Photo Gallery「石仏と野鳥」新版   2026年9月 
 

 
8月 10月



 
令和8年9月30日  近くの水田地帯にて
草原のノビタキ
遊水池予定地の荒地の草原にもノビタキがいました。この草原ではここ数年毎年ノビタキを撮影しています。
 
水田のノビタキ
畔にいるタシギを撮ろうと稲穂が黄色に色づいた水田を周っているとノビタキを見つけました。



令和8年9月15日  串間円立院の石仏 日南市と宮崎市南部の仁王2
円南寺仁王像
宮崎県宮崎市加江田3782
円南寺へのアクセス
阿形
 
吽形
 円南寺は毎年プロ野球読売巨人軍のキャンプ地になる「ひなた宮崎県総合運動公園」の南の宮崎市加江田にある曹洞宗の寺院で、生け垣に囲まれていて、2基石柱の石柱が立った境内への入口の左右に仁王が立っている。撮影した日は天気は悪く光の具合は悪く良い写真は撮れなかった。吽形像は黒や白のカビのようなものが目立ち傷みもひどい状態であった。円立院の刻銘はないが、憤怒相の顔などは多宝寺仁王など円立院の刻銘のある仁王像とよく似た表現である。
 
日之御碕観音仁王像
宮崎市折生迫7125
日之御碕観音へのアクセス
阿形
 
吽形
 日之御碕観音は大分県の大野川流域の磨崖仏や国富町の本庄石仏と同じように百済僧日羅が開いたと伝えられている古刹で日向七堂伽藍(宮崎七ヶ所観音霊場)の一つに数えられている。仁王は参道の石段を上ったところに立っている。撮影しようとした時は木々の影に入っていて暗く、一部の写真はストロボを使って撮影した。彫作者の刻銘がないが吽形像の憤怒相などに円立院の仁王像の特色がよくでていてこの像も串間円立院の彫作と思われる。

 日向七堂伽藍には串間円立院や平賀快然の仁王像や石仏のある朝倉観音、円南寺、伊満福寺、黒坂観音、松崎観音が含まれ、日向七堂伽藍の寺院は江戸時代に活躍した僧であり仏師である串間円立院や平賀快然の活躍の場であった。



 
令和8年9月28日  近くの水田地帯にて
タシギ
雨の合間をぬって近くの水田の畔にいるタシギを撮影に行きました。25日にタシギを撮った畔に今日もいました。




令和8年9月27日  南九州の磨崖仏と隼人塚 隼人塚四天王
南九州の磨崖仏と隼人塚
 九州の磨崖仏といえば、臼杵磨崖仏や熊野磨崖仏・元町磨崖仏など大分県の磨崖仏が知られている。しかし、南九州の鹿児島県や宮崎県にも、特色ある磨崖仏が少なからずある。

 鹿児島県には、赤水岩堂観音磨崖仏や清泉寺跡磨崖仏など力強い表現の磨崖仏や、清水磨崖仏や倉野磨崖仏など磨崖石塔や梵字種子の磨崖板碑などユニークな磨崖仏があり、大分の磨崖仏とはまた違った魅力がある。磨崖仏以外の石仏では隼人塚の四天王(平安時代)がある。また、鹿児島県各地と宮崎県の一部にはには田の神の石像(近世~近代)が多数あり、南九州は石仏愛好家にとっては興味が尽きない地である。

 鹿児島の磨崖仏・石仏は平安~江戸と時代が違うが、どことなく共通したところが感じられる。臼杵や元町などの大分の磨崖仏は木造彫刻と共通するフォルムの美しさがあるのに対して、鹿児島の石仏・磨崖仏はどれもいかにも"石"や"岩"という感じて、石や岩の量感・質感が全面に出ていて、量塊としての美しさがあり、バロック的な表現になっている。

 宮崎県には、大分や鹿児島ほど多くはないが、いくつかの磨崖仏がある。特に古いのは、国富町にある本庄磨崖仏と野尻町の東麓磨崖仏である。本庄磨崖仏は大分県の大野川流域の磨崖仏と同じように百済僧日羅の作と伝えられている。通称「岩薬師」といわれている東麓石窟仏は、石窟内に薬師三尊と十二神将を彫った興味深い磨崖仏である。宮崎県南部には鵜戸神宮不動磨崖仏や串間市の鹿谷阿弥陀三尊磨崖仏などがある。

 このページは鹿児島の磨崖仏を大隅地域を「鹿児島の磨崖仏Ⅰ」と薩摩地域を「鹿児島の磨崖仏Ⅱ」にとして、「宮崎県の磨崖仏」と「隼人塚の石仏」(磨崖仏ではないが鹿児島県の石仏の出発点といえる。)をあわせて4つに分けて紹介する。
隼人塚の石仏 鹿児島県の磨崖仏Ⅰ 鹿児島県の磨崖仏Ⅱ 宮崎県の磨崖仏



隼人塚の石仏
鹿児島県霧島市隼人町内山田287-1  「平安時代」
 隼人塚は、方形の封土を持つ塚で、奈良時代に隼人平定の後、彼らの霊を慰めるために設けられたという伝説がある。その塚に、3基の層塔と石造四天王が置かれている。最初に訪れた時は石塔はいずれも折れており、武人像のうち2体は塚からやや離れた場所に、半分埋まった状態で立っていた。平成11年3月に石塔3基とも五重塔に復元し、平成11年3月に四天王像を復元し石塔四方に配置された。2回目に訪れた時は史跡公園として整備され、層塔と四天王は復元されていて、隼人塚史跡館も設けられていた。隼人塚は平安時代後期に正国寺の前身寺院として作られたという説が有力になっている。



四天王
持国天・広目天
持国天
広目天
増長天
多聞天
 四天王の石仏の平安後期の作例として、霧島市隼人町の隼人塚の丸彫り像があげられる。三基の層塔の向かって右前に増長天、後ろに広目天、向かって左前に持国天、後に多聞天が立っている。30年ほど前に訪れたときは、持国天のみほぼ完全な姿で残っていて、他は土に埋まっていたり、風化が進んだ状態であったが、平成11年に修復され現在の姿になっている。大きな石造りの兜をかぶった各像は迫力に溢れていて、石造四天王の傑作である。



 
令和8年9月25日撮影  近くの水田地帯にて
タシギ
 セイタカシギも姿を消し、いくつかある休耕田ではケリとコサギ・ダイサギぐらいになってしまいました。毎年今頃はタシギがあちこちで見られるのですが、全く見られません。そこで、少し離れた水田地帯の畔ににタシギを捜しに行きました。ただ、畔が草だらけでタシギを見つけることが出来ず、20分ほど歩きまわってようやくタシギを見つけました。4羽のタシギがいました。



 
令和8年9月22日撮影  近くの桜園にて
エゾビタキ
訪れた時は鳥影少なく数羽いたエゾビタキも見られませんでした。20分ほど待つてようやく1羽エゾビタキが姿を見せました。



令和8年9月21日撮影  近くの水田地帯にて
セイタカシギ
この日はセイタカシギは今までいた2ヶ所の休耕田にはいませんでした。少し離れた別の休耕田にいました。



令和8年9月20日撮影  近くの水田地帯にて
セイタカシギ・コチドリ
この日はセイタカシギは17日に撮影した休耕田にいました。
この後、飛び立ったち斜め向かいの18日に撮影した休耕田に移りました。
水量が減りコチドリも姿を見せました。



 
令和8年9月19日撮影  近くの桜園にて
エゾビタキ
この日も桜園でエゾビタキを撮影しました。コサメビタキやキビタキも期待てしているのですが今年はまだ見られません。



令和8年9月18日撮影  近くの水田地帯にて
セイタカシギ
前日にひき続いて近くの水田地帯にセイタカシギを撮りに行きました。前日の休耕田の道をはさんで斜め向かいの休耕田にいました。



  
令和8年9月19日  古墳の世界 鍋田横穴など
鍋田横穴 
熊本県山鹿市鍋田8
 7世紀の横穴群。菊池川の支流、岩野川に沿った岩壁に約50~60基の横穴墓室がある。うち、9基の横穴の入口外壁に線彫り、浮き彫りの彫刻がある。
 特に、第27号横穴には多くの彫刻がある。入口のそばには高さ57㎝の両手両足を大の字に広げ右手に弓を持つ人物像が浮き彫りされ、靭や盾、刀子そして鞆などの武具が彫られている。古代の人々が墓室鎮護の祈りをこめて彫ったものであろう。稚拙な彫刻ではあるが、磨崖仏に通じる人々の岩に対する思いを感じさせる横穴群である。

 近くにはチブサン古墳(1日に2回見学できる。詳しくは山鹿市立博物館へ)や銅剣(国宝)をはじめとして多くの副葬品が出た江田船山古墳、各地の装飾古墳のレプリカが置かれた県立装飾古墳館があり、古代史ファンならすとも一度は訪れたいところである。 
27号横穴



  
石人山古墳 
福岡県八女郡広川町一條1435
  九州を代表する古墳が集中する場所として上記の江田船山古墳・チブサン古墳のある菊池川流域があげられる。そして、もう一つがここに取り上げた石人山古墳のある八女古墳群である。八女古墳群を代表する古墳が、「磐井の乱」で知られる筑紫君磐井の墓として全国的に知られている九州最大の前方後円墳岩戸山古墳である。
 この古墳からは石人・石馬が出土した。この石人・石馬の写真を撮りたくてやってきたのであるが、石人・石馬は東京国立博物館(昔は博物館の庭に置かれていたが現在は室内展示)や近くに建つ岩戸山歴史資料館などの室内にあるため撮影できなかった。レプリカは古墳横に置かれている。

 石人山古墳は岩戸山古墳の西に位置し5世紀中頃の前方後円墳である。最も初期の装飾古墳で、みごとな同心円文と直弧文を浮き彫りにした横口式家型石棺がある。また、石室前方に武装石人が置かれている。ともに自由に拝観できる。その他、八女古墳群には、乗り場古墳・弘化谷古墳・丸山古墳などの装飾古墳がある。
横口式家型石棺
武装石人



令和8年9月17日撮影  近くの水田地帯にて
いつもケリの群れがいる水の張った休耕田にセイタカシギがいました。
セイタカシギ
昆虫の幼虫らしきものを咥えました。
嘴を大きくあけて呑み込みました。
数秒一本足で立っていました。
トンボのヤゴらしきものを咥えました。



令和8年9月16日  古墳の世界 石貫穴観音など
古墳の世界
 原始時代から古墳時代にかけて造形活動の素材の中心は石と土である。原始美術や古墳時代の美術はまさに、石と土の美術といっても過言でない。木や紙・金属が造形活動の素材の中心となるのは仏教が伝来した、飛鳥時代以降といえる。石と土の文化の代表が古墳である。石を組みあわせて造った石室(多くの場合そこには石棺が納められている)を土でかぶせ、葺き石で覆った巨大な古墳が日本各地に作られた。そしてその上には古墳時代の美術の代表といえる土器の埴輪が置かれた。

 最初のページで述べたように、弥生時代の支石墓やこのホームページのテーマである磨崖仏、そして近世の石造のアーチ橋など 「石を中心とした文化」 が九州の文化の重要な特色になっている。特に古墳時代にその典型が見いだせる。具体的にいえばそれは、石人・石馬(他の地方では埴輪に当たる)であり、装飾古墳(石室の石に描いた彩画だけでなく線刻や浮き彫りも見られる)である。
 そのような古墳時代からつづく「石の文化」の伝統が九州の磨崖仏に結びついているのではないだろうか。

 熊本・福岡・佐賀には、王塚古墳・竹原古墳・チブサン古墳と日本を代表する装飾古墳があり、鍋田横穴のように岩に浮き彫りで岩に人や武具を彫った、装飾古墳も見られる。また、岩戸山古墳・石人山古墳・チブサン古墳などの石人・石馬が置かれていた古墳もある。また、横穴古墳の石室の壁に観音を半肉彫りした熊本の石貫観音のように古墳と磨崖仏が直接、結びついた例もある。熊本・佐賀を中心とした北九州の磨崖仏のページを作るにあたって古墳と結びついた石の文化の一端を探ってみた。



  
石貫穴観音と石貫ナギノ横穴
 青木磨崖梵字群の北西の玉名市石貫の繁根木川右岸は南北に細長い丘陵になっていて、丘陵の東にナギノ横穴群、西に穴観音横穴がある。ナギノ横穴群が48基、穴観音横穴が5基確認されている。これらは古墳時代後半に造られた墓地である。石貫ナギノ横穴の6号墓と8号墓の入口の縁部分には、赤などで文様が描かれている。穴観音横穴の中央の大型横穴の石室の奥壁に平安後期~鎌倉時代作の千手観音が半肉彫りされている。
石貫穴観音磨崖仏
熊本県玉名市石貫 字安世寺2387 「平安時代~鎌倉時代」
 装飾古墳として知られる石貫ナギノ横穴から500mほど離れた、丘陵の山裾に同じく古墳時代後期の石貫穴観音横穴がある。大小5基の横穴で構成され、中央の大型横穴の石室の奥壁に千手観音が半肉彫りされている。2臂を頭上にあげ、手を組んでその上に化仏をのせる清水寺式千手観音である。

 日本近代考古学の父とされる濱田耕作(濱田青陵)が大正時代に調査し、千手観音は追刻で平安時代の様式としている。その後、千手観音像は奈良朝の横穴古墳構築の際彫られたとする説も主張されている。しかし、清水寺式千手観音が奈良時代には見られないことなどから千手観音は追刻と思われる。追刻された時期は平安後期から鎌倉時代ではないだろうか。千手観音横には大きな千手観音座像石仏(近世の作?)が置かれている。

 古墳時代には仏教は伝えられていない。古墳は古代の人々の自然崇拝やアニミズムから生まれたものであり、仏教とは直接的な関係はない。釈迦の称えた「悟り」を説く仏教は、やがて、自然崇拝から生まれたインド古来の神々や伝来地の種々の信仰と結びつき、豊潤な命を育む宗教に展開していく。日本でも例外ではない。磨崖仏の魅力はそのような仏教が、石や岩そのものに対する信仰と結びついた所にある。

 したがって、古墳の石室を仏の世界に変えた石貫穴観音は、何の不思議もない当然の結果といえる。実際、古墳の石室・玄室に石仏などの仏像を安置した例は各地に見られる。(奈良県桜井市の文殊院西古墳・東古墳には不動石仏が安置している。石室の壁に仏像などを彫った例は岡山県にも見られる。)

 石貫穴観音の千手観音自体は、大分などの磨崖仏と較べると迫力に欠け、ノミの冴えも劣る。しかし、そこには古代から脈々と続く、石に対する信仰が感じられ、魅力的である。(石貫穴観音には2回、訪れたが、いつも花が供えられ、ロウソクが立てられていた。)
 
石貫ナギノ横穴
熊本県玉名市石貫 字後田2386
  石貫ナギノ横穴は川岸の高さ7m、全長200mの丘陵にならぶ古墳時代後期の横穴群。48基以上あり、そのうち18基は装飾古墳。装飾は、飾り縁の外側に同心円文・三角文などが赤色で彩色されている。



令和8年9月15日  串間円立院の石仏 日南市と宮崎市南部の仁王1
日南市と宮崎市南部の仁王
 日南市の五百祀神社の飫肥藩の藩主の伊東家累代の墓地入口に仁王像がある。円立院の刻銘のある仁王では最も古い天明4年(1784)の作である。また、宮崎市の南部の宮崎市加江田の円南寺と日御碕の観音寺にも円立院の刻銘がないが作風から円立院の作と思われる仁王像がある。
 
五百祀(いおし)神社仁王
宮崎県日南市大字楠原  「天明4年(1784)」
五百祀神社へのアクセス
 
阿形
 
吽形
 五百祀神社仁王は伊東家累代の墓地入口に置かれている。五百祀神社は明治になって廃寺になった伊東家の菩提寺の報恩寺跡に創建された神社で仁王像は報恩寺に安置されていたものである。長身でバランスの取れた力強い体躯と力感ある憤怒相が相まって迫力のある仁王像になっている。「宮崎古城住佛師円龍院作」「天明四甲辰季入」などの刻銘があり、天明4年(1784)に円立院によって彫刻されたことがわかる。円立院の刻銘がある仁王像では最も古い。



 
令和8年9月13日撮影  近くの桜園にて
エゾビタキ
前日に引き続き隣の町の桜園でエゾビタキを撮影しました。



  
令和8年9月13日  熊本県の磨崖仏 青木磨崖梵字群
青木磨崖梵字群
〒865-0004 熊本県玉名市青木   「鎌倉時代」
 玉名市青木の熊野神社境内には、鎌倉後期に作られたといわれる、高さ約10m、幅60mほどの凝灰岩の岩壁に彫られた梵字群がある。これらの梵字は種子(しゅじ)といって如来、菩薩、天部の神を象徴している。圧巻は剣と梵字(カーン・ア)を組み合わせた高さ約2mの倶利伽羅不動である。(逆光で影になって良い写真が撮れなかった)その他、バク(釈迦如来)やキリーク・サク・サ(阿弥陀三尊)などの種子が見事な薬研彫りで刻まれている。
 
倶利伽羅不動(剣不動)
 倶利伽羅不動(剣不動)は龍が剣に絡み、その剣を剣先から呑み込もうとしている姿で表される。ここでは不動明王を表す種子「カーン」と胎蔵界大日如来を表す種子「ア」を貫く剣で表している。
 
胎蔵界大日如来(アーンク)
 
釈迦如来(バク)
 
阿弥陀三尊(キリーク・サク・サ)
上に阿弥陀如来の種子「キリーク」を下に勢至菩薩の種子「サク」と観音菩薩7の種子「サ」を刻む。
 
阿しゅく如来(ウーン)
きれいな円形の月輪の中に鋭い薬研彫りて種子が彫られている。



 
令和8年9月12日  近くの桜園にて
エゾビタキ
隣の町の桜園に数羽のエゾビタキがいました。



令和8年9月11日  熊本県の磨崖仏 円台寺磨崖仏
熊本県の磨崖仏
 熊本県の磨崖仏として円台寺磨崖仏と青木磨崖梵字群を紹介します。円台寺磨崖仏は熊本県では最古の磨崖仏で阿弥陀三尊や阿弥陀如来座像は表面の風化か進んでいるが鎌倉時代の石仏らしく張りのある優れた像である。青木磨崖梵字群は種子(梵字)で釈迦・阿弥陀・大日如来などの如来・菩薩・天部像を表したもので、鋭い薬研彫りで巨大な岸壁に彫られている。特に種子と剣を組み合わた倶利伽羅不動(剣不動)は迫力あり見事である。



  
円台寺磨崖仏
熊本市北区植木町円台寺   「鎌倉時代」
 円台寺磨崖仏は凝灰岩の岩壁に、多くの石仏が彫らていて、中心となるのは向かって右の岩壁の下方の阿弥陀三尊像と、左の岸壁の上に一番上に彫られている阿弥陀如来座像である。阿弥陀三尊磨崖仏はいわゆる、善光寺式阿弥陀である。阿弥陀如来座像は将棋の駒の形の彫り窪みをつくり説法印の阿弥陀如来座像を厚肉彫りしたもので、顔の部分が風化しているのが惜しいが端正な磨崖仏である。他に阿弥陀三尊の隣に磨崖仏三重宝塔、阿弥陀石仏などがある。また、阿弥陀三尊のある岩の上に駒形の掘りくぼみが並んでいてその中に仏画が絵描かれていて、彩色が残る如来像は2体ほどあった。
阿弥陀如来座像磨崖仏
 
阿弥陀三尊石仏・三重宝塔
 
彩色仏画
 
阿弥陀石仏



令和8年9月10日  串間円立院の石仏 南宮崎駅周辺の仁王と神像2
太田観音堂神像
宮崎県宮崎市太田3丁目2  「寛政3年(1791)」
太田観音堂へのアクセス
 
豊石窓命(とよいわまどのみこと)
 
櫛石窓命(くしいわまどのみこと)
 南宮崎駅の北にある太田自治公民館の隣にある太田観音堂の前に仁王のように立つ像高約2mの阿吽の像である。吽形の像の背後に「豊石窓命 寛政三年辛亥十一月 櫛石窓命 観音寺講中 猪八重氏 (略) 」とあり、豊石窓命像と櫛石窓命像であることがわかる。太い眉を吊り上げた憤怒相は宝泉寺仁王像などとよく似ていて迫力がある。

豊石窓命像と櫛石窓命像をgoogleのAIモードで調べてみると
 「『古事記』での記述:天孫降臨(アマテラスの孫・ニニギノミコトが地上に降りる際)の随伴神として登場する天石門別神(あめのいわとわけのかみ)の別名が、櫛石窓神・豊石窓神であるとされています。つまり、一つの神様の別名という扱いです。」
「『古語拾遺』や『延喜式』での記述: 天岩戸から天照大神(アマテラス)が新殿に遷った際、その御門の守衛を務めた一対(ふたつ)の神として描かれます。忌部氏(いんべうじ)の祖神である太玉命(フトダマノミコト)の子神とされています。」
となっていた。
 
多宝寺仁王
宮崎県宮崎市大塚町六ツ合686  「寛政12年(1800)」
多宝寺へのアクセス
 
阿形
 
吽形
 宮崎市大塚町にある禅宗寺院の多宝寺の山門前に安置されている仁王像である。「奉建立仁王尊 寛政十二庚申年十二月八日 (中略) 仏師古城大越家円立院」の刻銘があり、寛政12年(1800)に円立院によって彫作されたことがわかる。



令和8年9月9日  長崎県の磨崖仏 久山磨崖三十三観音
久山(くやま)磨崖三十三観音
長崎県諫早市久山町1159-1 「鎌倉中期以降」
  久山町の小さなアパートの間の路地の突き当たり、丘の麓の岩肌に彫られた磨崖三十三観音である。慶厳寺磨崖三十三観音と同じく、舟形の彫り窪みをつくり、西国三十三ヶ所観音を半肉彫りしたもので、像は慶厳寺磨崖三十三観音より小さく、穏やかな柔らかな表現となっている。慶厳寺磨崖三十三観音と同じく、彩色の跡を残す。
 崖面の中央に「文政十一年子天 二月吉祥日 四良兵工 政五郎 虎五郎 宅次郎 赤松 当所 巡礼中 石工 三次良」の刻銘があり、文政11(1828)年に彫られたことがわかる。石工以外の人名は巡礼の世話人・施主である。他にも施主と思われる在銘が多く見られ、西国三十三カ所観信仰の普及・広がりがうかがえる。
 慶厳寺磨崖三十三観音と同じように像の横に札所寺院の番号が刻まれている。ただ、この磨崖三十三観音も西国三十三カ所寺院の本尊の観音と刻まれた札所番号の観音とは一致しない。この磨崖三十三観音も白衣観音のように頭に布かぶった姿で表された観音が多く、白衣観音・龍頭観音・魚籃観音・岩戸観音など頭に布かぶった姿で表された観音が大半を占める「三十三体観音」※ の影響も考えられる。

※ 法華経普門品に説く三十三身を根拠として後人が図面化した三十三種の観音。楊柳観音・龍頭観音・持経観音・円光観音・遊戯観音・白衣観音・蓮臥観音・滝見観音・施薬観音・魚籃観音・徳王観音・水月観音・一葉観音・青頸観音・威徳観音・延命観音・衆宝観音・岩戸観音・能静観音・阿耨観音・阿摩提観音・葉衣観音・瑠璃観音・多羅尊観音・蛤蜊観音・六時観音・普悲観音・馬郎婦観音・合掌観音・一如観音・不二観音・持蓮観音・灑水観音の三十三体である。
 
 彩色がきれいに残っている。頭部は宝髻に布をかぶっているように見える。胸元で宝鉢?を持っている。像の左に札所番号として十三番と刻まれている。西国13番石山寺の本尊は如意輪観音であるが、この像はあきらかに如意輪観音ではない。
この像も頭に布をかぶっていて、胸元で胸元で宝鉢を持つ。
女性的な美しい顔の観音である。



令和8年9月8日  串間円立院の石仏 南宮崎駅周辺の仁王と神像1
南宮崎駅周辺の仁王と神像
 JR南宮崎駅の近くに2対の円立院の石仏がある。1対は南宮崎駅の東、直線距離で0.5㎞の住宅街にある宝泉寺仁王で、もう1対は南宮崎駅の北、直線距離で0.5㎞の太田自治公民館の隣にある太田観音堂の前に立つ神像である。仁王のように阿吽の憤怒相の神像である。他に南宮崎駅から直線距離で4㎞ほど離れているが南宮崎駅と同じ大淀川右岸にあるので多宝寺仁王像もここで紹介する。
 
宝泉寺仁王
宮崎県宮崎市恒久3丁目21-1  「寛政元年(1789)」
宝泉寺へのアクセス
 
阿形
 
吽形
 宝泉寺仁王は南宮崎駅の東の宮崎市恒久の住宅街の中にある宝泉寺の山門前に安置されている。同じ寛政元年(1789)の作の本庄八幡宮仁王によく似た像であが、こちらは赤い彩色がよく残っている。父の延寿院の最勝寺跡仁王に較べると豪快さにかけるが、人生の辛苦を背負ったような渋い憤怒相で、作者の人間味が感じられる。もとは隣町の宮崎市城ケ崎の如宝寺跡にあったものが写されたという。背部の刻銘に「城ケ崎町の安寧、火災除け、五穀豊穣を若者組が祀って、古城の仏師円龍印が彫刻し、寛政元年(1789)に建立された」旨が記されている



令和8年9月7日  長崎の磨崖仏 慶巌寺磨崖三十三観音
長崎県の磨崖仏(磨崖三十三観音)
 長崎県の磨崖仏として諫早市の慶巌寺磨崖三十三観音と久山磨崖三十三観音を掲載する。江戸時代、西国三十三所観音の巡礼巡りの信仰の盛行とともに、西国札所の各寺院の本尊の観音を模した観音石仏が並べられ、簡単に三十三所観音霊場の巡礼巡りができるように、三十三所観音霊場のミニチュアとして三十三所観音が一寺院や一山につくられた。多くは単独の小石仏を並べたものであるが、磨崖仏で表現したものも見られる。特に福島県には岩谷観音磨崖仏をはじめ多くの磨崖三十三観音がある。また、三重県には大型の厚肉彫りの磨崖仏で福島市の岩谷観音磨崖仏とともに江戸時代の磨崖仏の秀作である石山観音磨崖仏がある。西日本では少なく、広島県竹原市の黒滝山磨崖仏などが知られている。

 慶巌寺磨崖三十三観音と久山磨崖三十三観音も西国三十三所観音霊場のミニチュアとして彫作された磨崖仏で、各像の横に霊場の番号が刻まれている。両磨崖三十三観音は共に舟形の彫り窪みをつくり、西国三十三所観音を半肉彫りしたものである。各霊場の本尊の観音を勧請した形になっているが、西国三十三所観音本尊で見られない白衣観音のように宝髻を頭巾で覆っている姿の観音が見られ西国三十三所観音本尊と一致しない観音が多くある。千手観音らしき像もあまり見られない。



慶巌寺(けいがんじ)磨崖三十三観音
長崎県諫早市城見町121 「明和7(1770)年 江戸時代」
 慶厳寺は江戸時代初期に創建された浄土宗の寺院で諫早城の北の本明川の川岸近くにある。慶厳寺磨崖三十三観音は寺の南の砂岩の崖の岩肌に、舟形の彫り窪みをつくり、三十三体の観音像を、半肉彫りしたもので、各像の像高は40㎝ほどで、明和7(1770)年2月、福田源太夫の母が寄進したものと記銘されている。

 各観音の右側に「西国三十三所○○番」と番号が刻まれているが確認できないものが多かった。家族との観光旅行のついでに寄ったため時間がなく各観音像と霊場番号を確認できなかったことや西国三十三所観音本尊に一致しない観音像が多いため各像の写真に尊名と霊場名を載せることが出来なかった。西国三十三所観音の本尊では合わせて半数を超える千手観音、十一面観音は確認できなかった。西国観音霊場の本尊と違っていても慶厳寺三十三観音は各観音は丁寧な彫りで、整った端正な磨崖仏である。
 
頬に右手をあてている。頭部は宝冠をかぶっているように見えるが。如意輪観音?。
半跏像。頭部は宝髻に布をかぶっているように見える。
頬に右手をあてている。頭部は十一面観音の頭上面のようにも見えるが、宝冠と思われる。
一見すると白衣観音立像に見える美しい観音である。頭部は宝髻に布をかぶり、両手を胸元で合わせて宝鉢を持つ。
この像も頭部は宝髻に布をかぶっている。このような観音像が慶巌寺磨崖三十三観音ではよく見かける。



令和8年9月6日  串間延寿院の石仏 鵜戸神宮の磨崖仏
鵜戸神宮の磨崖仏
宮崎県日南市宮浦鵜戸鵜戸山  「明和元(1764)年・明和2(1765)年 江戸時代」
 鵜戸神宮は山幸彦、海幸彦の物語で知られる山幸彦(彦火火出見尊〔ひこほほでみのみこと〕)と海神のむすめ豊玉姫命〔とよたまひめのみこと〕の子どもの「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」を祀る神社で、国定公園日南海岸の風光明媚な海岸にあり、参拝客・観光客が絶えない。明治以前は「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と称した寺院でもあった。
 その鵜戸神宮駐車場の南西側の小さな山の岩肌に、不動明王磨崖仏と閻魔王磨崖仏と四天像と称される磨崖仏がある。(新駐車場の登り口に案内板がある。)「鵜戸山仁王護国寺」の第47世の別当隆岳が明和元年(1764)から同2年に仏師延寿院に彫らしたのがこれらの磨崖仏である。閻魔大王の鋭い目つきで睨みつける表情や不動明王の左に腰をひねり憤怒の形相で立つ姿の表現は巧みで力強く、技量はこのページ取り上げた3人の仏師では一つ抜きんでている。
 
不動明王立像
 不動明王は北斜面の突き出た三角形の岩に火焔光背とともに像高1.27mの不動明王立像を厚肉彫りしたものである。極彩色に塗られていたらしく、光背などに色彩が残る。力強い表現で江戸時代の磨崖仏としては出色の作である。
 
閻魔王像・四天王像
 山の南側の車道に沿った樹林下の小広場には、大型の転石が数個並んでいて、左端の石には閻魔王の厚肉彫りの倚座像が彫られている。保存状態は良く、整った木彫仏を思わせる石仏である。右手の石には四天像と称される、亡者や獄卒などを彫った像がある。



   
令和8年9月5日  串間円立院の石仏 宮崎市北部の仁王像2
朝倉観音仁王像
宮崎県宮崎市金崎914番地
朝倉観音へのアクセス
阿形
 
吽形
 朝倉観音仁王像は他の円立院の仁王像と比べと小振りであるが、彫りが深く力強い仁王像である。円立院の刻銘のある霧島寺跡仁王像や宝泉寺仁王像よりも、延寿院作と思われる生目大村の仁王像によく似た表現である。
 
本庄八幡宮仁王像
宮崎県東諸県郡国富町本庄7798  「寛政元年(1789)」
本庄八幡宮へのアクセス
 
阿形
 
吽形
 本庄八幡宮の参道の左側の丘に祀られている。明治の廃仏毀釈で廃寺になった八幡宮の別当神宮寺の仁王像である。霧島寺跡仁王によく似た表現で彩色は頭部に一部残るのみである。像の背部に寛政元年(1789)に像立年や仏師が「宮崎古城大越家円立院」、導師が「円応良融」(江戸時代に神宮寺の社殿や仏堂の造営をすすめた)であることが刻まれている。



令和8年9月4日  串間円立院の石仏 宮崎市北部の仁王像1

近世日向仏師の石仏2

串間円立院の石仏



  寛政元年(1748)、古城(宮崎市)に生まれた、串間円立院は、護東寺の第六世住職で大峰入峰修行や熊野三山奥駆け修行を3回した修験僧である。護東寺の第五世住職であった父、串間延寿院と同じく仏像彫刻に優れ、天保5年(1834)、85歳で亡くなるまで、多数の仏像をつくった。現在、362体の仏像が確認されているという。(前田博仁著「近世日向の仏師たち」)
 仁王像では、国富町の本庄八幡宮や宮崎市の霧島寺跡・多宝禅寺・宝泉寺、日南市の五百祀神社などの仁王像が彼の作で円立院または円龍院の記銘がある。また、宮崎市の日之御碕観音や円南寺の仁王も記銘がないが作風から円立院の作と思われる。
 住職であった護東寺跡には仁王像をはじめ弘法大師、阿弥陀如来、菩薩立像、地蔵菩薩などの円立院作の石仏が残されている。また護東寺跡近くの伊満福寺には青面金剛像(庚申塔)・阿弥陀石仏・六地蔵などの円立院の石仏がある。



   
宮崎市北部と国富町の仁王像
 串間円立院の大型彫像の仁王像は10対が確認されている。その中で宮崎市北部にある仁王が宮崎市跡江の大淀川の堤防下の霧島寺跡仁王像と国富町と接している宮崎市金崎にある朝倉観音仁王像と国富町の本庄八幡宮仁王像を紹介する。霧島寺跡仁王像と本庄八幡宮仁王像には円立院と像立年の刻銘がのこる。朝倉観音仁王像は円立院の記銘がないが作風から円立院の作と思われる
 
霧島寺跡仁王像
宮崎市大塚町六ツ合686  「寛政13年(1801)」
霧島寺跡へのアクセス
 
阿形
 
吽形
 霧島寺跡仁王は宮崎市跡江の大淀川の堤防下に、六十六部廻国供養塔などの石造物とともに祀られている。堤防と椿の林を背景にして霧島山に向いて立っていて赤く塗られた2体の仁王の姿は印象的である。つり上がったどんぐり眼、太い眉、V字型の額の3本の皺など顔の表現は父の延寿院作の生目大村の仁王像とよく似ている。像の背部に「寛政十三辛酉年三月七日(1801年)」「細工古城村円立院」と造立年と仏師名の刻銘がある。




令和8年9月3日  串間延寿院の石仏 日南の延寿院石仏
串間延寿院の石仏 日南の延寿院の石仏
 日南市には延寿院の刻銘のある石仏が鵜戸神宮の磨崖仏以外にも4体ある。その中で飫肥城跡の北0.5㎞にある長持寺跡の墓地にある地蔵石仏と風田の街の中にある仁王像を紹介する。
 
長持寺跡墓地地蔵石仏
宮崎県日南市板敷7265-18 「明和元年(1764) 江戸時代」
長持寺跡墓地へのアクセス
  ほとんど知られていないが、鵜戸神宮の磨崖仏などと遜色ない傑作が日南市の飫肥城跡近くの住宅地の外れの古い墓地にある長持寺跡墓地地蔵石仏である。2mを越える船形にした石材に枠取りした二重円光背の彫りくぼみをつくり、左手に宝珠を持ち右手に錫杖を持つようにした地蔵菩薩を厚めに半肉彫りした立像である。

 中世の地蔵のような穏やかで澄ました面相ではなく、人生の機微を味わい尽くしたような人間味を感じさせる面相である。体躯や着衣等の表現は巧みで力強く、確かな技量が窺える。「明和元年(1764)」の紀年銘や願主とともに「仏師大越家延寿院」の刻銘がある。
 
風田仁王像
宮崎県日南市大字風田3594-3
風田仁王像へのアクセス
阿形
 
吽形
 風田の仁王像は像高1mほどの小像で砂岩製のため傷みが激しいが、体躯や衣紋などの表現など写実的で巧みである。紀年銘はないが「大越家延寿院」の刻銘が残る。文殊仙寺の金剛力士像のように肋骨を数珠玉であらわしている。



令和8年9月2日  串間延寿院の石仏 青面金剛像
青面金剛像(庚申塔)
 串間延寿院は2体の青面金剛像を残している。一体は古城小学校の西350mの県道336号線沿いにある八坂神社の境内にある。もう一体は八坂神社から県道336号線を西へ1.5㎞行った県道の北の山すそにある伊満福寺奥の院の参道にある。
 
八坂神社庚申塔(青面金剛像)
宮崎県宮崎市古城町  「宝暦4年(1754) 江戸時代」
八坂神社庚申塔へのアクセス
 赤い彩色が残る宝暦4年(1754)の記銘がある八坂神社の庚申塔(青面金剛像)は衣紋の表現や顔の表情など鵜戸神宮の不動明王磨崖仏によく似ていて、いままで見た青面金剛像の中では最も優れた像である。顔の眉付近から上が破壊されているのが惜しい。六臂には弓矢や法輪・剣・錫杖・戟などを持つのが普通であるが、法輪以外は、各手は指を丸めて真ん中を開けて、差し込んで持たせるようにしている。
 
伊満福寺奥の院庚申塔(青面金剛像)
宮崎県宮崎市古城町持田  「宝暦5年(1755) 江戸時代」
伊満福寺奥の院へのアクセス
 伊満福寺奥の院の庚申塔(青面金剛像)は宝暦5年(1755)の作で八坂神社の庚申塔の翌年に彫られたものである。この像も六臂像で円光背と船形光背を背負った厚肉彫りの力強い彫りで、六臂は法輪以外は、各手は指を丸めて真ん中を開けて、差し込んで持たせるようにしている。



令和8年9月1日  串間延寿院の石仏 仁王像

延寿院・円立院・快然の石仏

(近世日向仏師の石仏)

 

串間延寿院の石仏 串間円立院の石仏 平賀快然の石仏

 

 大分県・鹿児島県・宮崎県など九州の寺社の入り口には室町末期・江戸時代の石造の仁王像が多くある。特に国東半島には多数あり、その中でも、旧千灯寺跡や岩戸寺の仁王像は、石の持つ美しさ・厳しさを感じることができる迫力のある石像である(右のサムネイルをクリックしてください)。

 また、文殊仙寺や両子寺等の仁王像は木彫の仁王像と変わらない整った秀作である。しかし、それ以外の国東半島をはじめとした九州各地の石造仁王像は憤怒相の顔や胴体部分の表現が難しいのか稚拙な作が多い。

 私は、石造仁王像は岩戸寺や旧千灯寺跡の像をのぞいて、あまり魅力を感じなかった。 しかし、今年(2011年)の正月に見た、江戸時代に宮崎で活躍した3人の僧、串間延寿院・串間円立院・平賀快然の石造仁王像は違っていた。彼らの彫った仁王像は、デフォルメされた憤怒相の顔が力感あふれ、個性的で印象的な仁王像であった。 

 串間延寿院とその子の串間円立院の仁王像は、両子寺の仁王像のような均整のとれた整った仁王像ではないが、顔の表現が迫力があり個性的で、延寿院・円立院という山伏(修験僧)でもある仏師の人間性を感じる作品で、魅力的である。

禅宗僧で仏師の平賀快然の仁王像も、迫力があり、「松崎観音仁王像」などは石の魅力を生かした作品で、見応えがある。

 これらの仁王像を見に行くきっかけは、偶然、昨年12月に手に入れた『前田博仁著「近世日向の仏師たち」鉱脈社刊』という本である。この本で串間延寿院の仁王像(最勝寺跡)の写真を見て、旧千灯寺跡や岩戸寺の仁王像とはまた違った魅力の仁王像を知った。

 このだび、宮崎市周辺の延寿院・円立院・快然の仁王像・石仏を見てまわり、江戸時代の庶民の信仰に支えられた江戸時代の修験僧や木喰に代表される廻国僧・遊行僧の彫った仏像の魅力を改めて認識することになった。どうぞ、国東の仁王像とは違った魅力のある延寿院・円立院・快然の仁王像や石仏の造形美をお楽しみください。(廻国僧の円空仏や木喰仏やそれらにつながる石仏の魅力について考察した「謎の石仏」のページ参照)  

参照 前田博仁著「近世日向の仏師たち」鉱脈社 2009年12月16日 刊
 



近世日向仏師の石仏1

串間延寿院の石仏


 串間延寿院は宮崎市古城にあった護東寺の五世住職で、3回大峰入峰修行をした、大越家(おいつけ)の僧位を持つ修験僧である。古城で生まれ安永5年(1776)に入寂した。延寿院は大仏師を名乗り、仏師として造仏活動もすすめた。現在、石仏の刻銘や木彫仏の墨書などから宝暦4年(1754)から明和6年(1769)にかけて彫作活動したことは分かっている。

 延寿院の代表作といえるのが鵜戸神宮の不動明王磨崖仏と閻魔王像である。参拝客・観光客が絶えないや鵜戸神宮の駐車場近くにあり多くの人が目にしている磨崖仏である。生目大村仁王像と最勝寺跡仁王像もデフォルメされた憤怒相の顔が力感あふれた像である。延寿院作と思われる青面金剛像(庚申塔)も2体ある。八坂神社青面金剛像(庚申塔)と伊満福寺奥の院青面金剛像(庚申塔)であるる。八坂神社青面金剛像(庚申塔)は衣紋の表現や顔の表情など鵜戸神宮の不動明王磨崖仏によく似た秀作である。他に日南市の長持寺跡地蔵石仏と風田仁王像を紹介する。



仁王(金剛力士)像
 串間延寿院の仁王(金剛力士)像は、両子寺の仁王像のような均整のとれた整った仁王像ではないが、顔の表現が迫力があり個性的で、延寿院という山伏(修験僧)でもある仏師の人間性を感じる作品で、魅力的である。天衣は両肩から後頭部になびかせるのではなく、肩にかけるよう表現している。最勝寺跡や生目大村の仁王像は作者名の刻銘がないが、鵜戸神宮の磨崖仏や子どもの円立院と似た作風であることや最勝寺跡仁王像の刻銘に延寿院の父親と思われる頼宥法印の名あることから延寿院作と思われる。
 
生目大村仁王像
宮崎県宮崎市大字生目  「明和6年(1769) 江戸時代」
生目大村仁王へのアクセス
 
阿形
 
吽形
 生目大村の仁王像は生目神社の参道入口の東に50mの民家裏にあり、案内標識もなくあまり知られていない。子どもの円立院の仁王像とよく似た作風で、保存状態がよい秀作である。彫りも鋭く力強い。
 
最勝寺跡仁王像
宮崎市源藤町源藤917-5  「宝暦6年(1756) 江戸時代」
最勝寺跡(寺ん堂)へのアクセス
阿形
 
吽形
 最勝寺跡は通称「寺ん堂」と呼ばれていて、源藤町の国道220号線と県道27号線に挟まれた丘陵地を開発した新興住宅地の最上部にある。現在は三十三所観音石仏が祀られた小さなお堂とこの仁王像と平成14年に建てられた「寺ん堂」の由来を記銘した立派な石碑が立っている。仁王像は、体躯の表現などややアンバランスで整った作とは言い難いが、誇張した表現の憤怒相の顔や腕は力強い。特に阿形の横顔は迫力がある。吽形の背面に、「宝暦六丙子」(1756)の刻銘がある。