令和7年8月28日 「輿山往生院惣墓の十三仏」の再掲載(画像の差し替え・追加) | ||
輿山往生院惣墓の十三仏の画像があまり良い写真がなかっので、昨日、撮影してきました。16年ぶりの撮影です。十三仏木製板卒塔婆は少し色あせていました。 | ||
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輿山往生院惣墓の十三仏 | ||
奈良県生駒市有里町 | ||
輿山往生院惣墓十三仏板碑 「室町後期」 |
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南生駒駅の西北に見える丘が生駒六郷の惣墓、輿山惣墓である。その惣墓の丘頂に往生院がある。往生院には関西様式の宝篋印塔としては最古の正元元(1259)年の紀年銘を持つ宝篋印塔や鎌倉時代の五輪塔、五輪卒塔婆など多くの中世の石造物がある。 往生院の北にある墓地には種子で表した十三仏板碑が2基あり、その内の1基は珍しい形式である。高さ116㎝・幅48㎝の船型の板碑で、表面枠取り内に天蓋を飾って、下面に蓮華座上月輪内に十三種子を刻む。その下に地蔵・阿弥陀座像を半肉彫りしている。その左右に「西念逆修 妙性逆修」の刻銘があり、夫婦が自己の供養として造立したと考えられる。 |
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往生院十三仏木製板卒塔婆 | ||
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勢至菩薩 | ||
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釈迦如来? | ||
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不動明王 | ||
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大日如来 | ||
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弥勒菩薩・阿弥陀如来 | ||
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虚空蔵菩薩 | ||
南生駒駅の西北に見える丘が生駒六郷の惣墓、輿山惣墓である。その惣墓の丘頂に往生院がある。行基の遺言により、その遺体を焼き、遺骨の一部を葬ったのがこの地とと伝えられていて、行基供養塔とされる鎌倉時代の五輪塔が、本堂背面から拝むことができます。 その五輪塔の背後に並べられているのが十三仏を描いたこの十三仏木製板卒塔婆である。 |
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令和7年8月27日 薩摩の田の神さあ 鹿児島市9 |
滝の下の田の神 |
鹿児島県鹿児島市中山町21-3 |
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中山町は永田川水田地帯であったが宅地化がすすみ、道路沿いのほとんどは住宅になっている。「滝の下の田の神」を撮影した時は中山町滝の下はまだ水田が多く残っていて「滝の下の田の神」は水田を背景に立っていた(現在は住宅の前にたっている)。雲竜紋の台石など4段の立派な台座の上に立っている像高96㎝の頭巾風のシキかぶった、僧型立像の田の神である。4段の台座は95㎝の高さで、像と合わせると高さは2m近くあり、田の神像では最も高い。シキの前部や顔は風化と損傷がすすみ、顔の表情は全く見られないが、シキの藁の網目や二段にひだのついた裳状の長袴など克明に彫られている。右手に小さなメシゲを持ち、左手に棒のようなもの(鍬?)を持っている。市の民俗資料有形文化財に指定されている。 |
木之下の田の神 |
鹿児島市上福町木之下 「宝暦6(1756)年」 |
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「木之下の田の神」は笠状のシキをかぶり、右手にメシゲ・左手に椀を持った田の神で狩衣風の上衣をきた神職型の田の神で、石工の腕のさえが感じられる田の神像である。背部に「宝暦六子天二月吉日 奉供養田之上」と刻む。直衣または狩衣姿でメシゲを持った神職型立像の田の神としては、山崎麓の田の神とならぶ秀作である。山崎麓の田の神の端正な顔に対して、この田の神は庶民的で味わいのある顔である。市の民俗資料有形文化財に指定されている。 |
令和7年8月26日 生駒市の石造十三仏2 | ||
大門磨崖十三仏 「天正11(1583)年」 | ||
奈良県生駒市大門町 | ||
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大門集落の北側の細い道端の露出した岩に彫られた十三仏である。高さ2m、幅330㎝、億行き6mの巨岩で、表面に高さ95㎝、幅60㎝の駒形の彫り込みをつくり、蓮華座にのる虚空蔵・大日・釈迦の座像をそれぞれ船型の彫り窪みの中に半肉彫りする。他の十仏は縦に並んだ三尊像の左右に五仏の種子を刻み十三仏をあらわしたものである。脇に天正11(1583)年の紀年銘がある。 | ||
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石福寺板碑群 | ||
〒630-0224 奈良県生駒市萩の台1071 | ||
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石福寺は生駒市の萩の台にある融通念仏宗の寺院で、境内には昭和の初めまで続いた乙田浄瑠璃・芝居の資料の保存館がある。本堂の前には安土桃山時代の十三仏板碑と六字名号板碑・六斎念仏碑が一列で並んでいる。その内、3基が十三仏板碑である。3基とも刻銘には人名や法名とともに「逆修」の文字が刻まれていて、死後の供養のために建立したことがわかる。 | ||
石福寺十三仏板碑1 「天正2(1574)年」 | ||
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3基の十三仏板碑のうち向かって右にあるのが古く天正2(1574)年の紀年銘が刻まれている。高さ99㎝、幅52㎝の板碑で頂上を山型につくり、蓮華座にのる虚空蔵菩薩と他の尊像を四列三段で半肉彫りであらわしたものである。 | ||
石福寺十三仏板碑2 「慶長5(1600)年」 | ||
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中央の十三仏板碑は高さ94㎝、幅41.5㎝の船型状板碑で頂部に天蓋を刻み、その下に虚空蔵菩薩と四段三列で十二尊を蓮華座上に半肉彫りしたものである。慶長5(1600)年の紀年銘がある。 | ||
石福寺十三仏板碑3 「慶長7(1602)年」 | ||
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左の十三仏板碑は高さ101㎝、幅39.5㎝の船型状板碑で天蓋を設け、その下に虚空蔵菩薩を配し、その下四段三列で十二尊を半肉彫りする。慶長7(1602)年の紀年銘がある。 | ||
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令和7年8月25日 薩摩の田の神さあ 鹿児島市8 |
山田の田の神 |
鹿児島市山田町一丁田 「享保8(1723)年」 |
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田の神石像は初め、神像及び仏像として出発したと思われる。神像の田の神は神像型→神職型→田の神舞型・神舞型という流れで変化していったが、もう一つの仏像の田の神の流れは仏像型→僧型→旅僧型のという変化である。 僧型の最も古いものは、円筒形につくられた特異な姿の頭巾風のシキをかぶった僧型立像の田の神像である。享保年間につくられたものが多く、最も古い紀年銘を持つのが日置市の「中田尻の田の神」(享保2<1717>年)である。他に鹿児島市の「永田の田の神」(享保6<1721>年)、南さつま市金峰町の「宮崎の田の神」(享保17<1732>年)などがあげられる。残念なことに、これらの像は摩滅欠損が目立つ。 その中で、最も保存状態がよいのが、この「山田の田の神」(享保8<1723>年)で、像高約60㎝で美しくよく整った像である。右手にメシゲ、左手に棒先がカギ状になった鍬のようなものを持っている。県の民俗資料有形文化財に指定されている。 |
永田の田の神 |
鹿児島市東谷山五丁目 島の森公園 「享保6(1721)年」 |
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「永田の田の神」はJR指宿枕崎線の「谷山」駅の近くの島の森公園の角に道に向かって立っている。「山田の田の神」と同じ円筒形につくられた特異な姿の頭巾風のシキをかぶった僧型立像の田の神像で、右手にメシゲ、左手に棒のようなもの(鍬?)を持っている。破損が大きく目鼻は全くなく、顔の真ん中に穴が開いている。廃仏毀釈やいたずらなどで人為的に破損されたものではないだろうか。台座に「享保六年(1721)」の紀年銘がある。市内では最も古い紀年銘のある田の神である。 |
入来の田の神 |
鹿児島市東谷山七丁目入来 「享保21(1736)年」 |
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「入来の田の神」は「山田の田の神」や「永田の田の神」と同じ頭巾風のシキかぶった、僧型立像の田の神である。「山田の田の神」と同じ雲竜紋の立派な台座に乗っていて、左手にスリコギ、右手にメシゲを持つ。「永田の田の神」と同じく廃仏毀釈のためか顔の部分が大きく壊されている。裏側に「享保21(1736)年」の紀年銘がある。市の民俗資料有形文化財に指定されている。 |
令和7年8月24日 大隅の田の神さあ 湧水町4 |
四ッ枝前の田の神 |
鹿児島県姶良郡湧水町川西四ッ枝前 |
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「四ッ枝前の田の神」は「吉松」駅の西にあるため池の護岸の竹林の前に立っていた(リニュアルに当たってGoogle Earthで確かめてみると像も案内柱もあったと思われる場所には見当たらなかった)。シキをかぶり、右手でメシゲを掲げ、左手で杵を持っている座像または中腰姿の農民型の田の神である。台石に「京町石工 春田浅吉 昭和五年三月」の刻銘がある。京町は湧水町の隣の京町温泉で知られるえびの市の京町で、春田浅吉はえびの市島内の「中浦の田の神」や現在、えびの市歴史民俗資料館にある「今田家の田の神」などの作者である。これらの像は「四ッ枝前の田の神」と同じくメシゲ・杵持ちの田の神である。 |
永山の田の神 |
鹿児島県姶良郡湧水町川西永山 「平成14年(2002)」 |
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「永山の田の神」は自然石の田の神の後ろに平成14年に建立されたものである。シキをかぶり、両手でメシゲを持って座る田の神像で、詳細を省いたおおざっぱで直線的な表現の田の神で、腕や手、持ったメシゲなどは立体感はなく板彫りである。鉈や小刀などで彫られた木彫仏である円空仏を思わせるユニークな田の神像である。台座に2名の建立者の名前と2002年3月と建立年月が刻まれている。 |
令和7年8月23日 生駒市の石造十三仏1 | |
平群谷・生駒谷の十三仏Ⅱ (生駒市・平群町2) |
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生駒谷・平群谷の十三仏板碑は十三仏の種子が刻まれたものと像容で表出するものがみられ、種子のものとしては生駒市の輿山往生院惣墓十三仏板碑などがある。像容で表出したものとしては平群町の鳴川や椣原墓地・信貴畑の東勧請などの十三仏板碑が、天文年間の作である。 生駒市の石福寺には安土桃山時代の三基の十三仏板碑が名号板碑とともに本堂前に並んでいる。生駒市の大門町には像容と種子を組み合わせた磨崖十三仏(天正11<1583>年)と大福寺十三仏板碑(元亀4<1573>年)がある。 これらの十三仏板碑のほとんどに念仏講の結衆者などの像立者の名前とともに「逆修」の刻銘がみられ、死後の供養のために建立したことがわかる。これらの板碑の十三仏の配列は多くが三列四段で、頂上に虚空蔵菩薩を配している。 |
輿山往生院惣墓の十三仏 | ||
奈良県生駒市有里町 | ||
輿山往生院惣墓十三仏板碑 「室町後期」 |
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南生駒駅の西北に見える丘が生駒六郷の惣墓、輿山惣墓である。その惣墓の丘頂に往生院がある。往生院には関西様式の宝篋印塔としては最古の正元元(1259)年の紀年銘を持つ宝篋印塔や鎌倉時代の五輪塔、五輪卒塔婆など多くの中世の石造物がある。 往生院の北にある墓地には種子で表した十三仏板碑が2基あり、その内の1基は珍しい形式である。高さ116㎝・幅48㎝の船型の板碑で、表面枠取り内に天蓋を飾って、下面に蓮華座上月輪内に十三種子を刻む。その下に地蔵・阿弥陀座像を半肉彫りしている。その左右に「西念逆修 妙性逆修」の刻銘があり、夫婦が自己の供養として造立したと考えられる。 |
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往生院十三仏木製板卒塔婆 「室町時代?」 |
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南生駒駅の西北に見える丘が生駒六郷の惣墓、輿山惣墓である。その惣墓の丘頂に往生院がある。行基の遺言により、その遺体を焼き、遺骨の一部を葬ったのがこの地とと伝えられていて、行基供養塔とされる鎌倉時代の五輪塔が、本堂背面から拝むことができます。 その五輪塔の背後に並べられているのが十三仏を描いたこの十三仏木製板卒塔婆である。 |
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大福寺十三仏板碑 | ||
奈良県生駒市大門町267 「元亀4(1573)年」 | ||
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大福寺は行基の開創とも伝わる寺院で詳細は不明である。現在は奈良では珍しい黄檗宗の寺院で境内の片隅に五輪塔などの石造物が集められていて、その中に十三仏板碑がある。 高さ1mを超える船型の板碑で上部は欠損する。天蓋の一部が残り、その下に蓮華座に座す虚空蔵菩薩と十二仏を半肉彫りする。下面に「元亀四年(1573)癸酉」の紀年銘と「念仏百万遍□ □□一結衆卅四人 為逆修各敬白 三月十五日」の刻銘がある。 |
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令和7年8月22日 薩摩の田の神さあ 鹿児島市7 |
梅ヶ渕の田の神 |
鹿児島市伊敷7丁目 「近代?」 |
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事前調査をして撮影に回っているのですがこの田の神は偶然見つけた田の神です。梅ヶ渕観音摩崖仏を撮影した後、谷沿いの参道を下っていた時、ふと尾根側の石垣の上の民家の庭を見たとき、この田の神を見つけた。「梶原迫の田の神」と同じ托鉢笠のように見えるシキかぶり、メシゲと椀を持った僧型立像の田の神である。ただ素朴で清楚な趣の「梶原迫の田の神」と違って写実的で顔や腰の下に下げたメシゲや椀、僧衣などは写実的で、近代の造立と思われる。梅ヶ渕観音の近くなので「梅ヶ渕の田の神」と名付けて載せた。 |
中福良の田の神 |
鹿児島市小野4丁目8 |
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「中福良の田の神」は幸加木(こうかぎかわ)沿いの住宅地の角の三角地に祀られている。軽石を多く含んでいる凝灰岩の山川石の高さ約120㎝の自然石の半面に像を半肉彫りした田の神である。シキをかぶり |
令和7年8月21日 自宅前にて |
イソヒヨドリ |
玄関を出るとヒ素ヒヨドリの声が聞こえました。斜め向かいの会社の寮の建物に2羽のイソヒヨドリがいました。しばらくするともう1羽が飛んできて3羽になりました。2羽の時はつがいかなと思ったのですが、見直してみると3羽ともオスの若鳥でした。 |
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令和7年8月20日 大隅の田の神さあ 湧水町3 |
鶴丸の神官型の田の神 |
JR吉都線「鶴丸」駅の南側で2体の神官型の田の神を見つけました。一体は座像、もう一体は立像の田の神です。 |
原口後の田の神 |
鹿児島県姶良郡湧水町鶴丸 原口後 |
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JR吉都線「鶴丸」駅の南200mほどの道沿いの覆堂の中に祀られていた。撮影したときにはなかったが、現在は「原口後の田の神」と書かれた立札が隣にたっている。「般若寺の田の神」に比べると小型で風化も進んでいた。膝の上の両手は短く、両手を結んでいない。両手を輪組にしたり、結んだ両手に穴をあけて笏を持たせるようにするのが一般的であるが、この像は左手の穴が開いていてそこに笏を持たせていのかもしれない。 |
原口前の田の神 |
鹿児島県姶良郡湧水町鶴丸 原口前 |
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JR吉都線「鶴丸」駅の南の原口温泉のある原口前の南東の小さな道沿いに神官型立像の田の神が立っている。正面から見ると帯のように見えたのは横から見ると結んだ両手でした。苔が生えていて傷みがひどい状態でした。 |
山下の田の神 |
鹿児島県姶良郡湧水町般若寺899 |
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「山下の田の神」は湧水町般若寺の山下地区集会所の庭にある。シキをかぶり右手でメシゲをかかげ、左手で枡or米櫃を抱えた田の神である。丸い顔とシキは丁寧に彫られているがそれ以外はおおざっぱて、掲げたメシゲのヘラの下の彫られず、そのまま残されていて腕と一体になっている。両腕も胴とくっついた状態で着衣の彩色が残っていなければ体躯は石そのもののような趣である。重量感のある体躯に対して顔は小さく優しい顔が印象的である。 |
令和7年8月16日 三郷町の石造十三仏 | ||
南畑墓地十三仏板碑 | ||
奈良県生駒郡三郷町南畑1丁目 「貞享3年(1686)」 | ||
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(上段)虚空蔵 (中段)阿弥陀・阿しゅく・大日 (下段)勢至・観音・薬師 |
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(上段)普賢・地蔵・弥勒 (下段)文殊・釈迦・不動 |
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信貴山朝護孫子寺の南西の大門池を挟んだ旅館や土産物店が立ち並ぶ一帯は三郷町信貴山西で、その南西に南畑の集落がある。その集落の墓地に鎌倉末期の五輪塔と共に江戸時代の十三仏板碑がある。 高さ155㎝、下幅51㎝の舟形の板碑で蓮華座にのる像高15㎝の像容13諸仏を半肉彫りであらわしたもので、他の江戸時代の十三仏板碑の像と比べると厚肉で写実的な表現の優れた十三仏板碑である。下面に貞享3(1686)年の年紀とともに「奉造立十三仏尊像 施主逆修講中」の刻銘がある。 |
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西勢野墓地十三仏板碑 | ||
奈良県生駒郡三郷町勢野東4丁目 「元禄7(1694)年」 | ||
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勢野墓地は古くからの共同墓地で県道194号線を挟んで東西に分かれている。勢野西墓地には仏師快慶が下図を描いたといわれる近くの春日神社にある一針薬師笠石仏と同じ作風の阿弥陀如来の線彫り像がある。残念ながら風化が進み拓本をとらなければ巧みな彫りはわからない。 その勢野西墓地の入口に江戸時代の六地蔵と共に十三仏板碑がある。高さ165㎝幅50㎝の船形板碑で上部に天蓋を刻み、その下に蓮華座にのる虚空蔵菩薩と四列三段で他の十二仏を半肉彫りで彫ったもので、各像は南畑墓地十三仏板碑のような写実的な表現ではなく素朴な表現となっている。 |
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令和7年8月18日 薩摩の田の神さあ 鹿児島市6 |
川口の田の神 |
鹿児島市五ヶ別府町川口 「安永10(1781)年」 |
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「川口の田の神」は五ヶ別府町川口の永田川沿いに土地改良記念碑と一緒に立っている。腰かけた姿で、コシキをかぶり右手にメシゲを持った僧型の田の神像である。左手は欠けていて持ち物はわからない。丸顔の顔面も大きく破損して目鼻がないが、像の斜め左から撮影した顔は優しそうな顔に見える。すぐ隣に『安永10(1781)年2月24日川口村中』と刻まれた石碑がある。県の民俗資料有形文化財に指定されている。 |
梶原迫の田の神 |
鹿児島市宇宿8丁目7-11 「寛政12(1800)年」 |
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「梶原迫の田の神」は鹿児島市宇宿8丁目にある中間公民館の敷地内にある。丸彫りの僧型の田の神像で袴姿でメシゲと椀を持った像である。かぶったシキが托鉢笠のように見え丸顔でいかにも僧といった趣である。袴の背後の裾の部分に「寛政拾二年申二月吉日」刻銘がある。県の民俗資料有形文化財に指定されている。 |
令和7年8月17日 大隅の田の神さあ 湧水町2 |
四ッ枝後の田の神 |
鹿児島県姶良郡湧水町川西四ッ枝後 |
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「四ッ枝後の田の神」は吉都線「吉松」駅の北0.7㎞の遮断機のない踏切近くに立っている。「鶴丸の田の神」と同じ農民型の田の神立像で、シキをかぶり右手でメシゲをかかげ、左手で飯を持った椀を持つている。無表情な「鶴丸の田の神」と違って顔は優しく微笑んでいて、伝統を引き継ぎながらも近代的な趣もある。「昭和六年三月十四日建之 四ツ枝後郷中 石工 宮田初」の刻銘がある。 |
松山の田の神 |
鹿児島県姶良郡湧水町川西松山 |
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「松山の田の神」は松山集落の西の四差路の角にある。「四ッ枝後の田の神」とそっくりな像で、シキをかぶり右手でメシゲをかかげ、左手で飯椀を持ち、優しく微笑んで立っている。像の後に「記念 昭和七年十一月建立 当年八十才 松井休太郎 当年七十一才 松井ケサ 石工 宮田初」と建立年・施主・石工名が刻まれている。石工は「四ッ枝後の田の神」と同じである。 |
令和7年8月16日 信貴山の石造十三仏(3) | ||
一石一尊十三仏道標 | ||
命蓮塚や多宝塔近くにある上部を山型に造った一尊一石の十三仏の板碑と同じ様式の一石一尊十三仏は信貴山奥の院(米尾山福満寺)と十三峠を結ぶ道沿いの道標として利用された。現在、富貴畑の片富貴から信貴山奥の院の間の道に5基残っている。 | ||
一石一尊十三仏道標(大日如来) 「室町後期」 |
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奈良県生駒郡平群町信貴畑丸尾 | ||
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5基の一石一尊十三仏道道標のうち、信貴山奥の院に近い位置にある道標が信貴畑丸尾の民家の前に立てかけられている大日如来の十三仏板碑である。像の下に「右 十三 、 左 米尾」と刻まれている。摩滅が進み面容ははっきりしないか智拳印らしき印を結んでいる。 | ||
一石一尊十三仏道標(薬師・観音・地蔵) 「室町後期」 |
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奈良県生駒郡平群町福貴畑 | ||
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薬師如来 |
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観音菩薩 |
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地蔵菩薩 |
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道標として利用された命蓮塚にある板碑と同じ様式の一石一尊十三仏は、現在、富貴畑の片富貴から信貴山奥の院の間の道に5基残っている。そのうち3基は南通寺の南の崖下の道沿いに並んで置かれている。左から阿弥陀・観音・地蔵の一石一尊十三仏である。阿弥陀は来迎印の座像・観音は両手で蓮華を持つ座像・地蔵は宝珠と錫杖を持つ座像で共に摩滅が進んでいる。 3基のうち地蔵の十三仏道標と阿弥陀の十三仏道標は片福貴から丸尾への道の途中にあったもので最近移され、観音の十三仏道標の横に並べられた。地蔵・観音の十三仏道標は像の下に、他の十三仏道標と同じように「右 十三 、 左 米尾」と刻まれている。阿弥陀の十三仏道標の刻銘は「すぐ十三、すぐ米尾」となっている。 これらは米尾山福満寺(信貴山奥の院)参拝の道しるべであるとともに十三仏を念じたもので、丁石と似た性格を持つものと考えられる。 |
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一石一尊十三仏道標(弥勒菩薩) 「室町後期」 |
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奈良県生駒郡平群町福貴畑 | ||
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信貴山奥の院(米尾山福満寺)と十三峠を結ぶ道沿いの道標の一石一尊十三仏は、現在、富貴畑の片富貴から信貴山奥の院の間の道に5基残っている。その中で最も北にあるのが片福貴の辻近くの民家の裏の旧道沿いにある。定印風に両手を腹の前で組み宝塔を持つ弥勒菩薩の十三仏板碑で像の下に「右 十三 、 左 米尾」と刻まれている。 | ||
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令和7年8月15日 信貴山の石造十三仏(2) | ||
命蓮塚一石一尊十三仏 「室町後期」 |
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命蓮塚石室十三仏の周りには、上部を山型に造った一尊一石の十三仏の板碑が多数、置かれている。花崗岩製で高さ80㎝ほどのものが多く、舟形の彫り窪みをつくりその中に像容を半肉彫りしたもので、その下面に各像の忌日数を刻む。2組以上の十三仏板碑が奉納されているが、各像の作風は石室十三仏よりも整っていて室町後期のものと思われる。 | ||
一石一尊十三仏(虚空蔵菩薩・薬師如来) 「室町後期」 |
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命蓮塚にある上部を山型に造った一尊一石の十三仏の板碑と同じ様式の一石一尊十三仏は信貴山奥の院周辺にも見られる。その一つが信貴山朝護孫子寺の多宝塔から寳青院に向かう道の途中に2基の一石一尊十三仏が並べられている。共に上部を山型に造った板碑で、舟形の彫り窪みをつくりその中に十三仏の一尊をを半肉彫りしたものある。 向かって左は五仏座像を付した宝冠を戴き、左手に宝珠をのせ、右手で剣を持った虚空蔵菩薩像の板碑で、摩滅もなく穏やかな整った姿である。半分土の中に埋まった右の板碑は像の左半分か欠損し摩滅も進んでいるが、薬壺らしいものを持っているので薬師如来と思われる。 |
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千手院前十三仏板碑 「室町~安土桃山時代」 |
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駐車場から参道をしばらく進むと大きな張り子の寅がある。記念写真のポイントとしても喜ばれている「世界一福寅」である。そのすぐ側の赤門をくぐると参道は2つに分かれる。右斜め下に進むと金運招福の神、「銭亀善神」を祀る銭亀堂知られる千手院の前を通って本堂へ向かう。まっすぐ進むと本坊や成福院の前を通って本堂へ向かう。 この分かれ道を右に入ってすぐ左に十三仏板碑がある。高さ117㎝、幅71㎝で十三仏の配列は4列3段で、頂上に虚空蔵菩薩を配している。上部が欠損し、中程で折れて継ぎ目がある。紀年が不明であるが、室町~安土桃山時代のものと思われる。 |
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令和7年8月10日 薩摩の田の神さあ 鹿児島市5 |
薩摩の田の神さあ11 (鹿児島市2) |
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「薩摩の田の神さあ11」は鹿児島市の田の神像のうち「入佐の田の神」「梶原迫の田の神」「山方の田の神」などの僧型立像の田の神・「山田の田の神」「滝ノ下の田の神」の円筒形につくられ頭巾風のシキをかぶった特異な姿の僧型立像の田の神・狩衣風の上衣をきた神職型の田の神「木ノ下の田の神」などを紹介する。 |
山方の田の神 |
鹿児島市直木町山方 「寛政4(1792)年」 |
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「山方の田の神」は東昌小学校の南の水田地帯の道路下で田んぼに向かって立っている。全面を削った自然石に、深く彫り窪みをつくり、薄肉彫りで、シキをかぶり、メシゲと大きな椀を持った田の神像を表したもので、寛政4(1792)の紀年銘を持つ。 目鼻はやや風化しているが、丸い庶民的な顔つきで、薩摩の僧型立像の田の神像であるが、ずんぐりとした農婦のような体つきで、個性豊かな造形の田の神である。像の右側に台座に「寛政4(1792)年」の刻銘がある。台座には「宝暦三年(1752)」紀年銘があるが盗難等で改めて造立したものと思われる。(リニューアルするにあたって小野重郎著『田の神サア百体』から「山陰の田の神」としていたのを現在の地名に従って「山方の田の神」とした。) |
入佐の田の神 |
鹿児島市入佐町 「享保12年(1727年)」 |
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「入佐の田の神」は山の中の大きな岩の前に安置されている。笠のようなシキをかぶり、肩布のついた中袖の上衣に、長袴を着け、右手にメシゲ、左手にスリコギらしきものを持つた僧型立像の田の神である。白黄色の粗い凝灰岩で彫られていて顔の風化が進んでいるのが惜しい。県の民俗資料有形文化財で「享保12(1727)年」の紀年銘を刻む。 |
令和7年8月13日 近くの水田地帯にて |
コチドリ・ケリ・コサギ |
7日にコチドリを撮影した後、4回、近くの水田地帯に行ったのですが、見るのはコチドリ・ケリ・コサギ・ダイサギといったところで、興味を引く野鳥は見られませんでした。コチドリは雨が降って休耕田の水が増えたときは姿を見せませんでした。その4回で撮った野鳥です。 |
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4回のうちコチドリを撮影できたのはこの時だけです。冬羽のコチドリです。冬羽のコチドリはイカルチドリと紛らわしいです。 |
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ケリはよく見かけます。そのため普段はあまり撮影する気がしませんが、この日はケリしか撮影する鳥はいませんでした。 |
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アカネトンボが群れて飛んでいる休耕田に7羽のコサギがいました。 |
令和7年8月12日 大隅の田の神さあ 湧水町1 |
般若寺の田の神 |
鹿児島県姶良郡湧水町般若寺 「明和九年(1772)」 |
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「般若寺の田の神」は湧水町の北端、宮崎県えびの市と接している般若寺集落の日枝神社の階段横に祀られている。像高76㎝の神官型座像の田の神で県の有形民俗文化財に指定されている。衣冠束帯の座像で膝の上で合わせた両手に穴があるが、祀る時にそこに笏を持たせるためであると思われる。訪れたときは笏らしきものが穴にはめられていた。衣紋等の表現は直線的で写実性に欠けるが神官型の田の神の発祥地とされる隣の宮崎県や伊佐市菱川町ではよく見かける表現である。 |
鶴丸の田の神 |
鹿児島県姶良郡湧水町鶴丸 「安政七年(1860)」 |
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川内川をはさんで般若寺の対岸が鶴丸である。「鶴丸の田の神」はJR吉都線「鶴丸」駅の北の丘陵の端に水田地帯を見下ろすように立っている。右手にメシゲを持ち、左手に左手に米櫃を持ち、裁着け袴(たっつけばかま)をはいた、野良着姿の農夫をそのまま田の神にしたような素朴な田の神像である。米櫃を持った田の神は珍しい。幕末の安政七年(1860)の造立である。案内板にはえびの市からオットテきた(盗んできた)ことが書かれていた。町の有形民俗文化財に指定されている。 |
令和7年8月9日 信貴山の石造十三仏(1) | |
平群谷・生駒谷の十三仏1 (平群町1・三郷町) |
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平群谷は生駒山地と矢田丘陵の間の断層運動によって生じた谷で、生駒川(龍田川)が南流し、沖積層の河谷を形成していて、北部の現生駒市付近では生駒谷という。豪族の平群氏の拠点として古代より栄えた地であり、往馬大社・竹林院・千光寺・信貴山朝護孫子寺・龍田大社など古社寺がある。念仏信仰の先駆けである融通念仏宗の寺院も多くある。そのような平群谷・生駒谷には石造十三仏がこれらの寺院や墓地によく見られる。 大和の十三仏信仰は室町初期から行われていたと思われ、生駒市の往生院には木製板卒塔婆の十三仏画像が残っている。十三仏の石造遺品については、関西では生駒山地周辺に集中している。「平群谷・生駒谷の十三仏」で取り上げる平群谷・生駒谷(奈良県の生駒市・平群町・三郷町)や大阪府の四條畷市などに天文年間(1532~1555年)から江戸時代にかけての石造十三仏が多数見られる。その中でも最も古い遺品が文明11(1479)年の信貴山成福院の石室十三仏である。 平群町の信貴山朝護孫子寺には成福院石室十三仏の他に命蓮上人の墓と伝えられる命蓮塚の石室十三仏あり、その周りには山型の板碑形式の一石一尊の十三仏が多数置かれている。これと同じ形式の一石一尊十三仏は道しるべと利用され、平群町の信貴畑から福貴畑に5基残っている。他に朝護孫子寺には十三仏板碑もある。 三郷町の南畑・勢野西の墓地には江戸時代の十三仏板碑がある。これらの十三仏板碑のほとんどに念仏講の結衆者などの像立者の名前とともに「逆修」の刻銘がみられ、死後の供養のために建立したことがわかる。これらの板碑の十三仏の配列は多くが三列四段で、頂上に虚空蔵菩薩を配している。 |
信貴山の石造十三仏 |
奈良県生駒郡平群町信貴山 |
成福院石室十三仏 「文明11(1479)年」 |
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朝護孫子寺は、奈良県生駒郡の信貴山にある信貴山真言宗総本山の寺で、本尊は毘沙門天。 聖徳太子の創建と伝えられ、太子が寅の年、寅の日、寅の刻に毘沙門天王が出現されることで御加護を受け、物部守屋を討伐したことに始まる。そのため、張り子の虎が至る所に置かれている。「信貴山の毘沙門さん」、「信貴山寺」などと呼ばれ、”商売繁盛”、”必勝祈願”、”金運招福”、”合格祈願”など庶民信仰の場として広く親しまれ、参拝者が絶えない。成福院は朝護孫子寺の塔頭の一つで「如意融通宝生尊(融通さん)」を祀る。 石室十三仏は元は仁王門の近くの成福院墓地にあったもので、現在は境内の庭に置かれている。板石の上に三枚の板石を立てて、上に唐破風の屋根を乗せて石室としたもので、奥壁には中央に梵字「ア」を刻み、その左右上下に、虚空蔵・阿しゅく・大日・阿弥陀の各像を浮き彫りにしている。左の壁には観音・勢至・薬師・弥勒の4像と僧形像、右の壁には地蔵・普賢・文殊・釈迦・不動を配置している。梵字「ア」と僧形像が加えられた十三仏である。石室の総高は103㎝、奥行き67㎝で各像の像高は約19㎝で、十三仏としては奈良県最古の文明11(1479)年の刻銘がある。 |
命蓮塚石室十三仏 「江戸時代」 |
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大きな張り子の寅「世界一福寅」の手前に絵馬堂があり、その向かいの階段が開山堂への道である。開山堂は開祖の聖徳太子や中興の祖、命蓮上人などを祀るお堂で江戸時代に建立された。その開山堂の裏に命蓮上人の墓と伝えられる命蓮塚がある。 信貴山中興の祖、命蓮上人は、醍醐天皇の病気平癒の祈願をし、毘沙門天の加護により、天皇の病気を癒やした僧で、このことにより「朝護孫子寺」の勅号を賜ったという。命蓮上人に関わる物語については「源氏物語絵巻」と並ぶ日本の絵巻物の傑作、国宝である「信貴山縁起絵巻」に描かれている。 その命蓮塚の上に石室十三仏が祀られている。この石室十三仏は成福院十三仏石室と同形式で、後世に模倣して造られたものと思われる。総高88㎝で成福院のものよりやや小さく、諸像の配置も少し異なるが、僧形像を含めて同じ尊像が浮き彫りにされている。 |
令和7年8月10日 薩摩の田の神さあ 鹿児島市4 |
森園の田の神 |
鹿児島市春山町 「寛保3(1743)年」 |
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「森園の田の神」は旧松元町の春山町の寺脇公民館のそばにある。高さ83㎝のメシゲと飯椀を持った丸彫り像の田の舞型の田の神で、メシゲを掲げた右腕と胴体の間と股下をくり抜き、より立体的で動きのある表現となっている。大きく膨らんだ裁着け袴をはき、肩まで垂れたシキをかぶっている。「札下の田の神」と同じく八角台石、雲竜紋が彫られた台石など立派な台座である。八角台石に「寛保3(1743)年」の紀年銘がある。鹿児島市の有形民俗文化財に指定されている。 |
蕨野の田の神 |
鹿児島市星ヶ峯三丁目9(第三公園内) 「宝暦12(1762)年」 |
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蕨野の田の神は星ヶ峯ニュータウンの第三公園内にある。もと五ヶ別府町蕨野にあったものでニュータウン建設によって、現在地に移された。右手でメシゲを掲げ、左手で飯椀を持っていたので、農民が田の舞を踊る田の舞型の田の神と思いこんでいた。リニーュアルに当たって見直してみると、胸に頭陀袋を下げているのに気が付きました。これは明らかに村々を托鉢して巡る僧の姿をあらわした旅僧型の田の神である。頭陀袋を下げている旅僧型の田の神は鹿屋市など大隅半島によくみられるが持ち物はスリコギとメシゲなので、この像の頭陀袋を見落としていた。角台石に「宝暦十二壬午 十月吉日 奉寄進 □申二才中」の刻銘がある。□字は「庚」と考えられ、庚申供養碑として田の神が建てられたことがわかる。鹿児島市の有形民俗文化財に指定されている。 |
中山町の田の神 |
鹿児島市中山町2225-4 「大正9年(1920)」 |
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「中山町の田の神」は 「自由が丘入り口」交差点にあるコンビニ(現在はデンタルクリニック)の駐車場の隅にまつられていた。シキを頭巾のようにかぶり左手に飯を盛った椀を持ち、左手でメシゲを掲げている。胸に頭陀袋を下げた旅僧型の田の神である。目鼻が欠けているため古い田の神と思ったが、背後に回ってみると「大正9年(1920)」の刻銘があった。 |
令和7年8月9日 石造十三仏 | ||||
石造十三仏 | ||||
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椣原墓地十三仏板碑 | 大念寺十三仏 | 羽黒山磨崖十三仏 | 深谷十三仏 | 石福寺十三仏板碑 |
十三仏とは死者の追善の法事を修めるとき、その年忌に配当された十三の如来・菩薩・明王である。十三仏は死語の仏事をあらかじめ自分で営む逆修仏事のために成立したもので、十三仏板碑などの銘刻には「逆修」の文字が多く見られる。十三仏の成立起源については、諸説があるが、十王思想から発達したとの説が最も有力である。「地蔵十王経」による十仏十王の本地仏思想があるが、この十仏十王に三仏三王を加えて十三仏信仰が成立したと推定される。下記の表は、基準的な十三仏の配置を示したものである。
十三仏の成立は死者の追善を行なう忌日の思想が一般化された、南北朝時代と考えられる。 石造十三仏の多くは板碑で一石で十三仏を種子または容像であらわす。最も古いものは千葉県印旛市吉高の羽黒十三仏堂の種子で表された板碑で南北朝時代後期の永和4(1378)年の作である。容像を刻んだものでは、山口県山口市徳地深谷の深谷十三仏が最も古く応永14(1407)年の刻銘を持つ。深谷十三仏は一石一尊仏の十三仏である。 関東の十三仏板碑は種子で表すものが多く、南北朝時代末期から室町時代にかけて多数造立された。奈良県では信貴山成福院十三仏石室が最も古く、文明11(1479)年の刻銘が残る。関西の十三仏板碑は容像を刻んだものが多く生駒山から信貴山の山麓(奈良県生駒市・平群町、大阪府四條畷市など)に天文年間(1532~1555年)造立のものを中心に多数見られる。 江戸時代になると容像を刻んだ石造十三仏は全国で、墓地入口等につくられるようになり、江戸時代後期には一石一尊仏の立像の十三仏も多くつくられるようになった。 十三仏信仰の最も古い石造物としては十二尊の像を刻んだ岡山県高梁市有漢町の保月六面石憧があげられる。伊行恒(井野行恒)の作で「初七日より十三年の忌日に相当する諸尊十二仏を彫り、大菩提心を証ずる為に造立した」との刻銘があり、十三仏成立の過程を示す貴重な遺品となっている。 このホームページでは「生駒谷・平群谷の十三仏Ⅰ・Ⅱ」として、信貴山の成福院十三仏石室 ・椣原墓地十三仏板碑など奈良県の生駒市・平群町・三郷町の十三仏を紹介する。また、保月六面石憧・深谷十三仏・奈良県天理市苣原の大念寺十三仏など各地の十三仏を「全国各地の十三仏Ⅰ・Ⅱ」として紹介する。 |
石造十三仏 INDEX |
参照文献
「日本石仏事典」 | 庚申懇話会遍 | 雄山閣 |
「奈良県史7 石造美術」 | 清水俊明 | 名著出版 |
「生駒市石造文化財 生駒谷」 | 生駒市教育委員会 | 生駒市教育委員会 |
「平群町石造文化財 平群谷」 | 平群町教育委員会 | 平群町教育委員会 |
令和7年8月7日撮影 近くの水田地帯にて |
コチドリ |
18日続いた猛暑日が終わり、雨も降り少しは田んぼに水が入ったようなので近くの水田地帯に行きました。ケリ・コサギ・コチドリがいました。コチドリは3か所の水の張った休耕田にいました。コチドリの多くは若鳥でした。 |
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令和7年8月6日 薩摩の田の神さあ 指宿市5 |
中福良の田の神 |
鹿児島県指宿市十二町柳田 |
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「中福良の田の神」は「麓上の田の神」の並ぶ大型の立像でやさしそうな瓜実顔で、長袴をはいてツトを背負った田の神である。袖からでた手は損傷し持ち物はわからない。うりざね顔、一部破損したシキが髪のように見え一見すると女性の田の神にも見える。隣には頭部と手を失った田の神石像が置かれている。 |
大坪尻の田の神 |
鹿児島県指宿市西方二月田大坪尻 |
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「大坪尻の田の神」は介護老人保健施設の指宿温泉ケアサポートの西に広がる荒れ地の中にある。高さ62㎝の船型の石材の前面を厚肉彫りした田の神像で長い袴をはいている。両手で何かを持っているようであるが破損が進み何かわからない。 一見すると舟形光背を背負った地蔵菩薩立像に見える。指宿市のホームページの「いぶすきふるさとマップ」では持ち物は宝珠のようなものと記載しているのでより地蔵の可能性があるようにも思えたが、側面からからこの像を見ると、光背と思える上の部分は頭の上に乗るように彫られていて、シキをかぶっていることがわかり、やはり田の神像のようである。像の隣に裁着け袴をはいた下半身だけの田の神像の残骸がある。 |
玉利の田の神 |
鹿児島県指宿市指宿市東方玉利 |
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「玉利の田の神」は民家の他、老人介護施設・ガラス工房・窯元などが点在する畑作地の畑の中にある。大きなシキをかぶった座像の田の神像である。目鼻や手首、かぶったシキの前面など破損が目立つがしっかりとしたフォルムは残っている。両手が壊(こわ)れて、持ち物がわかない。風化が進み、その都度修理されていたようで修復のあとが残る。横に田の神像と同じく山川石でつくられた風化の進んだ灯篭と思われるものが残っている。 |
令和7年8月5日 大隅の田の神さあ 姶良市蒲生町2 |
白男上の田の神 |
鹿児島県姶良市蒲生町白男上 |
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「白男上の田の神」は県道211号線沿いの立派な覆屋にまつられている。たすき掛けで、右手にメシゲをかかげ左手に飯椀を持って田の神舞を踊る姿を表した像である。顔は白く、唇は赤く、タスキは朱色に化粧されていて、タスキの鮮やかな朱色が映える。 |
畠田の田の神 |
鹿児島県姶良市蒲生町久末畠田 「元文4(1739)年」 |
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畠田の田の神はキノコ状に広がった笠のようなシキをかぶり、右手にメシゲを左手に宝珠を持った像で、切れ長の鋭い目で、頭から肩にかけて長い総髪がなびかせている。胸から腹まではだけた上衣に裁着け袴、背にはワラヅトを背負う。シキのらせん状の編み目や目鼻の大きい厳しい面容、着衣などの表現は荒々しく力強く、山で修行をする山伏を思わせる魅力ある像である。元文4(1739)年の作。 |
中福良の田の神 |
姶良市蒲生町白男中福良 「安永9年(1780)」 |
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中福良の田の神は入来町によく見られる、自然石や四角の石材に舟形や四角形の彫りくぼみを作り、右手にメシゲ、左手に閉じた扇子を持ち裁着け袴の着た田の神を浮き彫りする石碑型の田の神像である。安永9年(1780)の作。 |
令和7年8月4日 薩摩の田の神さあ 鹿児島市3 |
肥田の田の神 |
鹿児島市伊敷町肥田 「寛政12(1800)年」 |
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「肥田の田の神」は住宅の門前の高さ150㎝の一枚岩に深く舟形の彫り込みをいれ、その中に像高50㎝の田の神を半肉彫りしたものである。大きな麦わら帽子のようなシキをかぶりメシゲと椀を持ってしゃがみ込んでいる。像の左に「寛政十二年」、右に「奉寄進此村二才中」の刻銘がある。鹿児島市の有形民俗文化財に指定されている。 |
札下(ふだもと)の田の神 |
鹿児市山田町札下 「享保12(1727)年」 |
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「札下の田の神」は手や顔面などが破損し、風化が目立つ田の神であるが、動きのある像で持ち物はわからないが田の神舞を舞う姿を表したものである。頭巾のようなシキをかぶり、長袴をつけ左足をを少し前に出して足を開き、腰をややひねってすらっと立っている。2つ正方体と八角柱、雲竜紋が彫られた台座と4段の立派な基壇の上に乗っている。八角柱の基壇に「享保12(1727)年」の紀年銘がある。鹿児島市の有形民俗文化財に指定されている。 |
令和7年8月3日 薩摩の田の神さあ 指宿市4 |
木ノ下の田の神 |
鹿児島県指宿市東方木ノ下 |
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「木ノ下の田の神」は像高85㎝で小さなシキをかぶり、裁着け袴をはいた田の神である。手首部分の破損が進みわかりにくいが、右手はメシゲを持ち、左手はお椀様なものをもっている。市文化財の「成川の田の神」とよく似たしっかりとした造形の田の神像である。横には市の文化財の島津斉彬公堀井碑2基がある。 |
成川の田の神 |
鹿児島県指宿市山川成川 |
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成川の田の神1 「明和8年(1771)」 |
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成川の田の神2 「大正15年(1926)」 |
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指宿市山川町成川には市の指定有形民俗文化財の成川の田の神がある。明和8年(1771)に像立されたもので、シキをかぶり裁着け袴をはいた農民風の田の神で、説明板には右手にメシゲ、左手に小さなだんごのような物を持つとされているが破損が進みよくわからない。痛みがひどいが安定感のあるしっかりとした造形の田の神像である。この像の左には顔も体型も丸いメシゲと椀を持つ田の神像がある。右の像を参照して造立されたと思われる。台座に大正15年(1926)の紀年銘がある。 |
令和7年8月2日 大隅の田の神さあ 姶良市蒲生町1 | |
大隅の田の神さあ2 (姶良市蒲生町・湧水町) |
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大隅の国の多くは大隅半島に位置するが、大隅半島以外では姶良市・霧島市・伊佐市・湧水町の姶良・伊佐地域が大隅の国にあたる。「大隅の田の神さあ2」はその中で姶良市蒲生町と姶良郡湧水町の田の神を取り上げる。蒲生町には田の舞型の田の神としては最も古い「漆の田の神」(県指定有形民俗文化財)や自然石の前面を平らにし、舟形などに彫り窪みを作り、浮き彫りや半肉彫りにした田の神像である「下久徳の田の神」(県指定有形民俗文化財)・右手にメシゲを左手に宝珠を持ち、頭から肩にかけて長い総髪がなびかせている山伏を思わせる「畠田の田の神」など優れた個性的な田の神がある。 湧水町の田の神では衣冠束帯姿の神官型の田の神である「般若寺の田の神」(県指定有形民俗文化財)やメシゲを持ち裁着け袴をはいた、野良着姿の農夫をそのまま田の神にしたような素朴な「鶴丸の田の神」などを紹介する。 |
漆の田の神 |
鹿児島県姶良市蒲生町漆 「享保3年(1718)」 |
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「漆の田の神」は県指定の有形民俗文化財でメシゲを両手で捧げた田の神舞型の像である。享保3年(1718)の紀年銘を持ち、田の舞型の田の神としては最も古い。石材の半分は自然石で、前面に丸彫りに近い厚肉彫りで、両手でメシゲを斜めに持ち、左足を膝を立てるように踏み込み、田の舞をを踊る神職の姿を表している。シキの笠は大きく厚く、胸をはだけてタスキを掛け、長袴を着けている。顔はつぶれてわからないが神職と言うより田の神舞を踊る農民といった風情である。石の持つ量感を活かした重厚感のある田の神像である。県の有形民俗文化財に指定されている。 |
下久徳(しもぎゅうとく)の田の神 |
鹿児島県姶良市蒲生町下久徳三池原 「明和五年(1768)」 |
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自然石の前面を平らにし、舟形などに彫り窪みを作り、浮き彫りや半肉彫りにした田の神像は薩摩地方北部から姶良市にかけてよく見られる。その中でも県の有形民俗文化財に指定されているのが「下久徳の田の神」である。シキを被り、袂のない上衣に裁着け袴を着た農作業姿の田の神である。顔がつぶれているのが惜しい。明和五年(1768)の作。 |