「フォトギャラリー 石仏と野鳥」 新版 2020年5月

 
4月 6月


令和2年5月29日  地元にて
チョウゲンボウ雛鳥・若鳥
チョウゲンボウの若鳥を撮影する前に、4羽のチョウゲンボウ雛のいる巣によりました。
巣を覗くと3羽の雛が、体を巣から乗り出していて、1羽が羽ばたこうとしました。
1羽のの雛が向かって右の方から顔を出し、4羽そろいました。
 少し離れた場所で親鳥がくるのを待っていたら、突然、親鳥が巣に飛び込みました。飛び込んだときは尾の部分しか写せませんでしたが、親鳥が出るときは、何とか写すことができました。
親鳥が飛び出した後覗くと、3羽が体を乗り出し、1羽は左の方から顔を見せました。
 チョウゲンボウが毎年、巣をつくり子育てする場所がもう一カ所あります。いつも巣を作る場所を3日前に覗いたのですが、気配がありません。今日も覗いたのですが、同じです。あきらめて帰ろうとしたとき、2羽のチョウゲンボウを見つけました。つがいと思ったのですが、よく見ると若鳥です。



令和2年5月28日  地元のハイキングコースにて
キビタキ
 地元の山へ登るハイキングコースを歩きました。緊急事態宣言下、ホームステイを続けていたため、今春初めての山登りです。毎年の春になるとキビタキがハイキングコースのあちこちで鳴いているのですが、今年も3カ所でキビタキ囀りが聞こえていました。
その内の1カ所のキビタキは登山道の近くの木々を飛び移りながら囀っていて、苦労せずに撮影することができました。
何カ所で囀った後、5mほど離れた木の枝にとまって地鳴きしていました。



令和2年5月28日
阿弥陀石仏100選(2) 北白川阿弥陀石仏
京都市左京区北白川西町 「鎌倉時代」
 百万遍から銀閣寺に向かう今出川通りは通りをはさんで京都大学の建物が一帯をしめている。通りの南側、京大の建物がおわり、40mほど通りを銀閣寺方面に向かった、通りの南側の旧道沿いに、立派な覆堂が建っていて、そこに大きな2体の阿弥陀石仏がまつられている。

 右側の石仏は、高さ約150p、幅95p、厚さ62pの花崗岩製の二重輪光式の光背を背負った像高120の厚肉彫りの定印阿弥陀如来座像で、光背には十三個の月輪があり、梵字を陽刻する。香炉ヶ岡弥勒石仏と同じく、比叡山系の流れをうけた古い一例である。満月相の顔は豊かで、張りのある堂々たる肉付きの体躯とともに、実におおらかな感じをうける。衣紋のひだも写実的で、平安後期から鎌倉前期の様式をつたえる、京都を代表する石仏のひとつである。

 左側の石仏も阿弥陀如来座像で、像高は110pで、右の像より摩滅がすすんでいる。光背部分は自然石のままで、右の像と作風が異なり、やや迫力に欠けるが鎌倉時代の秀作である。



令和2年5月27日  地元にて
チョウゲンボウ
 昨日に引き続いてチョウゲンボウの雛を見に行きました。巣を覗いたのですが、雛は姿を見せません。親鳥も近くにいる気配がないので、近くの川や田んぼを回りました。
すると、チョウゲンボウがホバリングしているのを見かけました。
ホバリングするチョウゲンボウのそばをツバメが飛んでいました。
巣に戻ってみると3羽の雛が顔を出しました。
少し離れた建物の上には雌のチョウゲンボウがいたのですが、しばらくすると飛んで行ってしまいました。
その後、雄・雌2羽のチョウゲンボウが巣の近くまで飛んできました。
雌は鋭い鳴き声を張り上げていました。
 鋭い鳴き声を張り上げていた雌は、突然、巣に飛び込みました。その後、すぐに飛び出しました。残念ながら、またもやシャッターチャンスを逃し、出入りとも全身の写真を撮れませんでした。その後、巣を覗いたのですが、この時も姿を見せたのは3羽です。


令和2年5月26日  地元にて
チョウゲンボウの雛
今年もいつもの場所でチョウゲンボウが子育てをしています。
巣を覗くと2羽の雛が顔を見せました。
 親が餌を持って巣に飛び込み、すぐに飛び出したのですが、どちらも素早くシャッターチャンスを逃しました。飛び出した後、4羽の雛が顔を出しました。


令和2年5月23日
道祖神50体(47)   古厩新知の道祖神
長野県安曇野市穂高有明7099
 古厩(ふるまや)と言う地名は古代の駅屋(うまや)に由来し、戦国時代、仁科氏の支族とされる古厩氏が、古代からの集落を受け継いで郷町をつくった。その古厩氏の城があった場所が古厩新知の正真院という寺院である。古厩氏が天正11(1583)年に滅ぶ。古厩新知は江戸時代、正真院がおかれたあと開かれた村である。正真院はかつてご朱印寺として威容を誇っていたという。明治の廃仏棄釈によって正真院は廃寺となり、その後再建された。平成になって本堂など諸堂が新築されている。道に面した山門も立派なコンクリート製の建物である。その門から南へ80m行った、民家の外れに南向きの屋形があり古厩新知の道祖神と大黒天像がまつられている。

 道祖神は、高さ幅とも70p、厚さ30pの花崗閃緑岩の自然石に、45pの円を穿って、十二単姿と衣冠束帯姿で瓢と盃を持つ祝言像を半肉彫りする。女神は小柄で像高30p、垂髪は頭上で束ねず、そのまま後ろに流している。男神の冠は安曇野典型的な道祖神と同じように巾子(こじ)は大きい、しかし纓は幅広の薙刀のような形ではなく細く折り曲がった形である。男神の衣の緒は装飾的な結び片である。足の下にも背景にも瑞雲がたなびいている。顔は男女とも卵のような形で、細めた目をしていて、気の弱そうな公家のように見える。「嘉永四亥年九月吉日 古厩新知中」の銘がある。普通は屋形に柵を設けた場合でも、碑全体が見えるようになっているのだか、この屋形は柵の上に横板を追加しているため像全体は写せなかった。


令和2年5月19日
阿弥陀石仏100選T
BEST10・奈良時代・平安時代・石棺仏(鎌倉時代) 
 
 阿弥陀如来は、西国極楽浄土の教主で、梵名で「アミターバ」「アミターニス」といい、「阿弥陀如来の光明は無量で十万のの国土を照らす」「阿弥陀如来の浄土に生まれるものは、寿命無量である」(阿弥陀経)とあることから、無量光如来、無量寿如来ともよばれる。阿弥陀如来の功徳により極楽往生ができるという浄土信仰の広がりとともに、多数の阿弥陀石仏がつくられた。

 浄土信仰が普及した平安時代後期になると臼杵石仏のホキ石仏の阿弥陀三尊像をはじめとして次々と阿弥陀石仏が造立される。九州では他に臼杵石仏の堂ヶ迫石仏、菅尾石仏などに阿弥陀の磨崖仏が見られる。近畿でも安楽寿院阿弥陀三尊石仏や春日石窟仏阿弥陀像・正楽寺阿弥陀石棺仏などが平安後期の作である。

 鎌倉時代になると京都をはじめ全国各地で阿弥陀石仏が造立される。石棺を利用した石棺仏は平安後期から鎌倉時代・室町時代にかけての奈良県や兵庫県でよく見かけるが、その多くが阿弥陀仏である。

 最初の10体は秀作や気に入った特色ある阿弥陀石仏を掲載した。その後、奈良時代と平安後期・鎌倉時代と時代を追いながら地域別に全国の阿弥陀石仏を掲載していく。



阿弥陀石仏100選(1) 大原三千院阿弥陀石仏
京都市左京区大原来迎町 「鎌倉時代」
 大原三千院の境内、「あじさい苑」の奧、律川に架かる橋を渡った山裾の吹放しの覆堂に祀られている。以前は勝林院から律川にそって自由に行くことができ、「日本石造美術辞典」などでは勝林院境内から行くように紹介されている。

 高さ2.25mで京都の石仏では一番大きく、美しい石仏である。光背形の花崗岩の自然石に単弁を並べた蓮座に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りに彫りだしたものである。光背は二重円光式になっている。頭部の螺髪を一粒づつ刻む。長めの顔は美しく、眼は半眼に開き優しいまなざしである。やわらかい流れるような衣紋で、花崗岩の硬さを感じさせない、木彫風の傑作である。二重円光の光背には石像寺阿弥陀三尊のよう梵字は彫られていないが、香炉ヶ岡弥勒石仏のながれを組む叡山系の石仏である。

 秋のやわらかな日差しの中でみた、この阿弥陀石仏は素晴らしく、慈悲にあふれた顔は忘れられない。 




令和2年5月15日
伯耆のサイノカミ(5)(6)(7)   木野山神社のサイノカミ
鳥取県米子市尾高1349 「慶応3(1867)年」・「安永5(1776)」
 尾高は桃山時代までは町の東の丘陵の先端にあった尾高城の城下町であった。また、大山信仰の中心が古代より連綿と続く大神山神社の冬社(現在は大神山神社本社)が江戸時代初期に移された地でもある。尾高の町の大山まいりの道(中国自然歩道)沿いに黒住教の教会所があり、その横に木野山神社という小さな神社がある。その神社の境内に3基のサイノカミがまつられている。
 3基の内の1基は大きな三角形の自然石の一部を割って、その表面に彫りくぼみを作って、板状に双神を掘り出し、線彫りで細部を表したものである。岡成や丸山神社のサイノカミと同じく双神とも長い髪を後ろに垂らしている。向かって右の男神の顔はよく見ると天狗のように鼻が長い。イザナギノミコトではなく猿田彦神(サルタヒコノカミ)である。従って、左の神はサルタヒコノの妻とされる天鈿女命(アメノウズメノミコト)となる。猿田彦は道の分岐点を守り邪霊の侵入を阻止する神、つまり道祖神・塞の神として全国各地で信仰を集めていて、鳥取県では猿田彦と天鈿女命の双体神像は45基以上確認されている。このサイノカミは岡成のサイノカミと同じ「慶応3(1867)年」の造立である。
 伯耆のサイノカミの最古の紀年銘「安永五(1776)年申五月日」を持つサイノカミ。像高32pの小型で、顔の部分は摩滅しているが、素朴で愛らしいサイノカミである。いわゆる神祇像で、男神は風折烏帽子をかぶり笏を持ち、女神はおかっぱ頭(丸髷?)のような髪型である(持物は摩滅していてわからない)。
残る1基も神祇像で丸い自然石に宮殿を板彫りと薄肉彫りで刻み、神殿の中に風折烏帽子をかぶり笏を持つ男神と、扇を持つ女神を薄肉彫りしたサイノカミである。女神は小さな笠(髪?)を被っているかのように見える。

令和2年5月12日
道祖神50体(43)   等々力町の道祖神
長野県安曇野市穂高4557
 等々力町は穂高駅から国道147号線へ向かう駅前通の北の町が等々力町で、神田町から続く旧街道沿いの町である。その街道沿いの喫茶店と雑貨・土産物店を兼ねた「あづみ野バザール若松屋」の東の小路に等々力町区公民館がある。その公民館の裏側近くのコンクリートの塀の陰に隠れるように2基の道祖神がある。向かって左の像は半円の花崗岩に彫った祝言像で「天保八年」の紀年銘がある。

 右の像がこの道祖神である。高さ88p、幅55pの上が丸くなった矩形花崗岩に上が花頭窓風になった矩形を穿ち、像高43pの衣冠束帯姿の男神と像高38pの十二単姿の女神が肩をよせてそっと手を取り合っている姿を半肉彫りした双体道祖神である。男神の冠の垂れた纓と女神の垂髪が見あたらない。記銘がなく中区の上には線彫りの鳥居がある。慎ましく暮らす若い公家と言った趣の道祖神である。


令和2年5月10日  近くの河川にて
チョウゲンボウ・ウグイス
近くの河川に行きました。久しぶりの外出です。チョウゲンボウが川面の上でホバリングしていました。
ウグイスが川岸の木の枝にとまって鳴いていました。


   
令和2年5月8日
地蔵石仏100選(2)   七廻峠地蔵石龕仏
奈良県天理市福住町別所  「建長5(1253)年」
 福住別所から帯解方面へ抜ける旧道の七廻峠にある(別所から約600m)。花崗岩の荒切石を組み立てて石龕を作り、その中に、像高148cmの地蔵菩薩を安置する。

 地蔵は二重円光背を負って、錫杖と宝珠を持つ姿を厚肉彫りたもので、力強く迫力のある地蔵石仏である。大和を代表する地蔵石仏の一つである。今は通る人もほとんどいない街道にあるが、峠の守り神として造立されたもので、荒切石の石龕と共に、山中の峠という環境が、野性味と豪快さを際立たせている。

 光背面に「建長五年癸丑十一月七日造立之中臣勢国弘也」と達者な銘文が刻まれている。


令和2年5月6日
道祖神50体(37)   本郷上手村の道祖神
長野県安曇野市穂高6868−3 「寛政元(1789)年」
 本郷中村の道祖神の西北西0.3mの道路沿いの農地の一角に、基台をコンクリートでかためて祭壇をつくり、ブロックで囲った中に、恵比寿像、大黒天像と並んでまつられている。3基とも円形もしくはおにぎりの形の自然石に円形を穿ち、各像を半肉彫りしたもので3基とも青・赤・黒・白を中心に色が塗られている。彩色されていることと背景に北アルプスの山々が見えるのでよく撮影スポットとなっている道祖神でもある(撮影後、後ろに住宅が建ったため、アルプスは半分隠れてしまった)。

 向かって右端にある道祖神は高さ80p、幅85pのおにぎりの形をした石に円形を穿ち、中に肩を組み握手する男女の神を半肉彫りしたものである。5頭身で道祖神してはスマートな像である。厚く化粧しているため彫りの冴えはわからないが、気品のある像である。右肩から「安政五午年」、左肩へ「三月吉祥日」と紀年銘を刻み、下に「上手村中」の銘がある。

 
令和2年5月4日
伯耆のサイノカミ(4)   岡成のサイノカミ
鳥取県米子市岡成270  「慶応3(1867)年」
 大山山麓から続く丘陵沿いの村で村の南に大山まいりの道(現在は中国自然歩道)が東西に延びている。その道の路傍に岡成のサイノカミがある。(近くには岡成神社の鳥居がある。)高さ69cm横長の自然石の中央の下部に正方形の浅い彫りくぼみをつくり、その中に諾冊二尊(イザナギノミコト・イザナミノミコト)を薄肉彫りしたものである。

 二尊は丸山神社のサイノカミの二尊と比べると頭部が大きく体も小太りの二尊である。二尊とも胸をはだけた着物姿で、長い髪を後ろに垂らしている。向かって右のイザナギノミコトは右手で宝剣を、左手で腰に差した刀の柄(つか)を握っている。左のイザナミノミコトは宝珠や扇などは持っていない。

 四角形の彫りくぼみの上には薄肉彫りで唐破風の屋根が彫られている。破風の下部分の飾りは、雲の重なりと口を開けた龍のように見える。左に、「慶応三卯三月吉日」の紀年銘がある。



令和2年5月3日
地蔵石仏100選T
平安時代・鎌倉時代(大和・京都)
 地蔵菩薩は、釈迦入滅後、弥勒仏が出世するまでの間、無仏の世界にあって、衆生を救済する菩薩である。平安後期、末法思想の広がりにともなって、地蔵菩薩は閻魔王の本地仏で、六道を巡って衆生を救い、極楽へ行けるように力を貸してくれると信ぜられ広く信仰された。地蔵石仏は頭は声聞形(僧形)で、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿が最も多い。これは六道を巡り衆生を救う行脚の姿で、地蔵菩薩の一般的な姿である。古式な像には、十輪院本尊のように、錫杖を持たず右手をたらして与願印の像も見られる。

 石仏では春日石窟仏などの平安末期が最も古い作例である。春日石窟仏には現在4体の優美な地蔵磨崖仏が残っている。鎌倉時代になると関西(特に大和)を中心に地蔵石仏の造立は盛んになり、街道沿いなどに多数造立され、柳生街道などの山間の街道には地蔵磨崖仏が多数彫られた。

 京都や滋賀県、三重県などにも多くの鎌倉時代の地蔵石仏が残っている。その他、兵庫県の八家地蔵、広島県の九州の臼杵石仏の地蔵十王磨崖仏や関東の元箱根石仏群、宮城県の富沢六地蔵石なども鎌倉時代の地蔵石仏である。

 まずは鎌倉時代の地蔵石仏を紹介し、そのあと室町時代から江戸時代までの全国各地のを100体選んでアップロードすることにした。関西地区を中心に現在では石仏=地蔵というイメージが定着している。その意味でも地蔵石仏は石仏の美や信仰を探るための原点といえるのではないだろうか。どうぞ全国各地の地蔵石仏の魅力を味わってください。

地蔵石仏100選(1)   春日山石窟仏六地蔵
奈良市春日野町 春日奥山 「保元2(1157)年」
 良奥山ドライブウェーは高円山ドライブウェーと新若草山ドライブウェーにつながっているが、一方通行で高円山ドライブウェー側からは車は入れない。したがって、奈良奥山ドライブウェーの出口が高円山ドライブウェーの終点となる。その終点の場所から南側へ登る細い道があり、その道を50mほど歩くと穴仏と呼ばれる春日石窟仏がある。その穴仏の少し下に旧柳生街道の石畳の道が通っている。

 春日石窟仏は東西2窟から成り立っていて、凝灰岩層を深く削りくぼめて、つくられた石窟で、全面はかなり崩壊していて、造立当初の様子は知ることはできないが、平安時代後期の保元二年(1157)の墨書銘が残る、わが国では珍しい本格的な石窟仏である。

 東窟は中央に層塔としてつくられたと思われる石柱があり、塔身にあたる部分には、四仏が彫られている。

 東窟の西壁には、頭光背を背負った厚肉彫りの像高90pほどの地蔵立像が4体残っている(もとは六地蔵だと思われる)。左端の一体は右手は与願印で、左手に宝珠を持つ。残りの三体は両手を胸前に上げ、何かを捧げる形であらわしている。一体一体、表情は異なるが顔は引き締まった中に穏やかさをみせている。東窟には、他に観音菩薩と思われる像が3体(もとは六観音)、天部像が2体残っているが破損が大きく痛ましい姿となっている。


令和2年5月1日
道祖神50体(24)   今村の道祖神
長野県松本市大字笹賀今305−1 「寛政元(1789)年」
 松本市の西部、奈良井川と松本空港はさまれた奈良井川西岸の南北約8q、東西2qの細長い地区が笹賀である。その一番南の集落が今である。古い集落で昔の曲がった道が残っている。村の中心の公民館やよろず屋のある辻に今村の道祖神がある。道祖神の後ろは消防団の建物で近くには火の見櫓がある。高さ80pの幅50p、幅35pの上がやや尖った四角柱の自然石に上が凸形になった矩形を浅い彫りくぼみをつくり、左手と右手で正面を向いて握手する二神を浮き彫りにした道祖神である。

 衣装や顔、頭などはそっくりでどちらが男神か女神がわからない。向かって右の神の方がやや背が高く、風折烏帽子を被っているように見えるので右の神が男神と思える。ただ、18世紀の道祖神は僧形で男女が明らかなでないものが多いことや、左の神も頭部が三角なので右が男神と断言できない。笹賀地区で最も古く、右面に「寛政元乙酉年 仲冬吉日」 と紀年銘、左面に並立で「右 松本道」「左 大町道」 とその下に 「今村」と記銘がある。市内で唯一の道標も兼ねた道祖神である。


4月 6月