令和7年6月25日 近くの水田地帯にて |
トビ |
久しぶりに近くの水田地帯に行きました。トビが上空を旋回していました。タウナギのようものを捕まえていました。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
令和7年6月24日 薩摩の田の神さあ 川内市の田の神4 |
楠元下の田の神 |
鹿児島県薩摩川内市楠元町 「万延元年(1860)」 |
![]() |
![]() |
![]() |
川内市楠元町の県道394号線の道沿いにある大きな耕地整理記念碑の近くに阿弥陀石仏とともにまつられている。大黒天融合型の田の神であるが、大黒天の面影はない。大黒天との共通点は俵に乗ることと小槌を持ている点だけである。高さ190㎝の角柱に上部を花頭窓にした深い彫り窪みをつくり、ナポレオン帽のような帽子をかぶり右手にメシゲを左手に小槌を持ち米俵の上に立つ他の神像を半肉彫りしたもので、見事に化粧されている。像の左右に「萬延元年庚申十月廿六日献元之」の銘がある。 |
中村神社の田の神 |
鹿児島県薩摩川内市中村町飯母 |
![]() |
![]() |
![]() |
中村町飯母の中村神社は山の麓にある小さな神社で、赤い鳥居が道沿いに立っている。その鳥居から少し離れた道沿いの斜面に「中村神社の田の神」がある。「楠元下の田の神」と同じ大黒天融合型の田の神である。像高55㎝の丸彫り像でシキをかぶり右手で小槌を左手でメシゲを顔の横に掲げ、横に並べた4個の米俵の上に立つ。 |
令和7年6月23日 奈良市内の石仏 東大寺周辺の石仏 |
奈良市内の石仏(7) 東大寺周辺の石仏 |
![]() |
東大寺二月堂裏の谷沿いの自然石に地蔵立像が線刻されていて「まんなおし地蔵」と呼ばれている。鎌倉後期の作である。東大寺大仏殿の北側には正倉院があり、その北側には知足院・空海寺・五劫院などの寺院があり、多くの石仏が祀られている。空海寺の本堂前には地蔵十王石仏、五劫院の墓地の入口の小さな覆堂、見返り地蔵と呼ばれる地蔵が安置されている。 |
まんなおし地蔵 |
奈良市雑司町 「鎌倉時代後期」 |
![]() |
![]() |
東大寺二月堂の北東の谷沿いに「まんなおし地蔵」と呼ばれる地蔵石仏がある。高さ約120m、幅150m程の自然石の表面に像高約70cmの地蔵立像を線彫りで刻み出している。大きな頭光背を背負う。風化していてわかりにくいが、右手に錫杖を持っているように見える。 地蔵の左右には閻魔と、その従者を線彫りする。「まんなおし」とは「不運を幸運に転ずること。縁起直し。」という意味で、この地蔵は現在も信仰を集めているようで煤の跡が残る。 |
空海寺地蔵十王石仏 |
奈良県奈良市雑司町167 「室町時代」 |
![]() |
![]() |
![]() |
空海が草庵を営み、空海作の「阿那地蔵尊」を本尊として石窟に安置したのにはじまるとされる寺院で、俗に「穴地蔵」と呼ばれている本尊の地蔵石仏は秘仏で60年に一度の公開。 本尊の地蔵菩薩石像は 俗に「穴地蔵」と呼ばれている。 その空海寺の本堂の前に高さ180㎝の船型光背を背負った厚肉彫り地蔵十王石仏が蓮華座の上に立っている。光背の左右に浮き彫りの十王像を配している。地蔵の像高は133㎝で白毫寺や新薬師寺の地蔵十王像とは違い錫杖・宝珠の地蔵像である。他の地蔵十王石仏と同じく、地蔵尊によって地獄からの救済を願って造立されたものである。 台石や線香立石に矢田山・矢田地蔵尊等の刻銘があり、もとは大和郡山の矢田寺(金剛山寺)にあったことがわかる。 |
五劫院の石仏 |
奈良市北御門町24 |
五劫院は鎌倉時代、重源上人が中国から将来した五劫思惟阿弥陀仏像を本尊とする華厳宗の寺院である。鎌倉時代の重源上人についで江戸時代、東大寺大仏殿を再建した公慶上人の墓が、本堂裏の墓地にある。その墓地の入口の小さな覆堂に2体の等身大の地蔵石仏が安置されている。 |
五劫院見返り地蔵 「永正13(1516)年 室町時代」 |
![]() |
![]() |
2体の向かって左の像が見返り地蔵である。高さ約2mの船型光背形に造った安山岩に高さ152㎝の地蔵立像を厚肉彫りしたもので、錫杖を軽く肩に当てて、右足を踏み出して、顔をやや左に見返り、体を斜めに向けて歩く姿を表した地蔵である。衣の裾は後にたなびいている。 遊行する地蔵が、救済に漏れた衆生を、見身を振り替えして救済する姿を表したものである。像の左側に永正十三(1516)年の刻銘があり、室町中期の作であることがわかる。 |
五劫院地蔵石仏 「室町時代」 |
![]() |
![]() |
覆堂の2体の地蔵石仏の向かって右の像がこの像である。花崗岩製で見返り地蔵と同じく約2mの船型光背を背負った像高150㎝ほどの厚肉彫り像である。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ通常の姿の地蔵である。鎌倉期の地蔵のような力強さはないが、繊細な表情の、室町時代としては優れた出来栄えの地蔵である。 頭上に地蔵の種子「ア」を刻み、右に「三界万霊」、左に「念仏講中」と多数の法名の刻銘がある。 |
令和7年6月22日 薩摩の田の神さあ 川内市の田の神3 |
宮田橋の田の神 |
鹿児島県薩摩川内市陽成町中麦 「天保12年(1841)」 |
![]() |
![]() |
![]() |
石材は四角形であるが、一条殿の田の神とほぼよく似た表現の男女並立型浮き彫り像である。 |
春花(はるけ)橋付近の田の神 |
鹿児島県薩摩川内市陽成町春花 |
![]() |
![]() |
![]() |
「春花橋付近の田の神」は春花橋付近の民家へ続く道の近くの斜面に祀られている。高さ60㎝ほどの丸彫りの女子像型の田の神像で、椅子のようなものに腰掛けている。日本髪姿で着物を着て、右手にメシゲを持っている。おでこが広く小さな目でおちょぼ口の可愛い姿の田の神像である。 |
令和7年6月20日 竹成大日堂五百羅漢(1) |
![]() 竹成大日堂五百羅漢 ![]() |
![]() |
御在所山の麓、湯の山温泉で知られる菰野町の北部、菰野町竹成の大日堂境内に三重県の史跡に指定されている五百羅漢石仏がある。大日堂は文明13(1481)年作の大日如来像(県指定有形文化財)を本尊とする寺で現在本尊を納めた小さなお堂と、前庭築山の五百羅漢石仏が残るのみである。 五百羅漢石仏は高さ約7mの四角錐の築山をつくり、頂上に金剛界大日如来と四方仏を置き、その周りに如来・菩薩・羅漢をはじめとした500体ほどの石像を安置したもので、七福神や天狗、猿田彦などもあり、大小様々な石仏・石神が林立する様は壮観で、見応えがある。(現在、廃仏毀釈などて一部破損し、468体の石像が遺っている。) この石仏群は江戸末期、当地竹成出身の真言僧神瑞が喜捨を求めて完成したもので、神瑞和尚は中興開山照空上人として尊崇されている。発願は嘉永5(1852)年2月で、桑名の石工、藤原長兵衛一門によって慶応2(1866)年に完成した。 |
築山東面の石仏 | |
現在、五百羅漢石仏の築山の周りは柵で囲まれていて、入口は東面にある。入口を入ると先ず目につくのが両脇に童子を従えた大きな延命地蔵石仏で、その後には大般若経などの経巻を入れた経箱を背負う玄奘三蔵像が置かれている。少し登ると宝塔を持つ弥勒菩薩、また、大きな舟形の石に厚肉彫りに彫りだした四天王などが東面では大型の石仏である。また、小型であるが苦行釈迦や出山釈迦・誕生釈迦・三宝荒神などが羅漢に混じってある。また、東面の右隅にある空を仰ぐ旅人姿の像は俳聖、松尾芭蕉像ではないだろうか? | |
竹成五百羅漢(1) 延命地蔵 | |
![]() |
|
![]() |
|
五百羅漢石仏の築山の入り口にある地蔵石仏である。この石仏群ではもっとも大型の石仏の1つで、角を丸めた台形の石材いっぱいに厚肉彫りの地蔵菩薩坐像と左右に地蔵に片手を添えた童子を厚肉彫りする。左手で宝珠を膝の上で持ち、右手は錫杖を持てるように指を輪組にした延命地蔵である。 | |
竹成五百羅漢(2) 玄奘三蔵像 | |
![]() |
|
![]() |
|
玄奘三蔵はインドに渡り膨大な経典類を中国にもたらし、法相宗を開いた唐の僧侶で三蔵法師として知られている。この像は大般若経などの経巻を入れた経箱を背負う法師として表現されている。石仏としては玄奘三蔵像は珍しく他に広島県三原市の白瀧山十六善神磨崖仏の像が知られているぐらいである。白瀧山の玄奘三蔵像は経箱を背負い右手で錫杖を持ち左手でを経巻を持つが、竹成五百羅漢の像は両手で経巻を持つ。これは『仏像図彙』の玄奘三蔵像と同じで『仏像図彙』を参照して制作されたと思われる。(※『仏像図彙』は江戸時代に土佐秀信によって描かれた仏画集) | |
竹成五百羅漢(3) 弥勒菩薩 | |
![]() |
|
弥勒石仏は二重円光背を背負った厚肉彫り像で、宝冠を被り、腹前で宝冠を持った像である。 | |
竹成五百羅漢(4) 四天王 | |
![]() |
|
広目天 | |
![]() |
|
持国天 | |
![]() |
|
増長天 | |
![]() |
|
多聞天 | |
四天王像は東面の中段付近のそれぞれ離れた場所に置かれていて、大型で東面ではよく目立つ石仏である。各四天王は大きな自然石に火炎をまとった輪光を背負った厚肉彫り像で、多聞天は山型の石いっぱいに深い彫くぼみを彫って厚肉彫りしている。 | |
竹成五百羅漢(5) 苦行釈迦 | |
![]() |
|
竹成五百羅漢の苦行釈迦はガンダーラの苦行釈迦のように、結跏趺坐し正面をしっかり向いた孤高の姿の像ではなく、半跏像で、膝の上にやせた細い手を置いて、弱々しく下を向いた姿である。 | |
竹成五百羅漢(6) 芭蕉像 | |
![]() |
|
![]() |
|
![]() |
|
曾良像 | |
芭蕉像は、風呂敷を背負った旅姿の像で上を見上げている。奥の細道の旅の一場面と思われる、芭蕉像の近くには荷物をひっかけた杖または棒のようなもの肩に担いだ弟子の曾良の像もある。 |
令和7年6月19日 奈良市内の石仏 京終阿弥陀三尊石仏・若草山周辺の石仏 |
奈良市内の石仏(5) 京終地蔵院阿弥陀三尊石仏 |
奈良市北京終町1 「鎌倉後期」 |
![]() |
![]() |
![]() |
北京終町の街中に京終地蔵院と呼ばれる小さな寺院がある。その寺院入り口の覆堂に鎌倉時代後期の阿弥陀三尊石仏が祀られている。 高さ180㎝ほどの大きな船型光背をつくり、阿弥陀三尊像を厚肉彫りしたもので、阿弥陀如来は像高130㎝の来迎印の立像で蓮弁を刻んだ頭光背を負う。合掌する勢至菩薩と蓮台を持つ観音菩薩は像高70㎝の立像で主尊と同じく蓮弁を刻んだ頭光背を負う。 鎌倉初期や中期の像に比べると力強さに欠けるが三尊とも穏やかな面相で、衣紋の表現も流麗である。 |
奈良市内の石仏(6) 若草山周辺の石仏 |
![]() |
若草山の山麓の南に水谷川(みやがわ)が流れている、その川沿いに春日山原始林へと続く林道(春日山遊歩道)になっている。入口ゲートの少し手前の山麓の小高いところに、六角石柱に阿弥陀如来の仏頭を彫った仏頭石と洞の地蔵と呼ばれる倒れたままの鎌倉時代の地蔵石仏がある。また、若草山山頂近くの十国台には船型光背に阿弥陀・弥勒・十一面観音を半肉彫りした鎌倉時代の十国台三体仏がある。 |
仏頭石 |
奈良県奈良市春日野町 「室町時代」 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
十一面観音 |
![]() |
准胝観音 |
![]() |
如意輪観音 |
![]() |
聖観音 |
![]() |
千手観音 |
![]() |
馬頭観音? | 若草山の南麓の春日山遊歩道の入口ゲートの少し手前の山麓の小高いところに、仏頭石と洞の地蔵と呼ばれる倒れたままの地蔵石仏がある。 仏頭石は六角石柱に阿弥陀如来と思われる仏頭を丸彫りし、柱の各面に観音を刻んだ石仏で、頂上の仏頭は阿弥陀如来をあらわし、阿弥陀信仰に付随する六観音を配した珍しい石仏である。鎌倉時代からの花崗岩を刻む確かな技術の伝統が息づいた石仏である。 |
洞の地蔵石仏 |
奈良市春日野町 「建長6(1254)年」 |
![]() |
![]() |
![]() |
若草山の南麓の春日山遊歩道の入口ゲートの少し手前の山麓の小高いところに、仏頭石と倒れたままのこの地蔵石仏がある。仏頭石は六角石柱に阿弥陀如来と思われる仏頭を丸彫りし、柱の各面に観音を刻んだ石仏で室町時代の作である。 地蔵石仏は、高さ110㎝の板状の安山岩自然石の表面に、蓮華座に立ち、二重円光を負い、右手に錫杖、左手に宝珠を持った像高75㎝の地蔵菩薩を薄肉彫りしたものである。摩滅が少なく引き締まった顔やのびやかな衣紋表現が鮮明に残っている。鎌倉中期の建長6(254)年の紀年銘が残る。 |
十国台三体仏 |
奈良市川上町 「鎌倉後期」 |
![]() |
![]() |
![]() |
奈良の若草山の頂上に近い十国台には、高さ135㎝、幅100㎝の広めの船型光背を造って、阿弥陀を中尊に向かって左に弥勒仏・右に十一面観音を半肉彫りした、十国台三体石仏がある。 阿弥陀如来は右手をあげ、左手を下げた来迎印の立像、向かって右の十一面観音観音は立像は、念珠と蓮華甁を持つ。左の如来立像は右手をあげて施無畏印、左手を下げていて、弥勒仏と思われる。鎌倉後期の作。 |
令和7年6月18日 薩摩の田の神さあ 川内市の田の神2 |
一条殿(いちじょうでん)の田の神 |
鹿児島県薩摩川内市陽成町一条殿 「天保12年(1841)」 |
![]() |
![]() |
![]() |
一石双体の男女並立の田の神像の最も古い作例は、薩摩川内市水引町の「湯原の田の神」で寛保3(1743)の紀年銘がある。それ以外で18世紀の作例は見られない。私の見た一石双体田の神像では文化141817)年の「宮内橋の田の神」が次に古い作例である。天保年間の田の神はかなり見られ、薩摩川内市陽成町には天保12年(1841)の刻銘を持つよく似た表現の一石双体田の神像が3体ある。この「一条殿の田の神」と「宮田橋の田の神」・「中麦の田の神」である。 「一条殿の田の神」は先を三角形にした高さ118㎝横101㎝の五角形の板状の石材に窪みをつくり、その中に右に陣笠のようなものを被り、裃・袴姿で右手にスリコギを持つ男神とシキをかぶり右手でメシゲを持つ女神を浮き彫りしたものである。深い窪みに浮き出すような彫りであるが、「本川白谷の田の神」のような立体感はなく絵画的な表現に特色があり、絵馬のように見える。 |
中麦の田の神 |
鹿児島県薩摩川内市陽成町中麦 「天保12年(1841)」 |
![]() |
![]() |
![]() |
「中麦の田の神」は「一条殿の田の神」とよく似た男女二神並立の田の神像である。高さ105cm、幅87cm、幅42cmの駒形にした石材に駒形の彫くぼみを作り、左にシキを被っ被り着物てメシゲを持った女神と陣笠を被ったきねを持った袴姿の男神を板状に浮き彫りにしたものである。像の脇にイボタノキが植えられていて、近所の人が娘の良縁を願って植えたという。 |
令和7年6月17日 奈良市内の石仏 十輪院の石仏 |
奈良市内の石仏Ⅱ |
![]() |
奈良町にある十輪院は、石龕内に安置された鎌倉時代の地蔵石仏を本尊とする寺院で、本尊以外にも多くの古い石仏や石造物があり、奈良の石仏鑑賞では見逃せない寺院である。 東大寺周辺や若草山周辺にも仏頭石や三国台三体仏、空海寺地蔵十王石仏、五劫院見返り地蔵などバラエティーに富んだ石仏がある。 般若寺はコスモスをはじめとしてヤマブキ・アジサイなど花の寺として知られている。この寺には鎌倉時代、宋より渡来し活躍した石工の伊派の祖、伊行末の作の十三重石塔がある。江戸時代の西国三十三所観音石仏もあり、夏から秋にかけて美しく咲いたコスモスに映えた石塔や石仏の姿は美しい。 |
魚養塚如来像 |
「年代不明」 |
![]() |
![]() |
![]() |
本堂の右奥にある御影堂の東隅に魚養塚(うおかいづか)とよばれる小さな塚があり、十輪院の開祖、吉備真備の長男で弘法大師の書道の師とされている朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)とされている。真偽のほどはわからない。 方形古墳状になっていて、北側に横穴式の小さな石室があり内部を覗くと、奥壁に如来像が刻まれている。右手で袈裟の隅を握っているように見え、阿閃如来と考えられる。 |
不動石仏 |
「鎌倉中期」 |
![]() |
![]() |
![]() |
境内の庭の北側の小堂内に鎌倉中期の作で高さ2mほどの板状石の全面に半肉彫りされた不動立像がある。燃えさかる火焔を光背として表し、両眼を見開いて、右手に剣を、左手に羂索を持つた迫力のある不動石仏である。火焔には赤と黄の彩色された跡が残る。 |
合掌観音石仏 |
「鎌倉時代」 |
![]() |
![]() |
![]() |
十輪院合掌観音石仏(鎌倉中期)は高さ2mの板状の花崗岩に等身大の合掌する観音像を薄肉彫りしたもので、斜めに傾けた顔の部分は半肉彫りで、張りがあり、顔を姿は気品があり、魅力的な石仏である。境内の庭の北側不動石仏の覆堂の近くにある。 |
十三重層塔四方仏 |
「鎌倉時代」 |
![]() |
阿弥陀如来・釈迦如来 |
![]() |
釈迦如来 |
![]() |
薬師如来 |
![]() |
薬師如来・弥勒如来 |
南門を入った右の庭園の中央に鎌倉時代の十三重石塔がある。初重軸部の四方に四方仏を刻む。軸部の下方に蓮華座を薄肉彫りして、その上に二重円光背状の彫り窪みをつくり、その中に坐す如来像を半肉彫りしたもので、東面、薬師・南面、釈迦・西面、阿弥陀・北面、弥勒の四仏である。 |
令和7年6月16日 薩摩の田の神さあ 川内市の田の神1 |
薩摩の田の神さあ4 (薩摩川内市 川内市1) |
![]() |
薩摩川内市は、平成16年、川内市と薩摩郡の樋脇町、東郷町、入来町、祁答院町などの1市4町4村が合併して誕生した。「薩摩の田の神さあ4と5」は平成の大合併前の川内市の田の神のページとなる。川内市の田の神では、旧川内市は道祖神のように男女二神を並立して一石の前面を枠を作り浮き彫りにした男女並立型浮き彫り像の田の神像(道祖神的並立型)が多くある。 この道祖神的並立型の田の神は川内市と隣の串木野市に限られていてこの地方独自のものである。両市で44基確認されている(川内歴史資料館「川内の田の神」参照)。一石双対浮き彫り像の道祖神的並立型の田の神像は烏帽子被り袴着けが男像、シキ被り着流しが女像が一般的であるが、持ち物は杵・メシゲ・扇子・おにぎり・振り鈴などいろいろあり、複雑な変化が見られる。「薩摩の田の神さあ4」では旧川内市の北部の薩摩川内市陽成町などの道祖神的並立型の田の神と旧川内市の東部の田の神像と大黒天を融合させた大黒天型を中心に紹介する。 |
本川白谷の田の神 |
鹿児島県薩摩川内市陽成町本川 |
![]() |
![]() |
![]() |
薩摩川内市陽成町は川内川の支流麦之浦川の谷沿いの南北約8㎞にわたる細長い地域で、谷沿いの小さな集落や道沿いに一石双対浮き彫り像(道祖神的並立型の田の神像)が多くみられる。 陽成町の一番南にある一石双対浮き彫り像の田の神は「本川白谷の田の神」で高さ94㎝、幅90㎝、奥行き53㎝の石材に上をドーム状にした方形の彫り窪みをつくって、男女の神を半肉彫りした田の神像である。向かって左の男像は烏帽子・裃袴姿で扇子と椀を持ち、向かって右の女像はシキを被り着物姿で両手でメシゲを持つ。明治の初期頃、盗んできた田の神像ということである。 |
柿田橋の田の神 |
鹿児島県薩摩川内市陽成町本川 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
本川のもう一体の一石双対浮き彫り像の田の神は麦之浦川にかかる柿田橋付近にある「柿田橋の田の神」である。一條殿の田の神などの陽成町の一石双体像の田の神と比べればやや小型で、高さ63㎝、幅90㎝、奥行き53㎝の方形の石材に枠を設けて、2神を浮き彫りにする。向かって左の女像は笠状のシキを被り、着物を着て両手でメシゲを持つ。右の男像は烏帽子をかぶり裃・袴姿で、右手に扇子、左手に握り飯を持つ。像の上部に日と月が彫られている。 この一石双対浮き彫り像の横には杵と握り飯を持った田の神が置かれている。持ち回りの田の神だったもので「嘉永五年(1852)」の紀年銘がある。 |
令和7年6月12日撮影 近くの広い公園にて |
ヤマガラ幼鳥・キビタキ |
久しぶりに近くの大きな公園に行きました。キビタキか3か所で泣いていましたが、まともな写真は撮影できませんでした。結局まともに撮影できたのはヤマガラの幼鳥だけでした。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
キビタキは撮影はしたのですが、カメラの設定を間違い露出時間を1/2500秒で撮影してしまい真っ黒に近い画像になりました。何とか写真編集ソフトで露出補正した画像がこれです。 |
令和7年6月13日撮影 隣町の山にて |
キビタキ |
隣町の山でキビタキを撮影しました。木々が茂った暗い山の斜面での撮影で、枝が邪魔をして全身を写せませんでした。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
令和7年6月13日 薩摩の田の神さあ 薩摩川内市樋脇町の田の神1 |
袮地山(ねじやま)の田の神 | 鹿児島県薩摩川内市樋脇町塔之原 祢地山 「寛政二年(1790)」 |
![]() |
![]() |
![]() |
薩摩川内市樋脇町塔之原の町を流れる樋脇の北に広い水田地帯が広がっている、その水田地帯の北の端、祢地山集落の道路沿いに水田地帯を見下ろすように「袮地山の田の神」が立っている。入来町の「池頭の田の神」とよく似た大きな笠状のシキを被った袖のついた上衣に裁着け袴の田の神像である。右手にメシゲを掲げて持ち、左手に閉じた扇子を持つ。この点は「池頭の田の神」とは違っている。後姿は「松下田の田の神」などと同じように陽石になっている。市の民俗資料有形文化財に指定されていて、「寛政二年 戌四月八日」の紀年銘がある。 |
本庵(もとあん)の田の神 |
鹿児島県薩摩川内市樋脇町塔之原 本庵 「正徳4年(1714)」 |
![]() |
![]() |
![]() |
「本庵の田の神」は薩摩川内市樋脇町塔之原本庵の樋脇川沿いの丘陵地にある明寶山玉渕寺跡にある。鎧甲を着けた武人の珍しい田の神である。持ち物は破損していてわからないが、左手に杖状のもの(鉾?)を持ち右手に宝棒のような物をもつ。右手の持ち物は見ようによればメシゲにも見え、メシゲとすればはじめから田の神として作られたものといえるが、おそらく寺院跡にあることから、もとは広目天や持国天などの天部像であったことが窺える。市の民俗資料有形文化財に指定されていて、正徳4年(1714)の紀年銘がある。 |
令和7年6月6日撮影 地元にて |
チョウゲンボウ |
この日も地元の公共施設のチョウゲンボウです。巣立ったチョウゲンボウはこの日も換気口のある建物と隣の建物の屋上やアンテナにいました。 |
![]() |
最初に撮ったチョウゲンボウは隣の建物のアンテナにいた幼鳥です。 |
![]() |
換気口のある建物の軒下にいた幼鳥です。 |
![]() |
![]() |
隣の建物の屋上には様々な設備や建物がありチョウゲンボウの幼鳥3羽が屋上や屋上の設備やアンテナを飛び移っていました。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
親鳥が上空高く旋回していました。幼鳥に給餌する場面を期待して待ったのですが、そののままどこかへ飛び去ってしまいました。 |
![]() |
令和7年6月7日撮影 近くの水田地帯の耕作放棄地にて |
近くの水田園地帯の耕作放棄地ではヒバリ・オオヨシキリ・セッカのさえずりがあちこちで聞こえました。 |
セッカ |
![]() |
「ヒッ ヒッ ヒッ ヒッ ヒッ」と鳴きながらセッカが上空高く飛んでいるのを見つけました。その後、「チャッ チャッ チャッ 」と鳴きながら降りてきて遠くのススキの穂にとまりました。 |
![]() |
オオヨシキリ |
![]() |
オオヨシキリは耕作放棄地に広がるオギ原で盛んに鳴いているのですがオギ原の中で鳴いていてなかなか姿を見せません。一羽のオオヨシキリがオギ原から出てき小さな木にとまり、大きく口を開けて鳴いていました。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
ヒバリ |
![]() |
ヒバリは空高く舞い上がってさえずっていました。 |
![]() |
カワセミ |
![]() |
水田地帯の小川のカワセミです。川の水面近くを飛んでいるカワセミはよく見かけるのですがなかなか止まってくれませんが、この日はとまっているカワセミと遭遇しました。 |
![]() |
![]() |
特急まほろば号 |
![]() |
帰ろうとした時、特急「まほろば」号に出会いました。 |
令和7年6月4日撮影地元の山の上の公園にて |
キビタキ |
チョウゲンボウを撮影した後、山の上の公園の桜園でキビタキを撮影しました。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
令和7年6月4日撮影 地元にて |
チョウゲンボウ |
地元の公共施設のチョウゲンボウです。巣立ったチョウゲンボウはこの日も換気口のある建物と隣の建物の屋上やアンテナにいました。 |
![]() |
最初に撮ったチョウゲンボウは隣の建物のアンテナにいた幼鳥です。 |
![]() |
アンテナの幼鳥を撮影していた時、換気口のある建物からチョウゲンボウの鳴き声が聞こえました。カメラを換気口のある建物に振ると屋上の角に親鳥らしきチョウゲンボウと親鳥を見つけて飛んできた幼鳥がいました。 |
![]() |
親鳥が捕らえたカナヘビを幼鳥に与えました。 |
![]() |
この後、親鳥は飛び去りました。 |
![]() |
この建物にはもう1羽幼鳥がいました。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
隣の建物の屋上にも幼鳥がいました。 |
令和7年6月2日撮影 地元にて |
チョウゲンボウ |
前日に引き続き地元の公共施設のチョウゲンボウを撮影に行きました。前日はチョウゲンボウの雛が2羽が巣立ち、2羽がまだ換気口の巣にいましたが、この日は換気口の巣を覗いてみると巣は空になっていました。 |
![]() |
周りを見渡してみると隣の建物の屋上のアンテナに1羽巣立った幼鳥がいました。 |
![]() |
しばらくするともう1羽幼鳥があらわれてアンテナの幼鳥は2羽になりました。 |
![]() |
建物の屋上にもう1羽幼鳥が姿を見せました。 |
![]() |
屋上を移動している幼鳥を撮影していた時、アンテナをふと見てみると4羽の幼鳥がとまっているのに気が付きました。これで換気口で見た5羽の雛が巣立ったことが確認できました。 |
![]() |
親鳥が大きなバッタを咥えて幼鳥がいる建物の屋上にとまりました。 |
![]() |
幼鳥2羽が親鳥の周りにやってきて1羽が親鳥から給餌を受けました。 |
![]() |
![]() |
![]() |
給餌したあと親鳥は飛び立ちました。 |
令和7年6月5日 薩摩の田の神さあ 薩摩川内市祁答院町の田の神1 |
薩摩の田の神さあ3 (薩摩川内市 祁答院町・樋脇町) |
![]() |
入来町の東の薩摩川内市祁答院町の田の神として見事に化粧(彩色)された田の神「菊池田の田の神」・「轟の田の神」・「真頃尾の田の神」などを紹介する。入来町の西の薩摩川内市樋脇町の田の神として入来町の「池頭の田の神」とそっくりの「祢地山の田ノ神」と鎧甲を着けた武人の田の神の「本庵の田の神」を紹介する。 |
轟の田の神 |
鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 「寛政三(1791)年」 |
![]() |
![]() |
![]() |
「轟の田の神」は川内市祁答院町下手の轟地区コミュニティセンターの西の久富木川沿いの水田地帯の農道の傍にある。頭の光背のように被るシキはそのままに背石となっていて背面を厚く覆い、丸彫りに近い半浮き彫りの田の神像である。大きな袖の上衣と裁着け袴で腰掛けるている。右手でメシゲを持ち、左手は指で輪を作っていたとのことですが訪れた時は左手の先は欠損していた。 さつま町などに見られる僧型腰掛け型の田の神と思われるが庶民的な笑いを含んだ顔と胸をはだけ姿は僧と言うより農民そのものである。石の量感さを活かした重厚で力強い表現がこの田の神の魅力である。2回目に訪れたときは赤と白で鮮やかに化粧されていた。ただ、ゴールデンボンバーの樽美酒研二のような白塗りの顔はいただけない。 |
菊池田の田の神 |
鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 菊池田 |
![]() |
![]() |
![]() |
「菊池田の田の神」も轟の田の神と同じ久富木川沿いの水田地帯の農道の傍にある。直方体の石材にシキを被り、メシゲと椀を持った田の神を表面いっぱいに半肉彫りした田の神で、屈んでいるor腰かけている下肢は小さく表していて逆三角形の体形になっている。赤と白の鮮やか彩色と田の神にまとまりついた綠の木と、周りの田んぼが見事に調和していて映える写真が撮れる。 |
令和7年6月1日撮影 地元にて |
チョウゲンボウ |
2日ぶりに地元の公共施設のチョウゲンボウの雛を撮影に行きました。行ってみると巣になっている換気口のある建物と隣の建物の屋上にチョウゲンボウがいました。 |
![]() |
隣の建物の屋上のチョウゲンボウを撮影してみると幼鳥でした。換気口の雛が巣立ったようです。 |
![]() |
巣になっている換気口のある建物の屋上のチョウゲンボウも若鳥です。これも巣立った雛のようです。 |
![]() |
隣の建物の屋上にもう1羽すがたを見せました。こちらは親鳥です。 |
![]() |
この後、親鳥は巣である換気口に飛び込みました。飛び込んだ時は尾羽しか撮れませんでしたが、直ぐに換気口の入り口に現われ、飛び出しました。 |
![]() |
![]() |
親鳥が飛び去った後、換気口を覗いてみると2羽の雛がいました。 |
![]() |
換気口の雛を撮影していると、再び親鳥が換気口に飛び込んできました。 |
![]() |
![]() |
![]() |
給餌を終えたのか、すぐに親鳥は飛び立ちました。 |
![]() |