「フォトギャラリー 石仏と野鳥」新版 2020年6月

 
5月 7月




令和2年6月30日
地蔵石仏100選(7)   的野地蔵磨崖仏
奈良県山辺郡山添村的野  「正安5年(1303)」
 的野集落南端の民家の近くに、道に突き出た大きな花崗岩の岩があり、そこに彫られている。高さ108mの舟形光背ほ彫りくぼめ、 錫杖・ 宝珠を持つ、 地蔵菩薩を厚肉彫りする。立派な錫杖頭で蓮華座の正面の蓮弁は二枚重ねになっている。僧侶のような人間くさい面相の地蔵である。向かって左に「正安五年三月十日 信賢 信順 」の刻銘がある。



地蔵石仏100選(8)   歓楽寺地蔵石仏
奈良県奈良市都祁南之庄町1124  「元亨2(1322)年」
 歓楽寺は、南ノ庄集落の南にある高野山真言宗の寺院で、本堂は鄙びた民家風の建物である。本堂東南の山裾に、小さな覆屋があり、その中に三体の地蔵が安置されている。

 三体の真ん中にある地蔵が都祁地区で最も古い元亨2(1322)年の年号銘を持つ。高さ1mほどの長方形の花崗岩の石材に枠いっぱいの彫り窪みをつくり、像高80pの、錫杖と宝珠を持つ地蔵を半肉彫りしたもので、七廻峠地蔵石仏のような豪快さや力強さに欠けるが、整った姿の穏やかな面相の地蔵である。


令和2年6月29日
阿弥陀石仏100選(6) 大門仏谷磨崖仏
京都府木津川市加茂町北大門  「平安後期」
 他の当尾石仏群から一体だけ離れているため、訪れる人も少なく、「笑い仏」とくらべるとあまり知られていない。 しかし、当尾石仏中、最古最大の磨崖仏であり、堂々たる体躯や幅のある丸い厳しい顔の表情など、近畿地方を代表する磨崖仏の一つである。

 二重光背形を浅く彫り、 その中をさらに彫りくぼめて、裳懸座に座る如来形を半肉彫りしている。 手の部分の一部が不明瞭で印相がわからず、 像名は阿弥陀・釈迦・弥勒など諸説がある。造立年代については奈良時代後期・鎌倉時代など諸説があるが、幅広い丸顔や豊満な仏身の表現から平安後期造立説が有力である。


阿弥陀石仏100選(7) さんたい阿弥陀三尊磨崖仏(笑い仏)
京都府木津川市加茂町岩船 「永仁7年(1299) 鎌倉後期」
 大門仏谷磨崖仏とともに、当尾の里を代表する石仏である。岩船寺から西南500mの山裾に露出する大きな花崗岩の岩に、 舟形に彫りくぼめをつくり、 蓮座に座した定印の阿弥陀像と蓮台を持つ観音像と、合掌する勢至菩薩像を半肉彫りにしている。

 「永仁七年(1299)二月十五日、願主岩船寺住僧‥‥‥大工末行」と3行にわたる刻銘があり、宋から渡来した石大工伊派の一人、伊末行の作とわかる。花崗岩の岩肌を生かして柔らかい丸みのある表現になっていて、 「笑い仏」 という愛称もつけられている。


   
令和2年6月27日  地元の山のハイキングコース
キビタキ
 よく行く地元の山のハイキングコースではいつもキビタキの声は聞こえるのですが、なかなか撮影できません。今日ようやく撮影しましが、枝かぶりです。
帰りの道、同じ場所でキビタキの雄とキビタキの若鳥がいました。




令和2年6月24日
不動石仏50選
 憤怒相で、教化のむずかしい衆生を折伏(しゃくぶく)して救済するのが明王である。その明王を代表するのが大日如来が人々の悪心を調伏するために忿怒の姿で現れたものとされる不動明王である。広く「お不動さま」と呼び親しまれ、災害を除き、怨敵を降伏させ、財福を得るなどの種々の祈願をかなえてくれるとして、人々の信仰を集め、平安時代以降多くの不動石仏が造像された。

 それらの不動石仏の中で最も優れ、古いのが、富山県の日石寺不動磨崖仏と大分県の国東の熊野磨崖仏である。ともに山から露出する大岩面に半肉彫りされた磨崖仏で、力強く豪快、おおらかで悠然たる姿と受けるイメージは少し違うが、両磨崖仏とも岩の持つ美しさ・厳しさと人々の信仰心が結びついた不動石仏の傑作である。平安時代の不動石仏としては臼杵石仏(ホキ・古園)や宮迫東磨崖仏などがある。

 鎌倉時代になると、九州では犬飼磨崖仏・普光寺磨崖仏なとスケールの大きな不動磨崖仏か造立された。近畿地方でも鎌倉時代になると不動石仏が造像されるようになる。十輪院不動石仏・長岳寺奥の院不動石仏・桃の尾滝不動磨崖仏・岩船不動磨崖仏などがあげられる。
不動石仏50選(1)   日石寺不動磨崖仏
富山県中新川郡上市町大岩  「平安後期」
 不動石仏の中で最も優れ、古いのが、富山県の日石寺不動磨崖仏である。日石寺不動磨崖仏(平安時代後期・重要文化財)は、山から露出する大岩面に半肉彫りされた像高3mの不動明王座像で、頭上に蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣、左手に羂索を持ち、両牙は下唇をかむ大憤怒相の力強く豪快な磨崖仏である。本尊の不動明王以外に脇持の矜羯羅童子像・制咤迦童子像、阿弥陀如来像、僧形像が刻まれていて、僧形像(行基菩薩像)は後刻と思われる。


   
令和2年6月23日撮影  近くの水田地帯にて
カルガモ親子・オオヨシキリ
 水田地帯の川や用水路には毎年、六月になれば数組のカルガモの親子が見られるのですが、今年はまだ見ていませんでした。ようやく見つけたのですが、子カモは1羽しかいません。大水に流されたり、蛇やイタチに捕まって1羽になったのでしょうか。
オオヨシキリは川の近くの墓地側の竹藪や雑木で鳴いていました。


令和2年6月20日
地蔵石仏100選(5)   向淵三体地蔵磨崖仏
奈良県宇陀市室生向渕   「建長6(1254)年」
 集落の西はずれの畑の中に建つ堂に「穴薬師」と呼ばれるこの三体地蔵がある。凝灰岩の四隅を落とした正八角形の石材を利用して作られたもので、中央に蓮華座を設けて高さ150pの二重円光背の彫り窪みをつくり、像高130pの宝珠と錫杖を持つ地蔵立像を厚肉彫りする。その両側には同じく二重円光背の彫り窪みをつくり、中尊よりやや小さい像高90pの地蔵立像を厚肉彫りする。両脇持は共に、右手を下げて与願印を示し、右手で宝珠を持つ古式の地蔵である。

 充実感のある、鎌倉中期らしい写実的な表現の地蔵石仏で、三体地蔵形式では最も古い様式である。施主名と共に建長6年(1254)の紀年銘を像の間に刻む。



地蔵石仏100選(6)   南田原地蔵石仏
奈良市田原南田原町  「建長年間 鎌倉時代」
 南田原の川沿いの橋のたもとにこの地蔵石仏が立っている。高さ110mの長方形の石材に、二重光背を彫りくぼめ、 高さ73cmの地蔵を半肉彫りしている。 もとは笠石が載っていたらしい。顔は摩滅しているが、整った姿の鎌倉期様式の地蔵石仏である。「建長□年‥‥」 とかろうじて読める刻銘がある。



令和2年6月18日
阿弥陀石仏100選(4) 臼杵磨崖仏ホキ石仏第一群
大分県臼杵市深田 「平安後期」
釈迦如来座像・阿弥陀如来座像・薬師如来座像(第2龕)
阿弥陀如来座像(第2龕)
阿弥陀如来座像(第1龕)
阿弥陀如来座像(第3龕)
 ホキ石仏第二群に続いて、ホキ石仏第一群(堂が迫石仏)がある。4つの龕に分かれていて、最初の龕(第4龕)は地蔵十王像を厚肉彫りする。中央の地蔵菩薩は右手は施無畏印、左手に宝珠を持つ古様で、石仏では珍しい右脚を折り曲げ、左足を垂らして座る半跏椅像である。左右に五体づつの十王像は鮮やかな色彩が残っている衣冠束帯の道服の姿で、個性的な怪異な顔が魅力的である。鎌倉時代以降の制作と考えられ。
 次の龕(第3龕)は金剛界大日如来を中心とした龕で、やや硬いいが引き締まった彫りである。
 続く第2龕は堂が迫石仏の中心となる龕で、像高も一番高く、等身大より大きい(釈迦如来座像は2m、他の如来は173〜178p)。制作年代も堂が迫石仏ではもっとも古く、ホキの阿弥陀三尊、古園石仏につく゜。重厚感のある体躯と引き締まった威厳に満ちた顔は貞観仏を彷彿させる。よく見ると、ホキの阿弥陀三尊のような鑿跡の冴えはなく、衣紋は平行状に刻まれていて形式化が目立ち、やや鈍重な印象である。
 一番奥の第1龕も第2龕と同様に阿弥陀・釈迦・薬師の3如来を中心とした石仏群である。


阿弥陀石仏100選(5) 菅尾石仏阿弥陀像
大分県豊後大野市三重町浅瀬乙黒 「平安後期」
薬師如来・阿弥陀如来
阿弥陀如来
 豊肥本線菅尾駅の北西1.5q、徒歩20分。小高い山の中腹に覆堂があり、向かって右から千手観音・薬師・阿弥陀・十一面観音と多聞天(これだけ半肉彫り)の五体の磨崖仏が刻まれている。 千手観音から十一面観音までの四像は丸彫りに近い厚肉彫りで、臼杵石仏とならぶ木彫的な藤原調の石仏として知られている。この磨崖仏は昔から「岩権現」といわれており、紀州熊野権現を勧請したもので、四像は熊野権現の本地仏である。国の史跡で重要文化財に指定されている。


   
令和2年6月15日  近くの水田地帯にて
コチドリ
 昨日、オオヨシキリを撮影した葦原ではオオヨシキリの姿は見られなかったので、水が張ったばかりの水田に行きました。田植え前の田んぼに1羽のコチドリがいました。


   
令和2年6月14日  近くの水田地帯にて
オオヨシキリ・ケリ
 水田地帯の川の近くの葦原に6月になると、毎年、オオヨシキリが来て騒がしく鳴いています。今年は葦原の葦は刈り取られてあまり育っていないのですが、オオアレチノギクの上にとまって鳴いていました。
ケリはここでは最もよく見られる千鳥です。畑で威嚇するような鋭い声で鳴いていました。



令和2年6月13日
地蔵石仏100選(4)   濡れ地蔵磨崖仏
奈良県宇陀市榛原山辺三 「建長6(1254)年」
 国道165号線沿いの山辺三の集落の集落から近鉄大阪線の線路を越えた南に下った谷あいに建長6(1254)年の紀年銘の濡れ地蔵磨崖仏がある。

 川の向こう岸の岩に、高さ184mの船型の彫り窪みをつくり、線刻の頭光背を負って蓮華座に立つ地蔵立像を半肉彫りしている。大きな頭の錫杖を直立して右手で持ち、左手を胸前に上げて宝珠をささげる。光背面の左右に三体ずつ、六地蔵立像が墨画で描かれていたという。また、光背の外側の左右に太山王と閻魔王が線刻されていて、地蔵十王の信仰が伺える。

 濡れ地蔵と呼ばれるのは、山から滴る水で常に濡れているところから名付けられたものである。この川は宇陀川の支流にあたり、宇陀川に作られた室生ダムのため、増水時はダム湖の一部となり、増水時は濡れ地蔵は水没してしまう。



令和2年6月10日
阿弥陀石仏100選(3) 臼杵磨崖仏ホキ石仏第二群
大分県臼杵市深田 「平安後期」
第1龕阿弥陀三尊
第2龕九体阿弥陀像
 ホキ石仏第二群は2つの龕に分かれていて、最初の龕は(第2龕)は九品の阿弥陀像である。中央の一尊が定印を結ぶ座像で他は立像で来迎印または施無畏、与願印と思われる。

 中心となる第1龕に、古園石仏の大日如来とともに臼杵石仏を代表する「阿弥陀三尊像」がある。2つの龕とも末法思想の流行とともに、来世に阿弥陀の浄土に生まれることを願って像像されたものである。

 第1龕の阿弥陀三尊の阿弥陀如来像は像高3m近い、丈六仏で、臼杵石仏の中では最も大きい像である。丸彫りに近いほど厚肉に彫り出され、衣紋や目鼻など、冴えた鑿あとを残し、木彫仏のような鮮やかさをたたえている。丸顔に、伏目という、いわゆる定朝様式の阿弥陀像で、制作年代は11世紀〜12世紀とされているが、肩から胸にかけて逞しく量感があり、厳しい表情とともに平安前期の様式も残す。脇持の観音・勢至菩薩も2mを越える巨像で苦渋を秘めた強い表情が印象的である。

 最初の画像は保存修復工事前の覆堂ができる前の写真で、光が入り、陰影がついて、鑿あとの鋭さがよくわかる。


令和2年6月8日
伯耆のサイノカミ(8)(9)   御崎神社のサイノカミ
鳥取県米子市尾高1668付近
 3基のサイノカミのある木野山神社の400mほど北の、尾高の町の北の外れにあるフェンスとネットで囲まれた小さな公園があり、その奥にケヤキとイチョウの大木とともに鳥居が見える。そこが御崎神社で境内の左奥にサイノカミが2基ある。

 1基は巨大な石に高さ58pの凸の形の彫りくぼみをつくり、像高45pほどの男神と女神を浅く半肉彫りしたもので、男神は風折烏帽子をかぶり笏を持つ、女神は扇を持つ神祇像である。近くの木野山神社の猿田彦・天鈿女命のサイノカミ像や岡成のサイノカミと同じ「慶応3(1867)年」の造立である(「慶應三夘三月」刻銘)。隣にある小さなサイノカミは矩形の石材を枠取りするように、唐破風の屋根のある神殿を設けて、同じ笏と扇持ちの神祇像である。

令和2年6月6日
道祖神50体(49)   森の道祖神
長野県大町市平10510  「安政6(1859)年」
 木崎湖の南の湖畔の集落、森は温泉施設や温泉民宿・ペンションなどが集まった地区であるが、訪れた時は人の数も少なく静かな昔の村の雰囲気が残っていた。その森の集落の北の端の辻に森の道祖神は立っていた。高さ80p、幅70p、厚さ30pの自然石に将棋の形を穿ち、上の尖った部分に菊の花を彫りだし破風屋根として、中に頬を寄せてぴったりと寄り添い、握手する男女の神を半肉彫りする。男神は下ぶくれの顔で、女神は丸顔で共に庶民的な顔立ちである。手や腕の部分が欠けているのが惜しい。このような神殿に収まった頬をつくように寄り添う双体道祖神は大町市や北安曇郡の北安曇でよく見かける道祖神である。


道祖神50体(50)   白馬グリーンスポーツの森の道祖神
長野県北安曇郡白馬村北城265  「安政6(1859)年」
 キャンプ場や民俗資料館・テニスコート・体験教室・アスレチックなどがある姫川沿いの「白馬グリーンスポーツの森」の森の中にある道祖神である。元はここから北東14qの山中の菅入という現在廃村状態の集落にあった道祖神である(現在でもなお6〜7棟の見事な茅葺き屋根の民家が残る。貸別荘業者のグリーンバレー白馬がそのうちの1軒を「いろりの宿」として1日1組限定で貸し出している)

 高さ65p、幅50pの自然石に上部に破風風の神殿の屋根を設けた矩形を穿ち中に瓢を持った女神と盃を持った男神を半肉彫りした祝言像である。衣服は十二単や衣冠束帯ではなくともに腰紐をつけた着物のようなものを着ていて、肩に飾りのようなものあてている。女神は孫悟空のつけている金輪のようなものを頭に付け、頭上で髪を束ねてから肩先へ垂らし髪先も紐で止めている。男神の頭には半円形の飾りのようなものが乗っている(風折烏帽子には見えない)。

 祝言像は肩を組むのが一般的であるがこの像は腰付近で仲良く手を握っている。足は沓などははかず、男女とも裸足である。破風屋根の上の鬼瓦の部分にも建物が設けられ中に菊の紋がある。細部まで丁寧に彫られた、この地方の道祖神では最も優れた像の一つである。


   
令和2年6月4日撮影  自宅ベランダから
イソヒヨドリ
 毎年、自宅近くで巣作りしているようで、家の周りではいつもイソヒヨドリの声が聞こえます。特に、斜め向かいの工場の建物の上のアンテナでよく鳴いています。毎年、このアンテナで囀っているイソヒヨドリを撮影していますが、今年も撮影できました。



令和2年6月4日撮影
道祖神50体(48)   塔の原中耕地の道祖神
長野県安曇野市明科中川手1655  「元治2(1865)年」
 大王わさび園の犀川を挟んだ東の集落が旧明科町の塔の原である。この集落にはふくよかな姿の道祖神が2基ある。1基は国道沿いの町の公民館の入り口にある万延元(1865)年の造立のもので男神は豊かな頬で耳が大きくまるで大黒天のように見え、拝めばお金が貯まりそうな神様である。あと1基は塔の原の中耕地の辻にある道祖神で、辻の角に石を積んでコンクリートで固めた大黒天や庚申塔・馬頭観音などの石仏の並べられたL字形の基壇の左端にある。

 高95p、幅95pのおにぎり形の自然石に上部が丸い矩形の彫りくぼみをつくり、その中に衣冠束帯姿の男神と十二単姿の女神が肩を組み合い手を握る姿を半肉彫りすしたもので、体型や顔の形は公民館の万延元(1865)年の道祖神とよく似ている。しかし、顔つきは全く違って、男神は鼻が大きく威厳のあるやや鋭い目つきである。女神は公民館の道祖神の庶民的な顔に比べると品のある顔立ちである。「明治六酉年八月吉旦 塔原中耕地 帯代百円」の銘がある。


   
令和2年6月1日  地元にて
チョウゲンボウ
 4日ぶりにチョウゲンボウの巣に行きました。最初行ったときは1羽しか顔を見せませんでした。頭の上の白い産毛もなくなっているので。他の雛は巣立ったのかなと思いました。
近くの建物の上に1羽いました。巣立った雛かなと思ったのですが、よく見ると親鳥のようです。何か食べているようです。骨のようなものを飲み込もうとしています。
親鳥はその後、アンテナにとまり30分ほど動きませんでした。
時々、もう1羽チョウゲンボウが飛んできて、同じアンテナにとまります。どうやら雄のようです。
上空をまた別のチョウゲンボウが飛んでいきました。
巣に戻って見ると、巣から姿を見せている雛は2羽になっていました。
巣に飛び込む親鳥をまっていたのですが、結局、飛び込みませんでした。
1羽の雛が脚で顔のあたりを掻くような動作をしていました。


   
令和2年6月1日
地蔵石仏100選(3)   西法寺地蔵石仏
奈良県桜井市瀧倉197 「鎌倉時代後期」
 滝倉の村の北端にある西方寺の参道の石段の道脇に立つ。高さ1.75m、 二重光背形を厚く作り、蓮華座上の地蔵菩薩立像を厚肉彫りする。右手に丁寧に彫られた錫杖頭の錫杖を持ち、左手は高く胸前に上げて宝珠を持つ。引き締まった面相の重厚感のある秀作である。七廻峠の地蔵石仏とともに 大和高原の代表的する地蔵石仏であ る。


5月 7月