「フォトギャラリー 石仏と野鳥」 新版 2020年9月

 
8月 10月



   
令和2年9月30日  山の中の菊畑にて
ノビタキ・ホオジロ・エゾビタキ
山の中の小菊畑にノビタキを撮りに行きました。3羽のノビタキがいました。
今年初めてのノビタキの撮影です。
ノビタキと思ってカメラを向けたのですがホオジロでした。
菊畑に向かう山道にはエゾビタキが数羽いました。今年の秋はエゾビタキをよく見かけます。



   
令和2年9月29日  山の上の桜園にて
オオルリ若鳥
昨日と同じ場所にオオルリがいました。今日も成鳥と若鳥がいたのですが、若鳥しか写せませんでした。
桜の木は枝が多く、いつも枝かぶりの写真になります。



   
令和2年9月28日  山の上の桜園にて
オオルリ・エゾビタキ・コサメビタキ・キビタキ♀
オオルリがいました。この桜園で秋にオオルリを見たのは初めてです。
オオルリの若鳥もいました。
コサメビタキもこの桜園でよく見かけます。
キビタキの雌です。
今日も桜園のあちこちにエゾビタキがいました。
エゾビタキが黒い小さなものを飲み込もうとしているところです。



   
令和2年9月27日撮影  山の上の桜園にて
コサメビタキ・エゾビタキ
桜園ではコサメビタキをよく見かけるようになりました。
小さな黒いものを咥えていて、飲み込もうとして口を開けたところです。舌も見えます。
飲み込みことができなく落としました。



   
令和2年9月26日撮影  山の上の桜園にて
エゾビタキ・コサメビタキ・キビタキ・キセキレイ
今日も桜園のあちこちにエゾビタキがいました。
小さな黒いものを咥えていました。
飲み込む瞬間です。
コサメビタキです。
桜園の奥深くに黄色いものが見えました。シャッターを押してみるとキビタキです。近づこうとすると飛び去りました
キセキレイがオンブバッタを捕まえました。



   
令和2年9月26日撮影  近くの水田にて
タシギ
3羽のタシギが田んぼの畦で佇んでいました。



   
令和2年9月25日撮影  山の上の桜園にて
エゾビタキ・キビタキ
 午前中は大雨で今日はバードウォッチングは無理と思っていたのですが、ネットで雨雲の動きを見ると2時間ほど雨が止みそうだったので、昼すぎにいつも行く山の上の桜園に行きました。鳥がいるのか心配でしたが、エゾビタキは何カ所かで見ることができました。
一番上の桜園は明るくよい写真が撮れます。色づいた桜の葉を背景にしたエゾビタキです。
黒い実のようなものを咥えていました。
よく見るとダンゴムシです。
下の桜園のエゾビタキです。少し口を開いています。
小さいのでコサメビタキと思って撮りました。コサメビタキではなさそうです。
背を向けてとまったので、キビタキと確認できました。雌か若鳥と思われます。



   
令和2年9月24日撮影  近くの水田にて
タシギ・ジシギ
 2日前に色の濃いジシギを見た、田んぼの畦にタシギがいました。色の濃いジシギと思ったシギはどうやらタシギのようです。あの時は雨覆部や風切羽は見られなかったのですが、今日は雨覆部や風切羽は見られタシギと確認できました。大きさも小さかったです。
隣の畦にもタシギがいました。
 2日前に2羽のジシギを撮った休耕田の畦に、タシギがいました。はじめはジシギと思ったのですが、よく見ると肩羽の色が赤みがかった茶色で、肩部の下列にある白っぽい色線が下に流れるように見えるのでタシギと思われます。
後ろ向きで5分ほどじっとしていたので尾羽を開くのを期待していたのですが、稲のなかに消えてしまいました。
隣の畦にはジシギか座りこむようにじっとしていました。
他の場所を回って戻って見ると首を伸ばしていました。
最初にタシギを見た田んぼの水路を挟んだ田んぼの畦には2羽のジシギがいました。



   
令和2年9月23日撮影  山の上の桜園にて
コサメビタキ・エゾビタキ・キビタキ♀・キセキレイ
 エゾビタキが山の上の桜園のあちこちで見られるようになりました。キビタキの雄やムギマキが見られないかと何カ所かの桜園を回ったのですが、エゾビタキ以外にはキビタキ♀・コサメビタキしか見られませんでした。
コサメビタキです。
エゾビタキは5カ所の桜園で見ました。
キビタキ♀は3カ所の桜園で見ました。
道路上にキセキレイがいました。車からガラス越しに撮りました。



   
令和2年9月22日撮影  近くの水田にて
マガモ・ジシギ・キセキレイ
 水の張った休耕田に2羽のカモがいました。マガモの若鳥or雌です。毎年、10月初旬にこの休耕田でマガモをよく見かけます。9月に見たのは初めてです。
 休耕田にジシギか2羽いました。いつも田んぼの畦にいるジシギと比べると大きくやや色が白く見えました。オオジシギかもしれません。近づいて写そうとすると、休耕田の草むらから6羽のジシギが飛び立ちました。
田んぼの畦の横にいたジシギです。休耕田のジシギに比べると色が濃いように見えます。
キセキレイです。



   
令和2年9月21日撮影  山の上の桜園にて
エゾビタキ・キビタキ♀
前日に引き続いて山の桜園でエゾビタキの撮影です。3羽いて、愛想よく近くの桜の枝にとまってくれます。
ハエのような虫を捕まえました。
キビタキの雌は9月になって、この桜園でよく見かけます。



   
令和2年9月20日撮影  山の上の桜園にて
エゾビタキ・コサメビタキ・キビタキ♀
秋になるとこの桜園には毎年エゾビタキが姿を見せます。今年もいつも見られる場所で見ることができました。
2週間ぶりのこの桜園でコサメビタキを見ました。
キビタキの雌です。



   
令和2年9月19日  山の上の桜園にて
キビタキ
久しぶりに山の上の桜園でキビタキを撮影できました。
雄のキビタキの撮影は2ヶ月ぶりです。
雌のキビタキは今日は数カ所で見ることができました。


   
令和2年9月19日撮影  近くの水田にて
ウグイス・カワセミ・イソシギ・ヒバリ幼鳥・ジシギ
田んぼの畦にスズメ大の鳥を見つけました。カメラを向けてみるとウグイスでした。
イソシギが小さな水路のコンクリートの上にいました。
幼鳥が農道の端にいたのですが、はじめはどんな鳥の幼鳥かわかりませんでしが、飛び去った時の地鳴きでヒバリとわかりました。
水路のフェンスにカワセミがとまりましたが、遠い場所からの撮影になりました。思い切りトリミングした荒い写真です。
道の近くの畦のジシギは飛び去り、今日も写したのは遠くにいるジシギです。



令和2年9月18日  近江と播磨の阿弥陀石棺仏
阿弥陀石仏100選(25) 聖衆来迎寺石棺仏        
滋賀県大津市比叡辻2丁目4-17  「鎌倉時代」
恵心僧都が念仏修行し、弥陀の来迎を感得したと伝えられる念仏修行の寺、聖衆来迎寺の本堂前の庭の覆堂の中にこの石棺仏はまつられている。

 高さ145cm、幅110cmの家形石棺の蓋石を利用した石材の中央に舟形の光背を彫りくぼめ、像高83cmの来迎印の阿弥陀立像を半肉彫りしたものである。左右には同じく舟形光背を彫りくぼめて、腰をかがめ中腰姿で、蓮台を捧げる観音菩薩と合掌する勢至菩薩を半肉彫りしている。二尊の下には合掌する比丘形像と比丘尼形像が彫られている。子どもが両親の極楽往生を願って、造立供養したものではないかといわれている。



阿弥陀石仏100選(26) 真禅寺阿弥陀石棺仏        
兵庫県姫路市別所町255 「文永2(1265)年 鎌倉時代」
 真禅寺の本堂前の庭の中央に東面して立つ。高さ1mあまり、幅90cmの家型石棺の蓋石を利用し、像の周辺のみを彫りくぼめて、如来座像を薄肉彫りする。膝のあたりは摩滅して手印はあきらかでないが、おそらく定印の阿弥陀如来であろう。

 像の左右に「文永二年乙丑」 「十一月十日」の紀年銘があり、在銘石棺仏としては最古であり、播磨の石棺仏では種子の石棺仏を除けば最も古いものである。

 この石棺仏と座仏の輪郭の彫り方、蓮華座の表現などがそっくりな石棺仏が大阪府柏原市山ノ井町の瑠璃光寺にある。瑠璃光寺石棺仏は藤原時代後期の作なので、真禅寺のこの石棺仏は瑠璃光寺石棺仏を真似たものと思われる。



阿弥陀石仏100選(27) 倉谷薬師堂阿弥陀石棺仏
兵庫県加西市倉谷町237 「鎌倉時代」
  倉谷町の北側の林の中に薬師堂があり、堂内厨子の中に石棺仏がまつられている。堂内にあるために、拝観できなかったが、本の写真で見ると丁寧な作風の石棺仏である。

 左の写真は薬師堂の外の崖に立つ石棺仏である。高さ137cm、幅95cmの家型石棺の底石に、線刻の舟形光背を負う如来座像を薄く彫り出している。手印は不明であるが、おそらく定印の阿弥陀如来像であろう。

 この石棺仏は、真禅寺の「文永2年(1265)」の阿弥陀石棺仏と同じように下の結跏趺坐の部分は摩滅しているように見え、はっきりとわからない。意図的にこのような表現にしているのではないだろうか。これによって、石と仏像が一体となり、石の生命か仏像となってあらわれたような印象を受ける。



阿弥陀石仏100選(28) 春岡寺阿弥陀石棺仏
兵庫県加西市池上町 「鎌倉後期」
 池上町の南、静かな森に囲まれた池を前にして春岡寺が建っている。その寺の境内にこの石棺仏がある。高さ、185cm、幅98cmの大きな家型石棺の蓋石に蓮華座に座す阿弥陀如来座像(像高60cm)を薄肉彫りする。

 胴体部分は肩幅が狭く、裾が広がった三角形の形になっている。その形が、四角の石棺とうまくマッチして、加西市の阿弥陀座像の石棺仏独特の世界を作り上げている。特に、この春岡寺の石棺仏のゆったりと座す姿は気品があり、玉野の阿弥陀石棺仏とともに、播磨の石棺仏を代表する秀作である。

 ここでも、縄掛け突起はそのまま残しているが、山伏峠の石棺仏と同じく、全く気にならない。石仏の腰のあたりで2つに折れているが、石の重みでびくともしない。「腰折れ地蔵尊」と呼ばれて腰痛の人がお参りするという。



   
令和2年9月17日  地元の山と近くの水田にて
カイツブリ親子・コサメビタキ・ジシギ
ハイキングコースを登って地元の山の池へ行きました。池にはカイツブリの親子がいました。
ハイキングコースでは3羽のコサメビタキを見たのですが、枝かぶりの写真しか撮れませんでした。
山を下りた後、近くの水田に行ってジシギを撮りました。道の近くの畦のジシギは飛び去り、今日も写したのは遠くにいるジシギです。



   
令和2年9月15日  近くの水田にて
ジシギ
 農道近くの畦にいるジシギは気配を感じて近づくとすぐと飛び去ってしまいます。結局、長い畦の真ん中の遠い場所にいるジシギの撮影になります。今日も長い畦の真ん中にいるジシギです。2羽いました。
反対側に回ってみたのですが、距離はやはり遠く、逆光です。



   
令和2年9月14日撮影  近くの水田にて
コサギのバトル・クサシギ
ジシギの数が減っていて、昨日は3羽、今日は1羽見かけただけです。それも、すべてカメラを構える前に飛び去ってしまいました。
コサギはよく見かけまが、あまり撮影する気はしませが、今日は2羽のコサギが激しくバトルしていたので撮影しました。
細長い水田の真ん中にクサシギがいました。遠くてまともな写真は撮れません。
北側からはやや近いのですが、後ろ向きです。



令和2年9月13日  
観音石仏50選(2)   臼杵石仏の観音像
大分県豊後高田市平野 「平安後期」
 質・量・規模ともわが国を代表する石仏、「臼杵石仏」は大分県臼杵市深田の丘陵の山裾の谷間の露出した凝灰岩に刻まれた磨崖仏群である。平安後期から鎌倉時代にかけて次々と彫られたもので、谷をめぐって「ホキ石仏(ホキ石仏第2群)」「堂が迫石仏(ホキ石仏第1群)」「山王山石仏」「古園石仏」の4カ所にわかれている。(石仏配置図参照)ほとんどが丸彫りに近い厚肉彫りで、鋭い鑿のあとを残す。現在61体の石仏が国宝指定を受けている。

 その中でも特に優れているのが、ホキ石仏の阿弥陀三尊像と古園石仏の大日如来像である。観音像は「ホキ石仏(ホキ石仏第2群)」の阿弥陀三尊の脇侍の1体と「古園石仏」の1体がよく知られている。他に「ホキ石仏(ホキ石仏第2群)」の第2龕に1体、「堂が迫石仏(ホキ石仏第1群)」に阿弥陀像の脇侍の観音像2体があるが、風化・摩滅がひどい状態である。
 
古園石仏観音像 「平安後期」
左は普賢菩薩
 臼杵石仏のシンボル的存在である像高3m近い金剛界大日如来で知られる古園石仏は、「古園十三仏」と呼ばれるように、大日如来を中心にして左右に各六体の如来・菩薩・明王・天部像の計十三体を、浅く彫りくぼめた龕の中に、厚肉彫りしたものである。もろい凝灰岩に丸彫りに近く彫りだしたため、甚だしく風化・破損して、下半身はほとんどの石仏が下半身を剥落していて、大日如来をはじめとして如来はすべて首が落ちていたが、現在は修復され、仏頭は元に戻された。 

 勢至・文殊・普賢・観音の菩薩像はは比較的破損は少なく、昔の面影を残す。共に宝冠を頂いたよく似た座像で、下半身や手など摩滅していて持物や印相がわからず、一見しただけでは菩薩名が判断できない。文殊菩薩は宝冠には彩色が残り、端正な顔が印象的である。観音菩薩は向かって右端にある菩薩像で、とがった顎など本尊の大日如来と共通する様式で、本尊の大日如来や他の菩薩像とともに臼杵ではもっとも古い時期の制作と考えられる。宝冠正面の化仏は欠けてしまっている。
 
ホキ石仏(ホキ石仏第2群) 第1龕阿弥陀三尊観音菩薩「平安後期」 第2龕観音菩薩立像 「鎌倉時代」
 ホキ石仏の中心となる第1龕に、古園石仏の大日如来とともに臼杵石仏を代表する「阿弥陀三尊像」がある。阿弥陀如来は像高3m近い、丈六仏で、臼杵石仏の中では最も大きい像である。丸彫りに近いほど厚肉に彫り出され、衣紋や目鼻など、冴えた鑿あとを残し、木彫仏のような鮮やかさをたたえている。丸顔に、伏目という、いわゆる定朝様式の阿弥陀像で、制作年代は11世紀〜12世紀とされているが、肩から胸にかけて逞しく量感があり、厳しい表情とともに平安前期の様式も残す。

 脇持の観音・勢至菩薩も2mを越える巨像である。特に向かって右の脇侍、観音菩薩は比較的保存状態がよく彩色も残り、苦渋を秘めた強い表情が印象的で、臼杵石仏を代表する像の一体である。

 第2龕は像高1mほどの九体阿弥陀像を中心とした石仏群で中尊は定印の阿弥陀座像で他の8体の阿弥陀像は立像である。九体阿弥陀の両脇に菩薩像があり、向かって右の菩薩像が観音立像である。阿弥陀三尊の観音像と比べると穏やかな顔の像で鎌倉初期の像立と言われている。


観音石仏50選(3)   菅尾石仏の観音像
大分県豊後大野市三重町浅瀬乙黒 「平安時代後期」
千手観音
十一面観音
 豊肥本線菅尾駅の北西1.5q、徒歩20分。小高い山の中腹に覆堂があり、向かって右から千手観音・薬師・阿弥陀・十一面観音と多聞天(これだけ半肉彫り)の五体の磨崖仏が刻まれている。 千手観音から十一面観音までの四像は丸彫りに近い厚肉彫りで、臼杵石仏とならぶ木彫的な藤原調の石仏として知られている。

 千手観音は像高198pで裳懸座に座る座像で、膝元で禅定印で宝珠を持つ手と胸元で合掌する手、顔の横で錫杖と三叉戟を持つ手の6臂を大きく表して、他の手を膝元と体の後ろに小さく表すことによって見事にまとめている。十一面観音も裳懸座に座る座像で、右手に蓮花、左手に数珠を持つ。

 この磨崖仏は昔から「岩権現」といわれており、紀州熊野権現を勧請したもので、4像は熊野権現の本地仏である。国の史跡で重要文化財に指定されている。



   
令和2年9月12日撮影  近くの水田にて
ジシギ
 今日もジシギです。田んぼの畦にいて、時々、水の中に入って何かを食べています。チュウジシギかオオジシギか確認するため尾羽を広げてくれるのを待ったのですが結局広げてくれませんでした。



   
令和2年9月11日  近くの水田にて
カワセミ・ジシギなど
農業用水路にカワセミがいました。
 今日も田んぼの畦の何カ所かにはジシギがいて、8羽ほど見たのですが、今日も撮影前に飛び立ってしまいました。畦の奥にいるハクセキレイと一緒にいた1羽だけは撮影することができました。オオジシギと思っていたのですが、全体として白っぽくなく、チュウジシギとも思えます。



   
令和2年9月10日撮影  近くの水田にて
ジシギ
 昨日のようなジシギの群れは見ることができませんでした。田んぼの畦の何カ所かにはジシギがいて、6羽ほど見たのですが、カメラを構える前に気づかれて、飛び立ってしまいました。何とか最後に、畦の奥にいる1羽だけは撮影することができました。



   
令和2年9月9日  近くの水田にて
ジシギ・クサシギ
 久しぶりに近くの水田地帯に行きました。コチドリやクサシギを撮影した休耕田に行ってみると、クサシギがいました。撮ろうとしたのですが、飛び立ってしまいました。その後、20羽ほどのシギが一斉に飛び立ちました。飛び立ったシギの種類はわかりません。
 1時間ほど他の所をまわり、先ほどの休耕田に戻って見ると、休耕田の手前の水田でジシギを見つけました。一瞬、タシギかな思ったのですが、後ろ向きのためわかりません。
 少し離れた、畦にもジシギらしき鳥が2羽いました。望遠レンズで覗いてみると色は白っぽく、肩羽の下の白い線が下に流れているようには見えず、タシギではなく、オオジシギ?と思われます。
休耕田をそっと覗いてみると、近い場所にジシギ(オオジシギ?)がいました。
おそらくオオジシギと思うのですが、チュウジシギの可能性もあるので一応ジシギとしました。
この後、ジシギは飛び立ちました。その後すぐ、草のなかに隠れていた10羽ほどのジシギも飛び立ちました。
少し離れた田んぼの畦にもジシギが2羽いました。どうやらジシギが群れで入っているようです。
 この日はジシギ以外にクサシギを撮影しました。この休耕田は毎年水が張られます。6年前から夏から秋にかけて通っているのですが、クサシギは毎年見られます。



   
令和2年9月8日  山の上の桜園にて
キビタキ♀
今日もエナガやメジロの群れは見られず、寂しい桜園でした。あきらめて帰ろうとしたときキビタキの雌が姿を見せました。



   
令和2年9月6日  自宅の庭にて
向日葵とキジバト
この頃毎日、枯れた向日葵の花にキジバトがとまります。
ねらいは向日葵の種です。



   
令和2年9月6日  山の上の桜園にて
イソヒヨドリ
 真昼の暑い時間帯に行ったためか、エナガやメジロの群れは見られず、寂しい桜園でした。イソヒヨドリを1羽見かけただけです。



   
令和2年9月5日  山の上の桜園にて
ムシクイ
 山の上の桜園ではメジロ・エナガなどの混群を8月末頃からたまに見かけるになりました。その中に時々、コサメビタキなどの夏鳥が混ざっています。今日はムシクイが混ざっていました。
 鳴き声が無ければムシクイの識別は難しく、ムシクイの名前はわかりませんが、頭央線?らしきものが見えるのでセンダイムシクイかもしれません。(ピントが前の枝にあってしまってはっきりと頭央線と断言できません。)



   
令和2年9月3日  山の上の桜園にて
コサメビタキ・メジロ・イソヒヨドリ♀
コサメビタキです。昨日見たコサメビタキと同じ個体と思われます。
メジロ・エナガ・シジュウカラの混群をよく見かけるようになりました。メジロが木の実を食べていました。
 桜園からの帰りに昨日アカゲラを撮った山の中の広域農道の橋に行きました。照明灯のアーチにイソヒヨドリ♀がとまっていました。



   
令和2年9月2日撮影  山の上の桜園にて
コサメビタキ・キビタキ♀
山の桜園でも真夏の時は見られなかった夏鳥がようやく見られるようになりました。
最初に見かけたのはコサメビタキです。低いところを飛んでいてよい写真は撮れませんでした。
キビタキ♀です。


   
令和2年9月2日撮影  隣町の山中にて
アオゲラ
 山の桜園から隣町の山に向かいました。橋の上で車から下りて、谷の方にカメラを向けたとき、枯れた木の幹にアオゲラがいるのを見つけました。かなり遠かったのですが、何とか撮影できました。思いっきりトリミングした画像です。



令和2年9月3日
不動石仏50選(37) 一乗谷と引接寺の不動石仏
 福井県の朝倉氏の居城跡、一乗谷には、多数の石仏が残されている。一乗谷の石仏のほとんどは朝倉氏がさかえた16世紀の石仏である。日本全体で見ると16世紀は、造形的に見ると石仏の衰退期で、小型化・様式化・簡略化がすすみ、迫力のある魅力的な石仏はみられなくなる。しかし、この一乗谷の石仏は、細部を省略せず、細密に彫り出した、古様な表現であり、室町時代後期の石仏の中では異彩を放つ石仏群である。

 では、なぜそのような石仏がつくられたのだろうか。それは、京にあこがれつづけた戦国大名朝倉氏の存在である。朝倉氏の城下町、一乗谷は北陸の小京都として栄え、朝倉氏の庇護により多くの寺院が作られた。多くの石仏が残る西山光照寺や盛源寺は天台宗真盛派の寺院で、一乗谷の石造物造立の重要な担い手が、城主の朝倉貞景が帰依した特異な浄土教である天台宗真盛派である。もう一つは笏谷石(しゃくだにいし)という金鋸で切れるほど軟らかい凝灰岩の石材と古墳時代より続く越前の石の加工技術である。一乗谷の石造物のほとんどがこの笏谷石で、木彫と同じように加工できる笏谷石という石材が、細部を省略せず、細密に彫り出す、古様な表現を可能にした。16世紀には、一乗谷はいうまでもなく、越前一円から北陸・近畿地方にも製品が移出された。
 
盛源寺の不動石仏
福井県福井市西新町 「室町後期」
 盛源寺は、朝倉館跡(義景屋敷跡)から一乗谷川を1qほどさかのぼった西新町にある天台宗真盛派の寺院で、真盛上人によって建立されたといわれている。真盛上人の高弟、舜盛上人の墓も残る。

 参道から境内に至るまで二百体ほどの石仏が、所狭しと並べられていて壮観である。中でも境内の不動明王<弘治2(1556)年在銘>と地蔵菩薩<天文6(1537)年在銘>は、量感もあり、一乗谷の石仏の最高傑作である。不動明王像は火焔が彫られた光背をバックに丸彫りに近い厚肉彫りの像高202pの立像で光背の上部と鼻などは欠けているが憤怒相の顔は力強く、迫力がある。体躯の表現はやや平板であるが衣紋表現も丁寧である。
 
一乗谷朝倉義景墓所の不動石仏
福井県福井市城戸ノ内町  「室町後期」
 一乗谷観光のメインとなるのは復元された城下町ととも、復元城下町と県道をはさんである朝倉氏館跡で、移築された唐門や庭園が残されている。その館跡の南側に続く、木立の中に朝倉義景の墓地があり、石祠の中に墓塔が納められている。

 その石祠の右奥にこの不動明王が安置されている。蓮弁のような形の船形光背を背にした不動明王立像の厚肉彫り像である。大げさに表現された憤怒相の不動石仏が多いなか、この不動石仏は小さな目で眉根を寄せ静かに睨み付けていて、静かな中に凝縮した力強さを感じる。
 
西山光照寺跡不動石仏
福井県福井市安波賀町11?4 「室町後期」
 西山光照寺は一乗谷の北端近くにあった、最澄の創建と伝える古刹を、文明3年、朝倉孝景が真盛上人の高弟、舜盛上人を招いて再興した寺である。江戸時代に福井城下に移され(福井大仏観音のある光照寺)、廃寺となっている。

 私が最初訪れた時は、本堂や庫裏の跡に石材を乱雑にくみ上げた基壇の上に虚空像菩薩や阿弥陀如来があり、本堂跡前の前の広場の両側に細長い向かい合わせの3棟の覆堂と、本堂跡を背にして広場の手前に不動と童子の安置する1棟の覆堂に、合わせて30数体の石仏がまつられていた。覆堂は現在は新しく立て直され、本堂跡にあった虚空像菩薩・阿弥陀如来をまつる覆堂も追加され覆堂は5棟になっている。
制多迦童子
 本堂跡に背を向けて建つ覆堂ある不動明王立像は2.5mを越え、一乗谷最大の石仏で天文2年(1533)の刻銘がある。朝倉義景墓所の不動石仏と違って大げさに表現された不動石仏である。螺髪のような渦巻いた一つ一つの髪や目鼻は大きく、やせ形の体躯や細い腕などカリカチュアライズされた姿であり、朝倉義景墓所の不動石仏や西山光照寺跡のもう一体の不動石仏とは違った魅力がある。特に脇侍の制多迦童子は大げさなカリカチュアライズされた表現が十分生かされた、一乗谷の石仏を代表する像である。
 本堂跡から見て左側の細長い覆屋の右端に安置されている不動石仏である。一面に火炎が彫られた船形を負った厚肉彫りの立像で、精緻な写実的な表現で、軟らかい笏谷石の石材と越前の石工の加工技術を十分に生かした不動石仏である。
 
引接寺の不動石仏
福井県越前市京町3丁目3-5  「弘治2(1556年) 室町後期」
 武生駅の西約800mにある引接寺(いんじょうじ)は天台宗真盛派の寺院で真盛上人の開山と伝えられている。2世住職は朝倉貞景の弟真慶で、その関係で朝倉氏の庇護を受けてさかえた。

 現在も2万u近い寺域を誇る大寺院で江戸末期に再建された本堂を始め庫裏・山門・大仏堂などを備える。境内には笏谷石に彫られた30数体の石仏がある。朝倉氏の遺物とみられており、一乗谷と同じように、地蔵・阿弥陀・観音・不動などの石仏が多い。

 特に、山門の近くにある地蔵と不動の石仏は3m近くの巨像で、迫力がある。痛みが激しいのが惜しい。不動像光背に弘治2年(1556年)の年記がある。この両石仏は夜半寺内を巡回したという伝説が残る。


8月 10月