Photo Gallery「石仏と野鳥」新版   2026年7月 
 

 
6月


大隅の田の神さあ11
(旧鹿屋市2・錦江町・大隅町)
 鹿屋市と肝属郡の特色ある田の神とし仏像型・僧型の流れでは、女性的な表現の僧型立像と旅僧型を、神像型・神職型流れではメシゲとスリコギを持つ神職座像の田の神を今まで取り上げてきたが、旧鹿島市にはまだこの地方独特の特色ある田の神がある。その一つが神像型・神職型流れの神舞神職型の田の神である。中腰で神舞(カンメといい神楽のこと)を舞う神職を表した田の神で高隈町付近にみられ、烏帽子を被り、袂の短い上衣に、長袴をつけて振り鈴を持った田の神である。ここではその中で最も古く優れている「上別府の田の神」と赤・黒・白で見事に彩色された「中津神社の田の神」、下の棚田や水田を見下ろしている絶好の被写体である「鶴の田の神」を紹介する。

 旧鹿屋市の特色ある田の神のもう一つが神舞神職型とメシゲ持ち田の神と融合したシキを被り、右手にメシゲを持ち左手に振り鈴を持つた田の神舞を踊る田の神像(田の神舞神職型)である。野里町にある県の指定有形民俗文化財の「野里の田の神」と「芝原の田の神1」がそれである。「野里の田の神」の周りは美しい田んぼが広がっていて、田の神像のある風景の撮影には絶好の場所である。

 「大隅の田の神さあ11」では他に両手でメシゲを持ち田の神舞を踊る農民風の田の神で田んぼの中の小さな丘の上に立つ鹿屋市の「祓川町川東の田の神」と農夫姿の田の神で右足にぞうり、左足に下駄を履いた珍しい像である錦江町の「半ヶ石の田の神」を紹介する。そして大隅半島では最も古い紀年銘を持つ県の有形民俗文化財の大隅町の「川北の田の神」で「大隅の田の神」ページの締めくくりとする。



上別府の田の神
鹿児島県鹿屋市下高隈町上別府 「明和2年(1765)」
 鹿屋市の高隈町付近には中腰で神舞(カンメといい神楽のこと)を舞う神職を表した田の神像が、何体か見られる。その中で最も古く(「明和2年(1765)」)、優れているのが上別府の田の神である。
 烏帽子をつけ、袂の短い上衣に、長袴をつけている。右は振り鈴を持っていたと考えられるが欠けてない。左手は輪を作って孔がある。弊などをさして持たしたと思われる。御幣を腰に2本さしている。顔は歯を出して笑っていて、調和のとれた整った舞姿の田の神像である。



 
中津神社の田の神
鹿児島県鹿屋市上高隈町高隈中央
 中津神社の参道の手前の石垣の上に祀られている神舞を舞う田の神像である。中腰で烏帽子をつけ、赤・黒・白で見事に彩色されている。デフォルメされた下膨れの顔である。白塗りの顔で頬とおちょぼ口は赤く塗られているため、おかめの面をかぶっているように見える。同じような顔の神舞神職型の田の神は高隈町谷田にもある。



    
令和8年7月17日  大隅の田の神さあ 鹿屋市串良町の田の神3
下小原の田の神
鹿児島県鹿屋市串良町下小原
 串良町下小原はシラス台地の笠之原台地の南端にあり下小原集落の東と北は広い畑作地帯で西は串良川沿いの水田地帯である。 下小原集落の集落の西の県道沿いに赤い小さな鳥居がポツンとあり、鳥居をくぐると記念碑と水神などの石祠があり神々が祀られている。「下小原の田の神」はそれらの横に置かれていて、鳥居のほうではなく水田に向かって立っている。典型的な旅僧型の田の神像でシキを肩まで垂らして被り、頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを斜め横にして持つている。顔は一部破損しているが穏やかな顔つきに見える。



 
令和8年7月17日  大隅の田の神さあ 旧鹿屋市の田の神3
牟田畑の田の神
鹿児島県鹿屋市南町牟田畑  「嘉永2年(1849)」
 「牟田畑の田の神」は鹿屋市南町の鹿屋市立南小学校の西北西約0.4㎞の県道近くに石祠と並んで祀られている。(Google Earthで確かめてみると「南小田んぼ入口」の案内板のすぐ近くである)。この田の神も旅僧型の田の神で鹿屋市吾平町の「下名真角の田の神」「大牟田の田の神」とよく似た優れた田の神である。他の旅僧型の田の神と違って踏み出そうとする右足より左足が前にある。背面に「嘉永二年(1849年)」の刻銘があり「下名真角の田の神」などから半世紀後に像立されたものである。

 田の神像の近くにに建てられている案内柱に「ここの田の神は、嘉永二年(1849年)に建立され、農作業の安全・五穀豊穣・婚礼の縁起神として、先祖代々から地域の人々の心のよりどころとなっている。当初は、現在地の東方約十メートル前方にあったが、田んぼの造成工事に伴い平成19年8月30日に移動願ったものである。」と書かれていた。



 
令和8年7月16日  大隅の田の神さあ 旧鹿屋市の田の神2
川東町堂の下の田の神
鹿児島鹿屋市川東町  「昭和31(1956)年」
 「川東町堂の下の田の神」は川東町簡易郵便局の南200mの水路脇の大きな木の下にある昭和31年に像立された旅僧型の田の神である。裁着け袴をはき、胸に宝珠描いた頭陀袋をさげ、メシゲとスリコギを持つことや、頭が大きく4頭身の体形など旅僧型の田の神の特徴を備える。ただ、シキは肩までたらした頭巾風のシキではなく、スリコギを左の手に持ち、メシゲを右手で立てて持つことなどは違っている。
 メシゲやスリコギを持っ手はカニの足のようで写実性に乏しいが、顔の表情や内股で右足を半歩進める姿勢は独特のものがあり、作者の個性が出た現代の田の神像の秀作である。



 
獅子目入口の田の神
鹿児島県鹿屋市獅子目町
 獅子目町集落の入り口にある「獅子目入口の田の神」も旅僧型の田の神である。シキをかぶり頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持つ托鉢僧姿の田の神であるが、旧吾平町や東串良町の田の神と比べるとボリューム感のある造形でどっしりとした田の神である。



    
令和8年7月15日  大隅の田の神さあ 旧鹿屋市の田の神1
岡泉の田の神
鹿児島県鹿屋市野里町岡泉 「享和3年(1803)」 
 「岡泉の田の神」は野里町の岡泉公民館の前に広がる水田地帯にある。肝付町(旧高山町)などによく見られる大きな袖のついた長衣を着たすらりとした姿の田の神である。両手で杖のように鍬を持ち、背後には斜めに大きなワラヅトを負い、ワラヅトにはメシゲがさしてある。肝付町(旧高山町)の「西横間の田の神」と同じ本城石の赤みがかった黒石で刻まれていて袖口・衿などに赤いベンガラの彩色の後が残る。台座に「享和三乙(癸?)亥年 奉建立田ノ御神 三月吉日」の刻銘がある。顔面は摩滅しているが、田んぼの中に祀られていて風情がある。



永野田の田の神
鹿児島県鹿屋市永野田
  永野田の田の神も大きな袖のついた長衣を着たすらっとした僧型立像の田の神である。他の僧型立像の田の神と違って左手で稲穂を担ぐように持つ、稲穂を担ぐように持つ田の神像はあまり見られないが、19世紀になってあらわれる大黒天像と融合した大黒天型の田の神像には金嚢(袋)のかわりに稲穂を背負う像が見られる。下伊倉の田の神などよりも新しい時代のものと思われる。



 
令和8年7月13日  大隅の田の神さあ 鹿屋市串良町の田の神1
大隅の田の神さあ10
(鹿屋市串良町・旧鹿屋市1)
 「大隅の田の神さあ10」は東串良町の西、肝付町の北にある旧串良町(鹿屋市串良町)の田の神と合併前の平成の大合併前の鹿屋市の地域の田の神を紹介する。旧串良町にはメシゲとスリコギを持ち膝を立てた趺座の形で組む神職座像の田の神が見られ、それも口や顔をゆがめた個性的な顔をした田の神像であることを田の神の写真集などで確かめて訪れた。しかし見つけることが出来たのは串良川沿いの土手で口をゆがめて笑う「堂園の田の神」と市の有形民俗文化財の「中郷の田の神」と磨滅の進んだ「下中の田の神」の3体のみであった。旧串良町では他に旅僧型の「岡崎上の田の神」・「馬庭の田の神」を載せた。

 旧鹿屋市の田の神はこの「大隅の田の神さあ10」と「大隅の田の神さあ11」に分けて紹介する。「大隅の田の神さあ10」では旧鹿屋市1として大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像の田の神と托鉢僧姿の旅僧型の田の神を掲載している。 女性的な表情の僧型立像の田の神としてツト負い鍬持ちの「岡泉の田の神」と左手で稲穂を担ぐように持つ「永野田の田の神」を載せた。旅僧型の田の神では昭和31年に造られた作者の個性が出た現代の田の神像の秀作の「川東の田の神」と19世紀に像立されたオーソドックスな旅僧型の田の神「牟田原の田の神」「獅子目入口の田の神」を載せた。 



中郷の田の神
鹿屋市串良町有里中郷  「天保5(1834)年」
 メシゲとスリコギを持ち膝を立てた趺座の形で組む神職型座像型の田の神である。上衣、下衣は直衣、指貫風で、被っているシキは頭巾というより兜のように見える。右手でスリコギを膝の上で立てて持ち、左手でメシゲを斜めにして持つ。顔は口や目が少し破損しているためか、厳しい表情に見える。霧島市の隼人塚石造四天王を思わせる迫力のある田の神である。背後に「天保五甲午三月初丑奉建立串良有里村中方限」の刻銘がある。鹿屋市の有形民俗文化財に指定されている。



堂園の田の神
鹿児島県鹿屋市串良町細山田堂園
 大隅半島の神職型座像の田の神像は広津田の田の神や森山の田の神のように安座する像もあるが、メシゲとスリコギを持ち膝を立てた趺座の形で組む神職型座像が多く見られる。
 特に鹿島市串良町の串良川流域の神職型座像の田の神は口や顔をゆがめた個性的な顔をした田の神像が多く。映画「望郷」(1993年・斎藤耕一監督)のロケ地となった串良川沿いの土手にある。神職というより田の神舞を踊る農民のように見え、口をゆがめて笑う庶民的でユーモラスな田の神である。


令和8年7月14日  大隅の田の神さあ 鹿屋市串良町の田の神2
下中の田の神
鹿児島県鹿屋市串良町細山田下中
 「下中の田の神」は下中集会所の横の道路わきに六地蔵塔の横に安置されている。大きく風化した田の神で、目鼻口や衣紋などは磨滅してわからない。座像の田の神に見えるが、下半身は破損した部分も見られ何とも言えない。シキを被り、右手に小さなメシゲを横向けて持っていることはわかるが、左手の持ち物はわからない。一見した時は椀のように見えたが、左手は肘あたりから欠けていて椀と思えるぶぶんは下に繋がっていて立てた膝のようにも見える。風化磨滅していく姿に石の生命感が感じられような気がして載せた。向かって左の六地蔵塔も破損した石幢の六地蔵部分と頭部がなくなった石仏を組み合わせて建てたものである。



 
岡崎上の田の神
鹿屋市串良町岡崎 岡崎上  「文化2年(1805)」
 「岡崎神の田の神」は岡崎上公民館前の木の下にある。訪れた時は基壇は本来のものでなく軽量ブロックになっていた。シキを肩まで垂らして被り、頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持つ旅僧型の田の神像である。顔は磨滅しているのが惜しい。背後の支え石に「文化二年(1805)」の紀年銘がある。鹿屋市の有形民俗文化財に指定されている。




       
令和8年7月12日  大隅の田の神さあ 鹿屋市吾平町の田の神3
苫野の田の神
鹿屋市吾平町上名苫野 
 上名の下苫野の県道沿いの森の前に2体の田の神が灯篭と石祠(水神?)とともに並んでいる。2体とも左手にメシゲと右手にスリコギを持った田の神であるが、向かって左の像(苫野の田の神1)は「車田の田の神」と似た田ノ神でメシゲとスリコギを斜めに立てて持ち、左の田の神(苫野の田の神2)は旅僧型の田の神でスリコギを立てて持ちメシゲを横にして持つ。鹿屋市の有形民俗文化財に指定されている。
 
苫野の田の神1
 左の像「苫野の田の神1」は「車田の田の神」とそっくりな田の神である。メシゲとスリコギを持つ像で、シキをアミダにかぶっていてるため、シキが光背のように見える。頭の上と胸元にも小さな仏像が刻まれている。「車田の田の神」の頭上の小さな仏像は頭の上に載せているように見えるが、この像の頭上の小さな仏像は頭には載せず仏像の光背の月輪のようにかぶったシキの内側の上に刻まれている。
 
苫野の田の神2
 右の像「苫野の田の神1」は旅僧型の田の神である。シキを頭巾のようにかぶり、右手でスリコギを立てて持ち左手でメシゲを横にして持つ。長い袖のある上衣と裁着け袴を着けて、右足を半歩踏み出している。「大牟礼の田の神」などと比べると小さくおおざっぱな表現の像であるが渋い顔つきが印象に残る。



 
令和8年7月11日  大隅の田の神さあ 鹿屋市吾平町の田の神2
大牟礼の田の神
鹿児島県鹿屋市吾平町上名中大牟礼 
  大隅地方で特色ある僧型の田の神として、シキを後に頭巾風に長く垂らして被り、胸に大きな頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持つ托鉢僧姿の田の神がある(旅僧型)。鹿屋市や肝属郡を中心とした地域では最も多い田の神像である。旅僧型の田の神は肝付町宮下川北の「明和8(1771)年」の像や「安永4(1775)年」の下名真角の田の神などが古く、多くは19世紀以降の作である。
 大牟礼の田の神はその中でも比較的古く19世紀初頭の作と思われる。長衣を着たすらっとした僧型立像の田の神と同じくシキを後ろに長くたらして被るが、裁着け袴をはき、胸に宝珠描いた頭陀袋をさげ、スリコギを持つことや、頭が大きく4頭身の体形など僧型立像の田の神とはかなり違っている。右足は左足より少し上げて台座にのせて、托鉢する姿を表している。顔は一見、童顔風であるがよく見ると山伏僧らしい厳しさが感じられる風貌である。数多い旅僧型田の神の中では下名真角の田の神ととも優れた田の神像である。鹿屋市の有形民俗文化財に指定されている。



 
車田の田の神
鹿児島県鹿屋市吾平町上名車田 
 車田の田の神は、岩を丸彫りにした像で、余った岩に山水と磨崖仏風の小さな浮き彫り像を刻み添えている。メシゲとスリコギを持つ像で、渦巻き模様のシキをアミダにかぶっていてるため、シキが光背のように見える。頭の上と胸元にも小さな仏像が付けてある珍しい田の神像である。
 山水は修験道場としての山を示し、その山で修行する効験あらたかな僧を田の神としたのではないだろうか。穏やかな面相と端正な姿の僧型田の神像である。刻銘がないが、かなり古い時代のものと考えられる。鹿屋市の有形民俗文化財に指定されている。



 
令和8年7月10日  大隅の田の神さあ 鹿屋市吾平町の田の神1
中福良の田の神
鹿児島県鹿屋市吾平町上名中福良
 大隅半島の中部の肝付町(旧高山町)や東串良町・鹿屋市にはワラヅトを背負い鍬を持つた、シキを肩に垂らしてかぶり、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型の田の神がある。これらは薩摩半島の僧型のメシゲ・鍬持ち・ワラヅト負いの形が、伝わって、変化して生まれたものと考えられる。
 このような鍬持ち、ワラヅト負いの田の神の代表と言えるものの一つが鹿屋市吾平町(あいらちょう)の「中福良の田の神」である。鍬は薩摩半島の僧型田の神と違い、両手を鍬の柄に置き、メシゲは背負ったワラヅトにさしている。近くの肝付町の東大園によく似た田の神があり、それには「明和8年(1771)」の紀年銘があることから、この像も同じ頃の作と思われる。八幡神社の境内にあり「八幡神社の田の神」として鹿屋市の 有形民俗文化財に指定されている。



 
下名真角の田の神
鹿児島県鹿屋市吾平町下名真角   「安永4(1775)年」
  長衣を着たすらりとした鍬持ちやメシゲ・宝珠持ちの田の神以外に大隅地方で特色ある僧型の田の神として、シキを後に頭巾風に長く垂らして被り、胸に大きな頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持つ托鉢僧姿の田の神がある(旅僧型)。鹿屋市や肝属郡を中心とした地域では最も多い田の神像であるため大隅型とも呼ばれる。
 下名真角(しもみょうますみ)の田の神は旅僧型の田の神の代表作の一つである。右手にはスリコギ、左手にはメシゲ、この二つを直交する位置に持たせ、右足は左足より少々上げて台石にのせて、歩く姿を表している。シキの下には総髪姿のはえ際がくっきりしていて、山伏僧の風貌がうかがえる。この型の田の神の最も古いのは「明和8(1771)年」で、この田の神はそれとほぼ同じ頃の「安永4(1775)年」の作である。



     
令和8年7月9日  大隅の田の神さあ 肝付町の田の神4
花牟礼池の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町新富 花牟礼  「明治14年(1881)」
 「花牟礼池の田の神」は花牟礼池の北の道路沿いに頭部がない石仏と並んで立っている。シキを肩まで垂らして被り、頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを斜め横にして持つ旅僧型の田の神像である。丸顔の優しそうな顔の田の神である。「宮下南の田の神」に比べると着衣や頭陀袋などを細かいところまで表現しているが形式的である。下半身が破損していて破損した脚などが隣に置かれていて、一見すると座っているように見える。背後の支え石にいっぱいに「明治十四年」の刻銘がある。支え石も下の半分が破損されていて、壊れた石材のかけらなどを下に入れて倒れないようにしている。



下宮下の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町宮下
 「下宮下の田の神」は「下宮下」のバス停近くの道路際に水田に向かって立っている。撮影した時にはヒサカキ?が植えられていて、植木に挟まれて田の神は立っていて 一部陰になった写真しか撮れなかった。この像もシキを肩まで垂らして被り、頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを斜め横にして持つ旅僧型の田の神像である。破損したのか立つ脚が短い。面長の引き締まった顔が印象に残る。



  
令和8年7月8日  大隅の田の神さあ 肝付町の田の神3
波見下の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町波見波見下
 旅僧型の田の神が急増するのは十九世紀初頭以降である。十九世紀初頭には鹿屋市の大牟礼田の田の神・大脇の田の神塚・芝原の田の神などの秀作もあるがそれ以降は形式化・画一化が進んで、上衣や裁着け袴(たっつけはかま)など着衣などのしわや衣紋を省略した、おおざっぱな表現のものが多くなる。
 波見下の田の神は十九世紀初頭以降の作と思われ、着衣など形式化は見られるが、頭に被ったシキは編み目をしっかりと表現していて、全体に丁寧に彫られた秀作である。特に顔は西横間の田の神によく似た女性的な優しく引き締まった顔で印象深い。
 側面から見ると台石に座っているように見えるが、座っている角石は背後の支え石と考えられる。下名真角の田の神など僧旅僧型の田の神の多くは台石と共石で踏み出そうとする像を支えるための支え石を置いている。



 
宮下南の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町宮下   「慶応4(1868)年」
  19世紀後半になると旅僧型の田の神像は形式化が進んで、上衣や裁着け袴(たっつけばかま)など着衣などのしわや衣紋を省略した、おおざっぱな表現のものが多くなる。そのような田の神の一つが宮下南(みやげみなみ)の田の神である。
 この田の神は写実的な表現という点では下名真角の田の神などと比べれば劣り、体躯は金属でできたロボットのようである。顔も素朴で、下名真角の田の神の托鉢僧らしい厳しさや、波見下の田の神のような女性的な優美さとはほど遠い。しかし、この抽象的で素朴な表現が、素朴で愛らしい顔が石の持つ素材の力を引き出し、この田の神の魅力となっていて、私のお気に入りの田の神の一つである。
 「慶応4(1868)年」刻銘があり、江戸時代最後の年の作である(慶応4(1868)年ぱ9月から明治元年となる)。



                              
令和8年7月7日  近くの水田地帯にて
オオヨシキリ幼鳥
 水害対策の遊水池予定地は水田の面影は全くなくなりオギがどんどん増えて、4分の1ほどはオギ原になっています。そのオギ原のあちこちでオオヨシキリが喧しく鳴いていました。オギ以外にオオアレチノギクが一面に生えた草地があり、そこに3羽の小さめのオオヨシキリがいて草から草へと飛び移っていました。幼鳥と思われます。
 
トビ
高い上空を旋回していたトビが電柱にとりました。



令和8年7月6日  大隅の田の神さあ 肝付町の田の神2
大隅の田の神さあ9
(肝付町・鹿屋市吾平町)
 「大隅の田の神さあ9」は東串良町の南にある肝付町と肝付町の西隣の旧五平町(鹿屋市吾平町)の田の神を掲載する。この地域の田の神も東串良町と同じくすっきりと端正な姿の僧型立像の田の神と托鉢僧姿の旅僧型の田の神が多い。

 すっきりと端正な姿の僧型立像の田の神はシキを背後に長く垂らして被り、大きな袖のついた長衣を着ている。ワラヅトを背負い、両手を重ねて鍬の柄を杖を支えるように持った田の神(肝付町の「野崎の田の神1・2」・「西横間の田の神1」・鹿屋市吾平町の「中福良の田の神」) と、俵の上に立って手にはメシゲと宝珠を持ち帯にヒョウタンと木の葉杯を下げている田の神(「塚崎の田の神」)がある。これらの像は18世紀中旬から19世紀初めのもので、共に目鼻立ちが美しく女人風の田の神像である。

 托鉢僧姿の旅僧型の田の神はこの地方では最もよく見かける田の神である。西日本新聞発行の「田の神サア百体」小野重郎著では高山町(肝付町)の「川北の田の神」が明和8(1771)年としているが「川北の田の神」を見つけることが出来なかった。私が見た中では鹿屋市吾平町「下名真角の田の神」が古く安永四年(1775)の刻銘があった。「下名真角の田の神」は19世紀初頭の作と思われる鹿屋市吾平町「大牟礼の田の神」や肝付町の「波見下の田の神」などはよく似ていて頭巾風のシキを肩から背にかけて垂らして被り、長い袖のある上衣と裁着け袴を着け、胸に宝珠を着けた角形の頭陀袋を首から下げている。右手に太く短いスリコギ、左手にメシゲを持つ。村々を巡る山伏の托鉢僧の様である。片足を少し持ち上げて歩く姿を表している。

 着衣や頭陀袋、スリコギ、メシゲの位置、右足を持ち上げて歩く姿まで全く同一形の田の神が昭和時代まで次々と像立された。「下名真角の田の神」「大牟礼の田の神」「波見下の田の神」以外にこのページ「大隅の田の神さあ9」では肝付町の「花牟礼池の田の神」「宮下南の田の神」「宮下下の田の神」、鹿屋市吾平町の「苫野の田の神2」を載せた。

 すっきりと端正な姿の僧型立像の田の神と旅僧型の田の神以外ではメシゲとスリコギを持って、渦巻き模様のシキをシキを光背のようにアミダにかぶった鹿屋市吾平町の「車田の田の神」がある。頭の上と胸元にも小さな仏像が付けてある珍しい田の神像である。



      
西横間の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町新富西横間 「天保七年(1836)」
 肝付町の「西横間の田の神1」は、ワラヅトを背負い鍬を持つ田の神像で天保八年(1836)の紀年銘を刻む。 傷みが少なく、目鼻立ちが美しい女人風の顔が素晴らしい。この田の神の横には、右手にスリコギ、左手にメシゲを持つ男性的な顔の田の神(「西横間の田の神2」)が、まるで夫婦のように並んでいる。
 
西横間の田の神1
 この地方に産する本城石と呼ばれる赤黒い石材に刻んだ、ツト負い鍬持ちの僧型立像の田の神である。赤黒い石材と袖口・衿・唇などの赤いベンガラの彩色が、調和とれた姿態と端正な女人風の顔を引き立てている。背後に「天保七申年十一月吉日」の刻銘があり、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像の田の神としては比較的新しいが「野崎の田の神2」「塚崎の田の神」と比べても遜色はない。
 
西横間の田の神2
 「西横間の田の神1」と同じく本城石と呼ばれる赤黒い石材に刻んだ田の神像である。この像も赤いベンガラの彩色が残っている。右手にスリコギを立てて持ち、左手にはメシゲを横にして持つ。旅僧型の田の神と考えられるが、被っているシキは頭巾風ではなく笠状である。修行を積んだ僧のような穏やかな顔つきで、「西横間の田の神1」と対照的である。




   
令和8年7月4日  大隅の田の神さあ 肝付町の田の神1
野崎の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町野崎東大園 「明和8年(1771)」・「寛保2(1743)年」 
 大隅半島の中部、鹿屋市や肝属郡のシキを肩に垂らしてかぶり、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像の田の神が多くある。その多くが両手で鍬を体の正面で杖を支えるように持った田の神である。このような女性的な表情の鍬持ちの僧型立像の田の神の最の最も古い紀年銘を持つ像は肝属郡肝付町野崎東大園にある。2体並んだ田の神の向かって右にある像(野崎の田の神1)がそれで、寛保2(1743)年の刻銘がある。左側の像(野崎の田の神2)には明和8年(1771)の刻銘がある。この2体は女性的な表情の鍬持ちの僧型立像の田の神で唯一、県の有形民俗文化財に指定されている。リニューアル前は「東大園の田の神」としていたが、鹿児島県の指定文化財の名前に合わせて「野崎の田の神」とした。
   
 
野崎の田の神1
 寛保2(1743)年の刻銘がある向かって右の田の神像である。シキを肩に垂らしてかぶり大きな袖のついた長衣を着てワラヅトを背負い鍬を持つた田の神である。顔は大きく破損されて痛々しい。
 
野崎の田の神2
 左にある「野崎の田の神2」は鹿屋市吾平町の中福良の田の神と共にこの地方の鍬持ちの僧型立像の田の神の代表的な像である。黒い凝灰岩の丸彫り像で、克明な藁の編み目を刻んだ肩までたらしたシキや帯紐を前で大きく結んだ、袖の長い着流しの長衣などの精緻な表現と優しい眼差しが印象的な田の神像である。背後にワラヅトを斜めに負い、ツトの上にはメシゲがかざしてある。


塚崎の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町野崎塚崎  「延享2年(1745)」
 塚崎の田の神はワラヅトを背負い鍬を持つた「東大園の田の神」などと同じように大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の田の神である。鍬を持たず、2俵の俵の上にスラリと立って、手にはメシゲと宝珠を持ち、帯にはヒョウタンと木の葉杯を下げている。顔は女性的で「西横間の田の神」とならぶ美しい容貌である。「野崎の田の神」などから派生した亜型の僧型立像の田の神である。
 「延享2年(1745)」の紀年銘があり、この亜型の僧型立像の田の神はメシゲ・宝珠持ちの像もワラヅトを背負い鍬を持つた像と同じ頃から造立が始まったと考えられる(ワラヅトを背負い鍬を持つた像の最も古い紀年銘は2体の東大園の田の神の1体の「寛保3年(1743)」)。他に東串良町新川西下の下伊倉の田の神もメシゲ・宝珠持ちのスラリとした田の神像である。



   
令和8年7月2日撮影  近くの水田地帯にて
セッカ・オオヨシキリ・チョウゲンボウ
セッカをようやく撮影できたのですが、とまっている場所はフェンスでした。
オオヨシキリは電線にとまって鳴いていました。
草原にとまっている鳥を見つけて、セッカと思ってカメラを向けましたがオオヨシキリでした。
 車に乗って水田地帯を周っているとホバリングしているチョウゲンボウを見つけました。ホバリングのシーンは撮れませんでした。なんとか、遠くの民家のテレビアンテナにとまっているところを撮影しました。



 
令和8年7月2日  大隅の田の神さあ 東串良町の田の神2
安留(やすどめ)の田の神
鹿児島県肝属郡東串良町川東安留
 この像もシキを肩に垂らしてかぶり、藁苞を背負い、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像の田の神は旅僧型の田の神と共に鹿屋市・肝属郡のよく見かける田の神である。肝付町の「東大園の田の神」や鹿屋市吾平町「中福良の田の神」などがそれにあたる。この「安留の田の神」もシキを頭巾風にかぶり大きな袖のついた長衣を着た旅僧型の田の神で鍬を杖のように両手で体の正面に持っている。像高82㎝で背負った藁苞にメシゲを着けている。顔の損傷がひどいのが残念である。



 
下伊倉の田の神
鹿児島県肝属郡東串良町新川西下伊倉 「文化4年(1807)」 
 この像も「安留の田の神」と同じくシキを肩に垂らしてかぶり、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像である。田の神は安留の田の神」のようにワラヅトを背負い鍬を持つ像以外に、米俵にのりヒョウタンをさげメシゲと宝珠を持つ像がり、肝付町野崎の「塚崎の田の神」とこの「下伊倉の田の神」がそれである。
 下伊倉の田の神は像高96㎝、台石の高さ60㎝(俵も含む)の大型の田の神で、右手にメシゲ、左手に宝珠を持ち、帯紐に大きなヒョウタンと木の葉の形の杯を下げている。正面から見ると塚崎の田の神と同じくすらっとした姿であるが、横から見ると量感がある。顔は端正であるが男性的な相貌である。「文化4年(1807)」の紀年銘があり、県の有形民俗文化財に指定されている。



6月