎌倉時代以降、庶民の間に広がり、十王の造像も行われた。十王の像容は中国宋代の裁判官の服制で方形の冠をかぶり、道服を着て笏を持つた忿怒相が一般的である。
 
焔摩天

  石仏としての十王の造像も鎌倉時代から始まる。鎌倉〜室町時代の十王石仏の多くは地蔵石仏と共に造立された。その代表と言えるのは臼杵石仏の堂が迫石仏地蔵十王像である。大分県の倉成磨崖仏十王像、轟地蔵十王像、堂の迫磨崖仏十王像も地蔵菩薩と共に造立されたものである。近世になると閻魔王像や十王像は大量につくられ、村々のの閻魔堂などに祀られた。従者として判決文を記録する司命と司録という2人の書記官や倶生神、人頭杖、奪衣婆などもつ造像された。宮崎の鵜戸神宮閻魔王磨崖仏は厚肉彫りの倚座像で、保存状態は良く、整った木彫仏を思わせる石仏である。



天部諸尊像石仏[ (1)   臼杵堂が迫石仏地蔵十王像
大分県臼杵市深田  「鎌倉時代」
 ホキ石仏第二群(ホキ石仏)に続いて、ホキ石仏第一群(堂が迫石仏)がある。4つの龕に分かれていて、最初の龕(第4龕)は地蔵十王像を厚肉彫りする。中央の地蔵菩薩は右手は施無畏印、左手に宝珠を持つ古様で、石仏では珍しい右脚を折り曲げ、左足を垂らして座る像高約130pの半跏椅像である。左右に上下2段で5体が並ぶ十王像は鮮やかな色彩が残っている衣冠束帯の道服の姿である。十王像は怪異な顔が多いが、この十王像はそれぞれ穏やで誠実な裁判官といった顔立ちである。



天部諸尊像石仏[ (2)   倉成磨崖仏十王像
大分県杵築市山香町倉成  「南北朝時代」
十王像・童子形像・地蔵立像・倶生神像・十王像
倶生神像・十王像・童子形像・地蔵立像・倶生神像
倶生神像・十王像・童子形像・地蔵立像
倶生神像・十王像・童子形像
 石切場入口の北東を向いた岸壁に、彫られている。地蔵菩薩を中心に左右に倶生神像・十王像・童子形像の3体の計7体の像を厚肉彫りする。向かって右の十王像と童子形像は頭部が欠けていて痛みが激しい。2回目に訪れた時は左の十王像と一部と倶生神像は下に落ちてしまっていた。左右の童子形像は願主の夫婦像とも考えられ次に紹介する堂の迫磨崖仏と同じように極楽往生を願って彫られた摩崖仏である。残った地蔵立像と十王像は整った優れた彫りである。



天部諸尊像石仏[ (3)   堂の迫磨崖仏
大分県豊後高田市大岩屋 応暦寺裏山 「南北朝時代」
六観音・十王像・六地蔵
十王像
施主夫婦像・倶生神(司録像)
 応暦寺の本堂の左横から奥の院へ通ずる山道の傍の崖の上に、横に細長い3つの龕が彫られ、左から六観音・十王像・六地蔵・施主夫婦像・倶生神(司録像)を半肉彫りする。司録像は筆を持っている。おそらく、倶生神に夫婦の善行を記録させ、死後、冥界の十王に、報告させて、極楽往生を願ったものと思われる。六観音・六地蔵は六道輪廻の苦しみから救済を願ったものであろう。 いずれも、50cm前後の小像であるが、印象に残る磨崖仏である。



令和3年8月13日 天部諸尊像石仏[ 閻魔十王(4)
天部諸尊像石仏[ (4)   轟の淵十王像
大分県杵築市溝井 「南北朝時代」
轟地蔵
十王像
 轟地蔵は、観光客で賑わう杵築の城下から、5qほど離れた山の中の「轟の淵」という小さな渓谷にまつられている地蔵である。杵築城主木付頼直のひとり娘だった豊姫が安岐城主田原頼泰との婚約が噂によって破談になったことを嘆いてこの淵に身を投げた。これを哀れんで父頼直はこの地蔵を彫り安置して、娘の冥福を願ったと伝えられている。

 轟の淵は最奥に滝があって、一帯は行場の景観である。滝に向かって右手岩盤上に岩屋があり、その最上段に地蔵は安置されている。前面の傾斜には多くの小さい地蔵と不動石仏が並べられている。十王像は川の手前の平地に並べられている。それぞれ像高60pほどの丸彫りで、十王石仏として最も古い作例の1つである。写実的な表現で一体一体、個性を活かして丁寧に彫られた秀作である。轟地蔵と同じ、南北朝時代末期の作で、地蔵と共に極楽往生を願って像立されたのであろう。



天部諸尊像石仏[ (5)   富貴寺十王石殿・十王石仏
大分県豊後高田市田染蕗2395 「南北朝時代」
十王石殿
十王石仏
十王・奪衣婆
 富貴寺は、平等院鳳凰堂・中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられる国宝の大堂で知られた寺院である。その境内には多くの石造文化財があり、県の有形文化財に指定されている物がある。その内の1つが参道にある2基ある十王石殿で、2基で一対をなしている。それぞれ、入母屋造の屋根の石殿の細長い軸部に3体の十王像、小さい面に2体の十王像を刻む。2体の十王像の間には浄破璃の鏡※1と人頭幢※2が彫られている。撮影した時は磨崖仏を中心に撮影していて、興味はなく2ショット撮っただけで細部は写さなかった。

 富貴寺大堂の西側には十王石仏が並べられている。撮影した時は苔むしていて、あまり興味がなく江戸時代の物と思っていた。この度、掲載に当たって写真を見直してみると、轟の淵十王像までとはいかないが、苔むしているが一体一体しっかりと彫られていて、轟の淵十王像と変わらない時期の作に見えた。豊後高田市のHPで調べる見ると市の有形文化財に指定されていて南北朝時代の作としていた。向かって右端の像は奪衣婆※2である。

※1 浄破璃の鏡( じょうはりのかがみ)‥死者の生前の善悪の行為を映し出すという鏡  ※2 人頭幢(にんずどう)‥人頭杖または檀拏幢ともいう。閻魔天の持ち物で、亡者の罪の軽重を判定する。先端に乗っている忿怒相の人頭の口から火をはけば重く、白蓮華が生じれば軽いという。  ※2奪衣婆(だつえば)‥三途の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取る鬼婆。 



天部諸尊像石仏[ (6)   楢本磨崖仏十王
大分県宇佐市安心院町楢本 「室町時代」
 山中の杉林の中の安山岩層に数十体に及ぶ多くの磨崖仏が上下二段に、薄肉彫りされている。まず、目にはいるのは上段の不動明王で、顔は大きく誇張された表現になっていて、やや荒っぽい。その他、上段には薬師三尊・釈迦三尊・毘沙門天・仁王などの像が彫られている。

 下段は、1m前後の薄肉彫り像や半肉彫りの像が数多く彫られている。十王・地蔵・阿弥陀三尊・不動・多聞天・十二神将などである。阿弥陀如来座像と比丘形座像を刻んだ磨崖宝塔もある。

 不動明王横に「応永35年(1428)」の銘があるので室町時代の作であることがわかるが、作風から見て、すべて同じ時期につくられたとは考えにくい。下段の諸像の方が整っていて、気品がある。これらの像は、上段の大作よりやや古い時期の作ではないだろうか。

 十王像は下段にあるが破損や剥落が激しく、確認できたのは3体で、2体は頭部のみが残っていた。残り1体は十王と思って載せたが、翁像のようにも見え、十王像と違うのかもしれない。



   
天部諸尊像石仏[ (7)   治田地蔵十王磨崖仏
三重県伊賀市治田 「室町時代」
 名阪国道「五月橋インター」の東方、名張川に沿って南へ2qばかり進むと、名張川の右岸にある山添村村立のキャンプ場がある。そのキャンプ場の対岸に大小の岩壁が見える所がある。その岩壁の向かって右端の岩面に薄肉彫りと線刻を組み合わせて彫られた大きな地蔵立像がある。地蔵菩薩の右下と左下に十王像が彫られている。治田地蔵十王磨崖仏である。

 地蔵立像は右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿で、衣紋の線は大まかで、顔も品位が感じられず鎌倉期の磨崖仏に比べると劣る。しかし、川岸の岩の魅力と高さ4mという大きさがそれを補い、一見の価値のある磨崖仏である。像の左右の十王は左が閻魔王、右が太山王である。

 近くに吊り橋があり、歩いて対岸に渡ることができ、近くの岩に残りの十王が彫られていることか確認できる。下流に高山ダムがあるため雨期には下方が水没してしまう。



   
天部諸尊像石仏[ (8)   別府十王石仏
三重県伊賀市別府195 「元禄2(1689)年 江戸時代」
 近鉄大阪線の「青山町」駅の近くの道ばたに「足止め地蔵尊」と呼ばれる石仏がある。実際は地蔵でなく十王石仏である。幅152p、高さ58pの厚い花崗岩の中央に蓮華座に座った閻魔王、左右に5体づつ、立像の十王像を半肉彫りしたもので、横長の笠石をのせている。十王に閻魔王も含まれるので、笏を持たない右端の像は司録像かもしれない。左右の十王像のうち、十王らしい方形の冠を被っているのは2体のみで、後は十王らしく見えない。こけしのような可愛らしい姿の十王像である。中尊の左右に「元禄二年巳年 三月十六日」の記銘がある。



   
令和3年8月10日  自宅のベランダから
イソヒヨドリ
 自宅の周りではイソヒヨドリの鳴き声がよく聞こえ近所のテレビアンテナや屋根にとまっている姿をよく見かけます。庭で水やりをしていると「ピーツツ ピーピーピ ピーポー」ときれいな囀りが聞こえたました。斜め向かいの会社の寮の非常階段にイソヒヨドリ雄がいました。この場所は数年前からイソヒヨドリをよく見かける場所です。慌ててカメラを持って、家のベランダに出てみると、囀りは止みましたが、まだ、斜め向かいの会社の非常階段のフェンスにとまっていました。



令和3年8月9日 天部諸尊像石仏Z (7) 蔵王権現
天部諸尊像石仏Z (7)   霊諍山蔵王権現
長野県千曲市八幡大雲寺裏山 「明治時代」
 修那羅と関係のある更埴市郡にある霊諍山にも蔵王権現石仏がある。船型の石材に線刻した像で浅い彫りと深い彫りをうまく活かし、躍動感を出している。右手で振り上げた三鈷杵は浮き彫りで表現しているが、下部は欠けてしまっている。



令和3年8月5日・8日 天部諸尊像石仏Z(4)〜(6) 蔵王権現
天部諸尊像石仏Z (4)   山上蔵王権現
奈良県生駒郡三郷町立野北2丁目 「南北朝時代」
 現在知られている最も古い蔵王権現石仏は奈良県生駒郡三郷町の山上蔵王権現石仏で、南北朝時代の造像と思われる。長方形の石材に像高54pの右手を高く上げて三鈷を持ち、左手を腰に当て、右足を高く蹴り上げ、左手で立つ、憤怒相の蔵王権現像を半肉彫りしたもので、蔵王権現石仏では最も優れた像である。



天部諸尊像石仏Z (5)   竹成五百羅漢蔵王権現
三重県三重郡菰野町竹成2070 「江戸末期」
 蔵王権現は正式には天部像ではない。インドのバラモン教やヒンドゥー教の神々は「天」という神号で護法善神として仏教の天部に取り入れられたものである。それに対して蔵王権現や飯縄権現などの像は日本の神々が日本仏教に取り入れられた際には本地垂迹思想に基づき権現という神号が多く用いられたもので、正式には天部像ではないが、日本石仏事典などでは天部像として扱っているのでここでも天部として扱っていく。竹成五百羅漢蔵王権現は右足を高く蹴り上げているというより、岩に右足をのせているような表現になっている。



天部諸尊像石仏Z (6)   修那羅蔵王権現
長野県東筑摩郡筑北村坂井眞田11572 修那羅山安宮神社「明治時代」
 蔵王権現は吉野の金峯山寺の本尊として知られ、修験道の開祖、役行者が大峰山で感得したものという仏像である。修那羅大天武と修験道との関わりは深く、この蔵王権現像をはじめ、(27)立山坊舎悪鬼神などの像や「月山」「湯殿山」「天狗」「熊野大神」など修験道に関わる文字碑なども多く見られる。

 この蔵王権現像は浮き彫り像で、右手で宝剣のようなものを振りかざし、左手は剣印を結んで脇腹に置き、右足を躍らせ、右足を踏みしめている。金剛杵が宝剣になっている以外は蔵王堂本尊や「仏像図彙」の像など今までの蔵王権現の姿を踏襲している。力強さは感じられるが忿怒相はいかめしくはなく、どこか親しみを感じる顔である。前に紹介した摩利支天と同じ石工の作と思われる。

 蔵王権現の石像は修験道の発祥地の関西では珍しく奈良県三郷町の山上蔵王権現石仏(南北朝時代)や奈良県大淀町の泉徳寺の像(室町時代)などが知られているのみであるが、江戸時代末期から近代にかけては関西は見られないが全国各地で蔵王権現石仏が造立されている。長野県でもみられ、修那羅と関係のある更埴市郡にある霊諍山にも見られる。



  
令和3年8月4日 天部諸尊像石仏Z 十六善神
天部諸尊像石仏Z (3)   白瀧山竜泉寺磨崖仏十六善神
広島県三原市小泉町 「室町時代」
提頭ら宅善神・法湧菩薩・抜除罪垢善神・常啼菩薩

深沙大将・童子・玄奘三蔵・勇猛心地善神・吠室羅摩拏善神(多聞天)・摂伏諸魔善神
深沙大将・童子・玄奘三蔵・勇猛心地善神・吠室羅摩拏善神(多聞天)
提頭ら宅善神・法湧菩薩・抜除罪垢善神
能忍善神・救護一切善神
 白滝山は因島以外に三原市小泉町にもある。 三原市の白滝山へ行くに は、三原駅前より、「小泉小学校前」 行きのバスに乗り、終点で下車し、そこから登山道を約4km歩く。

 その白滝山の山頂付近に「竜泉寺」がある。この寺の本堂裏の白滝山頂は「八畳岩」 と呼ばれる巨大な花崗岩の露頭で、その「八畳岩」の岩壁に、釈迦三尊と、石仏では珍しい十六善神の磨崖仏がある。十六善神磨崖仏は浅い半肉彫りの磨崖仏でやや誇張された表現であが、岩壁いっぱいに等身大の像が彫られていて迫力がある。十六善神は大般若経とこの経を読誦する守護する十六の薬叉善神である。竜泉寺磨崖仏では他に般若経の授持伝来に関係深い法涌菩薩・常啼菩薩・玄奘三蔵・深沙大将の像が刻まれている。

 「八畳岩」 上に登ることができ、大三島や生口島などの島々、周辺の山々が見渡せ、素晴らしい眺めである。 谷を隔てて南に見える山が、江戸時代の磨崖三十三所観音のある黒滝山になる。
 
提頭ら宅善神(だいずらたぜんじん・持国天)
 
毘盧勒叉善神(びるろくしゃぜんじん・増長天)
 
摧福毒害善神(さいふくどくがいぜんじん)
 
増益善神(ぞうやくぜんじん)
 
歓喜善神(かんきぜんじん)
 
除一切障難善神(じょいっさいしょうなんぜんじん)
 
抜除罪垢善神(ばつじょざいくぜんじん)
 
能忍善神(のうにんぜんじん)
 
吠室羅摩拏善神(べしらまなぜんじん・多聞天)
 
毘盧博叉善神(びるばくしゃぜんじん・広目天)
 
離一切怖畏善神(りいっさいふいぜんじん)
 
救護一切(くごいっさいぜんじん)
 
摂伏諸魔善神(しょうぶくしょまぜんじん)
 
能救諸有善神(のうぐしょうぜんじん)
 
師子畏猛善神(ししいもうぜんじん)
 
勇猛心地善神(ゆみょうしんじぜんじん)
 十六善神は、大般若経の護持を誓った十六の夜叉神をである。釈迦十六善神や般若守護十六善神、あるいは十六大夜叉将と呼ばれる。「般若十六善神王形体」では、提頭ら宅善神・毘盧勒叉善神・摧福毒害善神・増益善神・歓喜善神・除一切障難善神・抜除罪垢善神・能忍善神・吠室羅摩拏善神・毘盧博叉善神・離一切怖畏善神・救護一切善神・摂伏諸魔善神・能救諸有善神・師子畏猛善神・勇猛心地善神の十六神としていが、形相や尊名は一定しない。

 『仏像図彙』(江戸時代の仏像図版集)では大般若十六善神として図像を紹介しているが、摧福毒害善神・吠室羅摩拏善神など五神は「般若十六善神王形体」と名前が違う。竜泉寺磨崖仏十六善神の形相や持物は『仏像図彙』と一致している。尊名は「般若十六善神王形体」の尊名で表した。
 
法湧菩薩(ほうゆうぼさつ)
 
常啼菩薩(じょうていぼさつ)
 
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)
 
深沙大将(じんじゃたいしょう)
 般若経の授持伝来に関係深い法湧菩薩・常啼菩薩・玄奘三蔵・深沙大将は釈迦三尊十六善神として描かれた多くの絵画に描かれていて、竜泉寺磨崖仏十六善神でも最も目立つ場所にこれらの像は彫られている。 


 
   
令和3年8月3日撮影  近くの水田地帯にて
コチドリ・カワウ・ケリ
休耕田に1羽のコチドリがいました。
小さな水路のような川にはよくカワウが1羽見られます。
時々、電柱にとまっています。
ケリはこの水田地帯で最もよく見かけるチドリです。



令和3年8月1日・2日 天部諸尊像石仏Z
十二神将・十六善神・蔵王権現
  
 十二神将は薬師如来に随持する十二の薬叉神で、薬師如来の12の本願を象徴するものとされる。伐折羅大将(ばさら)・迷企羅大将(めきら)・宮毘羅大将(くびら)などの十二の大将をいう。元来は十二支と関係がなかったが、後世に昼夜十二時の護法神して十二支の動物を冠にいだくものが造られた。

 石仏としては作例は少なく、鎌倉時代のものとしては奈良県三郷町の一針薬師笠石仏の線彫り像や宮崎県の東麓石窟仏十二神将などが知られる。大分県の楢本磨崖仏にも十二神将が彫られている。浅い半肉彫りで、苔むしているが鋭いのみ跡が残る。

 十六善神は大般若経とこの経を読誦する守護する十六の薬叉善神である。形像は、主に二臂の憤怒相の武神形につくられ、武器や宝塔などの持物を執る。大般若会の本尊として、釈迦三尊と共に一幅の画像に描かれることが多い。般若経の授持伝来に関係深い玄奘三蔵・深沙大将などの像も描かれる場合も多い。

 提頭ら宅善神(だいずらたぜんじん・持国天))・毘盧勒叉善神(びるろくしゃぜんじん・増長天)・摧福毒害善神(さいふくどくがいぜんじん)・増益善神(ぞうやくぜんじん)・歓喜善神(かんきぜんじん)・除一切障難善神(じょいっさいしょうなんぜんじん)・抜除罪垢善神(ばつじょざいくぜんじん)像・能忍善神(のうにんぜんじん)・吠室羅摩拏善神(べしらまなぜんじん・多聞天)・毘盧博叉善神(びるばくしゃぜんじん・広目天)・離一切怖畏善神(りいっさいふいぜんじん)・救護一切(くごいっさいぜんじん)・摂伏諸魔善神(しょうふくしょまぜんじん)・能救諸有善神(のうぐしょうぜんじん)・師子畏猛善神(ししいもうぜんじん)・勇猛心地善神(ゆうもうしんちぜんじん)の十六神である。石仏としては近代の石仏を除くと白滝山竜泉寺磨崖仏の十六善神が知られるのみである。

 蔵王権現は吉野の金峯山寺蔵王堂の本尊で、修験道の開祖である役行者が、金峯山上で感得したと伝える尊像である。その像容は、一面三眼二臂の忿怒形で、頭には三股冠を戴き、右手は振り上げて三鈷杵か独鈷杵をとり、左手は剣印で腰に当てる。右足を高く蹴りあげ、左足で盤石上に立つ舞勢である。

 現在知られている最も古い蔵王権現石仏は奈良県生駒郡三郷町の山上蔵王権現石仏で、南北朝時代の造像と思われる。奈良県吉野郡大淀町の泉徳寺にも室町時代の蔵王権現石仏があるが、他はすべて江戸時代以降のものである。

 ここでは江戸時代から近代の蔵王権現として竹成五百羅漢・修那羅・霊諍山・広島県尾道市の竜王山などの蔵王権現石仏を紹介する。



天部諸尊像石仏Z (1)   東麓石窟仏十二神将
宮崎県小林市野尻町東麓  「鎌倉時代」
薬師如来・月光菩薩・十二神将
月光菩薩・十二神将
十二神将・日光菩薩
 高岡町と小林市を結ぶ国道268号の野尻大橋の西1.3qにある、珍しい石窟(石龕)式の磨崖仏である。通称、岩薬師といわれる。国道が整備された結果、石窟は国道の下のコンクリートのトンネルの奧になってしまった。

 奥行き1.6m、高さ2mほどの半円形の小さな石窟に、高さ約50pの薬師如来と高さ20pほどの脇侍の月光・日光菩薩を半肉彫りする。入口左右には供養者と思われる比丘座像が彫られている。

 薬師像は左目や鼻が欠けていて、顔はゆがんだように見える。しかし、体部はすっきり整っていて、小像ながら力強い表現の十二神将とともに、南九州を代表する磨崖仏といえる。薬師如来の向かって左に蓮華茎上に乗せた日輪を持つ日光菩薩と6体の十二神将、左に蓮華茎上に乗せた月輪を持つ月光菩薩と6体の十二神将が彫られている。



天部諸尊像石仏Z (2)   楢本磨崖仏十二神将
大分県宇佐市安心院町楢本 「室町時代」
 山中の杉林の中の安山岩層に数十体に及ぶ多くの磨崖仏が上下二段に、薄肉彫りされている。まず、目にはいるのは上段の不動明王で、顔は大きく誇張された表現になっていて、やや荒っぽい。その他、上段には薬師三尊・釈迦三尊・毘沙門天・仁王などの像が彫られている。

 下段は、1m前後の薄肉彫り像や半肉彫りの像が数多く彫られている。十王・地蔵・阿弥陀三尊・不動・多聞天・十二神将などである。阿弥陀如来座像と比丘形座像を刻んだ磨崖宝塔もある。

 不動明王横に「応永35年(1428)」の銘があるので室町時代の作であることがわかるが、作風から見て、すべて同じ時期につくられたとは考えにくい。下段の諸像の方が整っていて、気品がある。これらの像は、上段の大作よりやや古い時期の作ではないだろうか。

 十二神将は下段の一番上、幅7mほどに像高70〜95pの像がやや薄く半肉彫りされている。苔むして風化が進むが、向かって左端の三角形の岩に彫られた像などは鋭い鑿跡が残る。


7月 9月