「フォトギャラリー 石仏と野鳥」 新版 2020年4月 

 
3月



   
令和3年4月19日  近くの川にて
コチドリ
山の上の公園では成果がなく、近くの川に寄りました。川岸にコチドリがいました。今年初めてのコチドリです。



   
令和3年4月18日  地元の山の上の公園にて
アトリ・ビンズイ
山の上の公園へ行ったのですが、着いて20分ほどたつと雨が降り始めました。雨が降る前に写した、アトリとビンズイです。
花が散って実がなった桜の木にアトリが来ていました。
雌のアトリが虫を捕まえました。
ビンズイか下に降りていました。



   
令和3年4月16日撮影  地元の山の上の公園と近くの川にて
タシギ・ニュウナイスズメ
山の上の公園からの帰り、近くの川に寄りました。川の横の水路にはまだタシギがいました。
3羽いたのですが、2羽は飛んでいってしまいました。
タシギを撮る前に言った山の上の公園は鳥影も少なく、撮影したのは高い木の上で鳴いていたニュウナイスズメだけでした。



   
令和3年4月15日撮影  地元の山の上の公園と近くの川にて
シメ・エナガ・ビンズイ・イワツバメ
 15日と16日はキビタキ・オオルリなど夏鳥を期待して、地元の山の上の公園に行きました。しかし、まだ早いのか15日はシメ・エナガ・ビンズイなどを、16日はニュウナイスズメを撮影しただけで、夏鳥は見られませんでした。
シメは毎年よくこの公園で見かけるのですが、今年はシーズンが終わるこの時期に初めてこの公園で見ました。
今日もエナガが水たまりで水浴びをしていました。
ビンズイは毎年、この公園でよく見かけるのですが、今年はあまり見られず、久しぶりにビンズイを撮りました。
 7日午前にイワツバメを撮影した後、午後に行くとイワツバメの数が減って巣作りが進んでいませんでした。次の日から何回か見に行ったのですが、イワツバメは全く見られませんでした。巣作りをあきらめたのかと思っていると山の上の公園からの帰り、川面をイワツバメが飛んでいるのを見つけました。集団営巣の場にいってみると、また巣作りを再開していました。多くのイワツバメが飛び回って、30以上の古巣の修復をしています。





令和3年4月14日 天部諸尊像石仏T
梵天・帝釈天・十二天
 仏教の諸尊は如来・菩薩・明王・天に大別される。天はそのほとんどが元来、バラモン教等の異教の神々であって、仏教に取り入れられ、仏法を守護する護法神とされたものである。これらの神々が天上界に住んでいることから天の名称となった。石仏としては数多く見られるものとしては毘沙門天・弁財天・大黒天などで、現世利益の神として信仰を集める天部諸尊像である。

 梵天と帝釈天は古代インド神話中の重要な神、ブラフマンとインドラのことで、天部諸尊の代表として如来の説法などに登場する。石仏では梵天は作例は希で、日光輪王寺開山堂裏の日光六武天石仏梵天像が知られているぐらいである。帝釈天の石仏は江戸時代、庚申信仰の主尊として造られたものがあり、梵天ほど珍しい石仏ではない。

 十二天は仏法を守護する天部十二尊で、八方を守る帝釈天(東)・火天(東南)・焔摩天(南)・羅刹天(西南)・水天(西)・風天(西北)・毘沙門天(北)・伊舎那天(東北)の八方天と天・地・月・日を表す梵天・地天・月天・日天から成り立っている。密教においては護法天として四天王以上に重要な役割を担っているが、十二天として造立された作例は石仏ではきわめて珍しい。

 その珍しい十二天の石仏が竹成五百羅漢にある。築山の頂上の金剛五仏の近くに十二天石仏は並べられている。十二天の像で単独の石仏としての作例がよくあるのは帝釈天・毘沙門天・水天・地天などである。
天部諸尊像T(1)   日光開山堂六武天石仏
栃木県日光市山内・輪王寺開山堂裏 「江戸初期」
梵天
帝釈天
 美 日光輪王寺開山堂の裏の通称「仏岩」と呼ばれる岸壁の下に6体の石仏が腰下や膝下を地中に埋めて立つ。向かって右から帝釈天・四天王(持国天?)・梵天・不動明王・四天王(増長天?)・四天王(広目天?)で、「六武天像」とよばれるている。

 江戸時代の石仏としては出色の出来ばえである。特に梵天と帝釈天は端正な顔で、クローズアップで撮った横顔はどことなく、薬師寺の聖観音などの天平時代の金銅仏を思わせる。手が欠損しているため、尊名が断定できないが、肩を張った鎧姿の体躯の3体の四天王は力強く、石仏とは思えない精巧な表現である。おそらく、石仏の専門の石工だけではなく、本格的な仏師がかかわった石仏ではないだろうか。

 梵天像は東大寺法華堂の梵天像のような中国の貴紳の姿ではなく、東寺講堂の梵天像のような四面四臂の密教像の姿である。東寺像と同じような端正な顔の像である。帝釈天像は宝冠を戴き、左手で宝鉢を持つ。
天部諸尊像100選(2)   竹成五百羅漢十二天
三重県三重郡菰野町竹成2070 「江戸末期」
 御在所山の麓、湯の山温泉で知られる菰野町の北部、菰野町竹成の大日堂境内に三重県の史跡に指定されている五百羅漢石仏がある。大日堂は文明13(1481)年作の大日如来像(県指定有形文化財)を本尊とする寺で現在本尊を納めた小さなお堂と、前庭築山の五百羅漢石仏が残るのみである。

 五百羅漢石仏は高さ約7mの四角錐の築山をつくり、頂上に金剛界大日如来と四方仏を置き、その周りに如来・菩薩・羅漢をはじめとした500体ほどの石像を安置したもので、七福神や天狗、猿田彦などもあり、大小様々な石仏・石神が林立する様は壮観で、見応えがある。
漢羅刹天・伊舎那天・火天・焔摩天
水天・梵天・帝釈天・毘沙門天
梵天
帝釈天
水天
地天
漢羅刹天
毘沙門天
伊舎那天
月天
火天
焔摩天
 十二天として造立された作例は石仏ではきわめて珍しい。その珍しい十二天の石仏が竹成五百羅漢にある。築山の頂上の金剛五仏の近くに十二天石仏は並べられている。円光背を背負った丸彫り像で、すべて、ほぼ江戸時代の仏像図版集の『仏像図彙』通りの様相である

 梵天は四面四臂像で、宝戟(三叉戟)と蓮華を持つ。帝釈天像は宝冠を戴き、左手で宝鉢を持つ。水天は頭に五匹の蛇(龍)を載せ、右手に剣を持ち、左手で蛇の羂索を持った異様な姿であるが、少年のような初々しい相貌である。

 地天は盛花器を捧げ、伊舎那天は右手に三叉戟、左手に盛血劫波坏を持つ。月天は右手に月輪を捧げ、焔魔天は左手で人頭杖を持つ。これらの四天は水天と同じく穏やかな相貌である。それに対して羅刹天と毘沙門天は武装憤怒形、火天は苦行する仙人の姿である。
天部諸尊像100選(3)   喜光寺の十二天
奈良市菅原町508 「江戸時代」
  喜光寺は奈良時代、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したとされ、行基菩薩の入滅の地として知られる古寺である。現在、天文13年(1544)に建て直され本堂と平成になって建てられた南大門、行基堂が主な建物である。本堂には平安時代の丈六の阿弥陀如来(重要文化財)が祀られている。本堂の西の境内には多くの蓮の花が植えられた鉢が置かれていて、蓮の花は本堂や石仏とマッチして絶好の被写体となっている。

 蓮の鉢が置かれた境内の奥には、インドから将来された仏足石・初転法輪像と室町後期から江戸時代の約150体の石仏が並べられている。その中には獅子に乗ってお経を読み上げる稚児文殊や錫杖を逆手に持った春日地蔵、横を向く来迎阿弥陀像など珍しい石仏が多数ある。その無造作に並べられた石仏群のなかに伊舎那天・帝釈天などの十二天像が混ざっている。
伊舎那天
 並べられた約150体の石仏の中央付近にあり、最初に確認した十二天像である。ふり返るようにやや右を向き、右手に三叉戟、左手に血の盛られた器(坏盛血劫波坏)を持つ。
帝釈天
右手で金剛杵を左手で宝鉢を持つと思われるが摩滅してわかりにくい。
地天
 一見すると菩薩像に見える端正な顔の石仏である。しかし、よく見ると、光背が輪光の周囲に火焔をめぐらした焔光背で、右手に花を盛った鉢を持っていて地天であることがわかる。
天部諸尊像100選(4)   護東寺跡月天像
宮崎市古城町 「文化4年(1807) 江戸時代」
 護東寺跡の月天像は月輪を持つ二臂の像で、円立院の刻銘を確認しなくても一見して円立院と分かる石仏である。整った清浄な顔ではないが、人々の苦しみや業を知り尽くした人間味溢れる顔である。石仏の後ろに「文化四丁午年三月」「仏師円立院」の刻銘がある。串間円立院は江戸時代に宮崎で活躍した修験僧で仏像彫刻に優れ、85歳で亡くなるまで、多数の仁王像などの仏像をつくった。護東寺の住職でもあった。



   
令和3年4月13日  地元の山の上の公園にて
ヤマガラ・シジュウカラ・シロハラ・アオジ
 地元の山の上の公園にオオルリ・キビタキなどの夏鳥やアカハラを期待して出かけるのですが、見かけるのはヤマガラやエナガ・シロハラなどで、代わりばえしません。
ヤマガラが大きな口を開けて囀っていました。
虫を捕まえたシジュウカラです。
茶色のやや大きい鳥か桜園を飛び回っているので、アカハラと期待して写すのですが、いつもシロハラです。
新緑の桜にアオジの黄緑色が映えます。



   
令和3年4月11日  地元の山の上の公園にて
エナガの水浴び
地元の山の上の公園の水たまりでエナガが水浴びしていました。



   
令和3年4月10日  地元の山のハイキングコースと池にて
イソヒヨドリ・ヤマガラ・キンクロハジロ
地元の山のハイキングコースの登山口にはよくイソヒヨドリを見かけます。
ハイキングコースでは所々で、ヤマガラが「ツツピーン ツツピーン」の囀りとともに姿を見せました。
山の上の池のオシドリはもういませんが、キンクロハジロはまだ3羽残っていました。



 
令和3年4月9日  弥勒・釈迦石仏50選(近現代)
弥勒・釈迦石仏50選(47)   法安寺磨崖仏
佐賀県唐津市北波多岸山447 「昭和27年(1952)」
 法安寺は、朝鮮出兵(文禄の役)の時、あらぬ嫌疑を受け、豊臣秀吉により改易された、平安末期から肥前松浦地方で活躍した豪族、波多一族の追善供養のため、小野妙安が大正12年に開いた寺院である。昭和27年(1952)、小野妙安は開山30年に当り、信者とはかり、釈迦涅槃の像をはじめ不動明王・弘法大師等諸仏像百数十体を大石壁に浮彫りして、四国八十八ケ所霊場を建立したという。(法安寺HP参照)

 本堂の対面の岩山に四国八十八ケ所霊場磨崖仏が彫られている。山頂まで細い参道に沿って四国八十八ケ所霊場の本尊を始め多数の2mを超える大きな磨崖仏が刻まれている。不動明王・弘法大師・阿弥陀・薬師・大日如来など様々な仏像が見られる。

 本堂から四国八十八ケ所霊場の参道へ向かうととまず目に入るのが、見事に彩色された大きな波切不動である。右手に持つ剣を頭の上に振りかざし、左手で太い羂索を肩に担ぐように持った不動像で、燃えさかる火焔の前に立つ青い体躯の不動明王で迫力がある。剣を頭の上に振りかざした不動は全国的に見ると珍しいが、唐津市の漁港や田川市の英彦山天宮宮などに見られる(全て昭和期の作)。

 次に目を引くのが大きな一枚岩に彫った蛇体不動(倶利伽羅剣)・毘沙門天などの5体の像である。その付近から登山道になり、四国八十八ケ所霊場の本尊や弘法大師像など多数の磨崖仏が彫られている。ほとんどが2mを超える量感豊かな厚肉彫りで、15番国分寺薬師如来像・30番善楽寺阿弥陀如来像は貞観彫刻を思わせる整った力強い像である。32番禅師峰寺十一面観音・70番本山寺馬頭観音や山の中腹にある高野大明神とその隣の弘法大師像は土俗的な怪奇さを持った独特な表現になっている。時代は違うが鵜殿窟磨崖仏と共通する雰囲気を持った磨崖仏である。
釈迦涅槃像
 本堂から四国八十八ケ所霊場の参道へ向かうととまず目に入るのが、見事に彩色された大きな波切不動である。その波切不動の右手上に全長10mの巨大な釈迦涅槃像が彫られている。第9番札所法輪寺の本尊で、昭和27年2月12日に建立されたものである。
弥勒菩薩
 四国八十八カ所の第14番・常楽寺の本尊を表したもので、宝髻を結った菩薩像座像で、腹前で両手を組み、その上に宝塔をのせる。1.5mを超える量感豊かな厚肉彫りで、整った力強い像である。


弥勒・釈迦石仏50選(48)   大王寺苦行釈迦石仏
山口県下関市大字田倉116-155 「昭和初期」
 大王寺は、城下町長府の北、四王司山の麓にある寺で、昭和の初め馬場覚心によって開かれた。馬場覚心は独立して一派を開き、現在、一切宗の本山となっている。ここは石仏の寺でもある、昭和初期の石仏300余体が祀られている。苦行釈迦はブロンズ彫刻を思わせる写実的な表現の石仏である。ラホール博物館の苦行釈迦などのガンダーラ仏を参考にしたと思われる。


弥勒・釈迦石仏50選(49)   愛宕念仏寺釈迦石仏
京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5 「現代」
 嵯峨野の念仏寺としては化野念仏寺が知られているが、もう一つ念仏寺がある。愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)がそれである。8世紀中頃、稱徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建されたのがはじまりである。平安時代、醍醐天皇の命により、千観内供(伝燈大法師)が復興し、千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺と改め、天台宗の寺院となった。

 その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなっていた。1922年それらを移築して現在地での復興を目指し、1955年に天台宗本山から住職を命じられた仏師の西村公朝氏によって現在の姿に復興された。

 西村公朝氏は昭和56年、寺門興隆を祈念して、境内を羅漢の 石像で充満させたいと発願して、素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』がはじめられ、10年後の平成3年に「千二百羅漢落慶法要」かなされた。

 1200体の羅漢は玄人はだしの写実的な表情の羅漢もみらけるが、いかにも素人が彫ったと見える素朴でユニークな羅漢が多く、それぞれの作者の願いや思いが溢れたものになっている。境内には観音堂が建てられその中に、西村公朝氏の彫った目の不自由な人が触ってもよい仏像、ふれあい観音が安置されている。

 本堂横の一段高い場所に「多宝塔」があり、大勢の羅漢達に囲まれて説法をする姿の釈迦の石像が安置されいる。この像も西村公朝氏の制作で、四頭身のかわいい姿の釈迦如来である。

 西村公朝氏(1915-2003)は東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒業し、三十三間堂の十一面千手千体観音像をはじめとして、千数百体におよぶ仏像修理にたずさわり、仏像彫刻家としても活躍、“現代の円空”といわれた。元、美術院国宝修理所所長、東京芸大教授。『仏像の再発見』『やさしい仏像の見方』なとの一般向けの仏像解説書の著書でもある。


弥勒・釈迦石仏50選(50)   喜光寺釈迦初転法輪像
奈良市菅原町508 「平成8年(1999) 現代」
 喜光寺は奈良時代、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したとされ、行基菩薩の入滅の地として知られる古寺である。現在、天文13年(1544)に建て直され本堂と平成になって建てられた南大門、行基堂が主な建物である。本堂には平安時代の丈六の阿弥陀如来(重要文化財)が祀られている。

 本堂の西の境内には多くの蓮の花が植えられた鉢が置かれていて、蓮の花は本堂や石仏とマッチして絶好の被写体となっている。蓮の鉢が置かれた境内の奥には、インドから将来された仏足石・初転法輪像と室町後期から江戸時代の約150体の石仏が並べられている。
 釈迦がはじめて説法したというインドのサールナートから平成8年(199)に将来した釈迦初転法輪像である。

 サールナートには「鹿野苑」(ろくやおん)と呼ばれる園があって、そこで、釈迦が5人の修行者に「四諦八正道」を説いたとされる。この最初の説法を、初めて法の車輪が回ったということで、「初転法輪」という。釈迦初転法輪像はその時の釈迦の姿を表現したものである。

 喜光寺の釈迦初転法輪像とそっくりな仏像がサールナート考古博物館にあり、喜光寺像はこの像を模刻したものと考えられる。サールナート考古博物館の初転法輪像はグプタ王朝の時代の5世紀頃の作とされる傑作である。
 釈迦の最初の説法(初転法輪)を表した像で、その時の印を「転法輪印」と言い、両手を胸の前で法輪を転ずる形とする。インドでは「輪」は世界を支配する帝王の象徴で、法輪は最高の真理を意味している。「法輪を転ずる<転法輪>」とは最高の真理を余に宣布することで、釈迦の説法を指す。
光背の左右には二人の天人が対称的に置かれ、花模様も美しい。
台座レリーフ
 中央に法輪があり、それを囲んで右に3人、左に2人の計5人の弟子となった修行者がいる。左端には母と子が描かれている。また法輪の両側に鹿が2頭配置され、鹿野苑での説法であることを表わしている。
釈迦初転法輪像と仏足石
 初転法輪像の前には仏足石が置かれている。この仏足石は釈迦が修行した前正覚山の石を使って成道の地ブッダガヤの仏足石を模写し、平成8年(1996)に初転法輪像とともにインドから将来したものである。



 
令和3年4月8日  弥勒・釈迦石仏50選(鎌倉時代・奈良)
弥勒・釈迦石仏50選(15)   大野寺弥勒磨崖仏
奈良県宇陀市室生大野 「承元3年(1209) 鎌倉時代初期」
  高さ約30mの岩に二重光背を彫りくぼめ、像高11.5mという巨大な弥勒立像を線彫りしている。大野寺の前、宇陀川の清流をはさんだ大岸壁に刻まれた大磨崖仏は周りの風光と相まって雄大で魅力的である。

 興福寺の雅縁僧正が、笠置寺の大弥勒像を模して、宋人の石工二郎 ・三郎らに彫らして、 承元3年 (1209)に完成させたのがこの弥勒磨崖仏である。


弥勒・釈迦石仏50選(16)  夕日観音
奈良市春日野町 滝坂道 「鎌倉時代」
 能登川の渓流沿いの石畳の道・滝坂の道を2qほど歩くと、寝仏と呼ばれる転落した大日如来石仏がある。そこから北側の山手に急な道を20mほど登るとこの磨崖仏がある。夕陽に映える姿が美しいので、通称「夕陽観音」と呼ばれている。

 「夕陽観音」は、傾いた大きな三角形の花崗岩の巨岩に、二重光背を彫りくぼめ、右手を下にのばし、左手を上げた施無畏・与願印の立像(像高1.6m)を半肉彫りした磨崖仏で、観音ではなく如来形の弥勒仏である。滝坂の道の数ある磨崖仏の中では最も整った優美な石仏である。


弥勒・釈迦石仏50選(17)  朝日観音
奈良市春日野町 滝坂道 「文永2(1265)年 鎌倉時代」
地蔵・弥勒・地蔵
弥勒如来
  夕陽観音から滝坂の道を500mほど進むと、東面した高い岩壁に、通称「朝日観音」と呼ばれる3体の磨崖仏が彫られている。夕陽観音と同じように観音ではなく中尊は約2.3mの弥勒如来立像である。左右に地蔵立像が彫られている。弥勒如来の左右の刻銘に「文永弐年乙丑十二月」の紀年があり、文永2(1265)年に造立されたことがわかる。

 夕陽観音とよく似た作風であるが、夕陽観音と比べるとやや彫りは浅く、浮き彫り風である。左の錫杖・宝珠を持つ地蔵も同じ作風を示す。右の舟形光背の地蔵は錫杖を持たず、春日本地仏の姿をしていて、後世の追刻である。


弥勒・釈迦石仏50選(18)  のど地蔵
奈良市月ヶ瀬桃香野 野堂 「建長7(1255)年 鎌倉時代」
 目ダムの湖の東岸の山添村腰越より東に 800mほど入った谷あいの一角、茶畑の脇にこの弥勒菩薩が立っている。二重光背をつくり、 像高107cmの如  来像を高肉彫りする。 右手は施無畏印、左手は触地印で、当来仏(将来仏)としてあらわされた、 弥勒菩薩(如来)である。この地方の小字、「野堂」から、「のど地蔵」と呼ばれている。


弥勒・釈迦石仏50選(19)  長岳寺弥勒石棺仏
奈良県天理市柳本町508 「鎌倉時代」
 長岳寺本堂から東南の丘の上に、この石仏がまつられている。高さ240p、幅180p、厚さ30cmの組合せ石棺の蓋石と思われる石材に、蓋裏の面に二重光背形を彫りくぼめ、その中に像高194p弥勒如来立像を蓮華上に半肉彫りする。像は右手を施無畏印、左手は垂れて掌を前にする与願印ではなく、のど地蔵と同じ掌を伏せる蝕地印(降魔印)である。大和の弥勒石仏によく見かける印相である。風化も少なく、美しく保存されていて、おおらかな雄大な表現の石仏である。


弥勒・釈迦石仏50選(20)  談山神社弥勒石仏
奈良県桜井市大字多武峰 「文永3(1266)年 鎌倉時代」
 談山神社弥勒石仏は高さ150p、幅70pの船型光背状にした花崗岩に蓮華座に坐す弥勒仏を半肉彫りしたもので、長岳寺弥勒石棺仏と同じく右手が施無畏印、左手が触地印である。光背左右に「藤井延清」という石工名とともに「文永3(1266)年」の刻銘がある。


弥勒・釈迦石仏50選(21)  般若寺十三重塔四方仏
奈良市般若寺町221 「建長5年(1253) 鎌倉時代」
南面 釈迦如来
北面 弥勒如来
 高さ12.6mで宇治浮島十三重石塔につぐ高さの十三重石塔塔である。初重軸部の四方に薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒の四仏が浅い薄肉彫りで刻まれている。昭和39年の解体修理で「建長5年(1253)」の墨書のある木造教箱が発見され、造立年時がはっきりした。

 境内にある二基の笠塔婆の「宋人伊行吉が父の亡き伊行末と母の後世ために造立した」という内容の銘文から、この十三重石塔塔は伊派石工の祖、伊行末が晩年に創立したものと考えられ。

 十三重石塔塔の初重軸部の四方に東面、薬師・南面、釈迦・西面、阿弥陀・北面、弥勒の四仏が浅い薄肉彫りで刻まれている。



   
令和3年4月7日  近くの川にて
イワツバメ
 近くの河川を歩いているとツバメがたくさん川面を飛んでいました。よく見ると腰のあたりが白いイワツバメです。そこで、毎年集団営巣している場所に向かうと、巣作りが始まっていました。1つの巣に3羽のイワツバメが群がっていました。



   
令和3年4月5日撮影  自宅のベランダにて
イソヒヨドリ
 イソヒヨドリが自宅周辺でよく見かけます。最近は各家のテレビアンテナや屋根にとまって囀っています。特に斜め向かいの3階建ての施設のアンテナがお気に入りで毎年このアンテナにとまったイソヒヨドリを撮影しています。



   
令和3年4月1日撮影  他府県の海沿いの池にて
セイタカシギ・ツルシギ・アオアシシギ・ウミアイサ・カンムリカイツブリ・ユリカモメ・トビ
久しぶりに遠出をして、他府県の海岸に行きました。海岸の整備によってできた海沿いの池にセイタカシギが3羽いました。
カイツブリが2羽のセイタカシギの前の水面を駆け抜けていきました。
もう1羽はツルシギです。
池にはセイタカシギの他にツルシギとアオアシシギがいました。
足が、赤いのがツルシギで、緑黄色がアオアシシギです。
積み上げた石の上に数羽のアオアシシギがいました。よく見てみるとその中にツルシギが1羽いました。
ツルシギは全部で3羽いました。
アオアシシギは嘴が、やや上に反っています。
セイタカシギのいた池と堤防を隔てた海岸には、遠かったですが、4羽のカンムリカイツブリがいました。1羽は夏羽です。
夏羽のカンムリカイツブリを撮影したのは久しぶりです。
近くの大きな川の河口の左岸にはユリカモメがいました。
右岸にはトビが4羽いました。
ユリカモメなどを撮影した川から10qほど離れた別の川の河口ではウミアイサを撮りました。
毎年、この河口でウミアイサを撮影しています。
川面を駆け抜けるようにして飛び立ちました。


3月