「フォトギャラリー 石仏と野鳥」 新版 2021年7月 

 
6月 8月



令和3年7月31日 天部諸尊像石仏Y (7)
天部諸尊像石仏Y (3)   竹成五百羅漢の天部像
三重県三重郡菰野町竹成2070 「江戸時代後期」
 竹成五百羅漢は高さ約7mの四角錐の築山をつくり、頂上に金剛界大日如来と四方仏を置き、その周りに如来・菩薩・羅漢をはじめとした500体ほどの石像を安置したもので、七福神や天狗、猿田彦などもあり、大小様々な石仏・石神が林立する様は壮観で、見応えがある。江戸末期、当地竹成出身の真言僧神瑞(照空上人)が喜捨を求めて完成したもので、発願は嘉永5(1852)年で、桑名の石工、藤原長兵衛一門によって慶応2(1866)年に完成した。羅漢以外に玄奘三蔵像、稚児文殊・稚児普賢、苦行釈迦や出山釈迦・誕生釈迦、三猿、天狗などの様々な像が見られる。天部諸尊像では金剛力士・十二天・四天王・閻魔十王・蔵王権現
 
四夜叉(四句文刹鬼)
生滅滅巳…黒色
諸行無常…青色
是生滅法…赤色
寂滅為楽…肉色
 南面と西面は羅漢像が中心で羅漢以外目立った像がないが、南面の頂上付近には、単独像としては非常に珍しい四夜叉(薬叉)像がある。四夜叉は青面金剛の従者で、『仏像図彙』(江戸時代の仏像図版集)では四句文刹鬼(しくもんせっき)として、右手に三叉戟をとる赤色、左手に三叉戟をとる青色、右手に刀を立てて持つ黒色、右手に刀・左手に三羽の小鳥をとる肉色の四夜叉を描いている。若き釈迦が修行中、羅刹に身をかえた帝釈天、あるいは、眷属の四鬼から教えを受けたとされる「四句文の刹鬼」である。

 「諸行無常(しょぎょうむじょう) 是生滅法(ぜしょうめっぽう) 生滅々已(しょうめつめつい) 寂滅為楽(じゃくめついらく)」の4句文は大般涅槃経(涅槃経)の4句の偈で「一切の存在は、無常にして、常に止まることなく川の流れのごとく変化するものである。この娑婆世界は、そういう原理に基づいて成り立っている。」との意味である。

 この四夜叉(四句文刹鬼)はほぼ『仏像図彙』通りの様相であるが、『仏像図彙』の絵に比べる石材という制約があるためか、迫力に欠ける。しかし、石の硬さをうまく生かした愛嬌のある四頭身の像で、この石仏群では最も印象的な石仏である。
 
三宝荒神
 三宝荒神は、三面六臂の憤怒相の荒神で、仏法僧の三宝を守護する荒神である。近世になって民衆の間では竈の神、台所の神として信仰され広がっていった。
 
七福神
七福神(毘沙門天・恵比寿・大黒天)
七福神(恵比寿・大黒天)
七福神(布袋)
七福神(弁財天)
 北に面した所に七福神、役の行者、苦行の釈迦、中腹に天照大神、猿田彦など変化に富んだ石像の数々がある。中でも七福神は丸彫りの大型の像で北面では目立った存在である。



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令和3年7月30日 天部諸尊像石仏Y (6)
天部諸尊像石仏Y (3)   鮭立磨崖仏の天部像
福島県金山町山入字石田山2692 「江戸時代」
鬼子母神・湯殿権現・深沙大将・九頭竜権現・風神・雷神
 鮭立集落の南西の山麓の小高いところに凝灰岩の洞窟があり、その壁面に像高14pから60pに至る大小様々な刻像が、交互に40〜50体びっしりと、不動明王を中心に密教系の諸仏・天部や垂迹神像が半肉彫りされている。深沙大将(じんじゃだいしょう)や牛頭天王(ごずてんのお)・荼枳尼天(だきにてん)・飯綱権現(いづなごんげん)など石仏としては数少ない像もある。また、一洞窟に、これほど多種多様の像が刻まれているのも珍しい。飯綱権現像や愛染明王像などには彩色の跡が残っていて、もとは、美しく彩色されていたと思われる。

 この磨崖仏は天明の飢饉や天保の飢饉の惨状を見て、現在の岩淵家の祖先である修験者の法印宥尊とその子の法印賢誉が五穀豊穣と病魔退散を祈って彫ったと伝えられている。

 浅く細長い洞窟で3つほどに分かれていて、中央部には左面と正面に40体ほど像が刻まれている。正面の中央には不動明王と八大童子が彫られている。不動明王の向かって右の龕は飯豊山神社を祀る祠になっている。向かって左には龍頭観音・牛頭天王・梵天・釈迦三尊などが並んでいる。

 左面には28体の像が彫られている。左端には45p〜53pの比較的大きな像が並んでいて、左から鬼子母神・箱根権現(or湯殿権現)・深沙大将・九頭竜権現でこの磨崖仏で最もよくで紹介されている部分である。その右には、風神と雷神が並び、その右は4段に分かれて、荼枳尼天・淡島様・愛染明王・聖観音・渡唐天神・弁財天など諸像が所狭しと彫られている。左面の右端は摩滅が進んだ文殊菩薩?と飯綱権現が上下に並んでいる。

  鮭立磨崖仏は稚拙な像形であるが石仏としては珍しい天部像が彫られている。像高20〜14pの小像ながら風神・雷神・鬼子母神・荼枳尼天・牛頭天王・飯縄権現など他ではあまり見られない像が多い。
 
鬼子母神
 鬼子母神(きしもじん)は梵名ハーリーティーで訶梨帝母(かりていも)ともいう。もとは幼児を奪い食う悪鬼女であったが、釈迦に自分の子を奪われ教導されて、子女を庇護する善神となった。その像容は、諸児を抱き従える天女形が通形であるが、鮭立磨崖仏の像は片手で子供を抱え込んだ鬼神形である。
 
風神・雷神
風神
雷神
 風神・雷神は三十三間堂の千手観音の眷属の木像の風神・雷神像や俵屋宗達の風神雷神図屏風がよく知られている。風神は風袋を背負った鬼で雷神は小太鼓を取り付けた輪にしてバチで太鼓をたたく鬼である。

 鮭立磨崖仏の風神・雷神像は九頭竜権現の向かって右に上下に並んで彫られていて、上は風神で像高37p、雲上の大きな風袋を両手で背負った褌姿の裸体の鬼の姿で、迫力がある。下の雷神は像高33p、これも雲上の裸体の鬼で、丸い輪を背負いバチを振りかざしている。輪は小太鼓を取り付けていると思われるが、摩滅したのか初めから彫っていないのか、輪は円光のように見える。
 
荼枳尼天(だきにてん)
 荼枳尼天(だきにてん)はインドにおいてダーキニと呼ばれた人の心肝を食べる夜叉鬼で、真言密教では、 荼枳尼は胎蔵曼荼羅の外金剛院・南方に配せられ閻魔天の眷属となっている。後世の日本では稲荷信仰と習合し、一般に白狐に乗る天女の姿で表される。鮭立磨崖仏の像は右手に剣を持ち狐にまたがる姿である。
 
飯綱権現
 飯縄権現は秋葉権現とも言う、秋葉山三尺坊の祭神である。形像は鮭立磨崖仏の像のように烏天狗の顔で、右手に剣、左手に索(綱)を握り、背に双翼を張、火焔光背を、狐の背に乗る像が通形である。
 
牛頭天王
 牛頭天王は京都の祇園社(八坂神社)の祭神で、もとはインドの祇園精舎の守護神とされる。鮭立磨崖仏の像のように牛頭を頭に付けるのが通形である。



令和3年7月29日 天部諸尊像石仏Y (5) 大黒天
天部諸尊像石仏Y (5)   田の神としての大黒天
 大黒天は音韻や容姿の類似から大国主命と重ねて受け入れられるとともに、農村では豊作の神として信仰を深めていく、そのため田の神信仰は西日本では大黒天と結びついていった。鹿児島県や宮崎県に多くある田の神像の中にも、影響を受け田の神像と大黒天を融合させた像が生まれる。
 
東吉村の田の神
宮崎県小林市野尻町東麓大王東吉村  「天保13(1842)年」
 東吉村の田の神は東麓東吉村の村の道路脇の祠に祀られている。農民型で大黒天を混合したものである。像高86pの座像で、おおきな頭巾のようなものをかぶり丸顔で、耳は福耳で大きく、まさしく顔は大黒天である。両肩にメシゲ2本を持ち、両手を輪組みして宝珠を持っている。「天保十三(1842)年十二月」の記銘を持つ。像として田の神と大黒天が融合されたのはこの田の神が最も古いと思われる。
 
楠元下の田の神
鹿児島県薩摩川内市楠元町  「万延元年(1860)」
 薩摩川内市の楠元下の田の神は帽子状のものをかぶり、小槌とメシゲを持って俵の上に立つ田の神で、小槌を持つことや俵の上にのることなど大黒天の影響が見られる。
 
中村神社の田の神
鹿児島県薩摩川内市中村町飯母  「不明」
 中村神社の田の神は俵の上に乗りシキをかぶり小槌とメシゲをかかげるようにもった大黒天との混合型の田の神である。
 
重久の田の神
鹿児島県霧島市国分重久1758-3  「不明」
 霧島市国分の重久の田の神は、大黒頭巾をかぶり、米俵の上に乗った像で一見すると典型的な大黒天像である。しかし、よく見ると右手に持つのは打ち出の小槌ではなくメシゲ(しゃもじ)で担いでるのは袋ではなく稲穂である。
 
小川路の田の神
鹿児島県薩摩川内市城上町上塚  「不明」
 薩摩川内市城上町上塚の交差点近くには周辺にあった田の神が多数集められている。そのうちの一つの小川路の田の神は小槌を持ち袋を担いだ大黒天像そのものを田の神としたものである。
 
上東町の田の神
宮崎県都城市上東町15  「昭和期」
 都城の市街地、都城総合運動公園の南の上東町の児童公園内に、馬頭観音とともに大黒天と農民型の融合型の田の神がまつられている。大黒頭巾をかぶり、ふくよかな耳で、口を開けて笑う姿は確かに大黒天である。しかし、打ち出の小槌と大きな金嚢(袋)のかわりに、メシゲを持ち、稲穂を背負っている。台座の側面に「學竹留吉彫刻」と制作者、背面に像立年を刻むが、年の所が欠けている。彫刻という言葉から近現代の作であることがわかる。
 
浜の段の田の神
都城市山田町山田浜之段  「昭和37(1962)年」
 浜之段の墓地に大黒天風の田の神像がある。平べったい大黒頭巾をかぶり右手に大きなメシゲを持ち、左手で稲穂を金袋のように背負う。都城の上東町の田の神とよく似た表現の像で、昭和37年の刻銘がある。



   
令和3年7月28日  隣町にて
コシアカツバメ・ツバメ
隣町の集団営巣地のコシアカツバメです。今日は多くのコシアカツバメが飛び回っていました。
コシアカツバメの営巣地から数百メートル離れた電線には多くのツバメがとまっていました。



   
令和3年7月27日  近くの水田にて
ダイサギ・ケリ・ハクセキレイ
 カワセミ・コチドリ・アマサギでもいないかなと思って近くの水田地帯に行きました。しかし、コチドリ・アマサギは全く姿が見られず、カワセミは見たのですが撮影できませんでした。サギはアオサギとダイサギだけでした。ダイサギがこちらに向かって飛んできたので撮影しました。
ケリが10羽ほどいました。
ハクセキレイがケラをくわえていました。



令和3年7月26日 天部諸尊像石仏Y (4) 大黒天
天部諸尊像石仏Y (4)   安曇野の大黒天
 安曇野では道祖神と一緒に大黒天像・恵比寿像・庚申塔・二十三夜塔などが祀られている。江戸時代になると庶民信仰が広がり、各地で講がつくられた。法華講や報恩講・伊勢講・大峰講・富士講など寺社とつながった講以外に、民俗信仰を基盤にした村落内において営まれる講か広がっていく。そのような講の中に人々が一定の日に特定の場所に集まり夜を過ごす、日待講・月待講・庚申講・子待講などがある。

 飲食を共にし、精進供養をして夜もすがら過ごすもので、その信仰の対象としてつくられたのが、日待塔・二十三夜塔などの月待塔・庚申塔・子待(甲子待)塔である。それらは文字塔として造立されたもの以外に、各信仰の礼拝本尊の像が像立された。二十三夜講の本尊の勢至菩薩・庚申講の青面金剛などである。大黒天は子待(甲子待)講の本尊で、安曇野の大黒天像の大部分は子待(甲子待)塔として造立されたもので、多くは江戸時代後期の作である。本郷上手村の大黒天のように恵比寿神と対になって子待(甲子待)塔として併立しいるものも安曇野には何体か見られる。
 
神田町の大黒天
長野県安曇野市穂高2508-1 「明治25(1892)年」
 JR穂高駅や穂高神社・安曇野市役所穂高支所などの西、国道147号線と平行して南北に続く旧道(県道309号線)沿いの町が神田町である。町村合併によって神田町という名は正式町名から消え、簡易郵便局の名前などに残るぐらいである。その簡易郵便局の筋向かいに、大黒天が道祖神と共に柵をめぐらした屋形に祀られている。

 隣の道祖神と同じく、円形の石材に石臼のように丸い彫りくぼみをつくり、2俵の米俵の上に立つ、右手に小槌を持ち、左手で大きな袋を肩に担いだ大黒天を半肉彫りにしたもので、訪れた時は青・黄・緑・金色・黒・白の6色で見事に彩色されていた。明治25(1892)年刻銘がある。ストリートビューで見てみると彩色はなく、最近は彩色が行われていないようである。
 
本郷上手村の大黒天
長野県安曇野市穂高6868−3  「慶応4(1868)年」
 本郷中村の道祖神の西北西0.3mの道路沿いの農地の一角に、基台をコンクリートでかためて祭壇をつくり、ブロックで囲った中に、道祖神、恵比寿像並んでまつられている。3基とも円形もしくはおにぎりの形の自然石に円形を穿ち、各像を半肉彫りしたもので3基とも青・赤・黒・白を中心に色が塗られている。彩色されていることと背景に北アルプスの山々が見えるのでよく撮影スポットとなっている3基でもある(撮影後、後ろに住宅が建ったため、アルプスは半分隠れてしまった)。

 大黒天は2俵の米俵の上に立つ、右手に小槌を持ち左手で大きな袋を肩に担いだ典型的な像で、最初に訪れた時は頭巾は黒、小槌は黄色、袋は白、衣装は青に着色されていた。翌年に訪れた時は袋は稲穂のように黄色で着色されていた。神田町の大黒天に比べると雑な彩色であった。
 
孤島中木戸の大黒天
長野県安曇野市穂高北穂高810-3  「元治元(1864)年」
 早春賦の碑のある穂高川の北、県道穂高明科線沿いの集落が孤島である。その孤島集落の火の見櫓の近くの鉄筋の柱の覆屋に文政4年の道祖神と並んで大黒天像が祀られている。円形の形の自然石に円形を穿ち、2俵の米俵の上にのって小槌を持ち大きな袋を肩に担いだ大黒天を半肉彫りしたもので、神田町や本郷上手村の像に比べると彫りは鋭く整った像である。元治元(1864)年、江戸時代末期の作である。



   
令和3年7月25日 天部諸尊像石仏Y (1)〜(3) 大黒天
大黒天・鮭立磨崖仏と竹成五百羅漢の天部像
 大黒天は梵名元来はマハーカーラで、密教では大自在天または毘盧遮那仏の化身とさる。形像は三面六臂の忿怒相の像、金嚢(袋)を持った半跏像、大きな袋を肩から背負った立像などがあり、中国・日本では食物の神として寺などの厨房にまつられた。日本の民間信仰では大国主命と合一し、頭巾をかぶり、袋を背負い、打ち出の小槌をもつ福の神となった。奈良県高取町の香高山五百羅漢の大黒天像のように石像大黒天の多くは俵に乗ったこの姿の像である。信州の安曇野では道祖神と共に子待(甲子待)講の本尊として多くの大黒天像が造立された。また、鹿児島県や宮崎県では田の神として大黒天像が造立されている。

 福島県金山町の鮭立磨崖仏は半肉彫りされた江戸時代の磨崖仏で、稚拙な像形であるが石仏としては珍しい天部像が彫られている。像高20〜14pの小像ながら風神・雷神・鬼子母神・荼枳尼天・牛頭天王・飯縄権現など他ではあまり見られない像が多い。竹成大日堂五百羅漢には十二天像をはじめとして四天王・金剛力士・三宝荒神・四夜叉・蔵王権現など多くの天部像がある。ここでは鮭立磨崖仏と竹成大日堂五百羅漢の天部像の中から各項目にない天部像を紹介する。



天部諸尊像石仏Y (1)   香高山五百羅漢大黒天
奈良県高市郡高取町壷阪香高山 「江戸時代初期」
 壺阪寺より高取城跡へ行く道を1qほどすすむと、五百羅漢の道標が立っている。その道標から山道を少し行くと、数百体の羅漢を薄肉彫りした岩があらわれる。像高約50pほどの像が所狭しと並んでいる。そこから数メートルほど上ったところにも、数百体の羅漢が同じように彫られている。その羅漢群の上の岩に十一面観音座像とともに、大黒天像が彫られている。頭巾をかぶり、袋を背負い、打ち出の小槌をもつ七福神などでおなじみの姿である。



天部諸尊像石仏Y (2)   鮭立磨崖仏大黒天
福島県金山町山入字石田山2692 「江戸時代」
 鮭立集落の南西の山麓の小高いところに凝灰岩の洞窟があり、その壁面に像高14pから60pに至る大小様々な刻像が、交互に40〜50体びっしりと、不動明王を中心に密教系の諸仏・天部や垂迹神像が半肉彫りされている。この磨崖仏は天明の飢饉や天保の飢饉の惨状を見て、現在の岩淵家の祖先である修験者の法印宥尊とその子の法印賢誉が五穀豊穣と病魔退散を祈って彫ったと伝えられている。

 浅く細長い洞窟で3つほどに分かれていて、3つに分かれた右側には青面金剛・水神・地天など像高50〜60pの5体の像が彫られている。中央の諸像よりは摩滅が進んでいる。大黒天はこの5体の中央の像で宝珠型の龕の中に彫られていて、2俵の米俵に乗る袋を背負い、打ち出の小槌をもつおなじみの姿である。摩滅がひどく被っていると思われる頭巾や目鼻立ちはわからない。



天部諸尊像石仏Y (3)   竹成五百羅漢大黒天
三重県三重郡菰野町竹成2070 「江戸時代後期」
 北面で目立つのは丸彫りの七福神である。大黒天はその中でも大型の像で、米俵の上に乗り、巾をかぶり、袋を背負い、打ち出の小槌をもつこれぞ「福の神」といえる典型的な大黒天像である。



   
令和3年7月24日  地元の山の上の公園にて
ウグイス
ウグイスは公園の桜園のあちこちで鳴いているのですが、なかなか写せません。久しぶりに撮影したウグイスです。



   
令和3年7月23日  地元の山の上の公園にて
ヤマガラ
メジロの群れにヤマガラが交ざっていました。



令和3年7月22日 天部諸尊像石仏X (10)〜(12) 摩利支天
天部諸尊像石仏X (10)   霊諍山の摩利支天
長野県千曲市八幡大雲寺裏山  「明治時代」
 摩利支天は武士の守り本尊として、護身・蓄財・勝利などを祈る対象とされているが、信州では「生き霊よけ」として信仰もあるという。また木曽の御嶽信仰とともに広まり、各地の山岳に勧請され、江戸末期以降、甲信越や関東で摩利支天像は造立された。長野県では修那羅の摩利支天石仏や茅野市の権現の森や松本市和田の摩利支天石仏などが知られている。霊諍山を開いた北川原権兵衛は御嶽信仰に基づく神道の御岳教の中座(霊媒)であり、摩利支天が祀られて当然といえる。

  この摩利支天像は修那羅の像と同じく船型にした石材に猪に乗る憤怒相の三面六臂の摩利支天を浮き彫りにしたねのである。左の二つの手で弓と軍配、右の二つの手で矢と刀を持ち、残った左右の手で長鉾を構えている。修那羅の像に比べると迫力に欠けるが、修那羅像に比べると風化が少なく、陽が当たると鮮やかに三面の忿怒相や猪の姿が浮き上がり写真写りは抜群である。
 霊諍山にはもう一体、摩利支天像がある。こちらは線彫り像である。船型の石材に、板彫り状に猪に乗る摩利支天と火焔を板状に浮き出し、面相や着衣・持物・猪の顔や牙を線彫りで表したもので、勇壮な姿である。浮き彫りの摩利支天像と同じく、三面六臂で弓矢・軍配・剣・長鉾を持つている。顔は、ボウボウと髭を生やし、摩利支天1より数段すごみがあり迫力満点である。赤く彩色した跡が残る。



天部諸尊像石仏X (11)   修那羅の摩利支天
長野県東筑摩郡筑北村坂井眞田11572 修那羅山安宮神社「明治時代」
 上を丸くした板状の石材に浮き彫りで表した像で、猪に乗る憤怒相の三面六臂像で、弓矢や軍配などを持つ。摩利支天は武士の守り本尊として、護身・蓄財・勝利などを祈る対象とされているが、信州では「生き霊よけ」として信仰もあるという。また木曽の御嶽信仰とともに広まり、各地の山岳に勧請され、江戸末期以降、甲信越や関東で摩利支天像は造立された。長野県では霊諍山の摩利支天石仏や茅野市の惣持院や権現の森の摩利支天石仏が知られている。

 この像や蔵王権現・勝軍地蔵や後で紹介する~農など同じ場所に置かれていて、酒屋や薬屋を営んでいた金井一族が明治時代に建立したものと思われる。おそらく「仏像図彙」などの仏像図譜などを参照して造立されたのではないだろうか。



天部諸尊像石仏W (12)   竜王山の摩利支天(摩利支尊天)
広島県尾道市潮見町   「明治時代〜昭和時代」
 竜王山には珍しい尊容の石仏も多くある。摩利四尊天と刻銘のある石仏は摩利支天(摩利支尊天)と考えられるが、三面六臂の猪にのる通常の摩利支天像とは違い、一面で手を智拳印のような印(智拳印とは左右の手が逆)を組む二臂の像となっている。



令和3年7月20・21日 天部諸尊像石仏X (4)〜(9) 弁財天
天部諸尊像石仏X (4)   香高山五百羅漢弁財天
奈良県高市郡高取町壷阪香高山 「江戸時代初期」
五社明神(弁財天・神像?・雨宝童子・神像?・毘沙門天)
 西国三十三所観音の6番札所、壺阪寺(南法華寺)は、お里・沢市の物語で知られる『壺阪霊験記』の舞台でもある。その壺阪寺の奥の院といわれるのが、この香高山五百羅漢である。壺阪寺より高取城跡へ行く道を1qほどすすむと、五百羅漢の道標が立っている。その道標から山道を少し行くと、数百体の羅漢を薄肉彫りした岩があらわれる。像高約50pほどの像が所狭しと並んでいる。そこから数メートルほど上ったところにも、十一面観音や大黒天とともに数百体の羅漢が同じように彫られていて、壮観である。五百羅漢岩から上へ登るに連れて、 地蔵・十王像、五社明神、弘法大師蔵、阿弥陀来迎二十五菩薩と磨崖仏が次々と現れてくる。そして、頂上には釈迦如来が彫られていて、香高山全山が仏の世界を描いた一種の曼陀羅のようになっている。

 この弁財天像は五社明神の1体として彫られたもので像高20pほどの小さな磨崖仏である。弓・箭(や)・剣・斧・羂索などを持つ八臂像の天女形で丸顔のかわいらしい像である。



天部諸尊像石仏X (5)   岩谷観音磨崖仏弁財天
福島県福島市岩谷7-2 「江戸時代」
  福島市の町のすぐ北にそびえる信夫山、その東端の中腹に岩谷観音がある。岩谷観音は応永二十三年(1416)に観音堂が建立されたのにはじまる。江戸時代、宝永六年(1709)頃から岩谷一面に、西国三十三所観音をはじめとして、庚申・弁財天・釜神などが彫られた。風化は著しいが厚肉彫りで像容の優れたものが多い。

 福島市の岩谷観音磨崖仏弁才天は厚肉彫りの八臂座像で胸前の二臂は宝珠と剣を持つ、残りの六臂は薄肉彫りで表している。頭の上には鳥居と蛇体をのせていて、宇賀弁才天であることがわかる。



天部諸尊像石仏X (6)   深叢寺弁財天
長野県諏訪郡原村中新田13512  「文政2(1819)年 江戸時代」
  高遠の石工、守屋貞治の弁財天は本堂南側の庭の池のふちに安置されている。八臂像で、弓・矢・剣・宝珠などを持つ。小さな像であるが、貞治仏らしい端正な顔だちが印象的である。貞治が晩年に彫造した石仏を記録した『石仏菩薩細工』には「辨財天 諏訪中新田村深草寺」との記あり(336躯の石仏中67番目)。


天部諸尊像石仏X (7)   鮭立磨崖仏弁財天
長野県諏訪郡原村中新田13512  「文政2(1819)年 江戸時代」
 鮭立磨崖仏の左面のには深沙大将など28体の像が彫られている。左端には深沙大・鬼子母神など45p〜53pの比較的大きな像が並んでいて、鮭立磨崖仏で最もよくで紹介されている部分である。その右には、風神と雷神が並び、その右は4段に分かれて、荼枳尼天・淡島様・愛染明王・聖観音・渡唐天神・弁財天など諸像が所狭しと彫られている。

 弁財天は像高22pの蓮台に立つ小像で宝冠をかぶり、両手を胸前にして、深沙大将と同じように蛇を持つ。深沙大将の蛇は大将の首に巻き付いているが、こちらは両手の中でとぐろを巻いている。風化がすすみ翁面まで確認できないが翁面蛇体の宇賀神をいただく宇賀弁才天である。


天部諸尊像石仏X (8)   竹成五百羅漢弁財天
三重県三重郡菰野町竹成2070 「江戸時代後期」
 竹成五百羅漢は高さ約7mの四角錐の築山をつくり、頂上に金剛界大日如来と四方仏を置き、その周りに如来・菩薩・羅漢をはじめとした500体ほどの石像を安置したもので、七福神や天狗、猿田彦などもあり、大小様々な石仏・石神が林立する様は壮観で、見応えがある。江戸末期、当地竹成出身の真言僧神瑞(照空上人)が喜捨を求めて完成したもので、発願は嘉永5(1852)年で、桑名の石工、藤原長兵衛一門によって慶応2(1866)年に完成した。羅漢以外に玄奘三蔵像、十二天像、稚児文殊・稚児普賢、四夜叉像、三宝荒神、七福神像などの様々な像が見られる。

 竹成五百羅漢弁財天は七福神として造立された二臂の弁才天像で、最も弁財天としてよく知られている琵琶を持つ姿である。ただ、撥を持って琵琶を弾くのではなく、左手で琵琶の竿を持ち、右手で宝珠を持つ。



天部諸尊像石仏X (9)   大窪寺弁財天石仏
香川県さぬき市多和兼割96  「近代」
 四国八十八カ所霊場の結願の霊場「大窪寺」(香川県さぬき市)の阿弥陀堂前の広場の右側の銀杏の木の下には高さ120mほどの基壇に像高40p〜70pの丸彫りの近作の様々な石仏が安置されている。最上段の金剛界大日如来と弘法大師像を中心に如来・菩薩・明王・天部諸像や神像を曼陀羅風に安置したもので、馬頭明王や稲荷明神など特異な像があり興味深い。近代の作であるが、詳細に彫られていて、引き締まった写実的な顔で、ブロンズ像のような雰囲気の石仏群である。

 弁財天像は七福神などで知られている琵琶を弾く姿で片膝を立た半跏座像である。丸顔の穏やかな美人像である。



   
令和3年7月18日  地元の山の上の公園
ツバメの給餌
公園の管理棟で毎年、ツバメが子育てをしています。管理棟に行ってみると、巣にツバメの気配はなく、巣立ったようです。
管理棟の近くでツバメの鳴き声がするので、声が聞こえる方向を見てみると、電線にツバメの幼鳥がとまっていました。
成鳥も電線の周りを飛び回ったり、電線にとまったりしています。
親鳥が幼鳥に近づいて来てホバリングしながら、口を開けた幼鳥に餌をあたえているのですが、素早いので撮影できません。
親鳥が黄色い虫をくわえています。
虫を幼鳥にあたえたようですが、口元を写せませんでした。
親子には見えないのですが、口移しで給餌する場面を撮影できました。



   
令和3年7月18日  地元の山の上の公園
コジュケイ
 今にも雨の降りそうな山の上の公園の桜園でコジュケイを見つけましたが、すぐに姿を消しました。暗くてまともな写真にはなりませんでした。



   
令和3年7月17日  近くの川沿いの畑作地にて
コチドリ
川沿いの畑作地に行き、いつものコチドリを撮影しました。
今日はもう1羽いました。幼鳥です。



   
令和3年7月16日  隣町にて
コシアカツバメ
 小雨の降る中、地元の山を廻ったのですが、思うような鳥はいませんでした。そこで、隣町のコシアカツバメの集団営巣地によってコシアカツバメを撮影して帰りました。
羽づくろいをするコシアカツバメです。



   
令和3年7月14日 天部諸尊像石仏X (1)〜(3) 深沙大将
深沙大将・弁才天・摩利支天
 深沙大将は玄奘三蔵が天竺に赴いた時に、流沙で現れてその苦難を救ったという護法神で、多聞天の化身という。像形は、奇怪な相貌をした、半裸の鬼形で、首に髑髏の瓔珞をかけ、腹部に童子の顔を出し、膝頭に像の顔を表した袴をつけている。 石仏としてはきわめて希である。大分市の高瀬石仏の彩色が残る半肉彫り像が有名である。赤い頭髪を逆立て、胸に7個の髑髏の首飾りをし、腹部には童子の顔が描かれ、左手に身体に巻き付けた蛇の頭を握る異様な姿は、興味が尽きない。深沙大将は「大般若経」の守護神として玄奘三蔵として玄奘とともに十六善神図中に描かれることが多い。石仏では広島県三原市の白滝山(竜泉寺)の磨崖仏に十六善神像があり、その中に深沙大将の浮き彫りがある。

 弁才天(サラヴァティー)は古代インド神話の三大女神の一つで梵天の妃ともされる。サラヴァティー川を神格化したもので、本来は土地豊穣をもたらす河神であるが、弁才(智慧)の女神ヴァーチと結合して同一視され、言葉、学問、音楽などの神とされた。仏教に取り入れられてからは学問・音楽・智慧の神として信仰され、鎌倉時代以降は福徳神の性格が強まり、七福神の一員にくわえられる。その像容は天女形で、「金光明最勝王経」に説く弓・箭(や)・剣・斧・羂索などを持つ八臂像や琵琶などを持つ二臂像などがある。中世以降、日本の在来の作神、宇賀神(うがのかみ)と結びつき翁面蛇体の宇賀神をいただく姿の宇賀弁才天がうまれる。石仏では福島県の岩谷観音弁財天や守屋貞治の作の深叢寺弁才天像などがある。

 摩利支天は陽炎を神格化したインドの女神マリシが仏教に取り入れられ、護身の神となったもので、江戸時代には蓄財の・福徳の神として信仰された。像容は鉄扇を持った二臂の天女像、もしくは猪に乗る憤怒相の三面六臂像などがある。石仏のほとんどは三面六臂像で、長野県の霊諍山や修那羅などに見られる。



天部諸尊像石仏X (1)   高瀬石仏深沙大将
大分県大分市高瀬910-1 「平安時代後期」
 高瀬石仏は、霊山の山裾が、大分川の支流、七瀬川に接する丘陵にある石窟仏である。高さ1.8m、幅4.4m、 奥行き1.5mの石窟の奥壁に像高95〜139pの馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の5像を厚肉彫りする。赤や青の彩色が鮮やかに残り、馬頭観音や大威徳明王の火炎光背や大日如来の光背の唐草文様などは印象的である。

 中尊は丸彫り近い厚肉彫りで、宝冠をいだいた、法界定印の退蔵界大日如来である。他の4体は半肉彫りで、如意輪観音像の動的な姿態や大威徳明王が乗る牛の体勢など立体的な絵画表現を巧みに行なった秀作である。

 高瀬石仏で最も知られているのが、左端の深沙大将である。赤い頭髪を逆立て、胸に9個の髑髏の首飾りをし、左手に身体に巻き付けた蛇の頭を握る異様な姿は、興味が尽きない。腹部には童女の顔が描かれている。深沙大将は葛城山の護法神で毘沙門天の化身とされ、馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の配列は葛城山系の修験道との関連が考えられる。

 これらの諸像は神秘的であるが、表現は穏和で柔らかみがあり、平安時代後期の作と考えられる。国の史跡に指定されている。



天部諸尊像石仏X (2)   竜泉寺十六善神磨崖仏深沙大将
広島県三原市小泉町 「室町時代」
深沙大将・常啼菩薩・玄奘三蔵・勇猛心地善神・吠室羅摩拏善神(多聞天)
深沙大将・常啼菩薩
 深沙大将は「大般若経」の守護神として玄奘三蔵として玄奘とともに十六善神図中に描かれることが多い。石仏では広島県三原市の白滝山(竜泉寺)の磨崖仏に十六善神像があり、その中に深沙大将の浮き彫りがある。高瀬石仏像と同じく髑髏の首飾りをし、左手に身体に巻き付けた蛇の頭を握り、腹部には童子の顔が薄肉彫りで表している。



天部諸尊像石仏X (3)   鮭立磨崖仏深沙大将
福島県金山町山入字石田山2692 「江戸時代」
鬼子母神・湯殿権現・深沙大将・九頭竜権現・風神・雷神
 鮭立集落の南西の山麓の小高いところに凝灰岩の洞窟があり、その壁面に像高14pから60pに至る大小様々な刻像が、交互に40〜50体びっしりと、不動明王を中心に密教系の諸仏・天部や垂迹神像が半肉彫りされている。深沙大将(じんじゃだいしょう)や牛頭天王(ごずてんのお)・荼枳尼天(だきにてん)・飯綱権現(いづなごんげん)など石仏としては数少ない像もある。また、一洞窟に、これほど多種多様の像が刻まれているのも珍しい。飯綱権現像や愛染明王像などには彩色の跡が残っていて、もとは、美しく彩色されていたと思われる。

 この磨崖仏は天明の飢饉や天保の飢饉の惨状を見て、現在の岩淵家の祖先である修験者の法印宥尊とその子の法印賢誉が五穀豊穣と病魔退散を祈って彫ったと伝えられている。

 浅く細長い洞窟で3つほどに分かれていて、左面には28体の像が彫られている。左端には45p〜53pの比較的大きな像が並んでいて、左から鬼子母神・箱根権現(or湯殿権現)・深沙大将・九頭竜権現でこの磨崖仏で最もよくで紹介されている部分である。

 像高45pの深沙大将像は大きな蛇を両手で抱えるように持っている。風化が進み、髑髏の首飾りはどうにか確認できるが、腹部の童子の顔は赤い彩色は残るが確認できない。




令和3年7月12日・13日 天部諸尊像石仏W 毘沙門天(多聞天) (11)〜(15)
天部諸尊像石仏W (11)   庚申山毘沙門天磨崖仏
岡山県岡山市北区新庄上 「江戸時代」
 岡山市新庄上の庚申山(74.2m)は、高松水攻めの際毛利方の吉川元春が本陣を構えた丘陵である。麓から真っ直ぐに300段ほどの急な階段が帝釈天を祀る帝釈堂(庚申堂)までつづく。その帝釈堂のある山上には花崗岩の巨岩がむらがり、その一つに毘沙門天を刻んだ磨崖仏がある。

 大きな花崗岩の岩の突き出た部分を平らにし、邪鬼を踏まえた等身大の毘沙門天像を薄肉彫りしたもので、右手で鬼の片足を抱え、左手で宝塔を捧げる。兜のシコロ部分が大きく金太郎人形の髪型のように見える。誇張した姿態の表現や顔つきなど、五月人形を思わせる毘沙門天像である。

 帝釈天は須弥山の頂上(喜見城)にすみ、四天王以下、三十三将を従え、天軍を指揮する仏法守護の主神である。高さ70mほどの小さな丘であるが毘沙門天を刻むこの岩をはじめ、巨岩がむらがる庚申山は仏法守護神の中心、帝釈天を祀るにふさわしい地であるといえる。



天部諸尊像石仏W (12)   日差山毘沙門天磨崖仏
岡山県倉敷市山地2018 「江戸時代」
 倉敷市山地の日差山は高松城水攻めの時、毛利方の小早川隆景が本陣を置いた172mの山で、天平勝宝6年(754)に報恩大師が開いたと伝えられる日差寺がある。この山にも花崗岩の巨岩がたくさんあり、その一つの花崗岩の大露頭に報恩大師杖描きと伝えられる薄肉彫りの毘沙門天磨崖仏がある。

 庚申山の毘沙門天と同じように、兜のシコロ部分が大きい、邪鬼を踏まえ、右手で鬼の片足を抱え、左手で宝塔を捧げる高さ167mの立像で、おそらく、庚申山毘沙門天磨崖仏は、この像をモデルにしたものと思われる。

 彫刻としてのできはこの像の方がよいと思われるが、残念なことに、昭和46年に火災にあい、宝塔などが剥がれていて、庚申山像に比べる痛みがひどい。像は伝説のように奈良時代のものではなく、様式から見て近世の作と思われる。しかし、毘沙門天像が彫られていなくても、古代からおそらくこの大岩は磐座として信仰の対象になっていたものであろう。



天部諸尊像石仏W (13)   福山八畳岩毘沙門天磨崖仏
岡山県総社市西郡 「江戸時代」
 倉敷の北、山手村(現在総社市)西郡の福山(302m)には中世の城跡がある。鎌倉時代に築城されたもので、足利尊氏が後醍醐天皇を裏切り、新田義貞に破れ、西に下ったあと、尊氏が九州で軍を整え反撃するきっかけとなった戦いが行われたのがこの福山城である。(新田義貞側の先鋒として大井田氏経がこの福山城へ進出し陣を布き、尊氏側の足利直義の30万騎の軍と3日間防戦し、破れた。この戦いは湊川合戦のわずか1週間前で福山合戦は尊氏側の戦局に大きく影響した。)

 この福山と峰続きの幸山(150m)にも中世の城跡がある。その福山城から幸山城へ下る道の途中に、八畳大岩(八畳岩)と呼ばれる花崗岩の巨岩がある。その岩の北面に2つの磨崖仏が彫られている。一つは大岩に舟形の光背を彫り窪め十一面観音座像を半肉彫りしたもので、光背上部に2番の記銘がある。西国三十三カ所観音の第2番、紀三井寺の十一面観音である。福山の中腹の猿田彦神社からこの八畳岩まで西国三十三カ所観音石仏が並んでいて、その一つとして彫られたものと考えられる。

 その右側に等身大の毘沙門天磨崖仏がある。観音磨崖仏と同じように、大岩に舟形の光背を彫り窪め、その中に岩座に立つ毘沙門天を半肉彫りしたもので、左手に宝塔、右手に宝棒を持つ。石鎚山毘沙門天磨崖仏に比べると迫力に欠けるが端正な毘沙門像である。北向きのため、光が当たらず、苔むし摩滅しているため顔の表情がわからないのが残念である。この像もおそらく近世の作と思われる。

 八畳大岩にはロープを使って登ることができ、そこからの眺めはすばらしい。この八畳大岩も古代から磐座として信仰の対象になっていたものと考えられる。



天部諸尊像石仏W (14)   鷲峰山毘沙門天磨崖仏
岡山県小田郡矢掛町東三成、鷲峰山 「安永6(1777)年 江戸時代」
 鷲峰山(じゅぶうざん)は矢掛町と真備町の町境にある390mの山である。この山も信仰の山で中腹に棒澤寺(跡)がある。真言宗御室派の古刹で、盛時には8坊を擁する備中南部の大寺院であったが、昭和32年大火で、堂宇を焼失してしまい、現在焼け残り荒れ果てた倒壊寸前の堂・山門・庫裏があるのみである。(国指定重要文化財の画像3点は災害から逃れ、現在は岡山県立博物館に寄託されている。)

 現在、棒澤寺には町指定の重要文化財となっている石門と宝篋印塔が残っている。ともに中世の立派な石造品である。宝篋印塔はお堂の裏の一段高いところにはあり、そこから鷲峰山へ続く登山道がある。その登山道を10分足らず登ったところに毘沙門天磨崖仏への案内板が立っていて、そこを左へ少し入ったところに大きな岩が重なった岩場がある。その岩場の奥、南向きの岩壁に鷲峰山毘沙門天磨崖仏がある。

 約4m四方の巨岩の岩壁に光背として舟形の彫りくぼみをつくり、そこに岩座に立つ毘沙門天を半肉彫りしたもので、左手に宝塔、右手に宝棒を持つ。輪宝火焔付光の頭光や甲冑の装飾など細かいところまで精緻に彫り込んでいて、吉備の毘沙門天磨崖仏では最も写実的な作品である。石鎚山毘沙門天磨崖仏と並ぶ傑作で、矢掛町の重要文化財に指定されている。

 像の右に銘文があり、安永6(1777)年8月に浅野又三郎によって奉納されたものであることがわかる。また、像の右下には片山新助という石工名も刻まれている。



天部諸尊像石仏W (15)   大窪寺毘沙門天石仏
香川県さぬき市多和兼割96  「近代」
 四国八十八カ所霊場の結願の霊場「大窪寺」(香川県さぬき市)の阿弥陀堂前の広場の右側の銀杏の木の下には高さ120mほどの基壇に像高40p〜70pの丸彫りの近作の様々な石仏が安置されている。最上段の金剛界大日如来と弘法大師像を中心に如来・菩薩・明王・天部諸像や神像を曼陀羅風に安置したもので、馬頭明王や稲荷明神など特異な像があり興味深い。近代の作であるが、詳細に彫られていて、引き締まった写実的な顔で、ブロンズ像のような雰囲気の石仏群である。



   
令和3年7月11日  隣町にて
コシアカツバメ・ツバメ
 隣町のコシアカツバメの集団営巣地に行きました。昨年に比べるとコシアカツバメの数は少なく、集団営巣とほど遠い状態で、数回訪れたのですが、1回しか撮影していません。今日、久しぶりにいってみると、昨年ほどはいませんでしたが、コシアカツバメの数は増えていて、電線に十数羽とまっていました。
電線にとまっているツバメはすべてコシアカツバメと思っていたのですが、普通のツバメも数羽混ざっていました。



   
令和3年7月9日  地元の山の上の公園にて
キビタキ幼鳥
シジュウカラとヤマガラの混群の中にキビタキの幼鳥と思われる鳥がいました。



   
令和3年7月9日  近くの川沿いの畑作地にて
コチドリ
雨が止んだので、川沿いの畑作地に行き、いつものコチドリを撮影しました。



令和3年7月4日 天部諸尊像石仏W 毘沙門天(多聞天) (8)〜(10)
天部諸尊像石仏W (8)   楢本磨崖仏磨崖仏毘沙門天
大分県宇佐市安心院町楢本 「室町時代」
 山中の杉林の中の安山岩層に数十体に及ぶ多くの磨崖仏が上下二段に、薄肉彫りされている。まず、目にはいるのは上段の不動明王で、顔は大きく誇張された表現になっていて、やや荒っぽい。その他、上段には薬師三尊・釈迦三尊・毘沙門天・仁王などの像が彫られている。

 下段は、1m前後の薄肉彫り像や半肉彫りの像が数多く彫られている。十王・地蔵・阿弥陀三尊・不動・多聞天・十二神将などである。阿弥陀如来座像と比丘形座像を刻んだ磨崖宝塔もある。

 不動明王横に「応永35年(1428)」の銘があるので室町時代の作であることがわかるが、作風から見て、すべて同じ時期につくられたとは考えにくい。下段の諸像の方が整っていて、気品がある。これらの像は、上段の大作よりやや古い時期の作ではないだろうか。

 毘沙門天像は上段の左端の吽形像の右隣にあり、像高85p、右手を顔の横まであげて、戟を持ち、左手で宝塔を捧げ、左足を一歩踏み出した力強い姿である。赤い彩色か鮮明に残る。



天部諸尊像石仏W (9)   石槌山毘沙門天磨崖仏
岡山県倉敷市真備町尾崎石田、石槌山 「室町時代後期」
 井原鉄道の備中呉妹駅の北方1kmに戦国時代の山城(砦)跡でもある標高165mの鳥が嶽(呉妹富士)がある。その鳥が嶽と峰続きの東500mの石槌山(129m)の岩壁にこの毘沙門天磨崖仏がある。高さ390p,横370p,奥行290pの巨岩の南面に、像高180pの邪鬼を踏まえた毘沙門天立像を薄肉彫りする。 甲冑をつけ左手に宝塔、右手に宝棒を持つ。日差山・庚申山の像と比べるとより立体的な表現で、甲冑も精緻に彫り込んでいて、ベンガラによる色彩も残り、力強い堂々とした作品である。備前の毘沙門天磨崖仏の中では白眉の作といえる。

 室町時代後期の作とすれば、戦国時代、鳥が嶽を砦とした毛利氏が武運の守護として、勝軍祈願して作られたものと考えられる。毘沙門天は護法身としての性格と、その武装した姿により、王城鎮護や城郭や町の守護神としての信仰もあったようで、この像もそのような意味合いでも造立されたのかもしれない。

 真備町石田の集落の東の端に石槌山への登山口があり、案内板が立っている。登山口から10分足らずで毘沙門天磨崖仏の前に着く。毘沙門天の前は視界が開け、小田川と呉妹の集落を見下ろせる。



天部諸尊像石仏W (10)   香高山五百羅漢毘沙門天
奈良県高市郡高取町壷阪香高山 「江戸時代初期」
五社明神(弁財天・神像?・雨宝童子・神像?・毘沙門天)
 西国三十三所観音の6番札所、壺阪寺(南法華寺)は、お里・沢市の物語で知られる『壺阪霊験記』の舞台でもある。その壺阪寺の奥の院といわれるのが、この香高山五百羅漢である。壺阪寺より高取城跡へ行く道を1qほどすすむと、五百羅漢の道標が立っている。その道標から山道を少し行くと、数百体の羅漢を薄肉彫りした岩があらわれる。像高約50pほどの像が所狭しと並んでいる。そこから数メートルほど上ったところにも、十一面観音や大黒天とともに数百体の羅漢が同じように彫られていて、壮観である。五百羅漢岩から上へ登るに連れて、 地蔵・十王像、五社明神、弘法大師蔵、阿弥陀来迎二十五菩薩と磨崖仏が次々と現れてくる。そして、頂上には釈迦如来が彫られていて、香高山全山が仏の世界を描いた一種の曼陀羅のようになっている。

 この毘沙門天像は五社明神の1体として彫られたもので像高20pほどの小さな磨崖仏で、力強さをないが、かわいらしく印象に残る毘沙門天像である。



   
令和3年7月6日撮影  近くの水田にて
イソシギ・カワウ
 地元の山でキビタキなど目的の野鳥を撮影できなかったのでコチドリのいる水田に寄りました。コチドリの鳴き声がしたので、声がする方にカメラを向けるたのです遠くへ飛び去ってしまいました。シギらしき鳥も見かけたのですが、こちらも飛び立ちました。低空飛行で200mほど離れた水路の方へ向かいました。水路に近づいてみると、水路のコンクリートの岸にいました。
電柱の上に黒い大きな鳥がとまっていました。カワウです。電柱にいるカワウをこの場所ではよく見かけます、



   
令和3年7月5日撮影  近くの水田と川沿いの畑作地にて
コチドリ
6月27日にコチドリを撮影した田んぼの畦には10羽ほどのコチドリがいました。
畦にいたコチドリの1羽が水路のコンクリートの岸にとまり、大きく口を開けて鳴いていました。
川沿いの畑作地の休耕地ではこの日もコチドリが姿を見せました。



   
令和3年7月4日撮影  地元の山にて
エナガ
 地元の山の展望台までのハイキングコースではキビタキの鳴き声が2カ所で聞こえ、しばらく粘ってみたのですが近づいてくれませんでした。この日は、先日キビタキを撮影したは展望台付近で、エナガの群れを撮っただけでした。



令和3年7月4日 天部諸尊像石仏W 毘沙門天(多聞天) (4)〜(7)
天部諸尊像石仏W (4)   大門坊磨崖仏多聞天
大分県豊後高田市田染真中674 「鎌倉後期〜南北朝時代」
 大大門坊といわれる一堂宇の向かって左横の凝灰岩の岸壁に彫られた磨崖仏。薬師如来座像・大日如来座像・如来形立像・多聞天立像などを半肉彫りする。堂の陰になっていて陽当たりが悪く苔がはえて、風化が激しい。ただ、天邪鬼を踏む多聞天はよく残っている。天邪鬼は丸い目をむき出し、いかにもとぼけた表情で印象に残る。



天部諸尊像石仏W (5)   福真磨崖仏多聞天
大分県豊後高田市黒土 「南北朝時代」」
 県道から田んぼのあぜ道を通り、小川に差し渡した一枚板の橋を渡り、小さな鳥居をくぐった、四王権現社の参道脇の石造の覆堂内に、高さ160cm、幅450cmの枠を岸壁に区画し、その中に19体の像を半肉彫りする。

 中央に金剛界大日如来像と金剛界四仏像を刻み、左に六地蔵座像、右に六観音像を刻む。右端には多聞天像、左端には不動明王像が彫られ、さらに向かって右の外壁には種子の胎蔵界曼陀羅又は法華曼陀羅が刻まれているということであるが、摩耗してわからない。多聞天像は像高80cmの立像で頭部は厚肉彫りである。



天部諸尊像石仏W (6)   峰寺毘沙門天磨崖仏
〒630-2201 奈良県山辺郡山添村峰寺257 「南北朝時代」
 峰寺集落内にまつられる六所神社の社殿の左奥の斜面の岩肌に、 高さ70cm 舟形光背を彫りくぼめ、 岩座に立つ像高40cmの多聞天立像を半肉彫りする。

 右手は腰にあて、左手は外側に高く上げ、宝塔を持つ。六所神社の本地仏として造立されたものと思われる。



天部諸尊像石仏W (7)   八幡神社毘沙門天石棺仏
兵庫県加東市下滝野1275-8 兵庫県立播磨中央公園 「室町時代」
 播磨中央公園の南の八幡神社の裏手の山頂の岩陰にある。小さな石棺底石に、毘沙門天像をやや厚く薄肉彫りする。播磨の石棺仏の中では毘沙門天像はこの一体だけである。四頭身で子どものような、かわいらしい毘沙門天でる。しかし、右足を前に踏み出した下半身は力強い。 



   
令和3年7月3日  近くの川沿いの畑作地にて
コチドリ・オオヨシキリ・カワウ
雨が止んだので、30日にコチドリ・オオヨシキリを撮影した川沿いの畑作地に行きました。
今日もコチドリが休耕中の畑にいました。
しばらくすると近くの黒いビニールハウスの屋根にとまりました。
カメラを向けているとビニールハウスの屋根から飛び降りました。
サトイモの畑の方に巣があるようで畑の中に入っていきました。
今日も川沿いの畑作地の木の上でオオヨシキリがさかんに鳴いていました。
小さな川で1羽のカワウを見つけました。カメラを向けると、突然こちらに向かってくるようにして飛び立ちました。


6月 8月