Photo Gallery「石仏と野鳥」新版   2026年8月・9月 
 

 
7月



令和8年9月2日  串間延寿院の石仏 青面金剛像
青面金剛像(庚申塔)
 串間延寿院は2体の青面金剛像を残している。一体は古城小学校の西350mの県道336号線沿いにある八坂神社の境内にある。もう一体は八坂神社から県道336号線を西へ1.5㎞行った県道の北の山すそにある伊満福寺奥の院の参道にある。
 
八坂神社庚申塔(青面金剛像)
宮崎県宮崎市古城町  「宝暦4年(1754) 江戸時代」
八坂神社庚申塔へのアクセス
 赤い彩色が残る宝暦4年(1754)の記銘がある八坂神社の庚申塔(青面金剛像)は衣紋の表現や顔の表情など鵜戸神宮の不動明王磨崖仏によく似ていて、いままで見た青面金剛像の中では最も優れた像である。顔の眉付近から上が破壊されているのが惜しい。六臂には弓矢や法輪・剣・錫杖・戟などを持つのが普通であるが、法輪以外は、各手は指を丸めて真ん中を開けて、差し込んで持たせるようにしている。
 
伊満福寺奥の院庚申塔(青面金剛像)
宮崎県宮崎市古城町持田  「宝暦5年(1755) 江戸時代」
伊満福寺奥の院へのアクセス
 伊満福寺奥の院の庚申塔(青面金剛像)は宝暦5年(1755)の作で八坂神社の庚申塔の翌年に彫られたものである。この像も六臂像で円光背と船形光背を背負った厚肉彫りの力強い彫りで、六臂は法輪以外は、各手は指を丸めて真ん中を開けて、差し込んで持たせるようにしている。



令和8年9月1日  串間延寿院の石仏 仁王像

延寿院・円立院・快然の石仏

(近世日向仏師の石仏)

 

串間延寿院の石仏 串間円立院の石仏 平賀快然の石仏

 

 大分県・鹿児島県・宮崎県など九州の寺社の入り口には室町末期・江戸時代の石造の仁王像が多くある。特に国東半島には多数あり、その中でも、旧千灯寺跡や岩戸寺の仁王像は、石の持つ美しさ・厳しさを感じることができる迫力のある石像である(右のサムネイルをクリックしてください)。

 また、文殊仙寺や両子寺等の仁王像は木彫の仁王像と変わらない整った秀作である。しかし、それ以外の国東半島をはじめとした九州各地の石造仁王像は憤怒相の顔や胴体部分の表現が難しいのか稚拙な作が多い。

 私は、石造仁王像は岩戸寺や旧千灯寺跡の像をのぞいて、あまり魅力を感じなかった。 しかし、今年(2011年)の正月に見た、江戸時代に宮崎で活躍した3人の僧、串間延寿院・串間円立院・平賀快然の石造仁王像は違っていた。彼らの彫った仁王像は、デフォルメされた憤怒相の顔が力感あふれ、個性的で印象的な仁王像であった。 

 串間延寿院とその子の串間円立院の仁王像は、両子寺の仁王像のような均整のとれた整った仁王像ではないが、顔の表現が迫力があり個性的で、延寿院・円立院という山伏(修験僧)でもある仏師の人間性を感じる作品で、魅力的である。

禅宗僧で仏師の平賀快然の仁王像も、迫力があり、「松崎観音仁王像」などは石の魅力を生かした作品で、見応えがある。

 これらの仁王像を見に行くきっかけは、偶然、昨年12月に手に入れた『前田博仁著「近世日向の仏師たち」鉱脈社刊』という本である。この本で串間延寿院の仁王像(最勝寺跡)の写真を見て、旧千灯寺跡や岩戸寺の仁王像とはまた違った魅力の仁王像を知った。

 このだび、宮崎市周辺の延寿院・円立院・快然の仁王像・石仏を見てまわり、江戸時代の庶民の信仰に支えられた江戸時代の修験僧や木喰に代表される廻国僧・遊行僧の彫った仏像の魅力を改めて認識することになった。どうぞ、国東の仁王像とは違った魅力のある延寿院・円立院・快然の仁王像や石仏の造形美をお楽しみください。(廻国僧の円空仏や木喰仏やそれらにつながる石仏の魅力について考察した「謎の石仏」のページ参照)  

参照 前田博仁著「近世日向の仏師たち」鉱脈社 2009年12月16日 刊
 



近世日向仏師の石仏1

串間延寿院の石仏


 串間延寿院は宮崎市古城にあった護東寺の五世住職で、3回大峰入峰修行をした、大越家(おいつけ)の僧位を持つ修験僧である。古城で生まれ安永5年(1776)に入寂した。延寿院は大仏師を名乗り、仏師として造仏活動もすすめた。現在、石仏の刻銘や木彫仏の墨書などから宝暦4年(1754)から明和6年(1769)にかけて彫作活動したことは分かっている。

 延寿院の代表作といえるのが鵜戸神宮の不動明王磨崖仏と閻魔王像である。参拝客・観光客が絶えないや鵜戸神宮の駐車場近くにあり多くの人が目にしている磨崖仏である。生目大村仁王像と最勝寺跡仁王像もデフォルメされた憤怒相の顔が力感あふれた像である。延寿院作と思われる青面金剛像(庚申塔)も2体ある。八坂神社青面金剛像(庚申塔)と伊満福寺奥の院青面金剛像(庚申塔)であるる。八坂神社青面金剛像(庚申塔)は衣紋の表現や顔の表情など鵜戸神宮の不動明王磨崖仏によく似た秀作である。他に日南市の長持寺跡地蔵石仏と風田仁王像を紹介する。



仁王(金剛力士)像
 串間延寿院の仁王(金剛力士)像は、両子寺の仁王像のような均整のとれた整った仁王像ではないが、顔の表現が迫力があり個性的で、延寿院という山伏(修験僧)でもある仏師の人間性を感じる作品で、魅力的である。天衣は両肩から後頭部になびかせるのではなく、肩にかけるよう表現している。最勝寺跡や生目大村の仁王像は作者名の刻銘がないが、鵜戸神宮の磨崖仏や子どもの円立院と似た作風であることや最勝寺跡仁王像の刻銘に延寿院の父親と思われる頼宥法印の名あることから延寿院作と思われる。
 
生目大村仁王像
宮崎県宮崎市大字生目  「明和6年(1769) 江戸時代」
生目大村仁王へのアクセス
 
阿形
 
吽形
 生目大村の仁王像は生目神社の参道入口の東に50mの民家裏にあり、案内標識もなくあまり知られていない。子どもの円立院の仁王像とよく似た作風で、保存状態がよい秀作である。彫りも鋭く力強い。
 
最勝寺跡仁王像
宮崎市源藤町源藤917-5  「宝暦6年(1756) 江戸時代」
最勝寺跡(寺ん堂)へのアクセス
阿形
 
吽形
 最勝寺跡は通称「寺ん堂」と呼ばれていて、源藤町の国道220号線と県道27号線に挟まれた丘陵地を開発した新興住宅地の最上部にある。現在は三十三所観音石仏が祀られた小さなお堂とこの仁王像と平成14年に建てられた「寺ん堂」の由来を記銘した立派な石碑が立っている。仁王像は、体躯の表現などややアンバランスで整った作とは言い難いが、誇張した表現の憤怒相の顔や腕は力強い。特に阿形の横顔は迫力がある。吽形の背面に、「宝暦六丙子」(1756)の刻銘がある。



令和8年8月31日  佐賀県の磨崖仏 法安寺の磨崖仏3
 
法安寺の磨崖仏3
薬師如来(第6番安楽寺)・阿弥陀如来(第7番大日寺)
 
薬師如来①(第6番安楽寺)
 
薬師如来②(第15番国分寺)
 
薬師如来③(第46番浄瑠璃寺)
 
阿弥陀如来①(第7番大日寺)
 
阿弥陀如来②(第30番善楽寺)
 
阿弥陀如来③(第47番八坂寺)
 
地蔵菩薩(第20番鶴林寺)
 
子育地蔵
 
弘法大師①
 
弘法大師②
 
高野大明神



 
令和8年8月29日撮影  近くの水田地帯にて
ケリ
タカブシギでもと思って近くの水田地帯の休耕田を周ったのですがケリしか見かけませんでした。



令和8年8月29日  佐賀県の磨崖仏 法安寺の磨崖仏2
法安寺の磨崖仏2
不動明王①
 倶利伽羅不動などがある一枚岩の5体の磨崖仏の向かって右端にある不動明王像である。船形の彫りくぼみの中に右手で剣を立てて持ち、左手を胸に持って行って羂索を持った座像の不動明王を厚肉彫りしたもので、火炎は船形の中だけでなく船形の周りまで燃え上がっている。憤怒相の顔は人間くさい写実的な表現である。
 
不動明王②
 倶利伽羅不動などがある一枚岩の右に四国八十八ケ所霊場磨崖仏のある岩山へ登り口がある。少し上った大きな岩に3体の磨崖仏がある。向かって右端に18番恩山寺本尊の薬師如来座像で、その左に弘法大師立像と不動明王立像が深い彫りくぼみの中に厚肉彫りされている。
 不動明は彫りくぼみをつくって右手で利剣を立てて構え、左手で持った羂索を放つ場面をあらわした立像で、右目を天に向けて左目を地に向けて、右牙を上に出し左牙を下に出して、睨み付けている。鼻か高く彫りの深いアーリア人風の顔立ちである。彫りくぼみの中とその周りは波のように渦巻く火炎で覆われている。
 
十一面観音①(第32番禅師峰寺)
 
十一面観音②(第27番神峯寺)
 
如意輪観音・子安観音
 
馬頭観音(第70番本山寺)
 
千手観音(第29番国分寺)
 
弥勒菩薩(第14番常楽寺)
 四国八十八カ所の第14番・常楽寺の本尊を表したもので、宝髻を結った菩薩像座像で、腹前で両手を組み、その上に宝塔をのせる。1.5mを超える量感豊かな厚肉彫りで、整った力強い像である。
 
大日如来①(第28番大日寺)
 
大日如来②(第42番番佛木寺)



令和8年8月28日  佐賀県の磨崖仏 法安寺の磨崖仏1
法安寺の磨崖仏
佐賀県唐津市北波多岸山 「昭和時代」
大日如来・蛇体不動・毘沙門天・千手観音・不動明王
 法安寺は、朝鮮出兵(文禄の役)の時、あらぬ嫌疑を受け、豊臣秀吉により改易された、平安末期から肥前松浦地方で活躍した豪族、波多一族の追善供養のため、小野妙安が大正12年に開いた寺院である。昭和27年(1952)、小野妙安は開山30年に当り、信者とはかり、釈迦涅槃の像をはじめ不動明王・弘法大師等諸仏像百数十体を大石壁に浮彫りして、四国八十八ケ所霊場を建立したという。(法安寺HP参照)

 本堂の対面の岩山に四国八十八ケ所霊場磨崖仏が彫られている。山頂まで細い参道に沿って四国八十八ケ所霊場の本尊を始め多数の2mを超える大きな磨崖仏が刻まれている。不動明王・弘法大師・阿弥陀・薬師・大日如来など様々な仏像が見られる。

 本堂から四国八十八ケ所霊場の参道へ向かうととまず目に入るのが、見事に彩色された大きな波切不動である。右手に持つ剣を頭の上に振りかざし、左手で太い羂索を肩に担ぐように持った不動像で、燃えさかる火焔の前に立つ青い体躯の不動明王で迫力がある。剣を頭の上に振りかざした不動は全国的に見ると珍しいが、唐津市の漁港や田川市の英彦山天宮宮などに見られる(全て昭和期の作)。その波切不動の右手上に全長10mの巨大な釈迦涅槃像が彫られている。第9番札所法輪寺の本尊で、昭和27年2月12日に建立されたものである。

 次に目を引くのが大きな一枚岩に彫った蛇体不動(倶利伽羅剣)・毘沙門天などの5体の像である。その付近から登山道になり、四国八十八ケ所霊場の本尊や弘法大師像など多数の磨崖仏が彫られている。ほとんどが2mを超える量感豊かな厚肉彫りある。

 中でも15番国分寺薬師如来像・30番善楽寺阿弥陀如来像は貞観彫刻を思わせる整った力強い像である。また7番大日寺阿弥陀如来・14番常楽寺弥勒菩薩・27番神峯寺十一面観音・42番番佛木寺大日如来・18番恩山寺薬師如来の右隣の弘法大師①などは整った美しい像である。20番鶴林寺地蔵菩薩、32番禅師峰寺十一面観音・70番本山寺馬頭観音や山の中腹にある高野大明神とその隣の弘法大師像は土俗的な怪奇さを持った独特な表現になっている。時代は違うが鵜殿窟磨崖仏と共通する雰囲気を持った磨崖仏である。
不動明王・弘法大師・薬師如来
 
釈迦涅槃像(第9番法輪寺)
 本堂から四国八十八ケ所霊場の参道へ向かうととまず目に入るのが、見事に彩色された大きな波切不動と釈迦涅槃像である。波切不動の右手上に全長10mの巨大な釈迦涅槃像が彫られている。第9番札所法輪寺の本尊で、昭和27年2月12日に建立されたものである。
 
波切不動①
 本堂から四国八十八ケ所霊場の参道へ向かうととまず目に入るのが、見事に彩色された大きな波切不動である。右手に持つ剣を頭の上に振りかざし、左手で太い羂索を肩に担ぐように持った不動像で、燃えさかる火焔の前に立つ青い体躯の不動明王で迫力がある。剣を頭の上に振りかざした不動は全国的に見ると珍しいが、唐津市の漁港や田川市の英彦山天宮宮などに見られる(全て昭和期の作)。
 
波切不動②
 第20番鶴林寺の地蔵菩薩の隣にある不動立像で、この不動も右手に持つ剣を頭の上に振りかざした波切不動である。

 波切不動明王とは、弘法大師がが唐からの帰路、嵐に遭い、 嵐を鎮めるために恵果和尚から授かった霊木に自ら不動明王を刻み、その不動明王を船首に据えたところ、 火炎を放ち手にした利剣で荒波を切り裂く様に船は進み 船は無事に日本へと導いたことから付けられた名前で、その不動が高野山南院にある不動明王である。その後、全国各地に全国各地に波切不動と名のついた像が作られた。姿は特別な姿ではなく、他の不動と変わらない。昭和になって、北九州では波を切る姿を剣を頭の上に振りかざした姿で表した波切不動が像立されている。
 
蛇体不動(倶利伽羅不動)
 彩色された大きな波切不動や釈迦涅槃像とともに目を引くのが山の麓にある大きな一枚岩に彫った倶利伽羅不動・毘沙門天・不動明王座像などの5体の像である。倶利伽羅不動は岩上で火炎に包まれた不動明王の化身である倶利伽羅竜が剣に巻きついて、それをのもうとするさまを表したもので、ここでは像の向かって左に「蛇体不動」の刻銘がある。



令和8年8月27日  佐賀県の磨崖仏 立石観音磨崖仏
立石観音磨崖仏
佐賀県唐津市相知町相知緑町 「鎌倉中期以降」
  相知町の中心部から南、平山川の支流に面した、砂岩の断崖の下面の、自然の半洞窟(高さ3m、幅20m、奥行き5m程)のような岩に薬師・阿弥陀・十一面観音の体を半肉彫りで刻む。

 左端の薬師如来が一番大きく、像高約2mである。薬師如来は丸みを帯びた大きな顔の部分だけ半肉彫りにして、体は線彫りで簡単に処理しているため、岩の中に仏像がとけ込んでしまったような印象を受ける。阿弥陀如来と十一面観音は体の部分も半肉彫りで、顔もやや細長く、作者や造立年代が違うように思える。

 近くの鵜殿窟磨崖仏と同じように地方色濃厚な石仏である。鵜殿窟磨崖仏に較べると土俗的な怪奇さは少ないが、共通した印象を受ける。平安末期の作と伝えられているが、鎌倉中期以降の制作と思われる。
 
薬師如来
 
阿弥陀如来
 
十一面観音


            
令和8年8月26日  瀬戸の石仏 黒滝山三十三所観音磨崖仏
黒滝山の磨崖仏・石仏
 JR呉線の忠海駅を下車し、北西に10分ほど歩くと地蔵禅院という寺がある。その寺の横手が黒滝山の登山口である。 約30分ほどで山頂に達する。 この登山道に沿って西国三十三観音磨崖仏が岩肌に彫られている。 天保4(1833)年に完成した江戸時代の磨崖仏で、 三重県の石山観音磨崖仏とともに西日本の代表的な西国三十三所観音磨崖仏である。黒滝山中腹の登山道脇にはふっくらとした願容のかわいらしい十三仏がある。
 
三十三所観音磨崖仏
広島県竹原市忠海町 「 天保4(1833)年」
 
22番穴太寺 聖観音
 
9番南円堂 不空羂索観音
 
7番岡寺 如意輪観音
 
25番清水寺 十一面千手観音
 
3番粉河寺 千手観音
 JR呉線の忠海駅を下車し、北西に10分ほど歩くと地蔵禅院という寺がある。その寺の横手が黒滝山の登山口である。 約30分ほどで山頂に達する。 この登山道に沿って西国三十三観音磨崖仏が岩肌に彫られている。 天保4(1833)年に完成した江戸時代の磨崖仏で、 三重県の石山観音磨崖仏とともに西日本の代表的な西国三十三所観音磨崖仏である。

 石山観音磨崖仏のような厚肉彫りではなく、浮き彫りである。造形的な品格はあまりないが、信仰的な迫力を感ずる磨崖仏が多い。2番穴太寺の本尊の聖観音の蓮華座には男性のシンボルが彫られている。9番南円堂の本尊不空羂索観音は本来は一面三目八臂であるがここでは三面になっている。7番岡寺の本尊如意輪観音は浮き彫りというより板彫風で、より素朴な表現になっている。25番清水寺の十一面千手観音と3番粉河寺の千手観音は大きな岩の上にあり見上げるような写真になった。
 
十三仏
広島県竹原市忠海町 「昭和5(1930)年」
十三仏は黒滝山中腹の登山道脇にある。山型の自然石の表面を平らにして十三の仏が、一番上の4段目に2体、3段目に5体、2段目と1段目にそれぞれ3体、半肉彫りされている。ふっくらとした願容のかわいらしい十三仏である。(石造十三仏碑は一番上に一体(虚空蔵菩薩)をその下に残りの十二仏を4段に各3体、もしくは3段に4体を配置するのが一般的である。)側面に昭和五年の紀年銘がある。




令和8年8月25日  佐賀県の磨崖仏 鵜殿窟磨崖仏2
鵜殿窟磨崖仏2
不動明王
 石窟は現在著しく崩れ、かって窟内にあった磨崖仏はほとんど露出している。現在58体が遺存する。歯を食いしばる形相は怪奇的で、地方色濃厚な磨崖仏である。地方色濃厚な磨崖仏であるが、力強く宗教的な情熱が感じられる石仏群である。その鵜殿窟磨崖仏では3体の不動明王像を撮影したが、どれも土俗的な怪奇さが漂う像である。
 
 石窟の跡が一番よく残る場所の奥には半肉彫りの十一面観音があり、その向かって左に持国天、その向かい合う岩壁に多聞天が彫られている。この三尊は鵜殿磨崖仏では最も風化が少なくこの場所が現在、鵜殿磨崖仏の中心となっている。この場所にこの不動明王立像がある。多聞天の向かって左横に重なるように薄肉彫りされたもので、風化が進み岩と一体となっているため一見しただけでは気がつかない。
  不動明王の髪は左右に渦を巻いた螺髪風の形が一般的だが、この像の髪は逆立った焔髪で、左肩に垂らした髪も弁髪というより垂髪である。右目を天に向けて左目を地に向けた顔は体に比べると大きく、鼻や口がかけて欠損していることも相まってより怪奇な姿に見える。
 
右下の像は矜羯羅童子
制多迦童子
 十一面観音や多聞天、持国天がある壊れた石窟の向かって左には如来座像を彫った小龕か続き、その左に不動三尊を彫る。不動は立像で他の2体の不動と比べればオーソドックスな姿である。制多迦童子は、エジプト絵画のように肩は正面を向き顔は横顔になっていて、手には蛇を握り、オリエント風で、印象的な彫刻である。
 
矜羯羅童子?
 入り口付近の崩れ落ちた岩塊に彫られた不動像は薄肉彫りの座像で、焔髪が逆立ち、右目を天に向けて左目を地に向け、牙を出して歯を食いしばった姿である。この像も中心部の不動立像と同じく、顔が大きく、怪奇な姿である。羂索の代わりに蛇を持つ。像の向かって右下に2体の如来座像があり、その隣に矜羯羅童子と思われる像がある。
 
 
如来座像
 十一面観音や持国天がある壊れた石窟の向かって左には如来座像を彫った方形の深い彫りくぼみの小龕が並んでいる。十一面観音や不動明王のある壊れた石窟の左側に合掌印または智拳印を組んだ如来座像があり、その背後に回ると岩肌にも如来or菩薩の座像を彫った方形の小龕は続いていて、十一面観音像もそこにある。入り口付近の不動明王や矜羯羅童子?の彫られた崩れ落ちた岩塊にも方形の窪みに彫られた如来or菩薩の座像がある
 
 十一面観音や持国天がある壊れた石窟の向かって左の10ほど並んだ小龕の如来座像である。各如来は右手を膝の上に置き、左手は腹部の上あたりまで上げている珍しい印相の像である。両手とも掌は小さく指を伸ばしているようには見えない。左手に薬壺のよなものを持っているように見える像もある。薬壺としたら薬師如来であるが右手は施無畏印ではなく、何とも言えない。(リニューアルに当たってグーグルマップを見ていると「鵜殿石仏群内平面図」という案内板の写真を見つけた。そこには小龕の如来座像を「薬師如来坐像群」としていた。)
 
 十一面観音や持国天がある壊れた石窟の右端は岩山に穴が開いていて通り抜けることができる(胎内くぐり)。その入り口に蓮華座の形の岩を残してその上に山形の彫り窪みをつくり如来坐像を半肉彫りした像がある。合わせた掌の上部が欠けているが智拳印らしき如来で、智拳印とすると金剛界大日如来である。
 胎内くぐりを通り抜けて壊れた石窟の裏に回ると岩山が続いていて、その岩肌にと同じように小龕が整然とにらんでいてそこに如来坐像が彫られている。胸の前で両手を組んだ像であるが指や掌が彫られていない。
 
 下から上がってくると最初に目につくのが不動明王や矜羯羅童子?の彫られた崩れ落ちた岩塊である。そこにも胸の前で両手を組んだ像が彫られている。如来像と思うがが、螺髪が彫られていず、黒い輪郭線のような縁取りがあるため、菩薩像のようにも見える。



 
令和8年8月24日  自宅にて
イソヒヨドリ
 ベランダで洗濯物を干しているとイソヒヨドリの鳴き声が聞こえてきました。よく見かける斜め隣の会社の寮の非常階段のイソヒヨドリがいるのを見つけました。慌ててカメラを持ってきて撮影しました。



 
令和8年8月23日  瀬戸の石仏 白滝山竜泉寺磨崖仏2
十六善神の磨崖仏2
 般若経の授持伝来に関係深い法湧菩薩・常啼菩薩・玄奘三蔵・深沙大将は釈迦三尊十六善神として描かれた多くの絵画に十六善神とともに描かれていて、竜泉寺磨崖仏十六善神磨崖仏でも最も目立つ場所にこれらの像は彫られている。 
法湧菩薩(ほうゆうぼさつ)
 
常啼菩薩(じょうていぼさつ)
 
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)
 
深沙大将(じんじゃたいしょう)
 
釈迦三尊磨崖仏
広島県三原市小泉町 「江戸時代」
 釈迦三尊像は、蓮華を両手で持って雲の上の蓮華座に座す釈迦と、雲の上に立つ迦葉尊者立像・阿難尊者立像の三尊像で、釈迦は親しみやすい丸顔の顔で、脇侍の羅漢の人間くさい姿と対照的である。迦葉・阿難を脇侍とした釈迦三尊像は曹洞宗などの禅宗で見られる。竜泉寺は元は真言宗の寺院で江戸時代に曹洞宗の寺院になったというので、釈迦三尊像は江戸時代の作と考えられる。



令和8年8月22日  佐賀県の磨崖仏 鵜殿窟磨崖仏1
佐賀県の磨崖仏
 佐賀県の磨崖仏として鵜殿窟磨崖仏・立石観音磨崖仏・法安寺の磨崖仏を紹介する。鵜殿窟磨崖仏は佐賀県の唐津市相知町にある磨崖仏で、大きな丘の頂上近くに切り立つ岩壁を穿った石窟に十一面観音や不動明王像など多くの像を半肉彫りする。地方色濃厚な磨崖仏であるが、力強く宗教的な情熱が感じられる石仏群である。
 立石観音磨崖仏は鵜殿窟磨崖仏と同じように地方色濃厚な石仏である。鵜殿窟磨崖仏に較べると土俗的な怪奇さは少ないが、共通した印象を受ける。
 法安寺の磨崖仏は昭和27年に像立された四国八十八ケ所霊場を中心とした磨崖仏でほとんどが2mを超える量感豊かな厚肉彫りで見ごたえがある。時代は違うが鵜殿窟磨崖仏と共通する雰囲気を持った磨崖仏である。



       
鵜殿窟磨崖仏
佐賀県唐津市相知町相知和田 「鎌倉末期~南北朝時代」
  大きな丘の頂上近くに切り立つ岩壁を穿った石窟に不動明王像など多くの像を半肉彫りする。石窟は現在著しく崩れ、かって窟内にあった磨崖仏はほとんど露出している。現在58体が遺存する。歯を食いしばる形相は怪奇的で、地方色濃厚な磨崖仏である。

 鵜殿窟は、大同元年(806)、唐から帰った空海(弘法大師)によって阿弥陀・薬師・観音の三像が大洞窟にに刻まれたことに始まると伝えられている。天長年間には鵜殿山平等寺が建立され真言密教の寺院として栄え、その後、天文の戦火にあい、衰滅していったという。  石窟の中心には十一面観音と不動明王、持国天・多聞天を彫る。その中でも、持国天と十一面観音は保存状態も良く、赤や茶、肌色の彩色が遺る。(十一面観音の彩色は後の補作か?)全体的に土俗的な怪奇さが漂う彫刻で、何となく、チベット仏教の仏像に印象が似ている。

 十一面観音や不動明王、持国天がある石窟の向かって左には如来座像を彫った小龕か続き、その左に不動三尊を彫る。そのうち、セイタカ童子は、エジプト絵画のように肩は正面を向き顔は横顔になっていて、手には蛇を握り、オリエント風で、印象的な彫刻である。

 鵜殿窟の諸像は豊後の石仏のような写実性を欠き、姿態・手足はアンバランスで、彫刻の技術自体は低いと思われる。しかし、下手ではあるが、宗教的な情熱が感じられる石仏群である。制作年代は、鎌倉末期から南北朝時代と思われる。
 
 
持国天・十一面観音・多聞天
 
十一面観音
 
 壊れた石窟の一番奥にある十一面観音は胸元で両手で何かを包むように合わせて合掌する座像で、顔は頭上の顔も含めてすべて四角形で宝冠をかぶっているように見える。壊れた石窟の背後の岩にも、方形の深い彫りくぼみの中に、合掌するよく似た十一面観音像がある。この像は光が当たり石窟の奥の十一面観音と雰囲気は大きく違う。合掌する十一面観音は近くの立石観音磨崖仏にも見られる。
 
多聞天
 多聞天は壊れた石窟の一番奥の十一面観音の向かって右に大きな亀裂がありその右の大きな岩に彫られている。腰に鬼面の付いた甲冑を身に着け、左手を上げて宝塔をささげ、右手に宝棒を持った迫力ある像であ。脛当を着けた脚は写実性を欠き、不自然でしっかりと地に立って体躯を支えているように見えない。
 
持国天
 十一面観音の向かって左にある持国天は保存状態がよく彩色がしっかりと残っていて鵜殿窟磨崖を代表する像である。牙のような歯をむき出し目を吊り上げた憤怒相は力強い。右手と左手を体の前でクロスして右手で宝剣を下向けて持ち、左手の掌を広げて前に突き出している珍しい姿態の像である。前に突き出した左手の掌が印象に残る。
 
増長天or広目天
 多聞天や持国天から離れた場所にも四天王の一体と思われる像があったが、胴体部分が破損していて、尊名はわからない。石窟の多聞天・持国天の対のものと考えると増長天or広目天である。四天王像の向かって左には鵜殿窟磨崖のあちこちで見かける仏座像が彫られている。



   
令和8年8月21日  山口の石仏7 陶ヶ岳の磨崖仏
陶ヶ岳の磨崖仏
山口県山口市名田島 陶ヶ岳 「江戸時代初期」
 山口市の南、鋳銭司から秋穂にかけての陶ヶ岳・火の山・亀山と続く火ノ山連山は標高300mほどの低い山である。しかし、巨岩が重なる、素晴らしい眺めの山々である。北の端にある岩屋山につぐ陶ヶ岳は標高252mの山で、頂上付近は巨岩が露出していて、頂上に立てば360度の展望が広がる。その頂上の巨岩の西の下部に涅槃の釈迦の磨崖仏と十六羅漢の磨崖仏がある。

 陶ヶ岳へはセミナーパークの北側の登山口から登るのが最も近い、登山者のための駐車場があり、駐車場の北の松永邸(松永周甫薬園)の庭を通って登る。雑木林の中の山道を20分ほど登ると視界が開けて広場に出る。そこが陶ヶ岳観音堂(金剛山岩屋寺)跡で石段、石碑、観音磨崖仏が残る。陶ヶ岳観音堂跡からロープをたよりに急な崖を5分ほど登ると陶ヶ岳山頂につく。磨崖仏は山頂手前の登山道を左にそれると頂上の巨岩の東側に出る。(案内板もなく撮影に行った時は入り口がわからず探すのに苦労した。)そこに狭いテラスがあり、寝釈迦像(涅槃釈迦)と十六羅漢の磨崖仏が彫られている。

 寝釈迦像磨崖仏は巨岩の壁の下方に縦約50cm、横約110㎝の矩形の彫り込みをつくり、縦37cm、横99cmの矩形の平らな涅槃台を彫りだし、そこに右脇を下にして足を重ねて横たわる釈迦像を薄肉彫りしたもので、江戸時代初期頃のものと見られる。納衣などの線は抽象的でのびやかさに欠けるが、おだやかな顔が印象に残る。

 

観音摩崖仏
 陶ヶ岳観音堂(金剛山岩屋寺)跡の大きな岩ににある観音摩崖仏である。船型の彫り窪みをつくり、その中に半肉彫りで両手で蓮華をもつ観音を半肉彫りした像である。摩崖仏の左に「三十三番發願主」と大きく刻まれ、摩崖仏の下に発願者名がある。
 
寝釈迦磨崖仏
 寝釈迦像(涅槃釈迦)磨崖仏は巨岩の壁の下方に縦約50cm、横約110㎝の矩形の彫り込みをつくり、縦37cm、横99cmの矩形の平らな涅槃台を彫りだし、そこに右脇を下にして足を重ねて横たわる釈迦像を薄肉彫りしたもので、江戸時代初期頃のものと見られる。納衣などの線は抽象的でのびやかさに欠けるが、おだやかな顔が印象に残る。涅槃像の両脇に合掌する比丘形像と蓮台or宝珠のようなものを持つ比丘形像が彫られている。(十大弟子?)
 
十六羅漢磨崖仏
十六羅漢は、舟形の彫り込みなどの中に薄肉彫りでそれぞれ像高45~65㎝ほど羅漢が彫られている。普通、羅漢の顔は太い眉毛の老人風が多いが、尼僧のような穏やかな顔の羅漢が多い。跋羅堕闍尊者・迦哩尊者などを除いて未完成の像が多い。
中央の像が諾迦跋釐駄尊者その向かって右が迦諾迦伐蹉尊者、右端が濱度羅跋羅堕闍
 
迦哩尊者
 


令和8年8月20日  瀬戸の石仏 白滝山竜泉寺磨崖仏1
白瀧山・黒滝山の磨崖仏
 
  竹原市の東南部、JR忠海駅の北にそびえる奇岩屹立する標高266mの黒滝山は、頂上からの眺望はすばらしく、眼下には大久野島、芸予諸島などの島々や、遠く四国連山を一望できる。

 その黒滝山の北、谷を隔てて標高350mの三原市の白滝山がある。山頂は巨大な花崗岩(八畳岩)となっており、その上にたつと南に黒滝山と瀬戸内海の島々、遠くに石鎚山脈、四国山地、北は吉備高原、中国山地と360度の絶景が広がる。

 この黒滝山と白瀧山には特色ある磨崖仏がある。黒滝山には登山道に沿って西国三十三所観音の磨崖仏が、白滝山の八畳岩には十六善神と釈迦三尊の磨崖仏がある。



    
白滝山竜泉寺磨崖仏
  白滝山の山頂付近に「竜泉寺」がある。この寺の本堂裏の白滝山山頂は「八畳岩」 と呼ばれる巨大な花崗岩の露頭で、その「八畳岩」の岩壁に、釈迦三尊と、十六善神の磨崖仏がある。 八畳岩の正面から向かって左上が釈迦三尊像で、右が十六善神像などで、ともに半肉彫りされている。十六善神像は玄奘三蔵と深沙大将を取り囲むように彫られている。十六善神の石像は非常に珍しく、 他にあまり例を見ない。 造立年代は不明であるが、釈迦三尊像は近世の作品だと思われる。十六善神像と玄奘三蔵・深沙大将などは室町時代と伝えられている。

 「八畳岩」 上に登ることができ、大三島や生口島などの島々、周辺の山々が見渡せ、素晴らしい眺めである。 谷を隔てて南に見える山が、下記の黒滝山になる。
 
十六善神の磨崖仏
広島県三原市小泉町 「室町時代」
 白滝山は因島以外に三原市小泉町にもある。 三原市の白滝山へ行くに は、三原駅前より、「小泉小学校前」 行きのバスに乗り、終点で下車し、そこから登山道を約4km歩く。
 その白滝山の山頂付近に「竜泉寺」がある。この寺の本堂裏の白滝山頂は「八畳岩」 と呼ばれる巨大な花崗岩の露頭で、その「八畳岩」の岩壁に、釈迦三尊と、石仏では珍しい十六善神の磨崖仏がある。十六善神磨崖仏は浅い半肉彫りの磨崖仏でやや誇張された表現であが、岩壁いっぱいに等身大の像が彫られていて迫力がある。十六善神は大般若経とこの経を読誦する守護する十六の薬叉善神である。竜泉寺磨崖仏では他に般若経の授持伝来に関係深い法涌菩薩・常啼菩薩・玄奘三蔵・深沙大将の像が刻まれている。

 「八畳岩」 上に登ることができ、大三島や生口島などの島々、周辺の山々が見渡せ、素晴らしい眺めである。 谷を隔てて南に見える山が、江戸時代の磨崖三十三所観音のある黒滝山になる。
提頭ら宅善神・法湧菩薩・抜除罪垢善神・常啼菩薩
深沙大将・童子・玄奘三蔵・勇猛心地善神・吠室羅摩拏善神(多聞天)・摂伏諸魔善神
 
深沙大将・童子・玄奘三蔵・勇猛心地善神・吠室羅摩拏善神(多聞天)
 
提頭ら宅善神・法湧菩薩・抜除罪垢善神
 
能忍善神・救護一切善神
 
提頭ら宅善神(だいずらたぜんじん・持国天)
 
毘盧勒叉善神(びるろくしゃぜんじん・増長天)
 
摧福毒害善神(さいふくどくがいぜんじん)
 
増益善神(ぞうやくぜんじん)
 
歓喜善神(かんきぜんじん)
 
除一切障難善神(じょいっさいしょうなんぜんじん)
 
抜除罪垢善神(ばつじょざいくぜんじん)
 
能忍善神(のうにんぜんじん)
 
吠室羅摩拏善神(べしらまなぜんじん・多聞天)
 
毘盧博叉善神(びるばくしゃぜんじん・広目天)
 
離一切怖畏善神(りいっさいふいぜんじん)
 
救護一切(くごいっさいぜんじん)
 
摂伏諸魔善神(しょうぶくしょまぜんじん)
 
能救諸有善神(のうぐしょうぜんじん)
 
師子畏猛善神(ししいもうぜんじん)
 
勇猛心地善神(ゆみょうしんじぜんじん)
 十六善神は、大般若経の護持を誓った十六の夜叉神をである。釈迦十六善神や般若守護十六善神、あるいは十六大夜叉将と呼ばれる。「般若十六善神王形体」では、提頭ら宅善神・毘盧勒叉善神・摧福毒害善神・増益善神・歓喜善神・除一切障難善神・抜除罪垢善神・能忍善神・吠室羅摩拏善神・毘盧博叉善神・離一切怖畏善神・救護一切善神・摂伏諸魔善神・能救諸有善神・師子畏猛善神・勇猛心地善神の十六神としていが、形相や尊名は一定しない。

 『仏像図彙』(江戸時代の仏像図版集)では大般若十六善神として図像を紹介しているが、摧福毒害善神・吠室羅摩拏善神など五神は「般若十六善神王形体」と名前が違う。竜泉寺磨崖仏十六善神の形相や持物は『仏像図彙』と一致している。尊名は「般若十六善神王形体」の尊名で表した。



令和8年8月19日  山口の石仏6 狗留孫山の石仏・真照院地蔵磨崖仏
狗留孫山の石仏
山口県山口市徳地堀
 山口県には狗留孫山という山が2ヶ所ある。一つは市豊田町(現在下関市豊田町)にある狗留孫山(616m)で、中腹には狗留孫山修善寺(狗留孫観音)があり、信仰の山として山口県ではよく知られた山である。もう一つは、徳地町(現在山口市徳地)にあり、標高544mの山である。この徳地の狗留孫山も信仰の山である。
 麓の法華寺から一丁ごとに丁石と地蔵石仏が置かれた登山道にそって50分ほど登ると、十五丁石仏と霊場入口の石柱があり、ここから狗留孫山の霊域になり、所々に岩がみられるようになる、最初の大きな岩には御詠歌が刻まれている。ご詠歌が刻まれた岩から少し行くと、右に行く分かれ道がある、まっすぐ行くと奥の院を経て山頂への道となる。右の道を数m進むと岩があり、そこに如意輪観音が彫られている。高さ70㎝ほどの薄い半円形の彫り込みに、像高45㎝の如意輪観音座像を薄肉彫りする。横に一番と刻まれていて、西国三十三ヶ所の一番霊場青岸渡寺の分霊であることがわかる。磨崖仏の横にも小さな如意輪観音石仏が祀られていた。ともに迫力はないが小さなかわわいい石仏である。

 ここから、登山道に沿って西国三十三ヶ所観音の磨崖仏がつづくそうであるが、8月に訪れたためか、草や笹が茂りすすめなかった。この道は奥の院付近で合流しているので、奥の院への登山道に戻り、奥の院付近から同じ道に入ろうとしたが、途中で崖崩れて道がきれていて、一番の磨崖仏以外に一体しか磨崖仏を見つけることが出来なかった(岩の上にあり、風化が激しく何番の札所か確認できなかった。像は十一面観音か千手観音のように見えた)。

 登山口の法華寺付近の一番最初の丁石の横には地蔵石仏とともに総高72㎝の庚申塔がある。舟形光背を背負う青面金剛像で、どこかユーモラスで親しみを感じさせる石仏である。江戸時代の作である。
 
如意輪観音(一番青岸渡寺)
 
観音(十一面観音または千手観音) 何番霊場かは不明
観音
 
庚申塔(青面金剛像)



真照院地蔵磨崖仏
山口県山口市秋穂二島5106  「明和2年(1765)」
 秋穂地区には四国88ヶ所の分霊場がある。天明3年(1783)に遍明院八世性海法印が四国霊場から御符と御砂を持ち帰って霊域を定め、以降、現在まで秋穂88ヶ所霊場として信仰を集めている。その中心霊場として栄えているのが、秋穂二島にある朝日山真照院である。
 朝日山真照院は、朝日山上に在った千光院(寛平8年、896年 開創)、朝日山の東の禰宜に在った真善坊(寛平八年、896年 開創)、同じく禰宜に在った遍照寺(開創不明)が明治2年(1899)に合併してできたもので、それぞれの寺の一文字をとって真照院と名付けられたのが現在の真照院のはじめという。

 本尊は千手観音で鉄筋コンクリートの本堂に祀られている。本堂は、秋穂88ヶ所の第58番札所にあたり、山内には他に第54番(大師堂)第69番(奥の院)がある。山内には西国33番の観音石仏が奉祀されいて、現在も多くの参詣者が訪れている。

 地蔵磨崖仏は本堂の横にある高さ7mを越える岩の南面に彫られている。岩の一部を削平し、そこに蓮台に立ち合掌する高さ67㎝の地蔵菩薩を半肉彫りしたもので、両脇に「明和二年乙酉」と「七月廿一日願主浄心」の銘文を刻み、江戸時代中期の明和二年(1765)に浄心という僧が願主となり彫られたものであることがわかる。山口県の磨崖仏の多くは薄肉彫りやあまり厚くない半肉彫りであるが、この地蔵磨崖仏の頭部は厚肉彫りで立体感のある表現となっている。衣紋の表現などは形式的である。



     
令和8年8月17日撮影  近くの水田地帯にて
イソシギ・コチドリ
先日撮影したタカブシギが狙いだったのですが見つけることが出来ませんでした。撮影したのはイソシギでした。
コチドリがいた休耕田は水がひいて、コチドリは見られませんでした。いたのは隣の泥だらけの休耕田でした。



   
令和8年8月17日  尾道の石仏7 竜王山4
竜王山の石仏Ⅲ(2)
不動明王
 
 
 
は天狗を上部に彫った石柱状の4基の塔近くにあった不動石仏で、一見した時は矩形の石材に彫られていることや丸顔で大きな耳で螺髪のような髪型であることから如来像に見えた。近づくと右手に剣を左手に羂索を持っていることで不動明王であることが分かった。顔は憤怒相とは言い難く少年のように見える。 ②~④は参道脇などにあった不動石仏でそれぞれ個性的である。特には火焔をまとった天衣のように表が興味を引いた。
 
摩利四尊天(摩利支天)
竜王山には珍しい尊容の石仏も多くある。摩利四尊天と刻銘のある石仏は摩利支天(摩利支尊天)と考えられるが、三面六臂の猪にのる通常の摩利支天像とは違い、一面で手を智拳印のような印(智拳印とは左右の手が逆)を組む二臂の像となっている。
 
十一面観音
 阿弥陀来迎の供養菩薩のように頭上で頭光のようにアーチ状に天衣まとった像である。浄土寺の刻銘があり浄土寺の本尊の十一面観音を表したものである。
 
天主大日如来
 鉄腕アトムのような宝冠をかぶっている智拳印の金剛界大日如来である。「天主大日如来」の刻銘が像の向かって右にある。

 GoogleのAIモードて「天主大日如来」を検索すると
 『ザビエルが日本にキリスト教を伝えた際、唯一神「Deus(デウス)」を日本の人々に理解してもらうため、当時の通訳の助言に従って、宇宙の根本を意味する密教の「大日(大日如来)」という言葉を訳語として採用しました。これにより当初は「大日を拝みなさい」と布教していました。』『天主はキリスト教における「天地万物の創造主」「唯一絶対の神 Deus)」の漢訳。』などと出てきた。
 
天部像(尊名不明)
火焔光背を背負い、両手で宝戟(ほうげき)のようなもの斜めに持った像
 
高王白衣観音
整った美しい白衣観音像である。像の左側に「高王白衣観音」の刻銘がある。高王白衣観音経という経典に由来すると思われる。
 
朝鮮の石人風の像
 
 朝鮮の石人風の像も見られる。朝鮮の石人像は笏を持つが、2体撮影したがどちらも笏は持っていない。は右手に金剛杵、左手に蓮華を持つている。は右手に数珠、左手に蓮華を持っている。
 
徳音上人像
 石造りの石鎚社への階段の左右に僧の浮き彫り像かある。向かって左の像は上品で穏やかな表情の僧で、像の向かって右には栗原村大興山十世の銘、左には徳音上人の銘が刻まれている。大興山は十六羅漢磨崖仏のある曹洞宗法済寺の山号であるが、禅宗では上人とは言わない。



   
令和8年8月15日  近くの水田地帯にて
コチドリ
コチドリもいました。幼鳥や若鳥でした。
 
タカブシギ
少し水が引いた休耕田にタカブシギが2羽いました。



令和8年8月14日  山口の石仏5 深谷十三仏
深谷十三仏
山口県山口市徳地深谷  「応永14(1407)年」
 「深谷十三仏」は山口市徳地深谷の集落への入り口近くの小さな丘の上の堂の中に二列に並べて安置されている。一石一尊の十三仏で、それぞれ花崗岩の座像で、二重光背を型どった石材に薄肉彫りしている。中央の虚空像菩薩が最も大きく、高さ87㎝で、他の像はほぼ同じで高さ70㎝ほどである。虚空像菩薩の背面に「応永十四丁亥二月彼岸逆修」と刻銘があり、応永十四年(1407)の彼岸に建立されたものである。

 頭も身部もあまり凹凸がなく薄肉彫りというより、線彫りに近い。堂内に安置されているためかその線もわかりにくく、像容を見ただけでは尊名が判断しにくい。地方作であるが、素朴な味わいのある石仏である。

 十三仏石仏は全国にみられるが、千葉県や埼玉県などの関東地方と生駒山山麓の関西地方に特に多く見られる。これらは板碑で一石で十三仏を種子または像容であらわす。深谷十三仏のような一石一尊仏は全国的に見ても少ない。十三仏碑の初現は千葉県の印旛村の迎福寺の永和4年(1378)銘の種子碑である。像容を刻んだものでは、この深谷十三仏が最も古い。 
堂の中に二列に並べて安置されていて前列は中央の虚空像菩薩を中心に7体並べられている。この画像では右端の不動明王が写っていない。
虚空像菩薩(前列中央)
 
地蔵菩薩(前列、向って右から3体目)
 
(前列、向って右から2体目)
 
不動明王(前列、向って右端)
 
(前列、向って左から3体目)
 
(前列、向って左から2体目)
 
(前列、向って左端)
 



 
令和8年8月13日  近くの水田地帯にて
コチドリ幼鳥
 台風の接近で雨が降り、猛暑が一旦、収まりました。乾いていた水田や休耕田にも水が戻ってきたと思われるので水田地帯にチドリ、シギを期待して行きました。シギ類は見られませんでしたが、コチドリはほとんどが幼鳥でしたが群れになっていました。
2羽は頭部が黒く成鳥といってもよい若鳥でした。



令和8年8月12日  尾道の石仏6 竜王山3
竜王山の石仏Ⅲ
 蔵王権現や天狗、五大明王、三十六童子以外にも様々な石仏がある。各地で見られる不動明王や善光寺式阿弥陀三尊石仏の他、見返り弘法大師像や摩利四尊天と刻銘のある像、天主大日如来と刻銘のある像、朝鮮の石人のような姿の像など他には見られない石仏が見られる。石造りの石鎚社への階段の左右に僧の浮き彫り像がある。
 
弘法大師
 
 
 弘法大師像は3体撮影したがすべて立像でした。等身大に近い2体の弘法大師像は石仏と言うより近代肖像彫刻と言ってもよい魅力的で個性的な大師像である。一体は太い眉毛で目を開いて前をしっかり見つめる力強い弘法大師像で、もう一体は穏やかな目で静かに振り返る優しい姿の見返り弘法大師像である。の弘法大師像は右手に金剛杵を持ち、左手に蓮華をを持っている。の弘法大師像は右手に金剛杵を持ち、左手に数珠を掛けて錫杖を持っている。と同じ金剛杵、錫杖、数珠持ちの小さな弘法大師像もった。可愛い童子のような弘法大師像である。
 
阿弥陀来迎供養菩薩石仏
 小石仏が列に並べられているのを見かけて写真を撮った。撮影したい石仏が多くあったので、一枚撮って詳しく見ないで素通りした。リニューアルに当たって写真を見直してみる列の真ん中にある上に阿弥陀、下に2体の菩薩像を刻んだ石仏は下の2体が観音と勢至でないことに気が付いた。向かって左の菩薩が琵琶を持った光明王菩薩である。右の像は持物がわからないので尊名は不明であるが観音でも勢至ではない。三尊像の左右に並んでいる小石仏を見てみるとすべて三尊像の下の2体とよく似た石仏で、ほとんどが羽衣のように天衣をまとった菩薩像で楽器やらしきものを持っている像も見られ弥陀来迎に従ってきた供養菩薩と思われる。二十五菩薩来迎石仏と思われるが、この写真だけではわからなかった。
 
善光寺式阿弥陀三尊石仏
 船型光背を背負う一光三尊形式の善光寺式阿弥陀三尊石仏は光背の化仏など詳細まで丁寧に彫られた石仏で、台座には跪き阿弥陀如来を仰ぎ見て祈る男女像が彫られている。



    
令和8年8月9日撮影  自宅にて
カワラヒワ幼鳥・イソヒヨドリ
 ベランダで洗濯物を取り入れていると、カワラヒワらしき小鳥がが3羽飛んできて近くの電線にとまりました。カメラを持ってきて撮影してみるとカワラヒワの幼鳥でした。
カワラヒワを撮影しているとイソヒヨドリが飛んできて電柱近くの電線にとまりました。



   
令和8年8月10日  山口の石仏4 湯野観音岳の四国八十八ヶ所石仏
湯野観音岳の四国八十八ヶ所石仏
山口県周南市湯野牧
 湯野温泉の北にある湯野観音岳は山頂から純金の観音像が出土したことで有名な山で、もとは不動山といった。江戸時代の終わり、嘉永6年(1853)、松田好松という若者がうさぎ狩りをしていたところ、山頂付近で半分土に埋もれた純金の観音像を発見し、ふもとの楞厳寺(りょうごんじ)に奉納したので、以降、不動山は観音岳と呼ばれるようになった。(観音像は平安時代の作で山口県の指定文化財になっている。)

 その時の楞厳寺の住職が山頂に黄金仏の代像として子安観音像を祀り、山全体を四国に見立て、四国八十八ヶ所の分霊場を設置したのが現在の信仰の山、湯野観音岳の始まりである。楞厳寺の西側に登山口があり、登るにつれて、四国八十八ヶ所の本尊と弘法像の2体セットの石仏が次々と現れてくる。21番太龍寺石仏まで登りがつづく、そこから一端下りになり、小さな谷川を越えると再び急な山道になり、20分ほど登ると山頂に着く。山頂手前に案内板があり、子安観音への続く分かれ道がある。子安観音は石を組み合わせた石龕に安置されていて、高さ94㎝の石材に右手に蓮華を持ち、左手で幼児を抱く、像高47㎝の子安観音像を半肉彫りしたもので、像の左右に「子安正観世音」「黄金之代像」の記銘がある。

 21番太龍寺石仏に登る少し手前に、30番安楽寺・善楽寺の石仏が立っている。そこから31番竹林寺以降の霊場が続く下山路が分岐している。下山路は楞厳寺の東の墓地まで続いていて、結願の寺、第88番札所大窪寺の石仏が墓地の北の林の中に祀られている。石仏のほとんどか40~50㎝の石材に彫られているが、岩に彫られた磨崖仏も4ヶ所ある。山口の霊山や寺院の裏山などには西国三十三ヶ所や四国八十八ヶ所などの札所の石仏が多くあるが観音岳四国八十八ヶ所石仏は、山口では最も優れた札所石仏である。
 
子安観音像
 
第33番観雪蹊寺(弘法大師・薬師如来)
 
第40番観自在寺(弘法大師・薬師如来?)
観自在寺の本尊は薬師如来なのだがこの像は薬壺を持たず定印、どう見ても阿弥陀如来像である。
 
第42番佛木寺(弘法大師・文殊菩薩)
佛木寺の本尊は大日如来なのだがここでは文殊菩薩になっている。
 
第45番岩屋寺(弘法大師・不動明王)
 
第63番観吉祥寺(弘法大師・吉祥天)
 
第74番甲山寺(弘法大師・薬師如来)
 
第75番善通寺(弘法大師・薬師如来?)
善通寺の本尊は薬師如来なのだがこの像は薬壺を持たず定印。薬師如来は定印でもその上に薬壺を載せているはずなのだが?
 
地蔵菩薩・弘法大師?
 向かって右の像は僧が儀式のときに使う如意を持っている。如意を持っている弘法大師像の知見はないが、八十八ヶ所の本尊と弘法像の2体セットで他も彫られているので弘法大使とした。何番札所か確認できていない。
 
弘法大師・十一面観音or千手観音?
 



令和8年8月9日  尾道の石仏5 竜王山2
竜王山の石仏Ⅱ
 竜王山には蔵王権現石仏を初めとして他の地ではあまり見られない石仏が多くある。その一つが五大明王像である。五大明王は不動明王を中心として、東西南北のそれぞれに降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の四明王を配置したもので、木造では立体曼荼羅として知られる東寺講堂の国宝五大明王像がよく知られている。石仏では関東や信州などでみられるが、西日本ではあまり見られない。不動明王眷属の三十六童子も珍しい石仏である。
 
五大明王像
 
不動明王・大威徳明王・降三世明王
 
不動明王
 
降三世明王
 
降三世明王に踏みつけられる大自在天とその妃、烏摩
 
軍荼利明王
 
金剛夜叉明王
 竜王山の五大明王は浮き彫り像で、不動明王は上部を浅い山型にした板状の石材を使い半肉彫りする。他の明王は船型の半肉彫りである。降三世明王は大自在天とその妃、烏摩を踏みつけて立つ三面八臂像で、軍荼利明王は一面十臂像、金剛夜叉明王は三面八臂像で、それぞれ火焔光背を負う。細部まで丁寧に彫られた明王像である。大威徳明王は不動明王と降三世明王の後ろに隠れるように置かれていてまともな写真を撮れなかったのが残念である。
 
三十六童子
 
三十三番 普香王童子
 
十九番 法挟護童子
 
十六番 阿婆羅底童子
 
十七番 持堅婆童子
 
尊名不明
 不動明王眷属の三十六童子も珍しい石仏である。高さ50㎝ほどの山型の板状の石材いっぱいに各童子を半肉彫りしたもので、像の向かって右に尊名、左に番号を刻む。三列で詰めるように並べていて、一部の像しか写真は撮れない。(愛媛県の岩屋寺や鎌倉の称名寺や西念寺などにも三十六童子石仏はある。)



                            
令和8年8月8日  山口の石仏3 岩谷十三仏
岩谷十三仏
山口県下関市豊浦町大字川棚中小野岩谷
 岩谷(いわや)十三仏は下関の奥座敷として知られる川棚温泉の北東6kmの中小野・岩屋という山あいの集落にある。公園として整理された露出した岩場の所々に1mにも満たない十三の石仏が安置されている。

 石仏は不動明王(初七日)・釈迦如来(二七日)・文殊菩薩(三七日)・普賢菩薩(四七日)・地蔵菩薩(五七日)・弥勒菩薩(六七日)・薬師如来(七七日)・観世音菩薩(百ヶ日)・勢至菩薩(一周忌)・阿弥陀如来(三回忌)・阿閃如来(七回忌)・大日如来(十三回忌)・虚空蔵菩薩(三十三回忌)の十三仏である。十三仏とは死者の追善の法事を修めるとき、その年忌に配当された十三の仏菩薩をいう。十三仏信仰は浄土信仰に基づいて、これらの十三仏を信仰して極楽往生を願うものであり、南北朝時代から信仰が始まったといわれている。

 岩谷十三仏は、山口を支配した大内義隆が家臣の陶晴賢の叛乱に敗れた時、一時身をひそめたという岩谷が浴八丈岩に納められていたもので、現在、大小の岩が組み合わされた庭園風の公園の、岩の上に並べられている。

 大内義隆が八丈岩を脱出する時、村人に大内家秘伝のばんばら楽(大内楽)の巻物一巻をあたえた。陶晴賢が毛利元就に破れた、弘治元年(1555)ごろ、この一帯が大旱魃に襲われ、雨ごいのためにと熊野神社にこのばんばら楽(大内楽)を奉納したところ、すぐに大雨が降り旱魃を免れた。そこで、大内義隆の供養として、八丈岩に十三体の石の仏像を造り奉納したとのがこの十三仏であるという。

 一体一体、丁寧に彫られていて、柔和で愛らしい顔の千手観音像やすました穏やかな表情の大日如来や弥勒菩薩、哲学者のような風貌の釈迦如来など魅力的な石仏群である。仙人のような表情の文殊菩薩と普賢菩薩の2体は少し離れた岩の上に安置されている。
 
 深谷十三仏と同じく一石一尊仏の十三仏で、露出した岩場の岩の上に一体ずつ置かれている。この写真は十三仏のうち文殊・普賢を除く十一仏である。
手前は不動明王で、見張り仏として離れた高い岩に安置されているのが、文殊菩薩と普賢菩薩である。
 
不動明王
 
釈迦如来
 
文殊菩薩
 
普賢菩薩
 
地蔵菩薩
 
弥勒菩薩
 
薬師如来
 
観音菩薩(千手観音)
 
勢至菩薩
 
阿弥陀如来
 
阿閃如来
 
大日如来
 
虚空蔵菩薩



令和8年8月7日  尾道の石仏4 竜王山1
尾道の石仏2(竜王山の石仏)
広島県尾道市潮見町 「明治時代~昭和時代」
 
 尾道は林芙美子や志賀直哉が住んだ 「文学の街」として、小津安二郎の「東京物語」や大林宣彦の「転校生」「ふたり」など映画の舞台となった街として、多くの観光客を引きつけている。

 大林宣彦監督の尾道の三部作の「さびしんぼう」で主人公の橘百合子が通う明海女子高等学校のロケ地が市立日比崎中学校である。その日比崎中学校の北にある山が竜王山である。千光寺や済法寺のある千光寺山と栗原川を隔てた西側にある山である。

 日比崎中学校校舎の東の道を北へ進むと大きな石門があり、そこからしばらくすすんだ尾根沿いの広場が竜王山の霊場となっている。そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立している。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっている。

 竜王山の石仏は因島の白滝山の石仏や済法寺十六羅漢磨崖仏と同じく尾道の石工によって彫られたものである。竜王山の石仏は明治から昭和にかけて造立されたと考えられる。天狗を彫った石柱の裏には「明治三十年酉六月二十八日」「願主 光現院 石鎚 森造」とある。石祠にも「明治十二年六月一日」や「願主 石鎚光現院 石鎚森造」の刻銘がある。

 石仏の一つには「尾道石工角田丈平作」の銘がある。尾道市教育委員会の発行する電子書籍「尾道の石造物と石工」によると角田丈平の作品は「明治 12 年(1879)から昭和 11 年(1936)までで 12 点が確認されている。」とある。(なお、竜王山の角田丈平の刻銘のある石仏は教育委員会の調査から抜けている。)また、昭和59年発行の「日本の石仏 山陰・山陽篇」(図書刊行会)では、尊名を墨で黒々と塗られた三十六童子石仏の写真が載せられ、最近の作であると記されている。



竜王山の石仏Ⅰ
 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場であった。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには蔵王権現(石鎚権現)など修験道に関わる石仏などが数十体、林立する。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めている。天狗も修験道と関係が深い。天狗のイメージの上には山伏たちのイメージが重なる。竜王山には天狗の半肉彫り像を上部に彫った石柱状の塔が4基立っている。
 
蔵王権現(石鎚権現)
 
 
 
 
 蔵王権現は、修験道の本尊で奈良県県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られ、竜王山には多くの蔵王権現石仏がある。蔵王権現は三目二臂か二目二臂で、右手を高く上げて独鈷または三鈷を持ち、左手を腰に当て、右足を高く蹴り上げ、左足で立つ、憤怒相が一般的である。石仏は全国的に見ると珍しく、南北朝時代から江戸時代の造立で知られているものは奈良県の三郷町と大淀町の各1基、国東半島の数基などである。明治以降の作としては修那羅や霊諍山の2基か知られている。

 石鎚社の石垣の下に大きな丸彫りの4体の蔵王権現石仏がある。それぞれよく似た像で、二目二臂で右手をあげて杵のような独鈷を持ち、右足を高く蹴り上げ、左足で立つ。テイァラのような冠をかぶり、髪の毛を逆立てた像であるが、顔は太い眉毛であるが憤怒相とは言いがたい独特の顔をしていて、猿回しの猿のようなユーモラスな蔵王権現像である。冠と逆立てた髪が猿回しの猿の帽子のように見える。①② 蔵王権現は石鎚権現として祀られているようで、石造りの祠には蔵王権現が石鎚権現として安置されている。

 参道の石祠には小像ながら憤怒相の迫力のある蔵王権現像がある。 また、石垣の片隅にある蔵王権現像の小像は力強く可愛らしい像で、竜王山の蔵王権現の中でも最も印象に残る像である。 他に、蔵王権現を浮き彫りにした山型の板碑もある。
 
天狗
 天狗も修験道と関係が深い。天狗のイメージの上には山伏たちのイメージが重なる。天狗が山伏の姿をした話もあれば、山伏が死後天狗になったという話もある。特に石鎚山は天狗と関係が深い。石鎚山の最高峰は天狗岳で、大天狗の別格の「石鎚山法起坊」は役行者の狗名であるといわれている。竜王山には天狗の半肉彫り像を上部に彫った石柱状の塔が4基立っていて、迫力がある。塔の前には力強い天狗の浮き彫り像もある。



令和8年8月6日  山口の石仏2 菩提寺山磨崖仏
菩提寺山磨崖仏
 美術史家久野健氏によって日本最古の磨崖仏として紹介された「菩提寺山磨崖仏」は熊野神社の裏山の菩提寺山の中腹の岩に彫られている。像高316cmの観音立像で、左手に水瓶を持ち、右手は下に下げて指で天衣をつまんでいる。衣紋の表現や二重の瓔珞・両耳の耳飾りは薬師寺聖観音像など天平彫刻に共通する。頭が大きく、4頭身に近い。このような表現は奈良時代の小さな金銅仏によく見かける。
 大きな花崗岩を半肉彫りで量感のある菩薩像を表現する点は韓国石窟庵の十一面観音や狛坂寺跡磨崖仏などに共通する。頭が大きく、4頭身に近い石仏は、慶州拝里三尊石仏や南山七仏庵磨崖仏など韓国(新羅時代)にも見られる。花崗岩という硬い岩を加工する技術から考えて、8世紀から9世紀にかけての新羅からの渡来人の石工によって彫られたものであろう。

 この磨崖仏については、昭和6年建立説がある。村田芳舟という修行僧が、この山の石を切り出していた石工の道具を借りて彫ったものだという説である。しかし、奈良時代の特徴を備えたこの磨崖仏は、私には昭和期に素人の修行僧がつくったものとは思えない。山陽小野田市が「有帆菩提寺山磨崖仏調査委員会」を発足させ、調査が行われたが結論はででいない。この石仏の発見者、山口歴史民俗資料館元館長の内田伸氏は、奈良時代の作とし、如来形の髪や百毫などが村田芳舟の稚拙な改刻としている。(「山口県の石造美術」 マツノ書店)
山口県山陽小野田市有帆 菩提寺山 「奈良時代or昭和6年」



令和8年8月5日  尾道の石仏3 済法寺
済法寺釈迦・十六羅漢磨崖仏
広島県尾道市栗原東1丁目15-6 「享和年間(1801~1804年)」
  済法寺は宝暦3年(1753)広島国奉寺11世笑堂が開基した曹洞宗の寺院で、済法寺九世の通称「拳骨和尚」と呼ばれた、物外不遷大和尚で知られた寺である。済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢と従者や羅漢など二十六尊者の磨崖仏がある。済法寺九世の牧元喝童大和尚の代、享和年間に境内の岩々に刻まれたとされている。江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができる。
 
釈迦如来
 
十六羅漢(因掲羅尊者)・釈迦如来
 
十六羅漢(弗多羅尊者)
 
十六羅漢(蘇頻陀尊者)
 
十六羅漢(注荼半託迦尊者・蘇頻陀尊者)
 
十六羅漢(羅怙羅尊者)
 
十六羅漢(戎博迦尊者)
 
十六羅漢(迦哩迦尊者)
 
十六羅漢(迦諾迦跋釐堕尊者)
 
十六羅漢(迦哩迦尊者・迦諾迦跋釐堕尊者)
 
十六羅漢(那伽犀那尊者)
 
十六羅漢(阿氏多尊者)
 



令和8年8月4日  山口の石仏1 大王寺と覚苑寺の石仏

山口県の石仏

 
 山口県下において、石仏は江戸時代以降のものが圧倒的に多い。中世をさかのぼるものはわずかである。その中で全国的に知られているのは、『日本発見 石仏紀行』(暁教育図書・昭和55年)の中で美術史家久野健氏によって日本最古の磨崖仏として紹介された山陽小野田市の「菩提寺山磨崖仏」である。
 
 その他、古い石仏としては山口市徳地の「深谷十三仏」がある。「深谷十三仏」は個々の仏をあらわした十三仏としては「応永十四年(1407)」という最古の年記を持つ。下関市豊浦町川棚の「岩屋十三仏」も個々の仏をあらわした十三仏で桃山時代の作である。磨崖仏では他に美祢市の「石屋形羅漢山磨崖仏」が知られていて、室町時代初期の作である。

 江戸時代以降の石仏の中で珍しいものとしては、山口市の陶ヶ岳の寝釈迦像の磨崖仏がある。十六羅漢とともに山頂近くのそそり立つ絶壁に薄肉彫りされている。この陶ヶ岳はかっての霊場で、陶ヶ岳の山頂近くの広場には鳥居や石段、石碑、観音磨崖仏が残る。山口県にはこのような信仰の山が多くある。これらの山には簡単に霊場の巡礼ができるように、江戸後期から昭和にかけて西国三十三ヶ所観音霊場や四国八十八ヵ所霊場の各寺院の本尊を模した石仏が分霊場としてつくられた。

 周南市の湯野観音岳や山口市徳地の狗留孫山などがそれである。金の観音像が出土した湯野観音岳には四国八十八ヵ所の分霊場が、徳地狗留孫山には西国三十三ヶ所の分霊場があり、現在も信仰をあつめている。




大王寺の石仏
山口市下関市大字田倉
 大王寺は、城下町長府の北、四王司山の麓にある寺で、昭和の初め馬場覚心によって開かれた。馬場覚心は独立して一派を開き、現在、一切宗の本山となっている。ここは石仏の寺でもある、昭和初期の石仏300余体が祀られている。不動明王の石仏が多数あり、「防長の石仏」 ( 『日本の石仏 山陰・山陽篇』)には一の滝にある不動明王座像が紹介されている。写真でみて気に入り、この寺を訪れたが、目的の不動明王石仏を見ることができなかった。 このページで紹介する不動明王も滝の近くにあったが、別の像で立像である。「防長の石仏」に紹介されている不動明王座像に比べるとやや迫力を欠く。
 石仏としては珍しい苦行釈迦もある。写実的な表現の石仏で、何体か見た苦行釈迦石仏の中では最も優れたものであった。
 
苦行釈迦石仏
 苦行釈迦はブロンズ彫刻を思わせる写実的な表現の石仏である。ラホール博物館の苦行釈迦などのガンダーラ仏を参考にしたと思われる。台座には火の祭壇を中心に左右に三人ずつ礼拝する比丘の姿が表されている
 
不動明王立像
 
釈迦如来立像
 
大日如来坐像



覚苑寺准胝観音
山口県下関市長府安養寺3-3-10
  覚苑寺は毛利長府藩三代目藩主綱元が建てた黄檗宗の寺院で、和同開珎の長門鋳銭所跡があることで知られている。その覚苑寺の裏山、准胝山にこの磨崖仏がある。准胝山へ続く道は、西国三十三ヶ所観音霊場の分霊場になっていて、覚苑寺境内奧の墓地から山頂にかけて西国三十三ヶ所観音石仏安置されている。
 一番青岸渡寺如意輪観音、二番金剛宝寺(紀三井寺)十一面観音と順に観音石仏をみて10分ほど登ると、右側に2m余りの上部が三角形の大きな岩が見えてくる。その岩に准胝観音磨崖仏が彫られている。

 岩の上部に岩の形に添って舟形の光背を彫り込みつくり、そこに施無畏・与願印で蓮華座に座る菩薩像が半肉彫りで刻まれている。准胝観音は石仏としては珍しく、西国三十三ヶ所観音石仏などでみられるのみである(第十一番上醍醐寺が准胝観音である)。准胝観音は儀軌では、三眼十八臂になっていて、石仏では三眼八臂が多い。このような二臂は珍しく、横の石碑に準提観世音と刻まれていなければ准胝観音とはわからない。(准胝観音は準提観音・准泥観音・准提仏母・天人丈夫観音などの異名がある)

 手や腕・衣紋の表現は写実性に欠けるが、モダンで秀麗な容顔が印象的で、山口県の近代の磨崖仏としては出色の出来である(準提観世音の石碑に昭和七年四月の銘がある)。


令和8年8月3日  尾道の石仏2 千光寺
千光寺の石仏
 千光寺には石仏ブームのきっかけとなった若杉慧の「野の仏」によって、全国的に知られるようになった阿弥陀三尊磨崖仏がある。 参道の階段の隅にある小さな磨崖仏であるが、 かわいらしいこけしのような磨崖仏である。室町時代末期の作で、尾道では最も古い石仏である。他に、 天正17年(1589)の紀年のある二尊逆修塔や烏天狗線彫り像がある。また、重ね岩とよばれる岩にも三尊磨崖仏がある。
 
千光寺阿弥陀三尊磨崖仏
広島県尾道市東土堂町 「室町時代末期」
 千光寺には石仏ブームのきっかけとなった若杉慧の「野の仏」によって、全国的に知られるようになった阿弥陀三尊磨崖仏がある。 参道の階段の隅にある像高50㎝ほどの小さな磨崖仏であるが、 かわいらしいこけしのような磨崖仏である。室町時代末期の作と思われる。
 
千光寺三尊石仏
広島県尾道市東土堂町
 山形の自然石の上部いっぱいに山形の彫り窪みをつくりそこに阿弥陀如来?の立像を本尊にして左右に比丘形の脇侍を半肉彫りした石仏である。左脇侍は合掌する比丘形像で地藏菩薩と思われる。右脇侍は左手で水瓶を持つているので観音かなと思ったのですが尊名は比丘形にも見えるので尊名はわからない。
 
ニ尊逆修塔
広島県尾道市東土堂町  「天正17年(1589)」
 本堂への石段の中ほどにある二尊仏の逆修塔である。向かって右が薬師如来、右が阿弥陀如来で、写実性に乏しく抽象的・図形的な石仏である。「天正十七年己丑松巖□□禪悌定門逆修二月時正」の銘がある。
 
烏天狗線彫り磨崖仏
広島県尾道市東土堂町
 本堂横の三重岩の左から岩の谷間の道を上ると石鎚山鎖修行の入り口がありその横の大きな岩に1mもある烏天狗が線刻されている。左手に剣を持ち雲に乗ったひょうきんな姿が軽妙に刻まれている。



   
令和8年8月2日  自宅にて
イソヒヨドリ
 花に水撒きをしようと庭に出るとイソヒヨドリの近所の屋根から鳴き声が聞こえました。そこでカメラを持って家のベランダに上がりました。するといつもいる斜め向かいの会社の社宅の非常階段付近からイソヒヨドリが飛び立ち少し離れた民家の軒下の雨樋にとまりました。そのあと民家のテレビアンテナへうつりました。近くの電柱にもいました。こちらは雌です。雌は社宅の非常階段に戻りました。
電柱にいたイソヒヨドリ雌です。



令和8年8月1日  日光開山堂六武天石仏 四天王・不動
四天王
 四天王であるが3体しか見られない。手が欠損しているため持物はわからず、尊名が断定できないが、向かって左の帝釈天と梵天に挟まれた像が持国天、右端の2体が左から増長天、広目天と思われる。肩を張った鎧姿の体躯の3体の四天王は力強く、石仏とは思えない精巧な表現である。
 
持国天?
 
増長天?
 
広目天?



不動明王立像
不動明王は両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣、左手に羂索を持つ姿であるが、この像は右手には何も持たず、手を丸めて真ん中を開け、剣を差すようにしている。検索を持つ左手は欠けている。四天王と同じく丁寧に彫られた石仏である。



7月