「フォトギャラリー 石仏と野鳥」 新版  2019年6月

 
5月 7月


 
2019.6.28               磨崖仏100選(94)   鵜戸神宮磨崖仏
宮崎県日南市宮浦鵜戸鵜戸山  「明和元(1764)年・明和2(1765)年 江戸時代後期」
不動明王
閻魔王像
 鵜戸神宮は山幸彦、海幸彦の物語で知られる山幸彦(彦火火出見尊〔ひこほほでみのみこと〕)と海神のむすめ豊玉姫命〔とよたまひめのみこと〕の子どもの「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」を祀る神社で、国定公園日南海岸の風光明媚な海岸にあり、参拝客・観光客が絶えない。明治以前は「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と称した寺院でもあった。

 その鵜戸神宮駐車場の南西側の小さな山の岩肌に、不動明王磨崖仏と閻魔王磨崖仏と四天像と称される磨崖仏がある。(新駐車場の登り口に案内板がある。)「鵜戸山仁王護国寺」の第47世の別当隆岳が明和元年(1764)から同2年に仏師延寿院に彫らしたのがこれらの磨崖仏である。

 不動明王は北斜面の突き出た三角形の岩に火焔光背とともに像高1.27mの不動明王立像を厚肉彫りしたものである。極彩色に塗られていたらしく、光背などに色彩が残る。力強い表現で江戸時代の磨崖仏としては出色の作である。

 山の南側の車道に沿った樹林下の小広場には、大型の転石が数個並んでいて、左端の石には閻魔王の厚肉彫りの倚座像が彫られている。保存状態は良く、整った木彫仏を思わせる石仏である。右手の石には四天像と称される、亡者や獄卒などを彫った像がある。


 
磨崖仏100選(95)   清泉寺跡磨崖仏
鹿児島市下福元町草野  「江戸時代」
武装忿怒立像
仁王像(阿形)
 鹿児島市の南部(旧谷山市)の海岸近くの小さな谷の崖にこれらの磨崖仏は彫られている。この谷付近以外は住宅地になっていて、ここだけは別世界のようである。1998年、最初に訪れたときは荒れ果てて草がぼうぼうと生えていて探すのに苦労した。

 谷は3つほどに分かれていて一番手前の小さな谷の崖に鎌倉時代の作と思われる阿弥陀如来座像がある。風化がすすみ目鼻などは残っていないが、おおらかな力強さを感じる磨崖仏である。

 左の谷はコンクリートで固められ、水路といった感じであるが、その谷の左の崖に仁王(金剛力士)像が2体彫られている。国東半島の石像仁王と表現がよく似ていて、おそらく江戸時代の作であろう。2010年8月に訪れたときには、対岸の谷山大観音の横に仁王像へ行く参道が作られ、間近に拝観することができた。

 清泉寺跡磨崖仏で一番、目立つのは真ん中の谷の大きな崖に半肉彫りされている江戸時代の作の2体の武装忿怒立像磨崖仏である。像高は2mほどであるが蔓草に覆われた岩の崖から今にも飛び出すような迫力がある。彫りは、平安・鎌倉期の磨崖仏のような鋭さに欠けるが、岩自体の魅力がそれを補っていて、江戸期の磨崖仏の最高傑作といえる。 


 
2019.6.29             磨崖仏100選(96)   茂頭観音磨崖仏
鹿児島市五ヶ別府町茂頭  「享保14(1729)年 江戸時代」
 茂頭(もつ)観音は人里離れた山の中にあり、鹿児島市内の同じ観音磨崖仏でも梅ヶ渕観音と比べると訪れる人も少なく、あまり知られていない。しかし、磨崖仏としての出来映えは勝るとも劣らない。

 茂頭観音は茂頭の鹿児島本線の踏み切り手前を左折して茂頭公民館へ行く踏み切りも渡らず、山間の農道を約1Kmほど東へいった山の中にある。鹿児島市のホームページを参考に訪れたが、ホームページの地図の茂頭観音の位置が少しずれていて探すのに苦労した。

 高さ約1.2m、横幅2mの大きな岩の全面を彫り窪めて、聖観音座像を半肉彫りで刻んだ磨崖仏である。頭に弥陀の化仏を置いた宝冠をかぶり、左手に開敷の蓮華を持ち、右手は膝の上で与願印を結ぶ。ふくよかで美しい顔が素晴らしい。岩の美しさを活かした量感豊かな表現で、自然の岩の持つ厳しさとともに自然の岩の持つ温かさを感じさせる磨崖仏である。

 参道入口の鳥居の横の案内板に、「伊集院の曹洞宗雪窓院住職の伊東稔法和尚の子の佑義が、享保14(1729)年、ここに寺をたて、その時からここを寺山と呼ぶようになり、この観音像も、その時につくられたものではないかといわれている」という旨が書かれていた。地元の人は寺山観音とよんで、大切に供養しているようで、訪れたときには美しい花が供えられていた。


 
磨崖仏100選(97)   梅ヶ渕観音磨崖仏
鹿児島市伊敷町6550−5  「江戸時代」
 梅ヶ渕観音ぱ、商売繁盛、厄除け、結婚、受験などさまざまなご利益があるということで多くの人が参拝する観音磨崖仏である。2010年の1月3日に訪れたが初詣の車で道が渋滞していて、駐車場に車を入れることができず、拝観することができなかった。2010年の8月ようやく、やさしい柔和な観音様を拝むことができた。

 高さ4m以上もあろうと思われる大岩の上部に楕円形の彫り窪みをつくり、宝冠をかぶり、両手を腹の前で定印に組み、結跏趺坐する菩薩像を厚肉彫りで刻んだ磨崖仏である。大きく垂れ下がった衣は薄肉彫りで表現していて、垂れ下がった衣の部分を含むと高さ2m近い大作である。

 定印を結び岩の上に坐し、衣を垂らした表現の観音像としては白衣観音があるが(『仏像図彙』参照)、この像は頭から布をかぶっていないので、白衣観音とは断言できないが、仏画を参考に江戸時代以降に彫られた像であると考えられる。鹿児島市の甲突川に架かっていた五つの石橋を作った肥後の石工、岩永三五郎が彫ったという説があるという(梅ヶ渕観音の参拝者の祈願をするために建立された梅ヶ渕観音院のホームページ参照)。

 五ヶ別府町の茂頭観音とともに、鹿児島市を代表する観音磨崖仏である。茂頭観音に比べると量感や力強さにやや欠けるが、繊細で端正な表現の観音像である。岩の上に坐す観音を厚肉彫りと薄肉彫りを使い分けることにより見事に表していて、茂頭観音とまた違った岩の持つ良さを活かした造形となっている。 


 
磨崖仏100選(98)   久山磨崖三十三観音
長崎県諫早市久山町1159−1  「文政11(1828)年 江戸時代」
 久山町の小さなアパートの間の路地の突き当たり、丘の麓の岩肌に彫られた磨崖三十三観音である。慶厳寺磨崖三十三観音と同じく、舟形の彫り窪みをつくり、西国三十三ヶ所観音を半肉彫りしたもので、像は慶厳寺磨崖三十三観音より小さく、やや稚拙な表現となっている。慶厳寺磨崖三十三観音と同じく、彩色の跡を残す。

 崖面の中央に 「文政十一年子天 二月吉祥日 四良兵工 政五郎 虎五郎 宅次郎 赤松 当所 巡礼中 石工 三次良」の刻銘があり、文政11(1828)年に彫られたことがわかる。石工以外の人名は巡礼の世話人・施主である。他にも施主と思われる在銘が多く見られ、西国三十三カ所観巡礼の普及・広がりがうかがえる。 


 
2019.6.30             磨崖仏100選(99)   法安寺磨崖仏
佐賀県唐津市北波多岸山 「昭和27年(1952)」
波切不動
阿弥陀如来像(四国霊場30番 善楽寺)
大日如来・倶利伽羅不動・毘沙門天・千手観音
法安寺は、朝鮮出兵(文禄の役)の時、あらぬ嫌疑を受け、豊臣秀吉により改易された、平安末期から肥前松浦地方で活躍した豪族、波多一族の追善供養のため、小野妙安が大正12年に開いた寺院である。昭和27年(1952)、小野妙安は開山30年に当り、信者とはかり、釈迦涅槃の像をはじめ不動明王・弘法大師等諸仏像百数十体を大石壁に浮彫りして、四国八十八ケ所霊場を建立したという。(法安寺HP参照)

 本堂の対面の岩山に四国八十八ケ所霊場磨崖仏が彫られている。山頂まで細い参道に沿って四国八十八ケ所霊場の本尊を始め多数の2mを超える大きな磨崖仏が刻まれている。不動明王・弘法大師・阿弥陀・薬師・大日如来など様々な仏像が見られる。

 本堂から四国八十八ケ所霊場の参道へ向かうととまず目に入るのが、見事に彩色された大きな波切不動である。右手に持つ剣を頭の上に振りかざし、左手で太い羂索を肩に担ぐように持った不動像で、燃えさかる火焔の前に立つ青い体躯の不動明王で迫力がある。剣を頭の上に振りかざした不動は全国的に見ると珍しいが、唐津市の漁港や田川市の英彦山天宮宮などに見られる(全て昭和期の作)。その波切不動の右手上に全長10mの巨大な釈迦涅槃像が彫られている。第9番札所法輪寺の本尊で、昭和27年2月12日に建立されたものである。

 次に目を引くのが大きな一枚岩に彫った蛇体不動(倶利伽羅剣)・毘沙門天などの5体の像である。その付近から登山道になり、四国八十八ケ所霊場の本尊や弘法大師像など多数の磨崖仏が彫られている。ほとんどが2mを超える量感豊かな厚肉彫りで、15番国分寺薬師如来像・30番善楽寺阿弥陀如来像は貞観彫刻を思わせる整った力強い像である。32番禅師峰寺十一面観音・70番本山寺馬頭観音や山の中腹にある高野大明神とその隣の弘法大師像は土俗的な怪奇さを持った独特な表現になっている。時代は違うが鵜殿窟磨崖仏と共通する雰囲気を持った磨崖仏である。      


 
磨崖仏100選(100)   奇絶峡摩崖三尊大石仏
和歌山県田辺市上秋津 奇絶峡  「昭和41年(1966)」
阿弥陀三尊
 奇絶峡は田辺市の会津川の上流にある渓谷で、不動滝を中心に大小無数の奇岩とともに桜や新緑、紅葉と四季折々の渓谷美を見ることができる景勝地である。不動滝の右手上方には、大きな一枚岩に彫られた磨崖仏が奇絶峡摩崖三尊大石仏である。

 昭和41年(1966)、田辺市の橋本豊吉氏の誓願を受けて田辺市や観光協会、地元の秋津愛郷会の発願によって昭和41年(1966)に造立されたもので、堂本印象画伯の原画を基にし、幅22m高さ16mの一枚岩に半肉彫りされた阿弥陀三尊磨崖仏である。

 中央の阿弥陀如来が高さ7.3m、脇侍の観音・勢至の各菩薩が4.9mもあり、近づいて見上げるとその大きさに圧倒される。阿弥陀如来は上品上生の定印の阿弥陀座像で、脇侍の観音・勢至は交脚して腰掛ける。交脚して腰掛ける像は日本の石仏ではあまり見られないが、敦煌莫高窟の最古の窟の1つの275窟の本尊弥勒菩薩などが知られていてる。この摩崖三尊大石仏は交脚菩薩像を初めとして顔や全体的な表現は西域やインドの仏像を思わせる異色の磨崖仏である。


2019.6.26撮影                 カルガモ親子・オオヨシキリ             近くの水田地帯にて 
  24日に雛1羽のカルガモ親子を撮影した川に行きました。24日に撮影したカルガモ親子は見かけたのですが、すぐに草むらに隠れてしまいなかなか姿を見せません。そこで、他の2組のカルガモ親子を探しに行きました。カルガモをいつも観察している人に会って、聞くと、2羽の雛をつれていたカルガモ親子は雛が1羽になっているとのこと。気になっていつもいる場所に行くと、3羽の幼鳥をつれたカルガモ親子に出会いました。22日に撮影したカルガモ親子です。幼鳥は嘴で浅い川底をなめるようにつついて採食しています。
川の近くの葦原ではオオヨシキリが騒がしく鳴いています。

2019.6.26                            コチドリ                 近くの水田地帯にて 
 田んぼの畦にコチドリがいました。いつもこの頃からよくコチドリを見かけます。去年は近くの畑で子育てをしていて偽傷行為をするコチドリを撮影していたのですが、今年は畑にはコチドリがいません。例年、7月・8月にはこの水田地帯の休耕田に次々とコチドリの若鳥が姿を見せます。

 
2019.6.25                磨崖仏100選(91)   太田磨崖仏
大分市太田鶴迫  「宝暦10〜13年(1760〜1763) 江戸時代」
 大分市太田の鶴迫という集落の裏に太田磨崖仏はある。凝灰岩の崖に間口3.8m、高さ77p、奥行き1.25mの龕を彫り、中央に像高113pの地蔵菩薩半跏像とその左右に各3体の地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので、木造の覆堂で囲まれている。中尊の半跏像は左手に宝珠を持ち、左手首は欠落している。向かって左の3体の真ん中の像は両手に鐃を持つ。朱や緑・青・白などで彩色されていて、光背も描かれている。刻銘から江戸時代中期の宝暦年間に造られたことがわかる。


 
磨崖仏100選(92)   瑞光庵磨崖仏
大分県豊後大野市緒方町越生  「江戸時代」
 豊肥本線緒方駅の北東、1.5q、徒歩20分。田んぼを横切って、坂を上ると、深く大きな岩窟がある。その奥に、異様な雰囲気の不動明王像が刻まれている。 目はつり上がり、大きな口をくいしばって、 右手に剣、左手に羂索を持っている。 火焔と唇の赤と剣と歯の白の色が鮮やかである。 近世の地方的な作であるか、庶民のエネルギーを感じさせる磨崖仏である。


 
磨崖仏100選(93)   上坂田磨崖仏
大分県竹田市上坂田  「嘉永6年(1853) 江戸時代後期」
 豊肥本線竹田駅から西約10q、竹田市炭竈の宮城簡易郵便局の北西の山中の石窟に彫られている。上坂田東公民館の西200mに小さな鳥居があり、そこが上坂田磨崖仏への入り口である。そこから山道を数百b上ると上坂田磨崖仏のある石窟に着く。

  高さ3m、幅6m、奥行き6mの石窟の向かって右の側壁の一番奥に半肉彫りした像で、通称「安楽様」「しょうりょう様」などといわれている。 大きな顔に三角形の鼻が彫られ、口から歯をむき出し、両肩から羽根をはやしていて、 胴は作られていない。 山岳信仰との関係が考えられるが、詳しいことはわからない。石窟内に「嘉永6丑年(1853)」の銘がある。大きいだけでなく、不気味な凄みのある像である。


2019.6.24        カルガモ親子・コチドリ・オオヨシキリ・コサギ・ヒバリ    近くの水田地帯にて 
 この小川で見た3組目のカルガモ親子です。雛は1羽だけで3組の中では一番小さいです。カルガモは普通は10羽近い雛をつれていることが多いのですが、この川では3羽から1羽です。おそらく蛇やイタチなどに食べられたり、このところよくあるゲリラ豪雨で流されたりしたと思われます。
親子の横を大きなコイが泳いでいました。
コチドリもオオヨシキリも遠くて、よい写真は撮れませんでした。
コサギがモツゴと思われる魚を捕らえたところです。
ヒバリがクサキリを捕まえました。

 
2019.6.23            磨崖仏100選(89)   庚申山毘沙門天磨崖仏
岡山市新庄上、庚申山  「江戸時代」
 岡山市新庄上の庚申山(74.2m)は、高松水攻めの際毛利方の吉川元春が本陣を構えた丘陵である。麓から真っ直ぐに300段ほどの急な階段が帝釈天を祀る帝釈堂(庚申堂)までつづく。その帝釈堂のある山上には花崗岩の巨岩がむらがり、その一つに毘沙門天を刻んだ磨崖仏がある。

 大きな花崗岩の岩の突き出た部分を平らにし、邪鬼を踏まえた等身大の毘沙門天像を薄肉彫りしたもので、右手で鬼の片足を抱え、左手で宝塔を捧げる。兜のシコロ部分が大きく金太郎人形の髪型のように見える。誇張した姿態の表現や顔つきなど、五月人形を思わせる毘沙門天像である。

 帝釈天は須弥山の頂上(喜見城)にすみ、四天王以下、三十三将を従え、天軍を指揮する仏法守護の主神である。高さ70mほどの小さな丘であるが毘沙門天を刻むこの岩をはじめ、巨岩がむらがる庚申山は仏法守護神の中心、帝釈天を祀るにふさわしい地であるといえる。


 
磨崖仏100選(90)   鷲峰山毘沙門天磨崖仏
岡山県小田郡矢掛町東三成、鷲峰山  「安永6(1777)年 江戸時代」
 鷲峰山(じゅぶうざん)は矢掛町と真備町の町境にある390mの山である。この山も信仰の山で中腹に棒澤寺(跡)がある。真言宗御室派の古刹で、盛時には8坊を擁する備中南部の大寺院であったが、昭和32年大火で、堂宇を焼失してしまい、現在焼け残り荒れ果てた倒壊寸前の堂・山門・庫裏があるのみである。(国指定重要文化財の画像3点は災害から逃れ、現在は岡山県立博物館に寄託されている。)

 現在、棒澤寺には町指定の重要文化財となっている石門と宝篋印塔が残っている。ともに中世の立派な石造品である。宝篋印塔はお堂の裏の一段高いところにはあり、そこから鷲峰山へ続く登山道がある。その登山道を10分足らず登ったところに毘沙門天磨崖仏への案内板が立っていて、そこを左へ少し入ったところに大きな岩が重なった岩場がある。その岩場の奥、南向きの岩壁に鷲峰山毘沙門天磨崖仏がある。

 約4m四方の巨岩の岩壁に光背として舟形の彫りくぼみをつくり、そこに岩座に立つ毘沙門天を半肉彫りしたもので、左手に宝塔、右手に宝棒を持つ。輪宝火焔付光の頭光や甲冑の装飾など細かいところまで精緻に彫り込んでいて、吉備の毘沙門天磨崖仏では最も写実的な作品である。石鎚山毘沙門天磨崖仏と並ぶ傑作で、矢掛町の重要文化財に指定されている。

 像の右に銘文があり、安永6(1777)年8月に浅野又三郎によって奉納されたものであることがわかる。また、像の右下には片山新助という石工名も刻まれている。


2019.6.22                      カルガモ親子・ケリ                 近くの水田地帯にて 
カルガモ親子のいる小川に行きました。雌の親鳥3羽の雛がいました。12日と16日に撮ったときは雛は2匹だったのですが。
前回撮ったときに比べると、雛はやや小さく。別の親子と思われます。
 ケリはこの辺では夏から秋にかけて1番よく見かけるチドリで、普段はあまり撮る気はしないのですが、今年は少なく、久しぶりに撮影しました。

2019.6.21                        チョウゲンボウ                 自宅近くにて 
チョウゲンボウのいる建物の所へ行きました。雌が1羽いたのですが、すぐに飛び立ってしまいました。

 
2019.6.21            守屋貞治の石仏50体(29)   深叢寺十三仏
長野県諏訪郡原村中新田13512  「文政2(1819)年 55歳」
延命地蔵 
阿弥陀・不動・勢至・観音 
 深叢寺(しんそうじ)は、元和4(1618)年に原村新田(現原村中新田)の村人達がこぞって檀徒となって開かれた臨済宗妙心寺派の寺院である。2代目高島藩主、諏訪忠恒によって「福寿山 新相寺」から現在の「御射山 深叢寺」に改称され、高島藩の庇護のもと栄えた寺である。明治年間に、中新田の村に大火があり、堂宇はほとんど焼失した。現在の本堂は平成になって再建されたものである。この深叢寺に2体の守屋貞治の石仏が残されている。十三仏と辨財天像である。

 十三仏は文政2(1819)年、貞治が55歳の時に造立されたものである。延命地蔵を主尊にした全高、2.6mの大作の十三仏搭である。基壇、基礎、請花を設けて、搭身部分の三面に不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閃如来・大日如来・虚空菩薩の十二体を刻み、その上に地蔵菩薩をのせて十三仏としている。惜しいことに、石質がもろいためか、大火の影響か、延命地蔵尊は摩耗が目立ち、目鼻立ちがはっきりしない。


 
守屋貞治の石仏50体(30)   深叢寺辨財天
長野県諏訪郡原村中新田13512  「文政2(1819)年 55歳」
  辨財天は本堂南側の庭の池のふちに安置されている。八臂像で、弓・矢・剣・宝珠などを持つ。小さな像であるが、貞治仏らしい端正な顔だちが印象的である。貞治が晩年に彫造した石仏を記録した『石仏菩薩細工』には「辨財天 諏訪中新田村深草寺」との記あり(336躯の石仏中67番目)。

 
2019.6.20              磨崖仏100選(87)   香高山五百羅漢
奈良県高市郡高取町壺阪香高山  「江戸時代初期」
五百羅漢
五社明神
二十五菩薩
 西国三十三所観音の6番札所、壺阪寺(南法華寺)は、お里・沢市の物語で知られる『壺阪霊験記』の舞台でもある。その壺阪寺の奥の院といわれるのが、この香高山五百羅漢である。

 壺阪寺より高取城跡へ行く道を1qほどすすむと、五百羅漢の道標が立っている。その道標から山道を少し行くと、数百体の羅漢を薄肉彫りした岩があらわれる(五百羅漢4)。像高約50pほどの像が所狭しと並んでいる。そこから数メートルほど上ったところにも、十一面観音や大黒天とともに数百体の羅漢が同じように彫られていて、壮観である。一見すると、こけしのようにすべて同じ顔、姿に見えるが、よく見ると一体ずつ姿態・表情は違い、個性が感じられる。

 香高山五百羅漢の魅力は羅漢だけではない。香高山の全山にわたって岩肌に様々な仏像が彫られていて、興味が尽きない磨崖仏群である。
 最初の五百羅漢岩から左下へ下った奧には、両界曼陀羅が彫られている。金剛界曼陀羅、胎蔵界曼陀羅とも大日如来のみを薄肉彫り像であらわし、残りは梵字であらわした、珍しい石造の両界曼陀羅である。

 五百羅漢岩から上へ登るに連れて、 地蔵・十王像、五社明神 (五社明神、毘沙門天・雨宝童子、仙人) 弘法大師像、阿弥陀来迎二十五菩薩と磨崖仏が次々と現れてくる。そして、頂上には釈迦如来が彫られていて、香高山全山が仏の世界を描いた一種の曼陀羅のようになっている。一体一体は50p前後の小像で、必ずしも優れた作とはいえないが、千体近く彫られたこの石仏群は、見る我々を圧倒する。      


 
磨崖仏100選(88)   室生寺軍荼利明王磨崖仏
奈良県宇陀市室生区室生  「享保12年(1727) 江戸時代」
 金堂前の東側の大きな岩に、約1mの舟形を彫りくぼめ、 像高約80cmの軍荼利明王を半肉彫りする。

 10本の手を持つ異様な姿の石仏であるが、 日笠をかぶったような炎髪とユーモラスな顔がどことなく親しみをもてる。稚拙な表現であるが、 江戸時代の庶民の信仰の息吹が感じられる石仏である。向かって左に、「煩悩即菩提 生死即涅槃」と刻む。       


 
2019.6.19           磨崖仏100選(84)   石山観音磨崖仏2
三重県津市芸濃町楠原 「江戸時代」
如意輪観音(西国第27番、円教寺)
如意輪観音(西国第1番、青岸渡寺)
十一面観音(西国17番、六波羅蜜寺)
 磨崖仏100選(84)で鎌倉時代の磨崖仏として紹介した石山観音磨崖仏の石山観音は江戸時代に彫られた磨崖仏の三十三ヶ所観音から名づけられている。

 入口の巡拝路コース案内にしたがって進むと那智山青岸渡寺本尊如意輪観音から始まる三十三ヶ所観音霊場を巡礼できる。江戸時代、西国三十三ヶ所観音の巡礼巡りの信仰の盛行とともに、西国札所の各寺院の本尊の観音を模した観音石仏が並べられ、簡単に三十三ヶ所観音霊場の巡礼巡りができるように、三十三ヶ所観音霊場のミニチュアとして三十三ヶ所観音が一寺院や一山につくられたもので、全国各地に多数見られる。

 磨崖仏の三十三ヶ所観音は福島県(福島県の磨崖仏参照)を除いたら少なく、西日本ではこの石山観音と広島県竹原市黒滝山がよく知られている。特に、石山観音磨崖仏は大型の厚肉彫りの磨崖仏で福島市の岩谷観音磨崖仏とともに江戸時代の磨崖仏の秀作である。特に、西国第27番の如意輪観音や西国17番の十一面観音観音、第12番の千手観音などは破綻のない整った像である。第一番札所の青岸渡寺本尊の如意輪観音磨崖仏の前の石水鉢に、明和9(1772)年の年号があり、観音諸像はこの頃の造立と考えられる。      


 
 
磨崖仏100選(85)   車谷不動磨崖仏
滋賀県湖南市花園 「江戸時代」
 岩根山の中腹にある。善水寺は和銅年間(708年〜715年)に草創され、最澄(伝教大師)によって中興された、国宝の本堂をはじめ多くの文化財をもつ、古刹である。その善水寺の周辺には近江を代表する不動磨崖仏が2つある。一つは、善水寺の近くにある不動寺の岩根山不動磨崖仏である。南北朝時代の初期の作であるが、拝殿があるため、正面からの写真は撮れず磨崖仏100選には入れなかった。

 もう一つはここで紹介する岩根山の北西の車谷と呼ばれる谷にはある巨大な車谷不動磨崖仏である。高さ6mあまりもある花崗岩の巨岩に、像高4mの不動磨崖仏立像を半肉彫りしたもので、江戸時代の作である。顔をはじめ衣紋の表現など形式的で写実性に欠けるが、近江では富川磨崖仏につぐ大作で、蔵王権現のように、左足膝を左に張って、右足を大きく踏み込みこんだ姿が動きがあっておもしろい。周囲の自然ととけ合った姿は魅力的で絶好の被写体となっている。   


 
磨崖仏100選(86)   福林寺跡多尊地蔵磨崖仏
滋賀県野洲市小篠原 「江戸時代」
 野洲中学校の東の裏山の中に福林寺跡磨崖仏がある。野洲中学校の東側の遊歩道に沿って小川があり、その小川にかかる小さな橋を渡り、林道を10mほど進むと、観音と阿弥陀・地蔵の3体の磨崖仏がある。形式化した室町時代の作風であるが、一番大きな観音菩薩像は端正な作で福林寺跡の磨崖仏群の中では秀作である。

 その3体の磨崖仏のある岩の奧にある、木の下の平たい岩の側面には、十三体の地蔵菩薩と思われる小さな像が並べて浮き彫りされている。いずれも両手を胸前に合掌していて、顔はすべて独特の丸顔で、ユーモアあふれる群像である。制作年代は江戸時代のと思われる。稚拙な作品であるが、福林寺跡磨崖仏の中では最も印象に残る石仏である。 


2019.6.18                          ソウシチョウ               隣町の山中にて 
   
 いつもキビタキを撮影する隣町の山へ行きました。5ヶ所ほどでキビタキのさえずりを聞きました。その内3ヶ所でキビタキの撮影を試みたのですが、まともな写真は撮れませんでした。ホトトギスとソウシチの鳴き声も数カ所で聞こえました。ホトトギスは姿を見ることが出来ませんでしたが、ソウシチョウは久しぶりに撮ることができました。
ソウシチョウは近くの木の茂みにいたのですが、葉が茂っていて全身の撮影はなかなか出来ませんでした。
大きな枝にとまったので何とか全身を撮りました。

2019.6.16撮影                コガモ・カルガモ親子・ヒバリ         自宅近くの川にて 
   
 6月12日にセッカを撮影した川に行きました。セッカの声は聞こえず、セッカの姿も見ることが出来ませんでした。川面を見ると鴨が4羽いました。カルガモにしては小さいと思って撮影してみると、コガモでした。6月の今頃コガモを見たのは初めてです。
コガモを撮影した後、6月12日にカルガモ親子を撮影した小川に行きました。今日は雌親だけでなく、雄もコガモを守るように近くにいました。
川の近くの畑に空の上で囀っていたヒバリが降りてきました。

2019.6.15撮影                  チョウゲンボウ・イワツバメ         自宅近くにて 
 自宅近くのチョウゲンボウの巣のある建物のに行きました。巣立った幼鳥は見られませんでしたが、雄・雌2羽のチョウゲンボウが建物の窓際やトユの上にとまったり、堤防の草むらに降りて餌をとったりしていました。雛が巣立った換気口の巣にも出入りしていました。
イワツバメの巣に行きました。スズメに乗っ取られた巣もあり、飛んでいるイワツバメも少なくなっています。

 
2019.6.14         守屋貞治の石仏50体(27)   福岡東墓地聖観音
長野県駒ヶ根市赤穂福岡東  「文化10(1813)年 49歳」
 福岡東墓地にある2体の貞治作の聖観音像の一つ。もう1体の聖観音像「守屋貞治の石仏50体(18)」と同じく左手で未敷蓮華を持った座像であるが(18)の聖観音像と違って、右手を膝に置かず、葉付きの未敷蓮華にそっと添える。(18)の聖観音像が丸顔で口元に微笑みをふくむ円形微笑型表現であるのに対して、やや面長で引き締まった微笑みを浮かべる、50歳代の重厚さに繋がる秀作である。

 基壇の正面に願主、白峰尼の名を、南面に造立年を、北面に「奉造、西国・四国・秩父・九州、巡拝供養塔」と刻銘があり、霊場を巡礼した白峰尼により諸国霊場供養塔として造立されたことがわかる。

 
守屋貞治の石仏50体(28)   見性寺佉羅陀山地蔵
山梨県北杜市須玉町江草7772  「文化13(1816)年 52歳」
 守屋貞治が、 願王和尚と親交のあった桃渓和尚の依頼を受け、文化11年頃から10年の歳月をかけて彫った北杜市須玉町の海岸寺の西国三十三所観音石仏を初めとした百観音石仏は貞治の代表作の一つである。貞治は須玉町津金に滞在していたとき海岸寺以外にも須玉町に作品を残していた。その内の一体が見性寺佉羅陀山地蔵である。

 佉羅陀山地蔵は貞治の地蔵ではよく見かけるもので、半跏像像で膝の上の左手に宝珠を持ち、右手を頬に当てている。美しい蓮弁の線の三重の蓮華座に坐し、ふくよかでわずかに微笑む引き締まった顔が美しい。

 ※ 佉羅陀山(からだせんorきゃらだせん)は須弥山を囲む七金山の一で地蔵菩薩が住む浄土

2019.6.13                  キビタキとホオジロの若鳥       地元のハイキングコースにて    
 今日もあちこちでキビタキのさえずりを聞こえるのですが、なかなか姿を見ることが出来ません。ようやく撮影したのは若鳥です。喉元の黄色は鮮やかですが、頭から尾羽までの上面は灰色がかった褐色、腹部は灰色です。
ホオジロの若鳥と思うのですが。

   
2019.6.12                     セッカ・カルガモ親子                      近くの川にて
 澄んだ「ヒッヒッヒッ」というセッカの鳴き声が堤防の草原から聞こえましたが姿を見ることができません。やかで鳴き声も消えてしまいました。200mほど進むと、後から再び「ヒッヒッヒッ」という声が聞こえたのですぐに引き返しました。やがて「チャ チャ チャチャ」という声に変わり、セッカが草むらから飛び出し、セイバンモロコシの葉にとまりました。
近くの小川にはカルガモの親子がいました。カルガモの子供は2羽でかなり大きくなっていました。

2019.6.9撮影                    イカル・キセキレイ            地元のハイキングコースにて    
 キビタキとホトトギスを撮影しようと地元のハイキングコースに行きました。あちこちでキビタキのさえずりを聞こえるのですが、近づくとすぐに飛んで行ってしまって今日は撮影できませんでした。ホトトギスも数カ所で鳴き声を聞いたのですが、すべて遠くて姿は見られません。
 やや甲高い「キコキコキー キキー、コキー」と澄んださえずりが、聞こえました。一瞬、イカルと思ったのですが、6月にイカルを見たことがないので、ソウシチョウと思って声のある林で鳥影を捜しました。木の上にとまっている鳥影を見つけてシヤッターを押しました。撮った写真をモニター画面で見るとソウシチョウでなくイカルでした。イカルは6月はもっと高い山で過ごしていると思っていたのですが。
突然2羽のすすめ大の小鳥が飛んできて電線にとまりました。キセキレイです。


2019.5.27・29撮影             チョウゲンボウの給餌と巣立ち(1)                     
 6月5日まで数回にわたってアップしてきた、近くの川の施設の建物のチョウゲンボウは、毎年巣作りをして、雛が巣立っています。今年は、無事に5羽巣立ちました。今年は他にもう一ヶ所、チョウゲンボウの巣を見つけて撮影していました。この巣のチョウゲンボウも6月になって巣立ったので、今まで撮ってきた雛や給餌の様子を3回に分けてアップすることにしました。今日はその1回目です。
 この場所で、去年、チョウゲンボウが巣立ったとことを聞いていたので期待していました。最初に撮したのは5月27日でした。その時は、2羽でした。まだ白い産毛がたくさん残っていました。
5月29日には4羽の雛を確認できました。白い産毛はかなり取れてきています。
小さくは羽ばたく雛もいました。
親鳥と同じように脚で顔を掻くような動作をしています。
近くの建物の上には雄が捕まえたカナヘビを銜えてとまっていました。
 時々、親鳥が餌を持って巣に入ります。カナヘビを捕まえた雄が巣に入るのを待ち構えていたら、突然、雌が飛んできて巣に入りました。巣に入るところは取れませんでしたが、出るところは撮影できました。


2019.5.30撮影             チョウゲンボウの給餌と巣立ち(2)                     
この日は3羽の雛が巣から顔を出していました。やがて餌を求めてか、鳴き始めました。
 雌が近くの建物の屋上にいたので、巣に飛び込んでくるのを待っていると、雄は反応を示しませんでした。突然、建物の反対側、高い木にいたと思われる雌が「キィ、キィ、キィ」と鳴き声をあげて巣の入り口にとまりました。
雌は雛に餌を与えました。餌はカナヘビのようです。
その後、巣の入り口でしばらく様子を見て巣から飛び立ちました。


2019.5.31・6.3.4撮影        チョウゲンボウの給餌と巣立ち(3)                     
5月31日この日は4羽の雛が巣から顔を出していました。まだ、頭部に白い産毛が残っています。
4羽は時々代わり代わりに奥へ入り込み姿を消します。大きく羽を広げる雛もいます。
6月3日朝、4羽顔を出していたのですが、巣立つ気配はありませんでした。
6月4日、雛は4羽顔を出していました。頭部の白い毛もなくなり、いよいよ巣立ちと思われました。
4羽並んだ姿は可愛いです。5羽確認した人もいるのですが、5羽の雛を見ることは出来ませんでした。
時々巣の中で大きく羽を広げる雛もいたのですが、この日は巣立つ姿は撮影できませんでした。


2019.6.5撮影             チョウゲンボウの給餌と巣立ち(4)                     
 今日はチョウゲンボウの巣立ちが見られるだろうと思い、朝、チョウゲンボウの巣を見に行きたかったのですが、出かけるつもりだったのですが、急用で行けず、昼過ぎになりました。
 巣を覗くと2羽の雛が顔を出していました。残りの雛が顔を出すのを待ったのですが、気配がありません、巣立ったと思われます。周りを見てみても親の気配がなかったので、しばらく待ったあと、その場を離れました。
 30分ほどして戻ってみると、雛のいた隣の建物のテラス部分にいる雌の親鳥と巣立った2羽の幼鳥を見つけました。足下には餌の鳥の死骸があります。
親鳥は餌を引き裂いて、幼鳥に与えています。
親は餌の鳥の死骸を持ち上げました。餌は茶色なので育たたず死んだチョウゲンボウの雛かなと思いました。
持ち上げた餌に、2羽の幼鳥も食らいつこうとしています。横から見ると餌の鳥の死骸は細長くスズメかもわかりません。
 1羽の幼鳥が独り占めして食べ始めました。この後3羽のチョウゲンボウは餌を持ってビルの影に隠れてしまいました。巣を覗くと巣立っていない2羽の雛が顔を出していました。

 翌日、巣に向かうと顔を出している雛は1羽で、周辺に親鳥と思われる雄と雌はいたのですか、巣立った幼鳥は見られませんでした。8日に行くと雛は巣に見当たらず、親鳥・巣立った幼鳥も見ることが出来ませんでした。

2019.6.6                            コサメビタキ            地元の山のハイキングコースにて
 5月25日にコサメビタキを撮影した付近の杉林でコサメビタキの声を聞きました。杉の木を眺めていると、ハイキング道を挟んで反対側にある広葉樹林の枯れ木にコサメビタキが飛び移るのを確認しました。しばらくすると杉の木に戻り、再び、すぐに広葉樹林に飛び移ります。2羽のコサメビタキが同じことを繰り返していました。

2019.6.5                         チョウゲンボウ                     自宅近くにて
 5月29日に巣立った3羽と巣の中にいる2羽のチョウゲンボウの雛を確認した建物に向かいました。チョウゲンボウのつがいはいつものように建物の屋上や周辺で見張っています。
雄は建物の向かいの川の排水施設の上にいました。
見ていると草むらに時々下りてクサキリを捕まえています。草むらで羽ばたきもしました。
雌も建物の隣の民家のテレビアンテナにとまっていました。
換気口の巣を覗くと1羽の若鳥が巣に飛び込み、すぐに飛び出し、建物の近くの電柱のようなコンクリートの上にとまりました。
 建物の近くの民家のアンテナを見ると2羽の若鳥がいました。その後、建物の裏側にいる2羽の若鳥も見つけました。この2羽は残念ながら暗くて遠いためまともな写真は撮れませんでした。どうやら5羽とも巣立ったようです
アンテナにいた1羽の若鳥は50mほど離れた電柱にとまりました。
その後、飛んで建物の屋上にとまりました。そこにはもう1羽若鳥かいました
その後二羽の若鳥は屋上から飛び降りました。。
1羽は目の前のフェンスにとまりました。
もう1羽は刈り取った草の上に降りました。

 
2019.6.4              磨崖仏100選(81)   岩谷観音磨崖仏
福島県福島市信夫山 「江戸時代」
十一面観音(西国三十三番、華厳寺)
千手観音(西国二十四番、中山寺)
 福島市の町のすぐ北にそびえる信夫山、その東端の中腹に岩谷観音がある。岩谷観音は応永二十三年(1416)に観音堂が建立されたのにはじまる。江戸時代、宝永六年(1709)頃から岩谷一面に、西国三十三所観音をはじめとして、庚申・弁財天・釜神などが彫られた。風化は著しいが厚肉彫りで像容の優れたものが多い。

 特に西国三十三番、谷汲山華厳寺の十一面観音はその中でも傑作である。気品のある面相で、量感もあり江戸時代の作とは思えない。西国二十四番、中山寺の千手観音は彫りは浅いが、彩色も残り愛らしい像である。(中山寺の本尊は十一面観音だが、ここではなぜか千手観音になっている。)       


 
磨崖仏100選(82)   岩角山磨崖仏
福島県本宮市和田東屋口 「江戸時代」
養蚕観音
案内地蔵
如意輪観音(西国十四番、園城寺<三井寺>)
 本宮市と二本松市との境に位置する岩角山(いわつのやま)に、仁寿元年(851年)慈覚大師が開基したとつたえられる岩角寺(がんかくじ)がある。岩角山はわずか標高337メートルの小さな山ながら、うっそうとしたしげった杉の木々や、、山中に点在する巨岩奇石そして那須連峰や阿達太良山を一望できる山頂からの眺めなど、魅力的な山である。福島県指定名勝及び天然記念物に指定されている。巨岩奇石の多くには線刻の磨崖仏が彫られていて、岩角山観光協会の案内板には八百八体の仏が刻まれていると記されている。現在、約200体の磨崖仏(磨崖梵字も含む)が確認されている。<小林源重著「ふくしまの磨崖仏」>

 これらの磨崖仏は元禄年間以降に彫られたもので、その中でも最も古いものが、養蚕神社の本尊として堂の中に祀られている元禄3(1690)年の紀年銘を持つ養蚕(こがい)観音とよばれる厚肉彫りの聖観音である。この観音は二本松城主丹羽光重が元禄3(1690)年に霊夢のお告げにより、養蚕業を興すにあたり刻ませたもので、顔は丹羽公に似ていると言われている。

 丹羽光重は住僧豪伝和尚とともに、岩角寺を再興し、養蚕観音造立をはじめて毘沙門堂などの諸堂の再建、三十三所観音などの線刻磨崖仏造立をすすめた。三十三所観音など線刻磨崖仏には奉納した寄進者施主名が刻まれていて、人々の信仰に支えられて岩角寺が栄えたことがわかる。

 養蚕観音とともにこの磨崖仏群の白眉は案内地蔵と呼ばれる像高300pの薄肉彫りの地蔵立像で、城主丹羽光重が亡くした子どもへの供養のために刻んだものである。三十三所観音は素朴な表現であるが伸びやかな線で描かれている。三十三所観音以外の線刻像は追刻と思われ、やや硬い表現となっている。那智観音堂の近くの岩には半肉彫りの准胝観音像がある。正徳2年(1712)の紀年が彫られている。       


 
磨崖仏100選(83)   鮭立磨崖仏
福島県金山町山入字石田山2692 「江戸時代」
鬼子母神・湯殿権現・深沙大将・九頭竜権現・風神・雷神
飯綱権現
 鮭立集落の南西の山麓の小高いところに凝灰岩の洞窟があり、その壁面に像高14pから60pに至る大小様々な刻像が、交互に40〜50体びっしりと、不動明王を中心に密教系の諸仏・天部や垂迹神像が半肉彫りされている。深沙大将(じんじゃだいしょう)や牛頭天王(ごずてんのお)・荼枳尼天(だきにてん)・飯綱権現(いづなごんげん)など石仏としては数少ない像もある。また、一洞窟に、これほど多種多様の像が刻まれているのも珍しい。飯綱権現像や愛染明王像などには彩色の跡が残っていて、もとは、美しく彩色されていたと思われる。

 この磨崖仏は天明の飢饉や天保の飢饉の惨状を見て、現在の岩淵家の祖先である修験者の法印宥尊とその子の法印賢誉が五穀豊穣と病魔退散を祈って彫ったと伝えられている。

 浅く細長い洞窟で3つほどに分かれていて、中央部の壁面は壁全体が奥まった形に掘りこまれていて、その左面と正面に40体ほど像が刻まれている。正面の中央には不動明王と:八大童子が彫られている。不動明王は像高50pほどで、龕を穿ちその中に彫られている。龕の周りは火焔光背になっていて上部は面両側の表壁をつなぎ透かし彫りにしている。八大童子は矜羯羅童子と制た迦童子はともに像高23pで、龕の両側下に彫られている。他の6童子は龕の上部と下部に彫られている。不動明王の向かって右の龕は飯豊山神社を祀る祠になっている。向かって左には龍頭観音・牛頭天王・梵天・釈迦三尊などが並んでいる。

 左面には28体の像が彫られている。左端には45p〜53pの比較的大きな像が並んでいて、左から鬼子母神・箱根権現(or湯殿権現)※2・深沙大将・九頭竜権現でこの磨崖仏で最もよくで紹介されている部分である。その右には、風神と雷神が並び、その右は4段に分かれて、荼枳尼天・淡島様・愛染明王・聖観音・渡唐天神・弁財天など諸像が所狭しと彫られている。左面の右端は摩滅が進んだ尊名不明の像(文殊菩薩?)と飯綱権現が上下に並んでいる。

 3つに分かれた右側には青面金剛・大黒天・水神・地天などが彫られているが、中央の諸像よりは摩滅が進んでいる。左側の壁面は彫られた像は見当たらない。小形ながらどの像も儀軌に準じて彫られていて、一種の曼荼羅のようになっていて魅力的である。砂岩も含んだ軟質な凝灰岩のため摩耗がすすみ、顔の細かい表情がわからず、印相や持ち物の識別が困難な像が何体かあるのが惜しい。

※1 深沙大将の磨崖仏としては他に大分県の高瀬石仏・広島県の竜泉寺白滝山磨崖仏がある。
※2 閻魔王という説が一般的であるが、閻魔王の多くは片手で笏を持つ座像であるのが通常で、閻魔王とは思えない。「仏像図彙」(元禄3年に刊行の「仏神霊像図彙」の復刻版)の伊豆箱根権現もしくは出羽湯殿権現にそっくりなことや湯殿権現・箱根権現は修験道に関わる神であることによって湯殿権現(or箱根権現)とした。
       


2019.6.3                            キビタキ                  隣町の山にて
10日ぶりにキビタキを撮影しました。いつも声が聞こえる暗い山の中で40分ほど待って撮影しました。

 
2019.6.2            磨崖仏100選(79)   唐臼の壺阿弥陀磨崖仏
京都府木津川市加茂町東小 「康永二年(1343) 南北朝時代」
 藪の中地蔵から岩船寺方面に府道を進むと、府道から分かれて「笑い仏」「岩船不動磨崖仏」などを巡って岩船寺へ行くハイキングコースがある。その道を400mほど進と「カラスの壺」と呼ぶ三差路の辻があり、そこに「唐臼(からす)の壺磨崖仏」がある。

  辻に面した小さな田んぼに巨岩が突き出ていて、その岩の真ん中に船型の彫りしずめをつくり、像高69pの阿弥陀座像を半肉彫りしたもので、左側の岩肌にも地蔵菩薩が刻まれている。両像とも衣紋や顔は誇張したく表現で共に康永二年(1343)の紀年銘を持ち南北朝時代の作である。阿弥陀像の右横には火袋を彫り込んだ線刻の灯籠が刻まれている。


 
磨崖仏100選(80)   寺田毘沙門堂北向三体地蔵磨崖仏
三重県伊賀市南寺田 「南北朝時代」
 伊賀上野の東、上野市南寺田の集落の山裾に毘沙門寺が建っている。この寺の前の細い山道を300mほど進むと、道の右側に横長の大きな岩がある。岩に横長の長方形を彫りくぼめ、敷茄子つきの蓮華座に座し、右手で、短めの錫杖を斜めにして持つ地蔵菩薩を3体、厚肉彫りにする。整った端正な地蔵菩薩で印象的である。

 北向きにあるため、陽がささず、自然光ではなかなかよい写真が撮れないが、趣のある石仏である。同時代のよく似た地蔵菩薩が寺田の集落の地蔵堂にもある。敷茄子つきの蓮華座に座し、短めの錫杖を斜めにして持つ、地蔵菩薩は久居市の宝樹寺にも見られる。


2019.6.1                         チョウゲンボウ                     自宅近くにて
 近くの山へキビタキ・ホトトギス・アオゲラを撮ろうと出かけるのですが、キビタキは鳴き声は聞こえるのですが、なかなか近づいてくれません。ホトトギスにいたっては鳴き声すら聞こえません。ホトトギスは昨年は今頃あちこちで鳴いていたのですが。結局、山を下りて、いつものチョウゲンボウの撮影になります。
今日も巣のある建物の屋上にチョウゲンボウの雄はいました。
 雌も飛んできて建物の屋上におりました。その後、雄・雌とも建物を離れたので、換気口の巣を覗いてみました。雛は姿を現しませんでした。
雄は、建物の屋上に戻ってきました。そして、トユの上で気持ちよさそうに顔を掻きはじめました。
巣立った若鳥も建物の近くにいました。雌が若鳥に餌を与える場面も見たのですか。撮ることはできませんでした。
2羽の若鳥が寄り添って羽づくろいを始めました。

5月 7月