「フォトギャラリー 石仏と野鳥」 新版  2019年9月

 
8月 10月


2019.9.28撮影                  メポソムシクイ?・モズ♀           地元の山の上の桜園にて
 キビタキ雌は桜の枝にとまっていたのですが、しばらくすると近くの別の木に飛び移りました。飛び移った別の木には他の鳥がいて、そちらの方にカメラを向けました。ファインダーで覗いてみるとムシクイのようです。
カメラをムシクイに向けると「ビッ」と鳴きました。
 飛び立とうとする瞬間です。頭央線はなくセンダイムシクイではなさそうです。鳴き声や肉褐色の足などからメポソムシクイと判断しました。
ムシクイが飛び去ったあと同じ木にモズの雌がとまりました。


2019.9.28撮影                         キビタキ             地元の山の上の桜園にて
桜園ではキビタキの雄1羽と雌2羽のキビタキがいました。3羽ともヒタキ類独特の地鳴きの声で見つけることが出来ました。
雄のキビタキは久しぶりです。
桜の木は小さな枝がたくさんあり、どうしても枝かぶりになります。
キビタキの雌です。この桜園では9月になってよく見かけます。


2019.9.27撮影                       コサメビタキ           地元の山のハイキングコースにて
ハイキングコースの入り口近くの電線にコサメビタキがとまっていました。
羽アリのような小さな虫が飛んでいる中、別の電線に飛び移りました。
電線からハイキングコースの入り口にある大きな木に飛び移りました。


2019.9.25撮影                  トウネン・ダイゼン・トビ         他府県の大きな川の河口にて
河口の左岸付近の砂浜には3羽のトウネンがいました。
目にピントがあわず、ピンぼけ気味の写真しか撮れませんでした。
河口の左岸の波打ち際にはダイゼンが1羽いました。
ダイゼンは波打ち際でさかんに砂浜をつついていました。丸く小さい黒い物を銜えています。
河口の右岸の干潟にもダイゼンがいました。
河口の右岸の枯れ木付近に4羽のトビがいて、空を旋回していました。しばらくすると4羽は干潟に降りました。
何か銜えたカラスを追いかけて、1羽のトビが飛び降りてきました。
カラスとのバトルが始まると思ったのですが、トビはカラスの横に降りておとなしくカラスを見ていました。


2019.9.25撮影                ソリハシシギとアオアシシギ         他府県の大きな川の河口にて
 右岸の河口付近の干潟や砂浜ては左岸と同じくチュウシャクシギ・ダイゼンがいました。それ以外に左岸では見られなかったアオアシシギやソリハシシギがいました。
河口から200ほど遡った河の干潟で1羽のソリハシシギを見つけました。
 ソリハシシギを撮影していると少し離れた場所で「ビィビィビィ」と何羽かのソリハシシギの声が聞こえました。近づくと3羽のソリハシシギと1羽のアオアシシギがいました。
しばらくすると2羽のソリハシシギとアオアシシギは河口に向かって歩き出しました。
ソリハシシギは干潟の端を河口へ向かって、時々干潟を嘴でつつきながら進んでいきます。
10メートルほと進んで2羽のソリハシシギは飛び立っていきました。
アオアシシギは干潟の近くの浅瀬をソリハシシギと平行に歩いています。
ソリハシシギが飛び去ったあと、川面に嘴を突っ込み何がを銜えました。
ゴカイのようです。食べたあとアオアシシギも飛び去っていきました。


2019.9.25  チュウシャクシギ・ミユビシギとキョウジョシギの幼鳥   他府県の大きな川の河口にて
 久しぶりの遠出です。隣県の大きな川の河口に行きました。左岸の河口付近の干潟や砂浜には群れてはいませんでしたが、チュウシャクシギ・ミユビシギ・キョウジョシギ・トウネン・ダイゼンがいました。
チュウシャクシギは近くで撮影することが出来ました。
しばらくするとチュウシャクシギは気配を察したのが急に飛び立ちました。近くにいた2羽のチュウシャクシギも飛び立ちました。
飛び立った3羽のチュウシャクシギは近くの砂浜の波打ち際にいました。
波よけの石積みの先に小さなシギいました。トウネンかハマシギと思って撮影しましたが、あとで見てみるとミユビシギの幼鳥でした。
少し離れた場所から波よけの石積みの先を撮影すると、ミユビシギ以外にもう1羽いました。キョウジョシギの幼鳥です
キョウジョシギの幼鳥は親と違って全体的に褐色です。


 
2019.9.24      自由で素朴で個性的な表現の石仏(36)〜(42)   霊諍山の石神仏
長野県千曲市八幡大雲寺裏山  「明治時代」
 長野県更埴市八幡郡(現在は市町村合併により千曲市八幡)にある霊諍山の石仏・石神群は、昭和50年代のはじめ、浅野井坦氏によって紹介されてから、 全国の石仏愛好家から知られるようになった。 修那羅と似た奇妙な像が多数あり、修那羅との濃密な関係も含めてそのユニークな存在がクローズアップされている。ほとんどが明治時代およびそれ以降に造られたものと思われるが、民衆の自由な発想による造像でありその信仰形態とともに注目すべきところである。

 霊諍山を開いたのは、この地出身の北川原権兵衛で、彼が書いた「更埴郡八幡村霊諍山開山申書」によると、明治18年から、母の癪の病を信仰の力によって治すために修行にはいり、 明治24年には、「神がかり」ができるようになったと記している。その後、次第に村人の尊敬を受けるようになり、人々の願い事を神に取り次ぎ、信者が増えていき、この霊諍山を開いた。霊諍山本殿には、天神七代、地神五代、人皇三代と大国主命が祀っている。信者の願果として、多数の神々を合祀したのがこの霊諍山の石神仏である。

 修那羅山安宮神社と同じく大国主命を祀る点や、石造の種類様式等から、修那羅山と霊諍山が似通った信仰形態を持っていた事は明らかである。 修那羅を開いた大天武が亡くなったのは明治5年で権兵衛は7歳の幼児で、 直接師事したとは考えにくい、しかし、 先の「更埴郡八幡村霊諍山開山申書」には「修奈羅様の御情により、 云々」とあるので、大天武に私淑し、信仰形態や思想で大きな影響を受けたと思われる。また、大天武の高弟、和田辰五郎という人物も霊諍山にかかわっている。和田辰五郎は北川原権兵衛の親戚筋にあたり、霊諍山に招き、社殿に住んでもらった。

 修那羅と同じように、猫神が中心的な位置に祀られている。その他、子育地蔵や鬼・摩利支天・大日如来など修那羅と共通する石神仏が多い。 一代守り本尊としての石仏や素戔嗚尊像・日本武尊像など修那羅に見られない石神仏もあるが、全体としては形にとらわれない大胆な表現は修那羅と共通している。
(36) 猫神・猫像 
 蓮や桜など花の寺と知られる禅宗の古刹、大雲寺(標高400m)の裏山が霊諍山で、大雲寺から標高で90mほど登った稜線上の広い山頂に新しく建てられた社殿と石仏群がある。その石仏群の中央にあるのが猫の像と猫神である。

 長野県では田畑を荒らしていた巨大な大ネズミを退治するため中国から呼び寄せた大ネコ(唐猫=カラネコ)にかかわる伝承が残っていて、唐猫様、カラネコ大神、猫神(ねこがみ)などとしてとして信仰されてきた。特に養蚕がさかんになると猫が蚕の大敵であるネズミを食い殺すことから、蚕神(かいこがみ)=養蚕の神としてあがめられた。この猫の像や猫神もそのような信仰から生まれてきたと考えられる。

 修那羅にもあるが、猫そのものを像として彫ったのは珍しい、修那羅の像に比べるとリアルで、背を丸めて今にも獲物に飛びかかるような姿勢で、修那羅の像のような愛嬌は感じられない。

 それに対して猫神はユニークでユーモラスな像である。とがった耳や大きな目、手の指などは猫の顔であるが、歯や牙をむき出した口や体は鬼の姿を思わせる。マントのような衣装や胸や腹のマーク、ふんどしの紐のような腰の線、がりまたで足首を外に向けた足などいかにも漫画チックで印象に残る神像である。霊諍山を代表する石神仏の一つである。
(37) 奪衣婆 
 閻魔王に代表される十王は冥界で死者の生前の行いの裁判をして人間の転生先を決定する十名の王である。遺族あるいは本人が供養や作善を行うと裁量されるという。このような十王信仰の広がりによって、鎌倉時代以降、多くの十王像がつくられた。石仏としての十王の造像も鎌倉時代から始まる。鎌倉〜室町時代の十王石仏の多くは地蔵石仏と共に造立された。その代表と言えるのは臼杵石仏の堂が迫石仏地蔵十王像である。

 江戸時代になるとになると閻魔王像や十王像は大量につくられ、村々のの閻魔堂などに祀られた。従者として判決文を記録する司命と司録という2人の書記官や倶生神、人頭杖、奪衣婆などもつ造像された。長野県にも地蔵や奪衣婆・人頭杖などを含む十王石像が各地に残っている。

 霊諍山には十王像は見当たらないが、この像は奪衣婆と思われる。奪衣婆は人が死んで七日目に渡る三途の川で亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹(えりょうじゅ)の上に待つ懸衣翁(けんえおう)に渡すという老女の鬼で、片膝をたてた痩せた胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として表される。この像は胸をはだけておらず片膝も中途半端であるが、大きな口を開けて取って食いそうな顔や、手に持った布などから奪衣婆とわかる。不気味な迫力のある像である。
(38) 鬼 
 霊諍山には十王信仰に関わる像は見当たらないが、地獄に関わる鬼の像はある。修那羅にも見られる、獄卒の鬼である。生前にウソをついた者は閻魔に裁かれ舌を抜かれるるという話はしばら前までは知らぬ者がない話であるが、その舌を抜く大きな釘抜きを持つ鬼である。修那羅の像のような迫力はないが、縁日の夜店で売っている鬼の面をかぶった人のような像で親しみを感じる愛嬌のある鬼である。
(39) 摩利支天1・2
 摩利支天は武士の守り本尊として、護身・蓄財・勝利などを祈る対象とされているが、信州では「生き霊よけ」として信仰もあるという。また木曽の御嶽信仰とともに広まり、各地の山岳に勧請され、江戸末期以降、甲信越や関東で摩利支天像は造立された。長野県では修那羅の摩利支天石仏や茅野市の権現の森や松本市和田の摩利支天石仏などが知られている。霊諍山を開いた北川原権兵衛は御嶽信仰に基づく神道の御岳教の中座(霊媒)であり、摩利支天が祀られて当然といえる。

  この摩利支天像は修那羅の像と同じく船型にした石材に猪に乗る憤怒相の三面六臂の摩利支天を浮き彫りにしたねのである。左の二つの手で弓と軍配、右の二つの手で矢と刀を持ち、残った左右の手で長鉾を構えている。修那羅の像に比べると迫力に欠けるが、修那羅像に比べると風化が少なく、陽が当たると鮮やかに三面の忿怒相や猪の姿が浮き上がり写真写りは抜群である。
 摩利支天1のとなりにもう一体、摩利支天像(摩利支天2)がある。こちらは線彫り像である。船型の石材に、板彫り状に猪に乗る摩利支天と火焔を板状に浮き出し、面相や着衣・持物・猪の顔や牙を線彫りで表したもので、勇壮な姿である。(39)の像と同じく、三面六臂で弓矢・軍配・剣・長鉾を持つている。顔は、ボウボウと髭を生やし、摩利支天1より数段すごみがあり迫力満点である。赤く彩色した跡が残る。
(40) 素戔嗚尊・日本武尊 
 霊諍山には、素戔嗚尊像・日本武尊像や一代守り本尊としての石仏など修那羅に見られない石神仏もある。霊諍山を開いた北川原権兵衛は御嶽信仰に基づく神道の御岳教の中座(霊媒)であったことや霊諍山の信仰に大きな役割を果たした和田辰五郎が神習教(津山藩士芳村正秉が創始した神道系の教団。旧教派神道十三派の一つ。)と関わりがあったことなどから、素戔嗚尊(すさのうのみこと)像・日本武尊(やまとたけるのみこと)像といったの神話上の神や人物の像も祀られている。

 素戔嗚尊像・日本武尊像ともに船型にした石材に半肉彫りしたもので、素戔嗚尊像はヤマタノオロチ退治の場面と思われる像で左手で繩のようなものを持ち右手で剣を突き下ろしている。日本武尊像は角髪(みずら)のような髪型をして、右手に宝棒風のものを持ち、右掌に宝珠をのせた人物の像である。銘に日本武尊とあるのでそれとわかるが、これなしに何の像かわからない。日本武尊は素戔嗚尊が退治したヤマタノオロチから出た草薙の剣を持って戦ったことになっているが、右手に持っているものは鋭さを欠き剣には見えない。
(41) 滝見観音 
 三十三体観音の一員で、その8番目に置かれる滝見観音である。片膝をついて断崖座り滝を見上げる観音で、石仏としては三十三体観音として造立される場合が多く、独尊の作例は少ない。「仏像図彙」にそっくりな姿態の滝見観音があり、「仏像図彙」を参照して刻まれたと思われる。
(42) 大日如来 
 大雲寺からの登山道を登って最初に出会える石仏である。上部の角を取った方形の石材に彫り窪みの中をつくり、その中に定印を結んだ如来像を半肉彫りしたものである。一見すると阿弥陀如来に見えるが、定印は指で輪を作った弥陀定印ではなく両手のひらを上に向けて重ねて、親指同士が触れ合う形の法界定印である。そのためか、この像は宝冠をつけていないが大日如来とされている。おおざっぱで味わい深い納衣や少しとぼけた表情が楽しく印象に残る石仏である。

2019.9.21.22撮影              タシギ・セグロセキレイ                   近くの水田地帯にて 
21日と22日は何時も行く水田地帯にシギを見に行きました。タカブシギやクサシギは見られずタシギしか撮影できませんでした。
21日、前日タカブシキを撮影した休耕田の畦にはタシギがいました。
22日に撮影した同じ休耕田のタシギです。
セグロセキレイを久しぶりに見ました。(22日)


2019.9.22                        ツツドリ・ヤマガラ             地元の山の上の桜園にて 
 ツツドリ赤色型がまだいてることを期待して山の上の桜園に行きました。それらしい鳥を2羽見ました、動きが速くなかなか撮影できなかったのですが、何とか2枚撮影しました。赤色ではなく、青みがかった灰色です。腹部が見られなかったので断言できませんがツツドリの雄と思われます。後の1羽は赤色型(赤色型は雌)としたらつがいかもしれません。
他にキビタキ雌かコサメビタキらしき鳥も見かけたのですが撮影できませんでした。あとはヤマガラを撮っただけです。


2019.9.16                        ツツドリ赤色型             地元の山の上の桜園にて 
 昨日見たツツドリと思える鳥を探しに山の上の桜園に行きました。それらしい鳥を見つけて撮影したのですが、密集した桜の木の林の中にいて、なかなかよい写真を撮れませんでした。何とか数枚、桜の木の枝にとまって蛾の幼虫を銜えた姿を撮ることができました。今度は腹部の横紋も確認でき、ツツドリの赤色型であることがはっきりしました。


2019.9.15                        ツツドリ赤色型?             地元の山の上の桜園にて 
 山の上の桜園でヒヨドリぐらいの大きさの鳥を見つけました。初めはヒヨドリかキジバトと思って撮影したのですが、どちらでもなさそうです。最初見たときはトラツグミのように見えたのですが、アイリングが白でなく黄色で、嘴も下にやや曲がっていて、カッコウの仲間のようです。後ろ向きで腹部の横紋が確認できませんでした。色も赤褐色というより褐色に見えます。自信がないですか、赤色型のツツドリと思えるのですが。


2019.9.20撮影                       タカブシギ                   近くの水田地帯にて 
 昨日クサシギが飛び立った草の生えた休耕田で、同じように飛び立つシギを見かけました。となりの水田に下りたので、行ってみるとタカブシギでした。
タカブシギは大きく口を開けました。
開けた口から舌も見えています。
その後再び飛び立ち、少し離れた休耕田の畦に下りました。


2019.9.19撮影                     クサシギ・モズ                   近くの水田地帯にて 
 水が張った休耕田に草が生えています。その休耕田には30羽ほどのシギがいました。草に隠れているため姿が見られず、近づくと10羽ほど一斉に「ジェッ」と声を上げて飛び立ちました。その後も次々と飛び立っていきました。素早く飛び立つためシャッターを切っても追いつけません。しばらくあぜ道を進むと「キュイ キュキュキュ」甲高い声を上げてシギが飛び立ちました。クサシギのようです。
飛び立ったクサシギは少し離れた休耕田に下りたようです。その休耕田に行くとクサシギがいました。
逆光でよい写真は撮れませんでした。
しばらくすると再び飛び立ちました。
近くの草原ではモズが囀っていました。


2019.9.19                            カワセミ                   近くの水田地帯にて 
 近くの水田地帯に行きました。6月から7月にかけてカルガモ親子やモツゴを食べるコサギやオオサギ・アオサギなどを撮影した小川でカワセミを見つけました。毎年この川でカワセミを撮っているのですが、今年は初めてです。
 最初に見つけ撮影したときは、露出調整に失敗して露出はオーバー気味でした。そのためか、元々色が薄かったのか、陽が当たっていたせいか、背中が白くなってしまいました。く
その後、川面にダイビングして小魚を捕まえました。捕まえた小魚は背が緑色がかっていてメダカと思うのですが。
捕まえた小魚を銜え直しました。
その後の小魚を飲み込み始めました。
頭を少し上げて、大きく嘴を開けて小魚を飲み込む瞬間です。


2019.9.16撮影                          タシギ                   近くの水田地帯にて 
 山の上の桜園でツツドリを撮影した後、水田地帯にシギ・チドリを撮影に行きました。久しぶりにタシギを見ました。田んぼの畦に6羽ほどいたのですが、農道近くにいて、畦に近づくとすべて飛び去ってしまいました。その内1羽は畦に戻り屈み込んでいて、撮影することができました。


2019.9.14                      キビタキ♀・エナガ             地元の山の上の桜園にて 
 腰を痛めて動けず、さんざんな1週間でした。少し直ったので、無理して、山の上の桜園に行きました。キビタキの雄がねらいだったのですが、キビタキの雌しか撮影できませんでした。
2羽目のキビタキ雌が絡み合うように桜園を飛び回っていました。
エナガもいました。


2019.9.12.13            修那羅の石神仏50体(46)   馬に乗った武神
 馬に乗った引立烏帽子をかぶった武人、あるいは貴人と見える像である。少しいかめしい顔つきをしている。それに対して、馬は、首をかしげたとぼけた顔で、人か入って担いでいるような足など学芸会の馬のようで、この武人と馬のアンバランスがこの像の一つの魅力になっている。「願主子年男」の銘があがる。何を祈ったのであろうか。

修那羅の石神仏50体(47)   対神1
 対神と名付けられている、対(つい)、すなわちペアで並んでいる神の像が何体か見られる。信州ではペアの神の石像としては道祖神が知られているが、修那羅には所謂、道祖神に見える像は見当たらない。しかし、男女とみられる対神もあり、道祖神信仰との関わりは考えられる。

 しかし、この対神は道祖神とは縁のない像で、侍烏帽子に大袖付胴丸の鎧を着けた典型的な侍の像である。向かって左の像は両手で刀を構えた像で、「大切皇神」の銘がある。向かって右の像は刀を抜こうとしている像で「大銑皇神」の銘がある。「大切皇神」については「病根切神」の銘のある(39)の鎌持神と同じく病根を断ち切ってもらうために祈った神であるのかもしれない。

修那羅の石神仏50体(48)   対神2
 この像は対神というより対仏である。合掌して蓮華座に立つ菩薩風の像で、向かって左の像の背後には月輪、右の像の上には日輪が刻まれている。この像は金井一族の銘のある文字碑や金井一族の建立と思われる(42)~農などがある一画にあり、金井一族と関わりのある像と思われる。

修那羅の石神仏50体(49)   対神3
 りっはな八字髭をたくわえ、笏を持った対神像である。この種の神像は他に類を見ず、名前もわからず、どのような信仰による神かわからない。

修那羅の石神仏50体(50)   対神4
 修那羅をでは最もよく知られた対神である。両神とも両手で剣を持ち、宝冠をかぶり流れるような衣紋の衣装を着ている。向かって右の像には頭光がある。信州の夫婦道祖神は右が男神で、となりに女神が寄り添っているが、この像も顔つきなどから右が男神、左が女神のようにも見える。

 この対神も名前がわからず何を祈ったかわからない。筑北村教育委員会が作成した「修那羅山安宮神社石神仏群ガイドブック」では「弁財天にあやかって彫られた対神像。女性の福の神として彫られたものであろう。」としている。弁財天には八臂像や琵琶を持った像以外に、剣を持ち宝冠をかぶり、天衣を着けた二臂像も見られるので可能性はあるが、二臂の辨財天が剣と共に持っているはずの宝珠は見られず、何とも言えない。抱くように持った剣が印象的で「威力ある神」として祀ったのであろうか。

2019.9.9             修那羅の石神仏50体(44)   鉄砲を持つ神
 修那羅には刀や弓矢など武器を持った武人像が何体か見られる。鎧兜を着けた武士風の像もあり、修那羅の石神仏の一つの特徴となっている。鉄砲を持った像も2体見られる。その内の一体が右目を細めて狙うように鉄砲を構えたこの像である。服装は鎧兜ではなく着物で武士というより猟師といったイメージで、狩猟の神、あるいは狩人の神とする説がある。

 ただ、鉄砲の持ったもう一体は鉄砲は短銃のような物で狩猟に使う銃には見えず、鉄砲は仏像の天部像や修那羅の他の武人像の持っている刀や弓矢なとと同じ、敵を威圧する道具と考えるのがいいように思う。

修那羅の石神仏50体(45)   武神
 修那羅を代表する武人像である。鎧を着けて武士の持つ長い刀を2本腰に差した、いかめしい姿をした像である。着けた鎧は、錣(しころ)や草摺(くさずり)や膝や足を守る佩楯(はいだて)臑当(すねあて)など本格的な具足の鎧である。そのくせ、頭にかぶるのは近代的軍隊の鉄カブトのようである。顔の作りや石材・彫り方は(3)の父子像やその近くにある宝珠を持つ像・(24)の獄卒の鬼などに似ていて同じ石工の作と思われる。

 このような武人像やそれに近い像は修那羅にはいいくつもあり、一つの傾向をなしていて、修那羅特有の信仰があったのであろう。敵を威圧する「威力ある神」という意味があったのかもしれない。その意味でこれらの武人像を「武神」と表現した。

2019.9.6撮影                         キビタキ♀             地元の山の上の桜園にて 
前日に引き続いて山の上の桜園に行きました。キビタキの雄がねらいだったのですが、2羽のキビタキの雌しか撮影できませんでした。
2羽目のキビタキ雌です。


2019.9.5撮影                 キビタキの採食・ヤマガラ          地元の山の上の桜園にて 
セッカを撮影する前に山の上の桜園に行きました。今日もキビタキがいました。
キビタキの若鳥が大きな蛾の幼虫を銜えていました。
キビタキ♀が枯れた杉の枝にとまっていました。
キビタキ♀は小さなムカデorヤスデを銜えて振り回しています。
ヤマガラを撮りました。開けた口から舌が見えていました。


2019.9.5                             セッカ                   近くの水田地帯にて 
水田地帯のセッカのいる草地へ行きました。今日もオオアレチノギクの上にとまって「ヒッヒッヒッ」と澄んだ声で鳴いていました。


2019.9.5                修那羅の石神仏50体(42)   ~農
 ~農は中国の農業神で、中国古代の伝説上の帝王(三皇五帝)、三皇の一人、炎帝と結びつき、炎帝神農氏と称される。農業以外に、医薬の神、鍛冶の神、商業の神、易の神としてあがめられるようになった。日本でも漢方医や薬種商によって祀られた。

 この像は(41)福禄寿と同じ石質であり、同じ石工の作と思われる。この像も金井一族の建立と思われる。金井一族は本家は酒屋であるが、一族の金井みちは薬屋を営んでいたという。金井みちは熱心に修那羅を信仰していたようで「金井みち」と刻銘のある文字碑が何体かあり、この像も刻銘がないが金井みちの建立かもしれない。

修那羅の石神仏50体(43)   天神
 この像は張り子人形や土びななどでよく見かける天神とよく似ていて、ウメバチの紋はないが天神と思われる。杓や装束を線彫りで表した素朴でユニークな像である。この地方では天神講と呼ばれる子供達の行事もよくおこなわれていて、天神様は村人には親しまれる存在であった。

2019.9.4                 キビタキ幼鳥・赤い木の実とメジロ   地元の山と山の上の桜園にて 
地元の山の上の桜園に行きました。キビタキの幼鳥が2羽いました。
キビタキの幼鳥の羽づくろいです。
地元の山のハイキングコースでは赤い木の実(アオハダの実?)を食べるメジロを撮影しました。。

2019.9.3                       イソヒヨドリ・ケリ            自宅前と近くの水田地帯にてにて 
 地元の山の上の桜園と近くの水田地帯をまわりましたが、キビタキなどの夏鳥もケリ以外にチドリ・シギ類もいませんでした。結局、自宅のベランダからとなりの建物で毎日のように囀っているイソヒヨドリを撮影したのみです。
 水田地帯の休耕田はケリとコサギしかいませんでした。5年ほど前にはセイタカシギやタマシギ、アオアシシギなどを撮した場所なのですが。今年は特に悲惨で去年まで撮影していたジシギ・クサシギ・タカブシギ・トウネンもまだ撮影していません。

2019.9.1                           コサメビタキ                 地元の山の上の桜園にて 
 昨日に引き続いて地元の山の上の桜園に行きました。杉の林ではエナガ・メジロの混群やムシクイなどを見かけました。桜園ではコサメビタキ・メジロ・コゲラの混群に出会ったのですが、桜の葉が茂っていてなかなかよい写真は撮れませんでした。キビタキも1羽混ざっていましたがピンぼけ写真しか撮れません。

 そのような中、1羽のコサメビタキだけが撮しやすい目の前の小枝にとまってくれました。口を大きく開けた姿などを撮ることができました。 (8月29日に撮影し、コサメビタキとした写真は見直してみるとキビタキの雌でした。訂正します。)


8月 10月