「フォトギャラリー 石仏と野鳥」新版 2020年7月・8月

 
6月


令和2年8月4日  奈良奥山・柳生街道の阿弥陀石仏
阿弥陀石仏100選(12) 芳山二尊仏(西面阿弥陀如来)
奈良県奈良市高畑町芳山    「奈良時代」
 仏師であり石仏研究家でもある太田古朴氏によって世に知られることになった、天平後期の様式を示す石仏である。  林の中の急斜面を登った芳山の峰の上に、この芳山二尊石仏は立っている。高さ184p、幅152p、奥行き約1mk自然石風の花崗岩の南面と西面に、説法印の如来立像を半肉彫りしている。両像とも、広い肩幅、がっしりとした腰や、薄い絹衣をまとったような刻みの衣紋など唐招提寺や大安寺の天平後期の木彫仏と共通する表現となっている。

 両像とも形姿はほぼ同一であるが、受ける印象は少し違う。西面像は貞観仏に通じる量感と逞しさが感じられるのに対して、南面像は天平仏の深い精神性を感じさせる顔が魅力的である。印相が同じであるので、尊命は決めにくいが、南面像を釈迦如来、西面像を阿弥陀如来として、このページに掲載した。

 石仏写真家佐藤宗太郎氏は芳山二尊石仏が立石として石が生きている点を高く評価され、「石に対する固有信仰を基礎とした仏像造型の様々な精神性を一個の石像に見事に凝結せしめたものとして、やはり日本の石仏の一つの出発点と考えられる。」(『石仏の美V 古仏への憧れ』木耳社)と述べられている。


磨崖仏100選(18)   春日石窟仏
奈良市春日野町 春日奥山  「保元二年(1157) 平安後期」
西窟(多聞天・阿弥陀座像)
 奈良奥山ドライブウェーは高円山ドライブウェーと新若草山ドライブウェーにつながっているが、一方通行で高円山ドライブウェー側からは車は入れない。したがって、奈良奥山ドライブウェーの出口が高円山ドライブウェーの終点となる。その終点の場所から南側へ登る細い道があり、その道を50mほど歩くと穴仏と呼ばれる春日石窟仏がある。その穴仏の少し下に旧柳生街道の石畳の道が通っている。

 春日石窟仏は東西2窟から成り立っていて、凝灰岩層を深く削りくぼめて、つくられた石窟で、全面はかなり崩壊していて、造立当初の様子は知ることはできないが、平安時代後期の保元二年(1157)の墨書銘が残る、わが国では珍しい本格的な石窟仏である。

 東窟は中央に層塔としてつくられたと思われる石柱があり、塔身にあたる部分には、四仏が彫られている。東窟の西壁には、地蔵立像が4体残っている(もとは六地蔵だと思われる)。東窟には、他に観音菩薩と思われる像が3体(もとは六観音)、天部像が2体残っているが破損が大きく痛ましい姿となっている。

 西窟は金剛界の五智如来座像が彫られていて、左端の阿弥陀如来と思われる一体と多聞天のみがほぼ完全な姿で残っている。阿弥陀如来は二十光背を負った像高94pの定印の座像である。穏やかな満月相で、なだらかな丸みを持った肩や流麗な衣紋など典型的な藤原様式となっている。多聞天は顔の部分は痛んでいるが、火焔光背を背負い邪鬼を踏み、右手に矛、左手に宝塔を捧げ持つ姿が鮮やかに残っている。 


阿弥陀石仏100選(86) 北出橋阿弥陀磨崖仏
奈良市阪原町中村  「文和5(1356)年 南北朝時代」
 阪原北出橋近くの白砂川の川岸の大きな岩に彫られている。川の清流と溶け合った風景は素晴らしく、入江泰吉や佐藤宗太郎など多くの写真家がこの風景を撮っている。

 方形の枠の中に壺形の光背を深く彫りくぼめて、像高91pの来迎阿弥陀像を半肉彫りしたもので、文和五(1356)年の北朝の年号を刻む。保存状態も良く、南北朝時代を代表する磨崖仏である。品の良い整った顔であるが、上出阿弥陀磨崖仏に比べると力強さに欠ける。


阿弥陀石仏100選(88) 仏頭石
奈良県奈良市春日野町  「室町時代」
 若草山の南麓の春日山遊歩道の入口ゲートの少し手前の山麓の小高いところに、仏頭石と洞の地蔵と呼ばれる倒れたままの地蔵石仏がある。 仏頭石は六角石柱に阿弥陀如来と思われる仏頭を丸彫りし、柱の各面に観音を刻んだ石仏で、頂上の仏頭は阿弥陀如来をあらわし、阿弥陀信仰に付随する六観音を配した珍しい石仏である。鎌倉時代からの花崗岩を刻む確かな技術の伝統が息づいた石仏である。


阿弥陀石仏100選(89) 新池上手の阿弥陀磨崖仏
奈良県奈良市白毫寺町  「室町時代」
 地獄谷新池の北の山の中にある磨崖仏で、周遊歩道沿いにある。大きな岩に舟形光背を彫りくぼめて、蓮華座に立つ来迎印阿弥陀如来を厚肉彫りしたものである。滝坂の道の磨崖仏に比べると表現は硬く、衣紋も抽象的で、室町中期の様式を示す。石仏としては劣るが苔むした岩肌に刻まれたこの像は印象的である。



令和2年7月28日
地蔵石仏100選(10)   滝坂地蔵
奈良市春日野町 滝坂の道  「鎌倉時代後期」
 三体地蔵磨崖仏の所から、夕陽観音と逆の右の方へ進み、上方の岩を見上げるとそこに、滝坂地蔵と呼ばれる等身大の地蔵磨崖仏がある。上方の突き出た岩に二重光背を彫りくぼめ、錫杖と宝珠を持つ、地蔵菩薩立像を半肉彫りしたもので、鎌倉末期の様式を示し、滝坂の道の地蔵菩薩の中では最も整った石仏である。

 滝坂の道からは見えない位置にあるためにほとんどのハイカーはこの石仏にきづかずに通り過ぎていくが、晩秋の紅葉に映えた滝坂地蔵の姿は美しい。



地蔵石仏100選(11)   朝日観音地蔵菩薩
奈良市春日野町 滝坂の道  「文永2(1265)年」
 滝坂地蔵から滝坂の道を450mほど進むと、東面した高い岩壁に、通称「朝日観音」と呼ばれる3体の磨崖仏が彫られている。夕陽観音と同じように観音ではなく中尊は約2.3mの弥勒如来立像である。左右に地蔵立像が彫られている。弥勒如来の左右の刻銘に「文永弐年乙丑十二月」の紀年があり、文永2(1265)年に造立されたことがわかる。左の錫杖・宝珠を持つ地蔵も同じ作風を示し、弥勒如来と同じ時期に彫られたものである。右の舟形光背の地蔵は錫杖を持たず、春日本地仏の姿をしていて、後世の追刻である。



地蔵石仏100選(12)   首切り地蔵
奈良市春日野町 春日奥山  「鎌倉後期」
 滝坂の道を朝日観音から少しのぼると、道は3つに分かれ、柳生街道は能登川の渓流から離れ、滝坂の道は終わる。その分かれ道に「首切り地蔵」がたっている。像高約1.8mの大ぶりの地蔵菩薩で鎌倉後期の作風を示す。

 首のところで折れていて、荒木又衛門が試し切りをしたと語り伝えられていて、辻の地蔵として昔から旅人などの信仰を集めていた。



地蔵石仏100選(13)   ほうそう地蔵
奈良市柳生町  「鎌倉後期」
正長元年ヨリ サキ者カンヘ四カン カウニヲ井メアル ヘカラス
   阪原町の南出より柳生までの旧柳生街道は急な山道である。その山道の峠を越えて、しばらく進むと、大きな花崗岩の南面に彫られたこのほうそう地蔵がある。(柳生からは柳生陣屋跡より旧柳生街道を1qほど南へ行ったところになる。)

 岩肌に高さ140p、幅約80pの方形の枠組みを彫りくぼめ、蓮華座に立つ錫杖を持つ通常型の地蔵を半肉彫りする。以前は面部が剥落していて、疱瘡にかかったように見えたため、ほうそう地蔵といわれていた。(私が高校生の時、初めて見たときは顔が剥落していた。)

昭和44年、すぐ下の土中より顔が見つかり修復された。顔は穏やかな童顔で印象深い。元応元(1319)年の銘がある。

 その左側に正長の土一揆の資料として中学社会科や高校日本史の教科書に載っている有名な徳政銘文がある。「正長元年ヨリ サキ者(は)カンヘ(神戸)四カン カウ(郷)ニヲ井メ(負いめ)アル ヘカラス」とあり、「正長元年以前の借金は神戸(かんべ)の四ケ郷(大柳生・小柳生・阪原・邑地)では帳消しにする。」という意味である。



令和2年7月24日
阿弥陀石仏100選(11) 頭塔阿弥陀三尊石仏
奈良県奈良市高畑町921番地    「奈良時代」
 頭塔は、頭塔は方形の7段からなる奈良時代の土の塔で国の史跡になっている。古くより僧玄ムの頭を埋めた墓との伝説があり、その名の由来とされてきたが、本来の土塔「どとう」がなまって頭塔(ずとう)と呼ばれるようになったものと思われる。頭塔の造営については、神護景雲元年(767年)に東大寺の僧で二月堂修二会(お水取り)を創始した実忠が、造った塔であるとされている。

 頭塔の各段には、浮彫の石仏が配置されている。復元前には13基の石仏が露出していていたが、最近の発掘によってあらたに14体と抜き取り痕跡5個所を発見された。東西南北の各面に11基ずつ、計44基設置されていたものと推定される。

 西面の第一段の中央には、南北東面と同じく上方に花蓋と飛雲宝珠を配した大型の如来三尊像の浮き彫り像がある。説法印を結び、半跏像の脇持菩薩を従えた阿弥陀三尊像で、東面の多宝如来三尊とともに保存状態も良く、優れた彫刻美を誇る石仏である。

 二重円相の光背を負い、説法印を結び、左足を前に組んて千蓮華上に坐す中尊像は当麻曼荼羅の阿弥陀像と特徴を同じくする。半跏像の脇持を従えた説法印の阿弥陀三尊像としては奈良市法蓮町にある興福院(こんぶいん)の木心乾漆造像が知られていて、頭塔石仏と同じ8世紀後半の作である。


   
令和2年7月22日撮影  近くの水田地帯にて
コチドリ
 水の張った休耕田に6羽のコチドリがいました。他に2羽のクサシギを見たのですが、近づくと飛んで行ってしまって撮影できませんでした。
この後、6羽のコチドリ群れになって南東の方へ飛んでいきました。
 コチドリを見た休耕田から300mほど離れた水の張った休耕田に数羽のコチドリがいました。先ほど見た飛んでいったコチドリかどうかわかりませんが、「ピウ ピウ」と鳴いていました。
コチドリの若鳥もいました。このコチドリも鳴いていました。


   
令和2年7月19日  隣町の山の中腹にて
コシアカツバメ
 いつもキビタキなどを見ることができる山の中の撮影ポイントに行こうと車を走らせていると、電線に多数のツバメがとまっているのを見つけました。よく見るとコシアカツバメでした。
 コシアカツバメは電線にとまっているだけでなく、多数のコシアカツバメが飛び回っています。コシアカツバメの飛んでいく先を追うと、大きな施設の建物に行き着きました。よく見るとその施設の屋根の下や壁に多数の巣があります。雛が育ったためか、警戒してか、コシアカツバメはそれほど巣に近づきません。しばらく粘って巣に近づくコシアカツバメを撮影できました。
コシアカツバメは、時々、アスファルトの道に下りてきます。


   
令和2年7月17日  近くの水田地帯にて
クサシギ・ケリ・イソシギ
ケリの群れの中にクサシギがいました。
イソシギはこのあたりでは最もよく見るシギです。田んぼの水路に2羽のイソシギがいました。



令和2年7月16日
地蔵石仏100選(9)   三谷寝地蔵磨崖仏
奈良県桜井市三谷  「延慶2(1309)年」
寝地蔵の脇に立つ地蔵石仏は建武2年(1335)の造立
 奈良市都祁地区の藺生町から桜井市の小夫嵩方・三谷方面に抜ける旧道の藺生峠の林の中に阿弥陀磨崖仏と地蔵磨崖仏がある。高さ3mをこえる大きな花崗岩に阿弥陀と地蔵を彫ったものだが、石が割れて左の地蔵の方だけ転落して、横向きになっている。

 120cmの船型を彫りくぼめ、錫杖と宝珠を持つ端正な像高102pの地蔵菩薩立像を半肉彫りする。 地蔵は横になったままで、「ネンゾ(寝地蔵)」と呼ばれている。左右の岩面に藺生(いう)の住人祐禅浄覚房が延慶2年(1309)造立した旨が刻まれている。


令和2年7月13日
阿弥陀石仏100選(10) 陽泉寺阿弥陀三尊来迎石仏
福島県福島市下鳥渡    「正嘉2(1258)年 鎌倉時代」
 福島県の中通りには、多くの浮き彫りの阿弥陀三尊来迎板碑が分布している。 鎌倉時代から南北朝時代にかけてつくられたもので、 線刻像も含めれば、100基を越す。

 平安後期から浄土信仰の浸透によって、人の臨終に阿弥陀如来が観音・勢至菩薩とともに、極楽浄土へ迎えとるために、来迎する様子を描いた来迎図が仏画として多く描かれた。その来迎図を浮き彫りで表したのが福島の阿弥陀三尊来迎板碑である。

 福島の阿弥陀三尊来迎板碑は薄肉彫りという立体的表現と背景の自然景の空間が溶け合い、来迎というドラマチックな場面を空間的に表現していて、石仏として魅力的である。特に福島市鳥渡の陽泉寺阿弥陀三尊来迎供養塔は薄肉彫りの傑作である。

 来迎印を結ぶ阿弥陀像を中心にして、 死者の魂をのせる蓮台をささげ腰をかがめる観音菩薩像を前方に、後方に合掌する勢至菩薩像が、蓮台に立ち、 雲足を後方になびかせる雲に乗って西方(右方)から下りる早来迎の様子をあらわす。 絵画的な図柄であるが、空間の奥行きが見事に出ていて、石の美を充分に生かした石仏である。


   
令和2年7月12日撮影  地元の山のハイキングコース
ウグイス
 ドラミングは聞こえなかったですが、「ピョー ピョー ピョー」とアオゲラの囀りは聞こえました、しかし姿は今日も見られません。また、目の前を2羽のコジュケイか横切ったのですが、カメラを構えた瞬間草むらにはぃってしまいました。結局、撮影したのは、キビタキとウグイスです。ウグイスはあちこちで鳴いているのですが、枝や葉に隠れてなかなか撮影できません。今日は枯れ枝の上で鳴いていたのでたっぶりと写せました。


   
令和2年7月12日  地元の山のハイキングコース
キビタキ
 雨のやみ間によく行く地元の山のハイキングコースに行きました。2週間前まではキビタキの囀りが聞こえていたのですが、ウグイスとメジロの声しか聞こえません。ハイキングコースをそれて、森の中を下りて谷の方へいくと、キビタキの地鳴きが聞こえ、キビタキの幼鳥と大きな青虫を咥えたキビタキ雄が姿を見せました。



令和2年7月11日
伯耆のサイノカミ(16)(17)   三輪神社のサイノカミ
鳥取県米子市淀江町小波633
 11基のサイノカミがある淀江町中間の亀甲神社の南東0.6qに三輪神社がある。三輪神社は崇神天皇の時に国家鎮護の神として、大和国大神(おおみわ)神社から勧請したと伝承されている由緒ある神社で、随神門、向殿、弊殿、拝殿、神楽殿などの建物がある。手水舎の後ろに2基の神祇像と女陰石のサイノカミがある。
 女陰石を含む3基のサイノカミの真ん中にあるサイノカミで、駒形の自然石に宝珠の形の彫りくぼみをつくり、内裏びなのように並んで座す男女の神を半肉彫りしたものである。目を細めてうつむくように祈る男女の神の顔は童顔である。男女像の位置が他のサイノカミとは逆である。
 向かって左にあるサイノカミである。頂上が尖った山形の自然石に上部に屋根を設けた、彫りくぼみを設けて神殿とし、中に風折烏帽子をかぶり笏を持つ男神と、扇を持つ女神を薄肉彫りした神祇像のサイノカミである。


伯耆のサイノカミ(18)(19)(20)   壹宮神社のサイノカミ
〒689-3335 鳥取県西伯郡大山町上萬1124
 山陰道の淀江ICの北、車で5分ほどにある壱宮神社は「安産祈願」で地元ではよく知られた神社で、毎月、戌の日には、多くの妊婦やその家族が安産祈願に訪れる。天照大神の御子神の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)や大国主命の娘で子授け、安産の守り神とされる下照姫命(したてるひめのみこと)などをまつる。

 壱宮神社の入口付近の境内の一画に、地域にあった7基ほどのサイノカミを集めている。サイノカミの前に青竹を2本建てその間に注連縄を張って待っている。
 おにぎりの形をした自然石に駒形の彫りくぼみをつくり、正面を向いて少し離れて立つ男女の神を浅く半肉彫りした神祇像である。男神は冠を被り、笏を持つ。女神は丸髷姿で男神と同じような衣装である。扇や宝珠などの持ち物は確認できない。男神はアンパンマンのような丸顔で首をかしげていて、若いというより幼い感じである。それに対して女神は姉様風である。今回のサイノカミの撮影で、鶴田神社のサイノカミとともに最も気に入ったサイノカミである。
 自然石の表面に円形の彫りくぼみをつくり、その中に冠を被り笏を持つ男神と宝珠を持つ女神を線刻であらわした神祇像である。まるで相合い傘のように神殿の屋根が刻まれている。
 このサイノカミも冠を被り笏を持つ男神と宝珠を持つ女神の神祇像で、こちらは唐破風の屋根のある神殿の中に半肉彫りしたものである。


令和2年7月9日
阿弥陀石仏100選(8) つちんど墓地阿弥陀三尊石仏
奈良県宇陀市室生区小原 「永仁6年(1298) 鎌倉後期」
阿弥陀三尊
阿弥陀立像
 つちんど墓地の奥まった所に、阿弥陀三尊を、一体ずつ、別石で彫られている。中尊の光背面に永仁6年の紀年を刻す。中尊は高さ約1.8mの細長い板状 石の表面に、二重光背形の彫りくぼみをつくり、像高1.3mの来迎印相 の阿弥陀如来を半肉彫りする。 顔は優しく温厚な表情で印象的である。一方、衣紋や全体の彫りは、硬く抑揚に欠ける表現である。しかし、その硬さが、石の美しさを引き出していて、 木彫の仏像にはない魅力を作り出している。


阿弥陀石仏100選(9) 富川磨崖仏
滋賀県大津市大石富川町    「鎌倉時代」
阿弥陀三尊
 信楽川沿いの山腹の40mを越える大岩壁に刻まれた阿弥陀三尊磨崖仏である。像高6.3mで線刻彫りの大野寺や笠置寺の磨崖仏を除くと近畿では最大の磨崖仏である。

 一見線彫りのように見えるが、中尊の阿弥陀如来は、像の周りをやや深く彫り沈め、板彫風に線や面を薄肉彫りした陽刻である。そのために、口や目などの表現が不自然になっている。観音と勢至の脇持は普通の手法の薄肉彫りである。

  九州の磨崖仏のほとんどは厚肉彫りか半肉彫り・薄肉彫りで、線刻の像は少ない。中には臼杵磨崖仏や菅尾・元町磨崖仏のように丸彫りに近い磨崖仏もある。それに対して、近畿の磨崖仏は線刻彫りや薄肉彫りの像が多い。それは、技術の違いというよりは素材の違いである。つまり、近畿地方の岩のほとんどが硬質の花崗岩であるのに対して、九州は加工しやすい柔らかい凝灰岩であることが、この違いを作り出したといえる。

 特に、この富川磨崖仏のような大規模な磨崖仏となると、花崗岩の岩に半肉彫りをすることは非常に困難なことと思われる。そのため、笠置寺虚空蔵磨崖仏(像高約9m)や大野寺弥勒磨崖仏(像高約11.5m)は線刻彫りである。笠置寺虚空蔵磨崖仏や大野寺弥勒磨崖仏は近畿を代表する磨崖仏として知られているが、私はあまり魅力を感じられない。確かに、線は美しく優美であるが、表現は絵画的で岩の雄大さ、力強さを生かしていないように思える。

  富川磨崖仏は、笠置寺虚空蔵磨崖仏や大野寺弥勒磨崖仏のような優美な表現でないが、薄肉彫りや陽刻の線彫りといった方法で、岩の厳しさに正面から取り組んでいて、大岩壁をうまく生かした力強い表現で、忘れがたい磨崖仏である。




令和2年7月3日撮影
伯耆のサイノカミ(10)〜(15)   亀甲神社のサイノカミ
鳥取県米子市淀江町中間
 淀江町は、鳥取県の西部、米子市の東に隣接する町である。平成の大合併により米子市に編入された。亀甲神社は国道9号線の「中間」交差点を南へ400mほど入った街の中にある小さな神社で、11基のサイノカミが境内の一角に集められている。この内9基は男女の双神で、1基はおかめの面、1基は男根石である。
 中央に高さ335cmの自然石に男女の神祇像を線彫り(頭部など一部はは薄肉彫り)で表したサイノカミがある。男神は冠をつけ笏を持つた座像、女神は垂髪で男神に寄り添うように座していて内裏びな像のように見える。磨滅がひどく、読み難いが、像の上に和歌が刻まれている。「ただびとにかみ いざしたまへ 才のかみさん」と読まれているとのこと。裏には「文化十三子(1816)忠佐衛門」とあり、淀江町のサイノカミの中で最古の年号を刻んでいる。
 線彫りのサイノカミはもう1基ある。立像であるがこの像も衣冠束帯、笏持ちの男神と、垂髪の宝珠持ち女神の神祇像で、お互いに見つめ合っている。
 矩形の石材に上部を双子山にした浅い彫りくぼみをつくり向かい合う男女の神を板状に掘り出し線彫りした像である。向かって右の男神は左手で腰に差した刀の柄(つか)を握っているように見えるので、神祇像ではなく諾冊像(イザナギノミコト・イザナミノミコト)ではないだろうか。
 おかめの面の像とタキシードとウェディングドレスの祝言像は平成2年に新たに付け加えられたものである。おかめの面は天鈿女命(アメノウズメノミコト)をあらわしたもので、これもサイノカミと考えられる。信州の双体道祖神は祝言像が中心であるが、伯耆のサイノカミでは見られない。この像は信州の祝言像を参考に像立されたものである。

   
令和2年7月1日撮影  近くの水田地帯にて
コチドリ・コサギ・ケリ
田植えが終わった水田の畦では2羽のコチドリが鳴いていました。
 4年前まではこの季節この水田地帯でアマサギが群れていて撮影するのが楽しみだったのですが、3年前に1羽を見て以来見ていません。アマサギがいないかなと思って田んぼを回るのですが?。今日見たサギは撮影したコサギとアオサギだけです。コサギは2羽いました。
この水田地帯で最も目立つ野鳥はケリです。近づくと大きな声で脅かすように鳴きながら飛んでいます。


6月