「フォトギャラリー 石仏と野鳥」新版 2020年8月

 
7月 9月



令和2年8月31日撮影  大和・近江の阿弥陀石棺仏
阿弥陀石仏100選(22) 光蓮寺跡阿弥陀石棺仏
奈良県天理市柳本町830 「建治2(1276)年 鎌倉時代」
 古びた家屋が残る柳本の街の細い路地を入ったところにに光蓮寺跡があり、小さな毘沙門堂と石仏を集めた仮堂がある。仮堂の中心となっているのが、高さ113cm、幅49cm、厚さ26cmの石棺の一部を使用したと考えられる長方形石材に、舟形光背を深く彫りくぼめ、その中に来迎阿弥陀立像を厚肉彫りしたこの石仏である。鎌倉中期の建治2(1276)年の刻銘がある。

 面長で、細身で、技巧的な個性の強い石仏で、このような石仏は柳本の町や長岳寺周辺には30体ほどあり、そのおおくが建治年間(1275〜1278)の銘がある。


阿弥陀石仏100選(23) 専行院阿弥陀石棺仏
奈良県天理市柳本町1474   「鎌倉時代」
 柳本町の東に卑弥呼の時代の鏡、三角縁神獣鏡が多数出土したことで知られる黒塚古墳がある。その古墳の南に藩主であった織田一族の菩提寺、専行院(せんぎょういん)が建つ。本堂の前にこの阿弥陀石棺仏が立っている。

 高さ121cm、幅91cm、厚さ30cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に立つ阿弥陀来迎像を厚肉彫りする。建治年間の刻銘はないが、面長で、細身、大きく裾広がりにつくった裳裾など建治2(1276)年の光蓮寺阿弥陀石棺仏と同じ作風である。

 阿弥陀石棺仏の右には建治2(1276)年の地蔵石仏、また、境内の無縁仏内にも石棺材を使った地蔵石仏がある。これらも光蓮寺阿弥陀石棺仏と同じ作風である。



阿弥陀石仏100選(24) 中山観音堂阿弥陀石棺仏        
奈良県天理市中山町493  「鎌倉時代」
長岳寺の田んぼを隔てた北の小さな集落が天理市中山町で、そこには小さな観音堂がある。境内に十数基の小石仏が集めてられている。その中にこの阿弥陀石棺仏がある。

 高さ89cm、幅42cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に坐す像高31cmの定印阿弥陀像を半肉彫りする。光蓮寺や専行院の阿弥陀石棺仏に比べると彫りは浅く、穏やかな端正な顔である。鎌倉時代の作と思われる。


阿弥陀石仏100選(25) 聖衆来迎寺石棺仏        
滋賀県大津市比叡辻2丁目4-17  「鎌倉時代」
恵心僧都が念仏修行し、弥陀の来迎を感得したと伝えられる念仏修行の寺、聖衆来迎寺の本堂前の庭の覆堂の中にこの石棺仏はまつられている。

 高さ145cm、幅110cmの家形石棺の蓋石を利用した石材の中央に舟形の光背を彫りくぼめ、像高83cmの来迎印の阿弥陀立像を半肉彫りしたものである。左右には同じく舟形光背を彫りくぼめて、腰をかがめ中腰姿で、蓮台を捧げる観音菩薩と合掌する勢至菩薩を半肉彫りしている。二尊の下には合掌する比丘形像と比丘尼形像が彫られている。子どもが両親の極楽往生を願って、造立供養したものではないかといわれている。



   
令和2年8月30日撮影  山の上の桜園にて
エナガ・キビタキ♀
 地元の山の桜園に行きました。桜園ではサンショウクイを撮影した23日以降、数回来ているのですが、鳥の声もあまり聞こえず、メジロ・イソヒヨドリ♀を撮ったぐらいです。今日は、久しぶりにメジロ・エナガ・シジュウカラ・コゲラの混群にであいました。
エナガが葉のない枝にとまり、尾羽を広げました。
枝にメジロがとまったと思ってシヤッターを切ったのですが、見直してみるとキビタキの雌でした。



令和2年8月25日  福島県の磨崖三十三観音1
観音石仏50選(38)   岩谷観音磨崖仏
福島県福島市信夫山 「江戸時代」
十一面観音(西国三十三番、華厳寺)
千手観音(西国二十四番、中山寺)
馬頭観音(西国二十九番、松尾寺)
千手観音(西国四番、施福寺)
宝剣と宝珠を持つ観音
千手観音(西国三番、粉河寺)
 福島市の町のすぐ北にそびえる信夫山、その東端の中腹に岩谷観音がある。岩谷観音は応永二十三年(1416)に観音堂が建立されたのにはじまる。江戸時代、宝永六年(1709)頃から岩谷一面に、西国三十三所観音をはじめとして、庚申・弁財天・釜神などが彫られた。風化は著しいが厚肉彫りで像容の優れたものが多い。

 特に西国三十三番、谷汲山華厳寺の十一面観音はその中でも傑作である。気品のある面相で、量感もあり江戸時代の作とは思えない。西国二十四番、中山寺の千手観音は彫りは浅いが、彩色も残り愛らしい像である。(中山寺の本尊は十一面観音だが、ここではなぜか千手観音になっている。)2体並んだ像高83pの千手観音像は穏やかな幼い顔で心がいやされる(赤い着色の残る左の像は2番施福寺像・右の像は宝珠と宝剣を持つ像)。その他、3番粉河寺の千手観音・29番松尾寺の馬頭観音など優れた像が多い。       


観音石仏50選(39)   岩角山の観音磨崖仏
福島県本宮市和田東屋口 「江戸時代」
養蚕観音
准胝観音
千手観音
如意輪観音(西国十四番、園城寺<三井寺>)
如意輪観音(西国七番、岡寺)
十一面観音(西国八番、長谷寺)
 本宮市と二本松市との境に位置する岩角山(いわつのやま)に、仁寿元年(851年)慈覚大師が開基したとつたえられる岩角寺(がんかくじ)がある。岩角山はわずか標高337メートルの小さな山ながら、うっそうとしたしげった杉の木々や、、山中に点在する巨岩奇石そして那須連峰や阿達太良山を一望できる山頂からの眺めなど、魅力的な山である。福島県指定名勝及び天然記念物に指定されている。その点在する巨岩奇石に三十三所観音を始めとして阿弥陀・大日・虚空蔵・地蔵・不動などの菩薩像が約150体(78体は観音像)の刻像がある。岩谷観音と違って厚肉彫りは養蚕観音と呼ばれる養蚕神社の本尊像のみで、あとは数体の半肉彫り・薄肉彫り像を除いて、線刻の磨崖仏となっている。岩角山観光協会の案内板には八百八体の仏が刻まれていると記されている。現在、約200体の磨崖仏(磨崖梵字も含む)が確認されている。<小林源重著「ふくしまの磨崖仏」>

 これらの磨崖仏は元禄年間以降に彫られたもので、その中でも最も古いものが、養蚕神社の本尊として堂の中に祀られている元禄3(1690)年の紀年銘を持つ養蚕(こがい)観音とよばれる厚肉彫りの聖観音である。この観音は二本松城主丹羽光重が元禄3(1690)年に霊夢のお告げにより、養蚕業を興すにあたり刻ませたもので、顔は丹羽公に似ていると言われている。

 丹羽光重は住僧豪伝和尚とともに、岩角寺を再興し、養蚕観音造立をはじめて毘沙門堂などの諸堂の再建、三十三所観音などの線刻磨崖仏造立をすすめた。三十三所観音など線刻磨崖仏には奉納した寄進者施主名が刻まれていて、人々の信仰に支えられて岩角寺が栄えたことがわかる。

 養蚕観音とともにこの磨崖仏群の白眉は案内地蔵と呼ばれる像高300pの薄肉彫りの地蔵立像で、城主丹羽光重が亡くした子どもへの供養のために刻んだものである。中腹の観音堂付近の大岩の上部に彫られた准胝観音像は一面六臂の半肉彫りで、三カ所の格狭間を設けた立派な蓮華座の上に坐す。稲荷神社近くの岩に彫られた千手観音と虚空蔵菩薩のように薄肉彫りの像も見られる。

 三十三所観音は、この時代の線刻の磨崖仏の秀作である。7番岡寺如意輪観音・8番長谷寺十一面観音・14番三井寺如意輪観音像は素朴であるが伸びやかな線で描かれた絵画的な表現の線刻像である。8番長谷寺十一面観音などには彩色の跡が残る。西国8番霊場長谷寺の本尊の十一面観音は錫杖を持った立像であるが、岩角山の線刻像では錫杖を持たない座像になっている。29番松尾寺馬頭観音は7番岡寺如意輪観音などと違う石工の作と思われ、線は7番像などのような線の伸びやかさに欠くが、細かいところまで丁寧に表現し線刻像である。三十三所観音以外の線刻像は追刻と思われ、やや硬い表現となっている。


観音石仏50選(40)   滝八幡磨崖三十三観音
福島県西白河郡矢吹町滝八幡 「江戸時代」
千手観音?・聖観音・如意輪観音
如意輪観音
千手観音
如意輪観音
馬頭観音
  県立矢吹病院の裏の隈戸川の川岸の崖に先丸形の光背龕を彫り込め、その中に一体一体、三十三所観音が半肉彫りされている。 小像であるが、整った端正な磨崖仏である。一様に長帽子型宝冠を頂いていて、聖観音と十一面観音の識別ができない。川岸に一列に刻まれているため、増水時には石仏に近づけない。現在、歴史公園としてきれいに整備されいる。



   
令和2年8月23日撮影  山の上の桜園にて
サンショウクイ
 毎日37度を超える猛暑とコロナウィルス感染の広がりで、ステイホームの毎日です。今日は朝、久しぶりに涼しい様な気がして、地元の山の桜園に行きました。鳴き声がほとんど聞こえず野鳥はあまり期待していなかったのですが、一番上の桜園に行くと「ヒリヒリン ヒリヒリン」と聞き慣れない鳴き声が高い木の上で聞こえました。サンショウクイです、この桜園で初めて見ました。


令和2年8月20日 大和の不動石仏(鎌倉時代)
不動石仏50選(11)   桃尾の滝不動三尊磨崖仏
奈良県天理市滝本町  「鎌倉時代」
 「下滝本」のバス停から坂道を登ると三方花崗岩にかこまれた正面に20mばかりの滝が音を立てて落ちている。桃尾滝不動三尊磨崖仏は、その滝の向かって左の岩壁にある。

 岩面を長方形に彫りくぼめ、不動明王を板彫り状に浮き出し、線彫りで面相や着衣を線彫りで表したもので、勇壮で力強い像である。脇持のコンガラ童子・セイタカ童子も板彫り式線刻である。火焔は枠の外まではみ出す。技法的にも類の見ない像で富川磨崖仏ほどの雄大さはないが同じように岩の厳しさに正面から取り組んでいて迫力がある。


不動石仏50選(12)   十輪院不動石仏
奈良市十輪院町27  「鎌倉時代」
 境内の庭の北側の小堂内に鎌倉中期の作で高さ2mほどの板状石の全面に半肉彫りされた不動立像がある。燃えさかる火焔を光背として表し、両眼を見開いて、右手に剣を、左手に羂索を持つた迫力のある不動石仏である。火焔には赤と黄の彩色された跡が残る。


不動石仏50選(13)   長岳寺奥の院不動石仏
奈良県天理市柳本町下長岡  「元徳2年(1330) 鎌倉後期」
 長岳寺の東にある大和を代表する山城跡のある龍王山へ行く登山道を2qほど上ったところに、分かれ道があり、そこから数百m進むと長岳寺奥の院不動石仏がある。舟形の火焔光背を背負った像高153pの不動立像の厚肉彫り像である。引き締まった顔や衣紋・風になびく検索など写実的な表現の優れた不動石仏である。近くにこの不動の勧進碑があり、勧進者名と「元徳弐年庚午正月廿七日」の刻銘がある。


不動石仏50選(14)   念通寺不動石仏
奈良県香芝市今泉736  「鎌倉時代」
 西名阪道「香芝IC」の南の今泉簡易郵便局の近くに融通念仏宗の念通寺がある。その念通寺の境内に覆堂がありその中に鎌倉時代初期の不動石仏が安置されている。高さ78pの不整形の花崗岩の自然石に、岩座に立つ像高35pの不動明王を半肉彫りしたものである。巻髪の先を束ねて左肩に垂らし、牙をむき出し、肘を張って右手で利剣を構え、肩まで上げた左手で羂索を握る姿で小像であるが迫力のある石仏である。


不動石仏50選(15)   送迎(ひるめ)不動石仏
奈良県王寺町畠田七丁目  「鎌倉後期」
 王寺ニュータウンへ国道168号線から王寺ニュータウンへ入る道の途中に永福寺という寺がある。その寺の北の池付近から細い山道を70mほど入った林の中の覆堂に祀られている。

 高さ90p・幅30センチ・厚さ17pの安山岩の自然石を使って、岩座に立つ像高62pの不動明王を浮き彫りにした石仏である。顔を左にやや傾けて、体をくの字に捻ねり、巻き毛を束ねて左肩に垂らし、右手の剣は肩に担ぐように持つ。上部が火焔状にとがった石材をうまく利用した、絵画的な表現の不動像である。写実的な表現で鎌倉後期の造立と考えられる。



令和2年8月15日 延寿院・円立院・快然の地蔵石仏
地蔵石仏100選(94)   長持寺跡地蔵石仏
宮崎県日南市板敷  「明和元年(1764) 江戸時代」
 江戸時代に宮崎で活躍した仏師として活躍した3人の僧、串間延寿院・串間円立院・平賀快然はデフォルメされた憤怒相の顔が力感あふれ、個性的で印象的な仁王像をつくり宮崎市周辺に多く残している。

 串間延寿院は宮崎市古城にあった護東寺の五世住職で、3回大峰入峰修行をし、山伏の最高の僧位の大越家(おいつけ)を持つ修験僧である。古城で生まれ安永5年(1776)に亡くなっている。石仏の刻銘や木彫仏の墨書などから宝暦4年(1754)から明和6年(1769)にかけて彫作活動したことは分かっている。よく知られている石仏としては不動明王や閻魔大王を彫った鵜戸神宮の鵜戸山磨崖仏があげられる。他に最勝寺跡や生目大村の仁王像などが知られている。

 ほとんど知られていないが、これらの像と遜色ない傑作が日南市の飫肥城跡近くの住宅地の外れの古い墓地にある長持寺跡地蔵石仏である。2mを越える船形にした石材に枠取りした二重円光背の彫りくぼみをつくり、左手に宝珠を持ち右手に錫杖を持つようにした地蔵菩薩を厚めに半肉彫りした立像である。

 中世の地蔵のような穏やかで澄ました面相ではなく、人生の機微を味わい尽くしたような人間味を感じさせる面相である。体躯や着衣等の表現は巧みで力強く、確かな技量が窺える。「明和元年(1764)」の紀年銘や願主とともに「仏師大越家延寿院」の刻銘がある。


地蔵石仏100選(95)   伊満福寺六地蔵石仏
宮崎市古城町6695番地  「寛政8年(1796) 江戸時代」
 寛延元年(1748)、古城(宮崎市)に生まれた、串間円立院は、串間延寿院ので、大峰入峰修行や熊野三山奥駆け修行をした修験僧である。父、延寿院と同じく仏像彫刻に優れ、天保5年(1834)、85歳で亡くなるまで、多数の仏像を造立した。現在、362体の仏像が確認されているという。霧島寺跡や五百祀神社、護東寺跡をはじめ多くの仁王像を残している。地蔵も住職だった護東寺の跡や伊満福寺に残っている。

 伊満福寺には円立院作の地蔵は六地蔵と他に3体見られる。六地蔵は平賀快然作の仁王像のある階段を上がった境内の左奥にあり、船形光背を背負った厚肉彫り像である。向かって右から錫杖と宝珠持ち・合掌像・幡持ち・宝珠持ちで与願印・柄香炉持ち・数珠持ちの6体である。6体の顔は少しずつ表情は違うが、頭部の真ん中近い場所に山形の眉毛を顔いっぱいに彫り、細い目と大きな鼻、厚い唇の口で表した独特の面相となっている。父の延寿院の地蔵より、より人間くさい顔の表現である。

 無銘であるが、横の寛政8年(1796)彫作の阿弥陀立像の刻銘に「地蔵尊六躰 佛師圓立院」とあるので寛政8年(1796)の作であることがわかる。


地蔵石仏100選(96)   快然の地蔵石仏(清武町)
 平賀快然も延寿院、円立院親子と同じように宮崎で仏師としても活躍した僧(修験僧ではなく禅宗僧)である。彼が残した石仏や木彫仏の記銘などから、清武郷熊野村今江(宮崎市熊野)の出身で、延寿院の彫作活動のやや前の元禄16年(1703)から宝暦7年(1757)にわたって彫作活動したことが分かっている。現在、快然の作として木彫仏5体、仁王石仏5対、地蔵石仏8体が確認されいる。快然の仁王像は木喰が住職をして多くの仏像を残した日向国分寺や伊満福寺・内山禅寺などにある。快然の地蔵石仏の多くは清武町(2009年に宮崎市合併)に残っている。
船引地蔵石仏
宮崎市清武町船引  「享保20年(1735) 江戸時代」
 日豊本線清武駅周辺の清武町の中心街から清武川を挟んで北西の集落が船引である。船引営農研修センターの北東にある墓地にある船引地蔵石仏は墓地の隅の民家の生け垣のそばに生け垣に向かうように座っている。

 生け垣をかき分け、ストロボを使って撮影した。写実的な衣紋表現で、力強く豪放な姿の丸彫りの地蔵座像である。鼻の一部が欠けているのが惜しい。台座・蓮台は苔むしていたため確認できなかったが、「享保二十(1735)年‥‥仏師快然‥‥石工武右ェ門‥‥」等の刻銘があるという。
下木原二体地蔵石仏
宮崎市清武町木原下木原  「寛保3年(1743) 江戸時代」
 下木原の地蔵石仏は小さなお堂に祀られている。一石の裏表に2つの像を彫った珍しい石仏である。正面は丸彫りの地蔵菩薩座像で左手に宝珠を持っている。摩滅がひどく稚拙な補修もあって興味を引かなかった。地蔵菩薩座像の側面に回ると台座の下にも石は続いていて、お堂の板張りの床を切ってはめ込まれていることがわかる。

 お堂の裏に回ってみると、表の道路面より低くなっていて、背中から台座の裏面とその下部にかけてには船形の彫りくぼみをつくり半肉彫りの合掌する地蔵菩薩立像が刻まれていた。こちらも摩滅がひどく、目鼻は風化している。しかし、こちらは力強くおおらかな快然らしいフォルムが残っている。「寛保三(1743)癸亥年六月十五日建立 作者平賀□□・・・」の刻銘がある。



令和2年8月13日 平安後期の阿弥陀石棺仏
阿弥陀石仏100選(19) 正楽寺石棺仏
奈良県香芝市平野  「平安後期」
 西名阪道「香芝IC」の北の集落が香芝市平野である。平野の集落の北に正楽寺がある。コンクリートつぐりの本堂の北側のコンクリート覆堂にこの石棺仏が安置されている。

 古墳石棺の棺台を転用したと思われる高さ230cm、幅95cmの板状石に、二重蓮華座の上に上品上生印を結んで端座する定印阿弥陀如来座像を薄肉彫りしたものである。年号は記されていないが、繊細な造形とおおらかな曲線の表現に平安時代後期頃の作風を残す。石棺を利用した石仏では最も古い遺品である。



阿弥陀石仏100選(20) 高井田石棺仏
大阪府柏原市高井田  「平安後期」
JR大和路線「たかいだ」駅から西へ細い道を200mほど行ったところに、高井寺がある。その寺の南側の塀に接して石仏が数体並んでいる。その中に大きな長方形の平板な石材に彫られた阿弥陀石仏がある。石棺の蓋石、または棺台石を使った石棺仏である。(案内板は棺台石となっている。)

 高さ1.7m、幅1m、厚さ30cmの石棺材の表面に像高1mあまりの定印阿弥陀如来座像を薄肉彫りしている。かなり摩滅が加わっているため衣紋の線はわからないが、穏やかな面相や裳架座と呼ばれる古式の台座などから藤原時代の造立と思われる。 



阿弥陀石仏100選(21) 瑠璃光寺石棺仏
大阪府柏原市山ノ井町  「平安後期」
 柏原市の北部、八尾市との境近くの、山ノ井町の東の山麓に曹洞宗の小さな禅寺、瑠璃光寺がある。その瑠璃光寺の門を入った左側に小さな堂があり、石仏が三体、安置されている。

 その中央に高さ1.4m、幅75cmの石材に二重円光背を彫りくぼめ蓮華座に坐す像高67cmの如来像を半肉彫りした石仏がある。一見して石棺材を使ったとわかる石仏で、家形石棺の蓋を横断カットして使用していて、上部に蓋石の合わせ目部分が、上部外側に縄付き突起が残っている。

 如来像は右手をあげ、左手をさげて膝上に置くが、親指先を欠損しているため、尊名は断定できないが阿弥陀如来か釈迦如来と思われる。体部の充実感や衣紋の表現などから見て、藤原時代の造立と考えられる。




   
令和2年8月7日撮影  自宅のベランダより
イソヒヨドリ
斜め向かいの施設の外階段の手すりにとまってイソヒヨドリが鳴いていました。
しばらくすると、飛び立ちました。



令和2年8月4日  奈良奥山・柳生街道の阿弥陀石仏
阿弥陀石仏100選(12) 芳山二尊仏(西面阿弥陀如来)
奈良県奈良市高畑町芳山    「奈良時代」
 仏師であり石仏研究家でもある太田古朴氏によって世に知られることになった、天平後期の様式を示す石仏である。  林の中の急斜面を登った芳山の峰の上に、この芳山二尊石仏は立っている。高さ184p、幅152p、奥行き約1mk自然石風の花崗岩の南面と西面に、説法印の如来立像を半肉彫りしている。両像とも、広い肩幅、がっしりとした腰や、薄い絹衣をまとったような刻みの衣紋など唐招提寺や大安寺の天平後期の木彫仏と共通する表現となっている。

 両像とも形姿はほぼ同一であるが、受ける印象は少し違う。西面像は貞観仏に通じる量感と逞しさが感じられるのに対して、南面像は天平仏の深い精神性を感じさせる顔が魅力的である。印相が同じであるので、尊命は決めにくいが、南面像を釈迦如来、西面像を阿弥陀如来として、このページに掲載した。

 石仏写真家佐藤宗太郎氏は芳山二尊石仏が立石として石が生きている点を高く評価され、「石に対する固有信仰を基礎とした仏像造型の様々な精神性を一個の石像に見事に凝結せしめたものとして、やはり日本の石仏の一つの出発点と考えられる。」(『石仏の美V 古仏への憧れ』木耳社)と述べられている。


阿弥陀石仏100選(18)   春日石窟仏
奈良市春日野町 春日奥山  「保元二年(1157) 平安後期」
西窟(多聞天・阿弥陀座像)
 奈良奥山ドライブウェーは高円山ドライブウェーと新若草山ドライブウェーにつながっているが、一方通行で高円山ドライブウェー側からは車は入れない。したがって、奈良奥山ドライブウェーの出口が高円山ドライブウェーの終点となる。その終点の場所から南側へ登る細い道があり、その道を50mほど歩くと穴仏と呼ばれる春日石窟仏がある。その穴仏の少し下に旧柳生街道の石畳の道が通っている。

 春日石窟仏は東西2窟から成り立っていて、凝灰岩層を深く削りくぼめて、つくられた石窟で、全面はかなり崩壊していて、造立当初の様子は知ることはできないが、平安時代後期の保元二年(1157)の墨書銘が残る、わが国では珍しい本格的な石窟仏である。

 東窟は中央に層塔としてつくられたと思われる石柱があり、塔身にあたる部分には、四仏が彫られている。東窟の西壁には、地蔵立像が4体残っている(もとは六地蔵だと思われる)。東窟には、他に観音菩薩と思われる像が3体(もとは六観音)、天部像が2体残っているが破損が大きく痛ましい姿となっている。

 西窟は金剛界の五智如来座像が彫られていて、左端の阿弥陀如来と思われる一体と多聞天のみがほぼ完全な姿で残っている。阿弥陀如来は二十光背を負った像高94pの定印の座像である。穏やかな満月相で、なだらかな丸みを持った肩や流麗な衣紋など典型的な藤原様式となっている。多聞天は顔の部分は痛んでいるが、火焔光背を背負い邪鬼を踏み、右手に矛、左手に宝塔を捧げ持つ姿が鮮やかに残っている。 


阿弥陀石仏100選(86) 北出橋阿弥陀磨崖仏
奈良市阪原町中村  「文和5(1356)年 南北朝時代」
 阪原北出橋近くの白砂川の川岸の大きな岩に彫られている。川の清流と溶け合った風景は素晴らしく、入江泰吉や佐藤宗太郎など多くの写真家がこの風景を撮っている。

 方形の枠の中に壺形の光背を深く彫りくぼめて、像高91pの来迎阿弥陀像を半肉彫りしたもので、文和五(1356)年の北朝の年号を刻む。保存状態も良く、南北朝時代を代表する磨崖仏である。品の良い整った顔であるが、上出阿弥陀磨崖仏に比べると力強さに欠ける。


阿弥陀石仏100選(88) 仏頭石
奈良県奈良市春日野町  「室町時代」
 若草山の南麓の春日山遊歩道の入口ゲートの少し手前の山麓の小高いところに、仏頭石と洞の地蔵と呼ばれる倒れたままの地蔵石仏がある。 仏頭石は六角石柱に阿弥陀如来と思われる仏頭を丸彫りし、柱の各面に観音を刻んだ石仏で、頂上の仏頭は阿弥陀如来をあらわし、阿弥陀信仰に付随する六観音を配した珍しい石仏である。鎌倉時代からの花崗岩を刻む確かな技術の伝統が息づいた石仏である。


阿弥陀石仏100選(89) 新池上手の阿弥陀磨崖仏
奈良県奈良市白毫寺町  「室町時代」
 地獄谷新池の北の山の中にある磨崖仏で、周遊歩道沿いにある。大きな岩に舟形光背を彫りくぼめて、蓮華座に立つ来迎印阿弥陀如来を厚肉彫りしたものである。滝坂の道の磨崖仏に比べると表現は硬く、衣紋も抽象的で、室町中期の様式を示す。石仏としては劣るが苔むした岩肌に刻まれたこの像は印象的である。


7月 9月