「フォトギャラリー 石仏と野鳥」 新版 2020年4月

 
3月 5月


2020.4.28             伯耆のサイノカミ(3)   丸山神社のサイノカミ
鳥取県西伯郡伯耆町丸山823
 丸山は大山の麓の畑作地帯の集落で、明治初年まで大山寺領の代官所の置かれたところである。現在は村の西端の山の麓に代官所についての案内板と石碑が建っているだけで面影はない。

 丸山神社は村の北の畑に囲まれた深い森の中にある。村の北端に灯籠と鳥居があり、そこから畑の中80mほど参道が続き丸山神社の森につく、随身門がある。門をくぐると参道がしばらく続き石の階段と社殿が見えてくる。サイノカミはその参道脇の立派な杉木立の前に立っている。

 山形の大きな自然石に直径67pの円形を穿ち、中に唐破風の屋根のある神殿の中に諾冊(だくさつ)二尊つまり伊弉尊(イザナギノミコト)と伊奘尊(イザナミノミコト)を薄肉彫りにしたもので、諾冊二尊はともにザンバラ髪で互いに内向きで見合っている。向かって右のイザナギノミコトは右手で宝剣を、左手で腰に差した刀の柄(つか)を握っている。左のイザナミノミコトは両手で宝珠を持っている。

 切り妻の破風と唐破風の二つの屋根があり、唐破風にはよく見ると鶴と亀が彫られている。二尊が乗る台座には鳳凰が刻まれていて、信州の道祖神にも見られない荘厳で格調高い造りである。


2020.4.25               道祖神50体(20)   上大池の道祖神
長野県東筑摩郡山形村上大地「嘉永5(1852)年」
 高さ145p、幅170p、厚さ63pの菱形の自然石に円を穿ち、肩を抱き合い握手する男女の神を半肉彫りした道祖神である。男神は狩衣、女神が小袿で、共に括袴を着け、いかにも農民の頭領らしい着付であるため村や観光協会のHPでは「大池の頭領」道祖神と紹介している。上大池豆沢の道祖神と同じく老夫婦の趣を持った道祖神である。

 山形村では最大級の大きさで、重さは推定で1.5トンはあろうかと思われます。訪れた時はこの道祖神の石垣の中からS50年掘り出された道祖神が傍らに置かれていたが、あまりにも小さく村の経済力の移り変わりを見るかのようである。向かって左に「大池上郷」の施主名、右に「嘉永五子二月八日」の造立年か刻まれている。


                     
2020.4.24                     伯耆のサイノカミ
 
 双体道祖神像は長野・群馬・神奈川などの東日本中心に分布し、西日本にはあまり見られない。しかし、鳥取県の西部、伯耆の国だけは例外で、双体像が集中的に分布していて、300体を越える。

 道祖神は「ドウソジン」・「サイノカミ」・「ドウロクジン」・「セエノカミ」などと呼ばれている。伯耆地方では、サイノカミは、塞の神、幸神ともされ、縁結び、足の神、旅の神、村境を守る神などとして信仰を集めている。初めは、村はずれの巨木や自然石を、「サイノカミ」・「サイノキ」・「サイノカミサン」として祀っていて、それが、伯江戸中期頃から石造双体神像に移行していった。

 伯耆の双体像は信州のような肩を抱き合い握手をしたり、祝言をあげる相愛像は見あたらず、男女の神がそれぞれ笏や扇や宝珠を持つ神祇像や雛人形のような神祇座像である。また、猿田彦・天鈿女を表現した像やイザナキ・イザナミを現したものも見られる。

 浮き彫り像や線彫り像・板彫と線彫り組み合わせた像が中心で、信州の安曇野の双体像などに比べると小型の像が多い。現在は村の神社や集会所、寺の広場に集められている。

 木ノ山神社にある神祇型の像には「安政5(1776)年」と、伯耆のサイノカミ中、最古の刻年がある。他に木ノ山神社には神祇型の薄肉彫り像と猿田彦・天鈿女をあらわした線彫り像がある。

 鶴田神社には神祇型の半肉彫りと線彫りの像があり、特に半肉彫り像は清楚で若々しい像で印象的である。亀甲神社には10基の像が集められていて、その内の一基は平成2年につくられたタキシード・ウェディングドレス姿の線彫り像である。 



伯耆のサイノカミ(1)(2)   鶴田神社のサイノカミ
鳥取県西伯郡南部町鶴田238
 鶴田神社はフラワーパーク「とっとり花回廊」近くの山麓の森の中にある。「とっとり花回廊」へ向かう分かれ道のある三叉路の西前方、県道1号線に架かる赤い欄干の橋が見える。その橋をわたると正面に鶴田神社の鳥居があり、その参道途中のコガノキ(カゴノキ)の下に2体のサイノカミがある。

 向かって左の1体は四角い石の表面に山形食パンのような彫りくぼみをつくり、その彫りくぼみいっぱいに合掌する女神と笏を持つ男神を浮き彫りする神祇像である。共によく似た着物で腰に結んだ紐や袂に赤い彩色の跡が残っている。女神は丸髷?(おかっぱ頭にも見える)で、男神は風折烏帽子を被っている。若くて慎ましやかな伯耆のサイノカミの秀作である。

 右の1体は大きな舟形の自然石に舟形の彫りくぼみをつくり、その中に合掌する女神と笏を持つ男神が少し離れて立つ、簡単な線で表した素朴な線彫りの神祇像である。男神の冠の巾子は細長く、そこに突き刺さるように簪が指していて、アンテナのようにも見える。女神もティアラのような冠を被り、上に帽のような髪?が見えている。

 この地方では十二月十五日にサイノカミ祭りが行われ、わら馬やわらづと、草鞋などが供えられる。鶴田のサイノカミではまわりの高い木にわら馬が引っかけられる。


 
2020.4.22            道祖神50体(46)   島新田の道祖神
長野県安曇野市穂高北穂高 
 JR大糸線「追分」駅の西に市営の集合住宅、追分団地があり、その団地の北の外れから120pの農道脇のU字溝の脇に、島新田の道祖神がぽっんと東向きに佇んでいる(訪れた時は追分団地もなく、まったくの水田地帯であった)。高75p幅60p厚さ45pの先の尖った花崗岩の自然石に凸形の彫りくぼみをつくり、肩を抱き合い手をとるあどけない像高32pほどの男女の神を浅く半肉彫りする。

 二神は顔を左右にやや傾けてそっと見合っているが、ちょっと見ただけではどちらが男神かわからない。向かって左の神は特に幼く雅な顔をしている。一般的に向かって左の神が女神であるが、衣装は衣冠束帯の袍(ほう)で被っているのは風折烏帽子に見えるので男神と考えられる。右の神は襟があわせで着物と思えるので女神と考えられる。小首を少し傾けて頬よせ、そっと手を男神の手にのせている。女神のかぶり物はティァラノのようにも見え、その上に蝶の触覚のようなものがのっていて、女神は西洋の妖精のようにも見える。


2020.4.20               アカハラ・ビンズイ・カシラダカ         山の上の桜園にて
 先日、アカハラねらいで近くの桜の名所に行ったのですが、今年は入っていませんでした。そこでいつも行く山の上の桜園に行きました。しばらく前までツグミが飛び回っていたのですが、今日はツグミの代わりに数羽のアカハラが桜の木々を飛び移っていました。枝がたくさんあり、なかなかよい写真が撮れませんでした。
カシラダカもいました。
ビンズイは数羽いました。


2020.4.17               シメ・アオジ・ニュウナイスズメなど            近くの桜の名所にて
 コロナウイルス感染が怖くて、外へ出る気がしません。桜の花に来るメジロ・ニュウナイスズメなどを撮影できる近くの桜の名所には花の見頃の頃は今年は出かけませんでした。桜の花の多くが散った、この日、ようやく出かけました。マスクをした数人と出会っただけでした。

 散り始めから散り終わりの頃は、毎年、ニュウナイスズメ以外にアオジ・アトリ・シメ・シロハラなど様々な野鳥が見られるので毎年訪れています。アカハラが入った年もあります。この日はシメ・エナガ・カワラヒワ・アオジ・シロハラを写しました。
シメは桜の葉を食べているようです。
エナガは虫を捕まえています。
精悍な姿のアオジです。
桜の木にはカワラヒワも来ていました。
 桜の木にはスズメはいるのですが、ニュウナイスズメは見あたりません。そこでよくニュウナイスズメがいる近くのコナラの林に行きました。
コナラの花が満開です。そこにニュウナイスズメが来ていました。
V字腹筋をしているような格好で羽づくろいです。
ニュウナイスズメの雌です。


 
2020.4.18            道祖神50体(45)   耳塚上木戸の道祖神
長野県安曇野市穂高有明2760-1 「元治2(1865)年」 
 香取神社の西200mの三つ辻に小さな屋形があって、耳塚上木戸の道祖神がまつられている。高さ63p幅80pのおにぎり形の自然石に円形を穿ち、中に肩を組んだ、瓢を持った十二単姿の女神と盃を持った衣冠束帯姿の男神を半肉彫りした祝言像である。女神は鴨の首をわしづかみにしたように大きな瓢を握りしめ御神酒を男神の盃に注ごうとしている。二神とも口をややとがらしたエラの張った顔でいかにも庶民の神といった趣である。

 「元治二乙丑三月十六日 帯代金二十五円」と裏に彫られ、表の円の周りには「みみつかむら かみきど中」とかなでがざるように刻んでいる。この像とそっくりな道祖神はともに「慶応二(1865)年」の紀年銘のある耳塚の下木戸と穂高神田町南の道祖神と同一石工の作と思われる。


 
道祖神50体(44)   耳塚香取神社の道祖神
長野県安曇野市穂高有明118-イ 「明治18(1879)年」 
 耳塚の氏神の香取神社の拝殿前の広場北側に大黒天、恵比寿天、文政10(1827)年造立と明治18(1879)年造立の道祖神が屋形の屋根の下に並んでいる。明治18(1879)年造立の道祖神は高さ、幅とも100pの丸い自然石に円を穿ち、像高53pの衣冠姿の男神と、像高50pの十二単姿の女神が肩を組み合い手を握る姿を半肉彫りする。

 重なり合う十二単の襟周りや裾や男神の衣紋、冠の紐など写実的に丁寧に彫っていて、顔は共に卵形で鼻筋の通った端正な容貌である。等々力の明治時代の道祖神と同じく安曇野の道祖神の伝統を受け継いで彫られたものであるが、この像のほうがより近代的な雰囲気がある。香取神社の道祖神はすべて耳塚公民館から移されたものである。「明治十二年十一月吉辰 本郷中」の紀年銘がある。


2020.4.16撮影                        イソヒヨドリ                  自宅の庭にて
 久しぶりに野鳥の写真です。自宅の近くの工場の社宅の上のテレビアンテナや屋根でいつもイソヒヨドリが囀っているのですがなかなか撮影できません。今日は隣の家の屋根の上のテレビアンテナにとまったので逆光でしたが何とか露出補正して撮りました。


 
2020.4.14            道祖神50体(44)   耳塚香取神社の道祖神
長野県安曇野市穂高有明118-イ 「明治18(1879)年」 
 耳塚の氏神の香取神社の拝殿前の広場北側に大黒天、恵比寿天、文政10(1827)年造立と明治18(1879)年造立の道祖神が屋形の屋根の下に並んでいる。明治18(1879)年造立の道祖神は高さ、幅とも100pの丸い自然石に円を穿ち、像高53pの衣冠姿の男神と、像高50pの十二単姿の女神が肩を組み合い手を握る姿を半肉彫りする。

 重なり合う十二単の襟周りや裾や男神の衣紋、冠の紐など写実的に丁寧に彫っていて、顔は共に卵形で鼻筋の通った端正な容貌である。等々力の明治時代の道祖神と同じく安曇野の道祖神の伝統を受け継いで彫られたものであるが、この像のほうがより近代的な雰囲気がある。香取神社の道祖神はすべて耳塚公民館から移されたものである。「明治十二年十一月吉辰 本郷中」の紀年銘がある。


2020.4.14            道祖神50体(42)   水色の時道祖神
長野県安曇野市穂高等々力 「昭和50(1975)年」 
 ネットで「安曇野 道祖神」と画像検索すると一番よくででくるのが、この「水色の時道祖神」と安曇野市堀金鳥川扇町の「常念道祖神」である。共に常念岳を背景に美しい写真が撮れることから多くのカメラマンが集まる撮影スポットとなっている。道祖神はともに現代の道祖神である。「常念道祖神」は地元の写真家が1991年に地元の同意を得て桜の植樹と共に設置したもので、風景はすばらしいが、道祖神自体には魅力を感じない。それに対して水色の時道祖神は須藤賢という彫刻家の個性と創造力が生きた魅力的な道祖神である。

 水色の時道祖神は大王わさび園の北西、早春賦の碑のある穂高川沿いの早春賦歌碑公園へ向かう途中の小さな川の橋を渡った川沿いに(わさび園から900m)ある。舟形の石のいっぱいに肩を抱き手をとる男女の神を厚肉彫りしたものであるが、既存の道祖神とは全く違った姿である。女神の髪は双髻で男神は単髻(または烏帽子をかぶっている?)で、体をしっかりつけ会い、男神は右手を肩から回して女神の胸あたりに当て、女神は男神の腰に左手をまわし、左手と右手で手を握り合っている。女神も男神も目を細めて微笑んでいて、まるで恋愛中の若い恋人同士のように見える。となりには「残菊」と名付けた同じような姿の少し小さく幼い顔の道祖神も置かれている。

 作者の須藤賢(1904〜1998年)は戦前、満州の華北鉄道につとめ、戦後は立命館大学や新潟大学で人文地理学の教授として、また写真家として活躍。63歳の時、愛娘を亡くし、これを契機に第一作、半跏思惟の伎芸天像を制作し「さゆり地蔵」と名付け、その後1400体以上の石仏を制作。須藤賢の石仏は交流のあった瀬戸内寂聴の寂庵や須藤賢の菩提寺の栃木県さくら市の龍光寺などに残っている。須藤賢は「私の石仏は、つくりはじめた頃からどれも微笑しています。彫っているうちにほゝえんだ石仏が生まれてしまい、彫ればほゝえみの石仏になってしまうのです」と生前語っている。須藤賢の石仏の原点は戦前に見た雲崗石窟で、特に第七窟主室の南壁の供養六天像には深い感動を受けたそうである。

 水色の時道祖神という名前は昭和50年のNHKの朝の連続ドラマ「水色の時」のために、つくられたことに由来する。「水色の時」は安曇野が舞台として設定されたドラマで大竹しのぶ・篠田三郎が主演した。碑陰の撰文には次のように書かれている。

 『「水色の時」道祖神 昭和五十年(1975)NHK放映のテレビドラマ「水色の時」に登場し、全国の視聴者の心を魅了した道祖神である。彫像者須藤賢氏の厚志をけ、ドラマの舞台となった松本市の西北詩情豊かにして日本人の心のふるさとを思わせる安曇野のアルプスを背にしたれんげ花咲く穂高の里にこの像を安置し、諸願成就を念じ、素朴なたたずまいを後世に伝えんとするものである。
 昭和五十四年五月吉辰 寄贈 信濃金石拓本研究会・穂高町拓友会』


 
2020.4.12        道祖神50体(41)   等々力の明治時代の道祖神
長野県安曇野市穂高等々力 「明治18(1885)年」 
 等々力にはもう1基、神殿を設けた優れた道祖神がある。(36)等々力の土蔵わきの道祖神の一つ北の辻の民家の生け垣の前にある道祖神である。石積みの基壇の上に大黒天と月待塔の文字碑と並んで道祖神が立っている。この像も(36)土蔵わきの道祖神と同じく唐破風屋根を設けた神殿に収まった衣冠束帯姿と十二単姿の肩を抱き合い、握手する男女二神の半肉彫り像である。やや細長い矩形の彫り込みで上部には見事な菊の花が彫り込まれている。男女の神はお互いにやや内側を向いて眺め会い肩を組んで、男神が女神の手をしっかりと包み込むように握っている。

 「明治十八年乙酉八月建之等々力方耕地仲間中 帯代金五拾円」の銘があり、明治時代の建立である。(36)土蔵わきの道祖神や(8)等々力西村の道祖神などの安曇野の道祖神の伝統を受け継いで彫られたものであるが、やや面長の男女の神の顔は近代的な容貌で、模倣ではなく、石工の腕の確かさ、造形力がうかがえる。明治時代の道祖神の秀作である。


   
2020.4.11        道祖神50体(40)   等々力の土蔵わきの道祖神
長野県安曇野市穂高等々力 「天保10(1839)年」 
 安曇野によく見られる、衣冠束帯姿で冠の巾子(こじ)が大きく、後から尾のように纓(えい)が垂れた男神と、十二単姿で、頭上で髪を束ねてから肩先へ垂らしている女神の像で、男神の巾子と垂れた纓、女髪の束ねた髪と垂髪が左右対称のようになっている道祖神は、天保年間からよく見られるようになる。それらの道祖神は、(8)等々力西村の道祖神のような矩形の彫り窪みをつくり、その上に唐破風などの屋根を設け神殿とし、その中に男女の神を半肉彫りする像と、柏原中下の道祖神のように円形の彫りくぼみの中に男女の神を半肉彫りする像に分けられる。神殿の中に男女の神を半肉彫りする像で私が見たなかで最も古いのがこの等々力のこの道祖神である。

 この道祖神は白壁土蔵の家など歴史の重みを感じさせる集落の三叉路の角の民家の生け垣の前にある石積みの基壇の上に月待塔と大黒天の文字碑と共に安置されている。背景に白壁土蔵を入れて道祖神を撮ることができるのため、絶好の撮影ポイントにもなっている。高80p、幅65pの花崗岩の自然石に上部に菊の花を彫り込んだ花頭窓風の彫りくぼみをつくり、その中に衣冠束帯姿と十二単姿の肩を抱き合い、握手する男女二神を半肉彫りしている。

 女神の像高は40p、男神は41pで頭部は大きく3頭身と言ってもよいほどである。丸顔で鼻が大きいが、上品な顔で印象に残る。握り合っている女神の手は、手のひらが合うようにひねって親指が下にきている。様式的には男神の巾子と垂れた纓、女髪の束ねた髪と垂髪が左右対称のようになっている道祖神であるが、男神の冠の纓は見当たらない。冠の巾子は大きいが形は丸く、簪は上に蕨のように曲がっている。「天保十己亥年正月吉日 仲間中」の銘がある。(8)等々力西村の道祖神や旧豊科町の細菅の道祖神と共に、安曇野の天保期を代表する田の神である。


 
道祖神50体(39)   久保田の道祖神
長野県安曇野市穂高等々力 「天保10(1839)年」 
 穂高柏原の久保田の集落の村の外れの三叉路に、久保田の道祖神が二十三夜塔や道祖神文字碑とともに立派な屋形に祀られている。高さ120p、幅130pの丸い自然石に矩形の彫りくぼみをつくり、(34)神田北の道祖神と同じく菊の花をあしらった唐破風形の神殿の屋根を設け、肩を組み合い手をとる像である。女神の垂髪は頭上で結わいていないように見えるが、上に伸ばしてから垂らし、右手をそっと男神に向かってさし出している。冠をかぶった束帯姿の男神が左で女神の差し出した手を上から握っている。彩色は補色に近い黄色と青そして白、黒で、色合いはもう一つである。「天保十二年丑正月吉日 久保田村中」の銘がある。


2020.4.9              道祖神50体(38)   神田町北の道祖神
長野県安曇野市穂高2579-7 「天保12(1841)年」 
 JR穂高駅や穂高神社・安曇野市役所穂高支所などの西、国道147号線と平行して南北に続く旧道(県道309号線)沿いの町が神田町である。町村合併によって神田町という名は正式町名から消え、簡易郵便局の名前などに残るぐらいである。その神田町には2体の彩色道祖神があった(グークールアースで見ると現在は彩色は行われていない)。その内の1基は簡易郵便局の筋向かいにある神田町南の田の神である。この像は後で紹介する耳塚の道祖神と同じ石工の作で、訪れた時は男女二神とも衣装は青、顔は肌色、瓢は白に丁寧に色づけされていた。

 もう1基は国道147線沿いの処方箋薬局の建物の裏の路地沿いのあるこの神田町北の田の神である。赤松が枝ぶりよく上から傘のようにさしかけている。高さ95p、幅80pのおにぎりの形の自然石に矩形の彫りくぼみをつくり、肩を組み合い手をとる男女の神を半肉彫りしたものである。矩形の上には菊の花と葉をあしらった唐破風形の神殿の屋根を刻んでいる。女神は髪を上で束ねて、垂髪は体から離れて流し、やや首を傾けて男神をみつめていて、右腕をひねって、親指を上にして男神の手をとっている。男神の冠は柏原中下の道祖神などと違って甲の部分が大きく、巾子(こじ)が小さく、纓(えい)も小さい。これからフォークダンスのオクラホマミキサーを始めるかのような二神のかまえである。

 訪れた時の彩色の色は神殿の柱と男神の衣装は青、女神の衣装はピンク、神殿の菊の花は黄、男神の袴と冠の紐、女神の帯は緑とカラフルに色づけされていた。「天保十二辛丑閏正月 等々力村新町中」の記銘がある。穂高地区の文化文政年間(1084〜1829)の道祖神は神殿や鳥居の中に入った握手像がほとんどで、この道祖神や(8)等々力西村、(33)本郷の道祖神など天保年間(1830〜)から安政年間(〜1859)の像にも見られ地域的な特色となっている。


2020.4.7                道祖神50体(36)   本郷の道祖神
長野県安曇野市穂高6460 「天保4(1833)年」 
 穂高駅前の交差点から南へ向かい大糸線の踏切をわたり県道432号線を450mほど西へ向かうと三叉路の角に火の見櫓ある。火の見櫓の近くに消防団の建物があり、その隣の民家の前に二十三夜塔とともにこの道祖神がまつられている。旧穂高町には(6)矢原橋詰の道祖神など彩色道祖神など多くあり、この道祖神もよくネットで紹介されている。

 高さ137p、幅100pの将棋の駒のような形の石に鳥居を板状に鳥居を陽刻し、鳥居の下を彫りくぼめて、中に衣冠束帯姿と十二単姿の肩を抱き合い、握手する男女二神を半肉彫りする。男神は冠をかぶり、正面を向いて、右手で女神の肩に手を添え、左手で女神の手をとる。女神は内側を向いて男神の顔を見つめ、髪は上で束ねず、垂髪を横に長く流している。「天保四巳年 貝梅中」と刻まれていて、1.2qほど離れた貝梅村から持ってこられたものである。

 訪れた時は男神の彩色は束帯と沓が群青、襟元や袖から見える単(ひとえ)は赤、袴は水色で、女神の唐衣は橙色で、赤い打衣の下に見える裾も白・桃色と見事に塗り分けていた。白塗りの顔も黒で眉や目、赤で口も丁寧に描かれていた。穂高神社の御遷宮の祭りに飾られる人形をつくる人形師の手によって彩色されたそうである。(ネットで調べるて見ると2016年3月時には素人の手による彩色になっていた。)


2020.4.6                       桜園のアトリ・ヤマガラ            山の上の桜園にて
 山の上の桜園の桜は散り始めていました。メジロ・ヒヨドリ・アオジ・アトリ・ヤマガラ・シジュウカラなど様々な野鳥が桜の蜜などを求めて桜園にいます。
アトリは桜の蜜はメジロと違って、花の根元を嘴でちぎり蜜のみを吸う盗蜜者です。
虫を捕まえたようです。
ヤマガラです。


2020.4.5                道祖神50体(35)   柏原中下の道祖神
長野県安曇野市穂高柏原745 「天保13(1842)年」
 JR柏矢駅の南西650mほどにある中下(なかしも)集会所の近くの交差点の角の民家の生け垣の前にまつられている。昔は柵と屋根のある屋形にあったのだか、今はコンクリート製の基壇の上に置かれている。高さ125p、幅130pの先が山頂のように尖ったおにぎり状の花崗岩に円形を穿ち、中に衣冠束帯姿と十二単姿の肩を抱き合い、握手する男女二神を半肉彫りしたもので、男神の巾子と纓、女神の髪の束ねた髪と垂らした髪が左右対称のようになっている。

 男神の垂れた纓は幅広の薙刀のような形で、腰のあたりで衣の裾はねあげて動感を持たせ、袴の下から沓の先端が見えている。女神は髪の生え際が富士額の美人で、髪を頭上で太い紐で束ね、豊かな髪を腰のあたりまで垂らしている。二神はひきしまった穏やかな容貌で、柏原にある4基の同じ様式の道祖神では最も整った美しい像である。また、今まで紹介した同じ様式の道祖神の中では最も古い天保13(1842)年の紀年銘を持つ。円形の彫りくぼみの周りに「天保十三年 寅正月吉日 中下中」と行書で飾るような彫られていて、頂には「柏」の文字が入れられた紋所がついている。訪れた時は記銘には黒で紋章は赤で墨入れがされていた。 


2020.4.3                道祖神50体(33)・(34)   柏原倉平の道祖神
長野県安曇野市穂高柏原1944 「安政5(1858)年」・「安政2(1855)年」 
酒器像「安政5(1858)年」 握手像「安政2(1855)年」 
握手像「安政2(1855)年」
 JR柏矢駅の西にある集落が旧穂高町の柏原である。この地は本村西村や本村の道祖神(5)・(30)、上堀や中堀の道祖神(27)・(28)のある旧豊科町や堀金村と接していて、これらの道祖神と同じ様式の道祖神が4基ある。その内の2基が柏原倉平に並んでまつられている。日吉神社の東へ280m行った倉平集会所の道を挟んだ民家の生垣とブロック塀の前に道祖神祭祀場があり、石積みの基壇の上に2基の道祖神が東向きに並べられている。

 向かって左の1基は中堀の道祖神と同じような山の形をした花崗岩(高100p、幅80p)に円形を穿ち、その中に衣冠束帯姿と十二単姿の杯と瓢を持った男女の神を半肉彫りしたものである。円形の周りに「安政五午年 三月吉祥日 上蔵平中」の銘が、縁を飾るように記されている。向かって右の1基は、高さ、幅とも85pの丸い形の花崗岩に円形を穿ち、中に衣冠束帯姿と十二単姿の肩を抱き合い、握手する男女二神を半肉彫りする。左の像や中堀の道祖神の祝言像と違うが、男神の巾子と纓、女神の髪の束ねた髪と垂らした髪が左右対称のようになっている所は同じで、安曇野の典型的な双体道祖神である。「安政二卯年正月吉祥日 下蔵中」と流暢な文字が、中の二神を飾るように円形に囲んでい。

 2基の道祖神の前には石柱が二本立っているが、これは一月に行われる道祖神の御柱祭りの若竹や白扇、俵、御幣、五色の髪などを飾った御柱を立てるときに結わえ付けられたそうである。現在、この2基の道祖神の基壇は新しい石積みになり、柵のある屋形が設けられている。


2020.4.2                  道祖神50体(32)   本村の道祖神
長野県安曇野市豊科本村1908 「弘化3(1846)年」 
 JR南豊科駅の西にある集落、本村(ほんむら)には(5)本村西村の道祖神以外にもう一基優れた道祖神がある。火の見櫓や公民館(本村区コミュニティセンター)のある三叉路の角、大日堂前の石組みの基壇の上に大きな道祖神文字碑や庚申塔などと共にまつられている。(5)本村西村の道祖神と同じ「弘化3(1846)年」の紀年銘かある。高さ117p、幅130pのおにぎりの形をした自然石に深く円形の彫りくぼみをつくりその中に中に衣冠束帯姿と十二単姿の杯と瓢を持った男女の神を厚めに半肉彫りする。

 男神は衣冠束帯姿で冠は甲の部分が小さくて巾子(こじ)が大きい、垂れた纓は幅広の薙刀のような形である。裾(きょ)は大きく円を描いて後に跳ね上げている。やや内側に向いて右手を女神の肩に回し、内側に向いて左手で杯を持つ。女神は髪を頭の上で高く束ねて、後ろに腰のあたりまで垂らしている。女神も内側に向いて、左手を男神の肩に回し、右手で大きな瓢を持つ。(5)本村西村とほぼ同じ形式の道祖神であるが、男神の簪か陽刻ではなく線彫りで、面長の顔というより卵形の顔である。「弘化三午年正月吉日 本村 帯代十五両」の銘がある。

 この隣に丸や縦横斜めの線を刻んだ碑があり、現在はこの碑だけ碑を囲むように屋形が作られている。この碑は「神代文字碑」として安曇野市指定有形文化財となっている。訪れた時は合併前で豊科町指定文化財となっていた。説明板には下記のように書かれていた。 

 「神代文字(じんだいもじ)の一つ「阿比留文字」で、ヤチマタヒコノカミ (※八衢彦または比古神)ヤチマタヒメノカミ (※八衢姫神)クナトノカミ と、三柱の神を刻んだ碑である。もともと屋敷神としてあったもので、平田国学の影響下、江戸時代末に造立されたものと考えられる。その後、現在地にに移転してから、「本村中」の文字が加えられ、道祖神として祀られている。俗間(ぞくけん)の目に触れぬ文字が刻まれ、しかも信仰されているという貴重な民俗資料である。」  


2020.4.1                道祖神50体(31)   中堀中村の道祖神
長野県安曇野市堀金烏川中堀 「天保4(1832)年」 
 (28)中堀の道祖神から300mほど離れた拾ヶ堰(じっかせぎ)沿いの自転車道の横に、立派な亀甲形石の石積みの基壇上に中堀中村の道祖神が拾ヶ堰に向かって南向きにまつられている。高さ80p、幅80pの花崗岩の中央に52pの円を穿って、その中に祝言像の双体道祖神を半肉彫りしている。安曇野市では珍しい女神が跪座の像である。ただ、松本市(旧波田町や梓川村を含む)によく見られる祝言跪座像とは少し違っている。

 男神は烏帽子かぶった直衣姿と思えるが、烏帽子はロシアの人がかぶる毛皮の帽子のように見え、衣もかなりだぶついた感じて直衣のようには見えない。左手で盃を無造作に持ち、右手で女神の手を取るが袖で隠れている。女神は膝をそろえて座り、左手に松本市の祝言跪座像とは違って提子ではなく瓢を持っている。「天保四巳正月 中堀中村中」の銘がある。


3月 5月