「フォトギャラリー 石仏と野鳥」 新版  2019年8月

 
7月 9月

2019.8.31                           キビタキ                   地元の山の上の桜園にて 
29日にコサメビタキの群れを見たので、他にも夏鳥が入っていないかと期待して地元の山の上の桜園に行きました。
思惑通り、キビタキを撮影できました。

2019.8.30               修那羅の石神仏50体(40)   寿老人
 七福神の一人、寿老人の像?。寿老人は中国、宋の元祐年間の人で、星辰信仰に由来する南極星の人格化ともいわれる。長頭の老人で頭に巻物をつけた杖をついているとされる。同じく七福神の一人、福禄寿も長頭の老人で頭に巻物(経巻)をつけた杖をついた姿で表され、七福神を描く場合、寿老人は頭巾をかぶった姿で表されることが多い。絵画などでは寿老人は鹿を従えていたり、杖以外に桃や団扇を持った姿で表される。この像は右手に経巻を持ち左手で杖をついていて、どちらとも言えないが、修那羅の他の2体の経巻や杖を持たない長頭の老人像が福禄寿と思われるのでこの像を寿老人とした。福禄寿も南極星の化身とされ、寿老人と福禄寿を同一神とみなされことも多い。

修那羅の石神仏50体(41)   福禄寿
 中国人が人生の三大目的とする福(幸福)・禄(身分)・寿(寿命)の全てを兼ね備えたのが福禄寿で、その姿は、寿老人と同じく、背が低く、長い頭に長い髭、巻物を結んだ杖を持つことになっている。ただ、この福禄寿像は杖や経典の代わりに、右手で宝剣を持ち、左手で宝輪を持っている。次に紹介する(42)~農や(31)蔵王権現・(32)摩利支天と同じ場所にあり、この像も(32)摩利支天で説明した金井一族による建立と考えられる。

2019.8.29        キビタキ♀・シジュウガラ若鳥・イソヒヨドリ    地元の山の桜園・自宅前にて 
 久しぶりに地元の山の桜園に行きました。コサメビタキの群れを見たのですが、桜の葉が茂っていてまともな写真は一枚しか撮れませんでした。コサメビタキと思って撮ったのはキビタキ雌でした。
シジュウガラの若鳥の群れも見ました。
家に帰ると、家の向かいの建物のテレビアンテナで、いつものようにイソヒヨドリが囀っていました。

 
2019.8.29       自由で素朴で個性的な表現の石仏(34)   瑞光庵磨崖仏 
大分県豊後大野市緒方町越生 「江戸時代」
 豊肥本線緒方駅の北東、1.5q、徒歩20分。田んぼを横切って、坂を上ると、深く大きな岩窟がある。その奥に、異様な雰囲気の不動明王像が刻まれている。 目はつり上がり、大きな口をくいしばって、 右手に剣、左手に羂索を持っている。 火焔と唇の赤と剣と歯の白の色が鮮やかである。 近世の地方的な作であるか、庶民のエネルギーを感じさせる磨崖仏である。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(35)   上坂田磨崖仏
大分県竹田市上坂田  「嘉永6年(1853)」
  豊肥本線竹田駅から西約10q、竹田市炭竈の宮城簡易郵便局の北西の山中の石窟に彫られている。上坂田東公民館の西200mに小さな鳥居があり、そこが上坂田磨崖仏への入り口である。そこから山道を数百b上ると上坂田磨崖仏のある石窟に着く。

  高さ3m、幅6m、奥行き6mの石窟の向かって右の側壁の一番奥に半肉彫りした像で、通称「安楽様」「しょうりょう様」などといわれている。 大きな顔に三角形の鼻が彫られ、口から歯をむき出し、両肩から羽根をはやしていて、 胴は作られていない。 山岳信仰との関係が考えられるが、詳しいことはわからない。石窟内に「嘉永6丑年(1853)」の銘がある。大きいだけでなく、不気味な凄みのある像である。

2019.8.28               修那羅の石神仏50体(39)   鎌持神
 地蔵のような姿で両手で棒を握るように鎌を持った神像である。碑の右に「御手ニ鎌持」、左に「病愈神/病根切神」と銘がある。農具である鎌を持つことから農業に関わる神とも考えられるが、碑の左の刻銘から、病根を断ち切ってもらうために祈った神であることがわかる。この像も修那羅を代表する石神仏の一つである。

修那羅の石神仏50体(40)   錐を持つ神
 (39)の鎌持神のとなりにある神像で錐のような物を右手に持つ。鎌持神と違って十王風の冠と服装である。地獄絵図などに亡者の頭に錐を刺す鬼なども見られるので、この像は閻魔十王ではないだろうか?

 
2019.8.27    自由で素朴で個性的な表現の石仏(33)   瑞巌寺磨崖仏小石窟
大分県玖珠郡九重町大字松本 「江戸時代」
不動三尊・地蔵十王
地蔵菩薩
十王像
 大分県の史跡に指定されている瑞巌寺磨崖仏から20m程離れたところに、小さな石窟があり、不動三尊や地蔵菩薩・多聞天などの小像を薄肉彫りする。彩色が残り、地蔵の光背の周縁には十王像を墨書きして色をつけている。不動三尊の脇持は板絵風にして描いている。江戸時代の素朴な作品で、民芸品のような味わいがある。

2019.8.26                          イソヒヨドリ                     自宅前にて 
今日もイソヒヨドリが自宅の向かいの建物ベランダの手すりにとまって囀っていました。
しばらくすると3階だての建物の屋根のテレビアンテナにとまって囀り始めました。
少し飛び上がってアンテナのとまる場所を変えました。

2019.8.25               修那羅の石神仏50体(37)   鍬神
 手に鍬らしきものを持つことから、「鍬神」と呼ばれている。蓮華座の上に立っているが、服装・顔立ちはいかにも百姓といった素朴な感じの像である。高さ40pで文久2(1862)年の銘がある。鍬を持つ石像としては薩摩の田の神が知られているが、この像も同じような農業の神と言えるのかは即断できない。蚕神を除いて農業の神と言えるのは修那羅には多くない。

修那羅の石神仏50体(38)   魚を抱く神
 草むらに埋もれるようにして立つ、高さ45pほどの像で、両手で魚のようなものを抱きかかえている。単純に考えると漁師の神となるが、魚覧観音やえびすなど魚を持つ神仏もあるので、何か別の信仰に基づくものと思える。

 
2019.8.24   自由で素朴で個性的な表現の石仏(28)〜(32) 白滝山の石仏群
広島県尾道市因島重井町  「文政13(1830)年」
 瀬戸内海の中央に位置し、村上水軍の島として知られている。 因島市は一島一市の町で造船業によって栄えた。現在は本四連絡橋の尾道・今治ルートがとおり、歴史の島・観光の島として注目されている。  その因島の東北端にある白滝山は、 岩神の霊場、霊山として知られ、15世紀のはじめ、 村上水軍の将、村上吉充によって、観音堂が建立された。

 頂上には阿弥陀三尊・釈迦三尊像・伝六夫婦像・三大師の他、五百羅漢や十字架を刻む観音磨崖仏や烏天狗などの様々な約700体の石仏が安置されている。

 これらの石仏は、 文政年間に因島重井町の柏原伝六(一観)が、神道・仏教・キリスト教・儒教の宗教の共通理念を一つに融合して「一観教」を編みだした。「一観教」は、伝六自ら教祖として布教され、信者は文政八年(1825)には数千人を数えたという。白滝山の石仏群(五百羅漢)は柏原伝六(一観)が文政10年(1827年)発願し、弟子の柏原林蔵を工事責任者として、 尾道より、石工を呼び寄せ彫らせたもので、3年後の文政13(1830)年に完成したという。。

 白滝山の石仏群は江戸時代後期、一人の教祖によって生まれた新興宗教が生み出した、自由奔放な表現の個性的な石仏群という点で、信州修那羅の石神仏と共通している。

 しかし、石仏から受ける印象は修那羅とは大きく違う。瀬戸内という風土の為か、全然じめついたところがなく、非常に明るい。この明るさが瀬戸内の石仏の魅力である。
(28) 羅漢?・羅漢・大日如来 
 最初の写真でわかるように山頂の阿弥陀三尊から尾根づたいに多くの石仏があり、尾根の両端には羅漢を中心にたくさんの石仏が並んでいる。その中にある羅漢像2体と大日如来像である。右端の石仏は頭部を見て十一面観音観音と思ったのだが、胴体部は菩薩ではなく、明らかに羅漢風である。両手を広げて経典を見ているように見え、迦哩迦尊者(かりかそんじゃ)かもしれない。頭の部分が宝冠とすれば、稚児文殊も考えられるが、顔は明らかに稚児の顔ではなく、象に乗っているようにも見えない。中央の羅漢は半諾迦尊者(はんたかそんじゃ)か。左側は智拳印を結んだ金剛界大日如来である。
(29) 観音? 
 (29)の羅漢や大日如来は尾根の東側である。それに対して、このページの最初の写真やこの像は西側に並べられた石仏群である。ここも羅漢像が多いが、この像のように女性的な像や(30)や(31)のような素朴な幼児のような石仏が混ざっている。この像は蓮華があるので三十三体観音の威徳観音と思われる。ただ、「仏像図彙」などでは威徳観音は左手に蓮華を持っているが、この像では左手を頬に当てているので何とも言えない。
(30) 合掌像
 観音堂の前の小さな山門前に向かい合うように安置されている2体の像の1体で、頭巾をかぶった幼児のような像である。同じような像が尾根づたいに並んだ石仏の中などに見られる。向かいの像もよく似た像でこの像は頭巾のようなものは上が水滴のようにとがっている。
(31) 基壇の石仏 
 過去七仏の基壇にの周りに刻まれた浮き彫り像で、まん丸い顔で胴体もリズミカルに丸や曲線で表した像で、自由で素朴で明るい像形である。合掌する像が多いが宝珠や塔などを持つ像も見られる。
(32) 慈母観音 
 観音堂の山門の手前の大きな岩の上部に彫られた磨崖仏で、赤子をいやすように抱く、子育観音である。像の下には大きい慈母観音と刻銘がある。(29)〜(31)の石仏と比べるとやや硬い表現である。

2019.8.23               修那羅の石神仏50体(35)   蚕神
 十二単をまとう女神像で、右手に桑の葉のついた枝を持つ。養蚕のさかんだった信州には各地に有名な養蚕に関わる神社仏閣があり、また路傍の道祖神や石仏も信仰の対象となった(繭玉を持ったどうぞ陣も見られる)。この像と共に修那羅にも(34)の猫神や三石武古三郎氏が「クワバラ童子」と名付けた像などがあり、大正時代には養蚕農家が非常に多く集まったと伝えられている。桑の枝を持った女神はカイコガミ様などと呼ばれ神社の出すお札によく描かれていている。このように神社などの神札を参照して彫ったと思われ像が修那羅には(33)山犬などいくつか見られる。

修那羅の石神仏50体(36)   ササヤキ大明神
 天衣をまとい、笹の枝を両手で担ぐように持ち、上目遣いで前方を凝視する奇妙な像である。舟型光背に刻まれた「さゝやキ大明神」の神名は、「銭謹金神」や(28)「風うつ神」・(47)「大銑皇神・大切皇神」なとどともに修那羅独特の神名で、意味不明である。ササヤキを「囁き」と解すればロマンチックな神名となるが、笹の枝を持つことから「笹焼き」と考えるのが自然と思われる。ただ、どのような信仰の神については三石武古三郎氏などがいろいろな考察をされているが決定的な説はなく、よくわからない。

 
2019.8.22自由で素朴で個性的な表現の石仏(25)〜(27)黒滝山三十三所観音磨崖仏
広島県竹原市忠海中町4丁目9?1 「 天保4(1833)年」
(25) 22番穴太寺 聖観音
(26) 9番南円堂 不空羂索観音
(27) 7番岡寺 如意輪観音
 JR呉線の忠海駅を下車し、北西に10分ほど歩くと地蔵禅院という寺がある。その寺の横手が黒滝山の登山口である。 約30分ほどで山頂に達する。 この登山道に沿って西国三十三所観音磨崖仏が岩肌に彫られている。 天保4(1833)年に完成した江戸時代の磨崖仏で、 三重県の石山観音磨崖仏とともに西日本の代表的な西国三十三所観音磨崖仏である。

 石山観音磨崖仏のような厚肉彫りではなく、浮き彫りである。造形的な品格はあまりないが、信仰的な迫力を感ずる磨崖仏が多い。2番穴太寺の本尊の聖観音の蓮華座には男性のシンボルが彫られている。9番南円堂の本尊不空羂索観音は本来は一面三目八臂であるがここでは三面になっている。7番岡寺の本尊如意輪観音は浮き彫りというより板彫風で、より素朴な表現になっている。

2019.8.21             修那羅の石神仏50体(33)   山犬
 この山犬像は三峰山信仰に基づいて造立されたものと考えられる。三峰山(埼玉県秩父市)は,鎌倉時代の初期、修験者によって開かれた山で、山上に三峰権現を祀る三峰神社がある。権現の眷族は山犬とされ、「お犬様の札」と呼ばれる神札は火難、盗難をよけると信じられている。長野県では三峰講も多く組織され、今でも広く信仰されている。この山犬像は神札などを元にして彫られたものと考えられる。

修那羅の石神仏50体(34)   猫神
 (25)の鬼の像の左右に猫の像があり、3体でセットのようになっている。長野県では田畑を荒らしていた巨大な大ネズミを退治するため中国から呼び寄せた大ネコ(唐猫=カラネコ)にかかわる伝承が残っていて、唐猫様、カラネコ大神、猫神(ねこがみ)などとしてとして信仰されてきた。特に養蚕がさかんになると猫が蚕の大敵であるネズミを食い殺すことから、蚕神(かいこがみ)=養蚕の神としてあがめられた。この猫の像もそのような信仰から生まれてきたと考えられる。この像の近くには蚕の枝を持った蚕神像もある。

2019.8.19                             セッカ                   近くの水田地帯にて 
7月中よくセッカを撮影した水田地帯の草地です。雑草のオオアレチノギクの上にとまって「ヒッヒッヒッ」と澄んだ声で鳴いていました。
口の中は真っ黒です。


 
2019.8.18         自由で素朴で個性的な表現の石仏(24)   力石二体地蔵
香川県さぬき市多和力石 「江戸時代」
 円と三角形と直線の組み合わせによって表現されたあどけない顔の素朴な2体の石仏で、2体とも石材の向かって左端から伸びた細い右手で棒のようなもの(錫杖?)を持ち、左端から伸びた細い手で片手拝みをする。棒を振って遊んでいる幼児のような、古墳時代の埴輪のような、プリミティブな表現の像である。

2019.8.17             修那羅の石神仏50体(31)   蔵王権現
 蔵王権現は吉野の金峯山寺の本尊として知られ、修験道の開祖、役行者が大峰山で感得したものという仏像である。修那羅大天武と修験道との関わりは深く、この蔵王権現像をはじめ、(27)立山坊舎悪鬼神などの像や「月山」「湯殿山」「天狗」「熊野大神」など修験道に関わる文字碑なども多く見られる。

 この蔵王権現像は浮き彫り像で、右手で宝剣のようなものを振りかざし、左手は剣印を結んで脇腹に置き、右足を躍らせ、右足を踏みしめている。金剛杵が宝剣になっている以外は蔵王堂本尊や「仏像図彙」の像など今までの蔵王権現の姿を踏襲している。力強さは感じられるが忿怒相はいかめしくはなく、どこか親しみを感じる顔である。次に紹介する摩利支天と同じ石工の作と思われる。

 蔵王権現の石像は修験道の発祥地の関西では珍しく奈良県三郷町の山上蔵王権現石仏(南北朝時代)や奈良県大淀町の泉徳寺の像(室町時代)などが知られているのみであるが、江戸時代末期から近代にかけては関西は見られないが全国各地で蔵王権現石仏が造立されている。長野県でもみられ、修那羅と関係のある更埴市郡にある霊諍山にも見られる。

修那羅の石神仏50体(32)   摩利支天
 蔵王権現像と同じく上を丸くした板状の石材に浮き彫りで表した像で、猪に乗る憤怒相の三面六臂像で、弓矢や軍配などを持つ。摩利支天は武士の守り本尊として、護身・蓄財・勝利などを祈る対象とされているが、信州では「生き霊よけ」として信仰もあるという。また木曽の御嶽信仰とともに広まり、各地の山岳に勧請され、江戸末期以降、甲信越や関東で摩利支天像は造立された。長野県では霊諍山の摩利支天石仏や茅野市の惣持院や権現の森の摩利支天石仏が知られている。

 この像や(31)蔵王権現・(7)勝軍地蔵や後で紹介する(42)~農など同じ場所に置かれていて、酒屋や薬屋を営んでいた金井一族が明治時代に建立したものと思われる。おそらく「仏像図彙」などの仏像図譜などを参照して造立されたのではないだろうか。

2019.8.13.14.15撮影                  イソヒヨドリ                     自宅前にて 
自宅の向かいの建物で、毎日、巣立ったイソヒヨドリがベランダの手すりにとまって囀っています。
8月13日撮影
8月14日撮影
8月15日撮影

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2019.8.15       自由で素朴で個性的な表現の石仏(21)〜(23)   鮭立磨崖仏
福島県金山町山入字石田山2692 「江戸時代」
(21) 鬼子母神・湯殿権現・深沙大将・九頭竜権現・風神・雷神
(22) 飯綱権現
(23) 牛頭天王
 鮭立集落の南西の山麓の小高いところに凝灰岩の洞窟があり、その壁面に像高14pから60pに至る大小様々な刻像が、交互に40〜50体びっしりと、不動明王を中心に密教系の諸仏・天部や垂迹神像が半肉彫りされている。深沙大将(じんじゃだいしょう)や牛頭天王(ごずてんのお)・荼枳尼天(だきにてん)・飯綱権現(いづなごんげん)など石仏としては数少ない像もある。また、一洞窟に、これほど多種多様の像が刻まれているのも珍しい。飯綱権現像や愛染明王像などには彩色の跡が残っていて、もとは、美しく彩色されていたと思われる。

 この磨崖仏は天明の飢饉や天保の飢饉の惨状を見て、現在の岩淵家の祖先である修験者の法印宥尊とその子の法印賢誉が五穀豊穣と病魔退散を祈って彫ったと伝えられている。

 浅く細長い洞窟で3つほどに分かれていて、中央部の壁面は壁全体が奥まった形に掘りこまれていて、その左面と正面に40体ほど像が刻まれている。正面の中央には不動明王と:八大童子が彫られている。不動明王は像高50pほどで、龕を穿ちその中に彫られている。龕の周りは火焔光背になっていて上部は面両側の表壁をつなぎ透かし彫りにしている。八大童子は矜羯羅童子と制た迦童子はともに像高23pで、龕の両側下に彫られている。他の6童子は龕の上部と下部に彫られている。不動明王の向かって右の龕は飯豊山神社を祀る祠になっている。向かって左には龍頭観音・牛頭天王・梵天・釈迦三尊などが並んでいる。

 左面には28体の像が彫られている。左端には45p〜53pの比較的大きな像が並んでいて、左から鬼子母神・箱根権現(or湯殿権現)※2・深沙大将・九頭竜権現でこの磨崖仏で最もよくで紹介されている部分である。その右には、風神と雷神が並び、その右は4段に分かれて、荼枳尼天・淡島様・愛染明王・聖観音・渡唐天神・弁財天など諸像が所狭しと彫られている。左面の右端は摩滅が進んだ尊名不明の像(文殊菩薩?)と飯綱権現が上下に並んでいる。

 3つに分かれた右側には青面金剛・大黒天・水神・地天などが彫られているが、中央の諸像よりは摩滅が進んでいる。左側の壁面は彫られた像は見当たらない。小形ながらどの像も儀軌に準じて彫られていて、一種の曼荼羅のようになっていて魅力的である。砂岩も含んだ軟質な凝灰岩のため摩耗がすすみ、顔の細かい表情がわからず、印相や持ち物の識別が困難な像が何体かあるのが惜しい。

※1 深沙大将の磨崖仏としては他に大分県の高瀬石仏・広島県の竜泉寺白滝山磨崖仏がある。
※2 閻魔王という説が一般的であるが、閻魔王の多くは片手で笏を持つ座像であるのが通常で、閻魔王とは思えない。「仏像図彙」(元禄3年に刊行の「仏神霊像図彙」の復刻版)の伊豆箱根権現もしくは出羽湯殿権現にそっくりなことや湯殿権現・箱根権現は修験道に関わる神であることによって湯殿権現(or箱根権現)とした。
       


2019.8.14       修那羅の石神仏50体(29)   行者1(修那羅大天武?)
 安宮神社拝殿横の渡り廊下をくぐると(26)の鬼神などとともに2体の修那羅大天武像とされる行者像がある。奥の方にある1体は右手に剣、左手に巻物を持ち、行者風の衣装をまとっている座像である。総髪を後にたらし、髭をたくわえた姿で額に皺があり、もう一体の像よりも写実的で修那羅大天武を彫った肖像彫刻のようにも見える。

修那羅の石神仏50体(30)   行者2(修那羅大天武?)
 もう一体は(26)の鬼神の近くにある両手で宝剣を持った像高70pの立像である。筑北村教育委員会の作成した「修那羅山安宮神社石神仏群ガイドマップ」ではこの像を修那羅大天武像とし、、大天武の死後、土地の人々が古人の言い伝えをもとに、彼の偉大さを称え奉納したものとしている。

 
2019.8.13            自由で素朴で個性的な表現の石仏(20)   万治の石仏
長野県諏訪郡下諏訪町社 「万治3(1660)年」
 岡本太郎が絶賛したという石仏がこの万治の石仏である。諏訪大社の春宮の左を流れる砥川の西、田んぼの中に巨大な阿弥陀如来像がどっしりと座っている。高さ2mほどの半球状の石の胴体に、イースター島のモアイを思わせる高い鼻と深い眼が印象的な首がちょこんとのっている。弥陀定印を結ぶ手や袈裟などは、板彫風に線や面を薄肉彫りし、メキシコのマヤ文明の彫刻を連想するような抽象的な表現となっている。「南無阿弥陀仏 万治三年 願主明誉浄光 心誉慶春」と銘が刻まれている。

 諏訪高島三代藩主忠晴が、諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納しようとした時、命を受けた石工が大鳥居造営の材料としてこの地にあった大石にノミを入れたところ、血が流れ出したので、取りやめてこの石に阿弥陀如来を刻んだという伝説が残っている。この伝説と共に、一度見たら忘れることのできない迫力のある異形の石仏は「自由で素朴で個性的な表現の石仏」にふさわしいものである。

2019.8.12                          コチドリの採食             近くの水田地帯にて 
 連日の猛暑で、水の張った休耕田の水がどんどん干上がっていきます。従って例年ならよく見かけるクサシギは全く見かけません。干上がる直前の休耕田に2羽の若いコチドリがいました
コチドリは干上がりかけた泥土をつついて何か食べています。
何か細長いもの(ユスリカの幼虫?)を食べているように見えるのですが、舌のようにも見えます。

2019.8.11       修那羅の石神仏50体(27)   鬼神2(立山坊舎悪鬼神)
 石材を舟型にして、そこに右手で宝剣を左手で羂索を持って立つ鬼を半肉彫りしたもので、「立山坊舎悪鬼神」の刻銘がある。顔は2本の角で牙をむいた典型的な鬼の顔であるが、(22)や(25)(26)の鬼のような恐ろしさや迫力を感じさせないとぼけた雰囲気の顔である。立山は修験道の霊地として広く信仰を集めていた山である。修那羅大天武は修験道と関わりのある行者と考えられることから修那羅にはこのように修験道に関わる神仏が多く見られる。

修那羅の石神仏50体(28)   鬼(風ふつ神)
 舟型石材に両手を腹の上で組んで立つ像を半肉彫りしたもので、胸元に鬼の字の浮き彫りがある。つり上がった鋭い目であるが、牙や角はなく鬼には見えない。像の向かって右に「風ふつ神」の刻銘があり風神と関係あるのかもしれない。ただ、最初の字は「風」としたが「凪」の字にも見え、何とも言えない不思議な像である。

 
2019.8.10       自由で素朴で個性的な表現の石仏(15)〜(19)   伯耆国分寺石仏
鳥取県倉吉市国分寺88
 
(15) 如来像1 
(16) 如来像2 
(17) 薬師如来像? 
(18) 如来?or比丘形像? 
(19) 菩薩像? 
 鳥取県倉吉市の社小学校の前庭に「伯耆国分寺石仏」または「社五体仏」と呼ばれる謎の石仏が5体ある。その内4体は、北条五百羅漢石仏のように、高さ50cmから85cmほどの角柱状の石材に、顔を大きく薄肉彫りに彫り、首より下は、もとの角柱のままにして、簡略に表現にしている。あとの1体も角柱状の石材ではないが共通した表現である。
 ただ、顔の表情などは、異様さでは北条五百羅漢石仏と共通するが、雰囲気や表現は異なっている。どちらかといえば、文英の石仏の表現に近く、木喰的な表現といえる。特に、向かって左の2体は分厚い唇や三日月状の大きな眼の表現は、木喰仏そっくりである。

 この石仏は近くの伯耆国分寺跡から出土したといわれていていて、石材は伯耆国分寺の地覆石ともいわれている。しかし、制作年代や作者は全く不明で、尊名もまったくわからない。その意味でも謎の石仏といえる。

 木喰が彫った石仏であるという説もある。それによると、木喰は寛政十年(1798年)5月から7月に伯耆を訪れていて、その時つくられたのがこの石仏であり、「御やど帳」には寛政十年五月二十日「国分むら、国分寺」の記録もあるという。しかし、あくまでも推論にすぎず、木喰作であるという確証はない。(表現から見ても、左の2体以外は、木喰仏とは異なるように見える。)

 しかし、「文英の石仏」や北条五百羅漢のように自由で素朴な表現からみて、制作年代は、桃山時代以降と考えられる。そして、作者も専門の石工とは考えにくく、円空や木喰のような、半僧半俗の「ひじり」によって刻まれた可能性は高いのではないだろうか。 

2019.8.9                         イソヒヨドリの若鳥                     自宅前にて 
自宅の向かいの建物で毎年、イソヒヨドリが巣を作り、子育てをします。巣立った若鳥がベランダの手すりにとまって囀っていました。

2019.8.8                修那羅の石神仏50体(25)   鬼or猫神
 前に獄門の首が置かれた修那羅大天武と彫った大きな文字碑の裏に2匹の猫の像に挟まれ安置されている鬼の像である。牙のある大きな口を開き、太い眉毛と大きな目で睨みつけている。胴体は頭に比べると小さく、衣服等の装飾物を一切省略した裸身のため子供の身体のように見える。右手を胸に、左手を腹に当てたかっこうは修那羅独特のポーズで、他に(20)の金神や次に紹介する鬼神などいくつか見られる。脚にはぽこんとした可愛い膝頭が刻まれている。

 頭の左右には猫の耳のような角があり、手足の爪か猫の爪のようにとがっていて、左右に猫の像とセットのように並べられていることなどから、見ようによれば猫の人格神(猫神)ともとることができる。(修那羅と関係深い更埴市の霊諍山には顔が猫で身体が人体の猫神がある。) 

修那羅の石神仏50体(26)   鬼神1
 安宮神社拝殿横の渡り廊下をくぐると最初に見られるのがこの像である。手の位置などが(25)の鬼とよく似ていることから、鬼神とした。細長い自然石の表面いっぱいに半肉彫りした像で、(25)の鬼と同じように頭が大きく、衣服等の装飾物を一切省略した裸身で、脚にはぽこんとした膝頭がある。つり上がった目でやや顎か出た独特の顔をしていて、髪の毛はオールバック風に後ろになびかせ、足くびは直角に曲げられている。稚拙な表現であるが、不気味な迫力を感じる像である。「安政四丁巳六月吉日」の刻銘があり、幕末の安政4(1857)年の造立であることがわかる。

 
2019.8.7         自由で素朴で個性的な表現の石仏(7)〜(14)   北条五百羅漢
兵庫県加西市北条町北条1293  「慶長年間(1596〜1614)頃」
(7) 五百羅漢1 
(8) 五百羅漢2 
(9) 羅漢1 
(10) 羅漢2 
(11) 羅漢3 
(12) 女性供養者 
(13) 倶生神 
(14) 文殊菩薩 
 北条鉄道の終点「北条町」駅の北にある住吉神社と酒見寺の境内を北進すると北条五百羅漢で知られた羅漢寺にでる。「慶長十五年(1610)二月廿一□」の刻銘を持つ仁王像が入口にひかえている。境内の奥に、約400体に及ぶ五百羅漢石仏が林立している。釈迦三尊・冥界仏・眷属など20数体以外は方柱形の石材に頭部だけ刻みだした羅漢で、他にあまり例を見ない特異な造形美の石仏である。

 ほとんどの像は60〜100pの角柱状の石材の上方から頭部を彫りだし、肩から下はほぼ元の角柱のままにして、わずかに手や持ち物などを線刻または板状に薄肉彫りしているだけである。
   顔は、釈迦三尊・冥界仏・眷属などを除くと、羅漢と思われる像は、開けているのか閉じているのかわからない不思議なまなざしの目(『モノマニックな眼』と若杉慧氏は表現された。)と鼻筋の通った特色のある鼻、直線または小さな弓形の線で表現した口からなりたっていていて、すべて、共通した表現である。

 それでいて、すべて面貌が異なり、一体一体に個性が感じられ、『親が見たけりゃ 北条の西の 五百羅漢の堂にござれ』という古い民謡があるというのもうなずける。

 制作年代については、現在、仁王像などの刻銘から慶長年間(1596〜1614)頃の制作と考えられている。作者については不明で、岡山県の「文英の石仏」のように、具体的な人物・作者は全く浮かんでこない。

 しかし、「文英の石仏」と同じように、作者の個性が感じられ、円空仏や木喰仏の素朴で自由な表現につながる。「文英の石仏」が木喰仏的表現の先駆であるとすれば、ノミの跡が非常に鋭く美しい「北条五百羅漢」は、石仏における円空的表現といえるのではないだろうか。

 メインページで述べたように、円空仏や木喰仏は石仏も含めた幅広い日本の彫刻史の歴史の中では、異端とはいえない。「文英の石仏」やこの「北条五百羅漢」のような先駆的な彫刻があって、円空仏や木喰仏が存在するのである。そして、「北条五百羅漢」も、突如として生まれたものではない。石棺仏に代表される、播磨地方の石造技術の伝統の中から「北条五百羅漢」も生まれたものである。

 宮下忠吉氏は「石棺仏」(木耳社刊)の中で播磨石棺仏についての全体像を明らかにし、石仏表現の変遷を真禅寺本堂前の阿弥陀石棺仏などの古典(クラシック)表現から真禅寺墓地の阿弥陀石棺仏に代表される抽象表現の流れで説明された。そして、真禅寺墓地の阿弥陀石棺仏に代表される抽象表現の流れの頂点として「北条羅漢石仏」を位置づけらている。(播磨の石棺仏「真禅寺の石棺仏」参照)

2019.8.6                  修那羅の石神仏50体(22)   
 修那羅には鬼や鬼神と思われる像がいくつもある。地獄の鬼や獄卒と考えられるもの以外に、威力ある神としての鬼と考えた方がよい鬼(鬼神)もあり、非常にバラエティに富んでいる。数ある鬼・鬼神の中で純粋に鬼と考えられるのがこの3体の鬼である。

 この3体の鬼は他の石神仏群から離れた北アルプスの見える尾根道に並んで立っている。いずれも角が生えた恐ろしい顔つきで、左側の像は、駒形の石材に金槌を自らの頭に打つ着けるようなボーズの鬼を厚肉彫りしたもので、中央と右側の像は丸彫りで、金槌を肩に担かつぐいだ姿(中央)と金棒をドシンと着いた姿(右側)である。言うことが聞かなければ打ちすえるぞと脅しているように見え、民話や昔話に出てくる鬼のようで、恐ろしい中にユーモアが感じられ鬼たちである。

修那羅の石神仏50体(23)   獄卒の鬼1
 生前にウソをついた者は閻魔に裁かれ舌を抜かれるるという話はしばら前までは知らぬ者がない話である。その舌を抜く獄卒の鬼を表したもので釘抜きのようなものを持つ。恐ろしい顔つきであるがどことなくとぼけた感じの鬼である。

修那羅の石神仏50体(24)   獄卒の鬼2
 この像も釘抜きのような者を持っていて、(23)と同じ獄卒の鬼?としたが、顔は穏やかで角もなく鬼には見えない。顔など全体の表現は(3)の父子像やその近くにある宝珠を持つ像によく似ていて、同じ石工の作と考えられる

2019.8.5撮影               コチドリ・イソシギ・カルガモ親子           近くの水田地帯にて 
連日の猛暑で、水の張った休耕田の水がどんどん干上がっていきます。干上がりかけた休耕田に1羽のコチドリがいました。
別の休耕田はまだ水が少し残っていて、その浅い水たまりにコチドリが2羽いました。
コチドリ以外にイソシギも1羽いました。
イソシギがコチドリの近くまで来ました。
親子のカルガモがもう1組いました。こちらは子ガモが1羽です。

2019.8.5                           カルガモ親子                  近くの水田地帯にて 
水田の横の用水路で泳いでる8羽のカルガモの若鳥を見つけました。
 水路横の水田から親鳥と思われるカルガモが現れ、群れに合流しました。子ガモと大きさはあまり変わりません。真ん中で左を向いているのが親ガモです。
 カルガモの群れは親ガモを先頭に水路を進んでいったのですが、水路は板でせき止められていて、カルガモの群れはそれ以上進めません。
すると親ガモは水路のコンクリート壁を羽ばたいて上りました。
子ガモは初め、なかなか親について上ろうとしなかったのですが、しばらくすると1羽が親に続きました。
その後、次々と子ガモが続いて上り、やがて田んぼの中に消えていきました。

 
2019.8.4           守屋貞治の石仏50体(49)   建福寺願王地蔵
長野県伊那市高遠町西高遠1824  「文政13(1830)年 66歳」
 建福寺の本堂の西脇に坐す地蔵尊が貞治の最高傑作の一つ、願王地蔵尊である。岩座に坐し、右手を上げて施無畏印、左手で膝の上で宝珠を持つ、石材は高遠石の閃緑岩で、顔から胸にかけてよく磨かれていて、雨に濡れたときなどは青光りする。守屋貞治が師として仰いだ温泉寺住職願王和尚は文政12年2月19日、この像のある建福寺での受戒会の時、急病になり、翌日、この寺でなくなっている。その願王和尚を偲んで文政13(1830)年、貞治が66歳の時に万感をこめて完成させたのがこの願王地蔵尊である。

 願王和尚の墓標である温泉寺願王地蔵大菩薩とともにこのページの最初の方に最高傑作として載せたかったのだが、よい写真が撮れず、最後の方での掲載になってしまった。(保存のため像の上に屋根が設けられていて、よい光線が得られず、この像のすばらしさを撮せなかった)

 
守屋貞治の石仏50体(50)   金剛證寺延命地蔵
三重県伊勢市朝熊町岳548金剛證寺  「天保3(1832)年 68歳」
 金剛證寺は、朝熊山の山頂にある空海ゆかりの古刹で伊勢神宮の鬼門を守る寺としても有名である。参道に追善供養の卒塔婆が林立する奥の院に、このた延命地蔵尊がある。錫杖と円光が欠損し、首の稚拙な修理が気になるが、静かで知的な表情が魅力的である。天保3(1832)年11月19日、守屋貞治は68歳でなくなる。その最後の年に彫像した像の一つがこの延命地蔵である。この像は伊勢河崎で野村家の為に彫ったもので、基柱には「石工信州高遠守屋浄律敬白」と署名の刻銘がある。


2019.8.3                         コチドリの若鳥                  近くの水田地帯にて 
 猛暑の中、クサシギかジシギでもいないかなと何時も行く水田地帯に行きました。今日も目立つのはヒバリとケリだけです。干上がりかけた休耕田で先日と同じくコチドリの若鳥を撮影しました。

 
2019.8.2    自由で素朴で個性的な表現の石仏(4)   遍照寺地蔵石仏(1号石仏)
岡山県岡山市北区立田 
 大崎廃寺跡の東にある遍照寺の墓地にある遍照寺地蔵石仏(1号石仏、高さ106cm)である。大崎廃寺跡地蔵石仏と同じ円光光背を負う延命地蔵座像の薄肉彫りである。しかし、全体的な印象は大崎廃寺跡地蔵石仏と異なる。大崎廃寺跡地蔵石仏は無骨な農夫のような素朴さが魅力的であるのに対して、遍照寺1号石仏は、尼僧を思わせる上品な美しさが魅力である。鼻は大崎廃寺跡地蔵石仏と同じ団子鼻であるが、顔の形は瓜実顔で、目はまっすぐな小さな目で、おちょぼ口である。胴体部や蓮弁も線彫りというより浮き彫りに近く、非常に丁寧に彫られた美作である。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(5)   江口家墓地地蔵石仏(1号石仏)
岡山県岡山市北区門前 「天文4年(1535)」
 国道429号線脇にある小さな墓地(江口家墓地)に3(2)体の文英様石仏がある。(2号石仏と3号石仏は表裏に彫られている。)江口家墓地1号石仏(高さ83cm)は丁寧に仕上げられた薄肉彫りの秀作で、頭部・胴体部とも薄肉彫りの遍照寺1号石仏によく似た表現の延命地蔵石仏である。「天文四年(1535)願主」「八月二十四日」の記銘がある。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(6)   常楽寺文英様石仏群
岡山県岡山市東区草ケ部 「永禄10年(1567)」
十一面観音 
定印の比丘形像 
 築地山常楽寺は奈良時代、報恩大師が開いたと言われる報恩大師開基・備前48寺の一つで、盛時には20余の院坊があったと伝える。文化年中に大半の堂宇を焼失し、その後再建された。明治16年再び大部分を焼失し、現在は山門と近年改築された本堂がある。築地という地名は山中に弘法大師が築いたという築地があることから地名がついたと言われる。実際、常楽寺の裏山、大廻山・小廻山の山頂近くには土塁(築地)が谷部には石塁が残っていて、古代の山城の跡だという。

 その裏山から戦後の開墾によって発見された文英様石仏が17体、常楽寺の旧客殿下の石垣下に祀られている。すべて、高さ80cm〜30cmの小石仏で、十一面観音像、1体を除いて他は地蔵石仏と思われる。高松平野によく見かける錫杖と宝珠を持つ延命地蔵は見あたらず、合掌印が多い。また、放射光の頭光の光背を背負い、法界定印の比丘形像(地蔵?)も3体見られる。同じ文英様式でも、顔の形が、まん丸・角張った丸・長円・瓜実顔など様々あり、表情も少しずつ違い、それぞれ個性的である。

 放射光光背を負う法界定印の比丘形像の文英様石仏は山陽町の千光寺にも、2体見られ、その内の1体に永禄10年(1567)の紀年があることから、放射光光背を負う法界定印の比丘形像は文英様石仏の末期の作と思われる。

 
2019.8.1        守屋貞治の石仏50体(47)   片田墓地佉羅陀山地蔵菩薩
三重県志摩市志摩町片田片田共同墓地  「文政11(1828)年 64歳」
 風光明媚なリアス海岸がつづく志摩市の志摩町片田の海の見える共同墓地に貞治の64歳の作である地蔵石仏がある。右頬に手を置き左手で宝珠を持つか佉羅陀山地蔵菩薩で、もとは伊勢河アの宝珠院にあり、廃寺となった宝珠院より明治4年にこの墓地に移したものである。太平洋を望む墓地の高台に置かれている。

 この石仏の造立についての経緯は「石仏菩薩細工」とともに貞治が残した「旅日記」に詳しくかかれている。「旅日記」によると、地蔵尊建立のため貞治は文政(1828)11年3月4日に高遠を出発し、3月15日に伊勢河崎に着いている。伊勢参りなどをしたあと現地で石材を探すが見つからず、結局、伊勢では気に入った石材を得られず、その後石材調達の旅に出て美濃池尻村で石材を手に入れ、その地で二ヶ月かかって地蔵尊を彫像している。6月18日に完成し、地蔵は舟で長良川を下り桑名から伊勢河崎まで海路運んでいる。

 
守屋貞治の石仏50体(48)   安楽寺如意輪観音
長野県駒ヶ根市上穂栄町9-5  「文政13(1830)年 66歳」
 赤須地蔵堂にあったものを安楽寺に移管した如意輪観音像で、安楽寺の本堂脇の立派な覆堂の中に安置されている。三重の蓮華座に右膝を立てて座り、右手を軽く頬にあて慈悲にあふれる眼差しで思惟する大型の如意輪観音である。

 基壇には「観音経書写」の銘があり、右側面には「金剛石上現慈顔 水月松風満九□ 唯為人間抜苦 養蚕悲願重於山 太宗謹題」と讃を刻み、左側面には「願主仙桂尼信施主謹立」と裏側には文政十三年歳舎庚寅冬十二月之吉」と刻まれている。西国三十三所観音石仏などとして多数、造立してきた如意輪観音の集大成と言える作品である。

7月 9月