Photo Gallery「石仏と野鳥」新版   2026年7月
 

 
7月 9月



令和8年7月31日  尾道の石仏1 浄土寺
尾道の石仏1
 尾道は林芙美子や志賀直哉が住んだ 「文学の街」として、小津安二郎の「東京物語」や大林宣彦の「転校生」「ふたり」など映画の舞台となった街として、多くの観光客を引きつけている。千光寺公園からは尾道水道のむこうに、 向島をはじめ大小の島々が点在する美しい風景を見渡すことができる。

その尾道は「寺の町」・「坂の町」でもある。千光寺・浄土寺・西国寺などの古い寺があり、浄土寺多宝塔(国宝)など多くの文化財がある。当然石仏も多い。浄土寺の宝篋印塔・納経塔(ともに重文)などの石塔を除くと、鎌倉時代古い時代の遺品は見られないが、個性的な魅力を持つ石仏・磨崖仏がいくつかある。



浄土寺の石仏
 浄土寺は聖徳太子の創建と伝えられる古刹で、本堂・多宝塔は国宝である。石造文化財も多く、宝篋印塔・納経塔は重要文化財である。境内には多くの石仏があり、 開山堂よこには石の千体仏が並ぶ。ただ江戸時代以降の石仏で興味をあまりひかなかった。佐藤宗太郎の写真集「石仏の美Ⅰ」に載っていたいた不動石仏を撮影しただけであった。奥の院のある浄土寺山の登山道には不動明王磨崖仏がある。像高4mもある大きな像である。近くには白衣観音摩崖仏もある。
 
浄土寺不動明王磨崖仏
広島県尾道市尾崎町 「江戸時代」
 浄土寺の裏山、奥の院のある浄土寺山の登山道の途中に不動明王の磨崖仏がある。高さ8mほどの岩に像高約4mの憤怒相の不動明王が薄肉彫りされている。 絵画的な作風で大きさの割に迫力に乏しい。 大峰山信仰講中の奉納されたもので、江戸時代の作と思われる。  
 
浄土寺白衣観音摩崖仏
広島県尾道市尾崎町
 不動磨崖仏の近くの岩に山形の彫り窪みをつくり、白衣を被り、両手を腹の前で定印に組み、岩の上で結跏趺坐する白衣観音を半肉彫りで刻んだ磨崖仏である。座った岩に当たる部分に垂れ下がった衣を線彫りしている。
 
浄土寺不動石仏
広島県尾道市東久保町20-28
「龍円 」と行者の名前を刻んだ、かわいらしい不動石仏がある。墨を塗られたのか、像の部分が黒ずんでいるのが痛ましい。



       
令和8年7月30日  白滝山の石仏8
尾根の東の端に並ぶ石仏
羅漢?・羅漢・大日如来
 東側の石仏群の中の3体である。その中にある羅漢像2体と大日如来像である。右端の石仏は頭部を見て十一面観音観音と思ったのだが、胴体部は菩薩ではなく、明らかに羅漢風である。両手を広げて経典を見ているように見え、迦哩迦尊者(かりかそんじゃ)かもしれない。頭の部分が宝冠とすれば、稚児文殊も考えられるが、顔は明らかに稚児の顔ではなく、象に乗っているようにも見えない。中央の羅漢は半諾迦尊者(はんたかそんじゃ)か。左側は智拳印を結んだ金剛界大日如来である。
 
合掌像・弥勒菩薩
 この2体も上記の羅漢や大日如来と同じ尾根の東側の石仏群である。右側の像は宝塔を両手で膝の上で持っているので弥勒菩薩、左の合掌する像は供養者像または羅漢像と思われる。
 
宝塔を持つ像・菩薩像・合掌像
 向かって左の像は弥勒菩薩のように宝塔を両手で膝の上で持っている。顔を見てみると菩薩ではなく、羅漢か十王の顔に見える。真ん中の像は菩薩相に見えるが、尊名はわからない。左の像は山門前の合掌像に似ている。
 
合掌像
 東側の石仏群で見つけた合掌像です。釈迦三尊像の南側にある合掌像は赤子のように見えたが、この像は一見した時は子供のように思えた。しかしよく見ると辛苦を知った大人の顔つきにも見える。



令和8年7月29日  日光開山堂六武天石仏1
日光開山堂六武天石仏

栃木県日光市・輪王寺開山堂裏     江戸時代初期
 
 日光輪王寺開山堂の裏の通称「仏岩」と呼ばれる岸壁の下に6体の石仏が腰下や膝下を地中に埋めて立つ。向かって右から帝釈天・四天王(持国天?)・梵天・不動明王・四天王(増長天?)・四天王(広目天?)で、「六武天像」とよばれるている。

 江戸時代の石仏としては出色の出来ばえである。特に梵天と帝釈天は端正な顔で、クローズアップで撮った横顔はどことなく、薬師寺の聖観音などの天平時代の金銅仏を思わせる。手が欠損しているため、尊名が断定できないが、肩を張った鎧姿の体躯の3体の四天王は力強く、石仏とは思えない精巧な表現である。おそらく、石仏の専門の石工だけではなく、本格的な仏師がかかわった石仏ではないだろうか。



梵天・帝釈天
 江戸時代の石仏としては出色の出来ばえである。特に梵天と帝釈天は端正な顔で、クローズアップで撮った横顔はどことなく、薬師寺の聖観音などの天平時代の金銅仏を思わせる。梵天像は東大寺法華堂の梵天像のような中国の貴紳の姿ではなく、東寺講堂の梵天像のような四面四臂の密教像の姿である。東寺像と同じような端正な顔の像である。帝釈天像は宝冠を戴き、左手で宝鉢を持つ。
梵天
 
帝釈天



       
令和8年7月28日  白滝山の石仏7
尾根の西の端に並ぶ石仏
 尾根の両端には羅漢を中心にたくさんの小石仏が並んでいる。羅漢以外に観音・地蔵・不動・十王・丸い顔の合掌像などバラエティーに富んでいて、興味が尽きない。西側に並ぶ石仏の背後には重井の街が見える。4回白滝山を訪れたがこの尾根の左右の端に並ぶ石仏の撮影で多くの時間を過ごしていた。
 
観音・地蔵など
 向かって左の像が未敷蓮華を持つ聖観音、その右が地蔵、次は手の部分かかけているので持物がわからず尊名不明、右端は地蔵。ここからは重井小学校など重井町の街並みがよく見える。
 
不動明王・羅漢・宝珠を持つ像
 山頂の阿弥陀三尊からの尾根のはしに並べられている、上の写真や次の威徳観音像と同じ、西側の石仏群の中の4体である。下に広がっているのは因島重井の町並みですばらしい景色である。左端が不動明王、次は羅漢像で、右の2体は両手で宝珠を膝の上で持った像である。このような両手で宝珠を持った像はの過去七仏の基壇の石仏にも見られ、白滝山の石仏には多く見られる。
 
威徳観音?と羅漢
 この像も西側に並べられた石仏群である。ここも羅漢像が多いが、この像のように女性的な像やな素朴な幼児のような石仏が混ざっている。この像は蓮華があるので三十三体観音の威徳観音と思われる。ただ、「仏像図彙」などでは威徳観音は左手に蓮華を持っているが、この像では左手を頬に当てているので何とも言えない。
 向かって左の羅漢は阿氏多(あした)尊者か。右の像は不明、羅漢にも菩薩像にも見える。
 
羅漢・子安観音
 西側の石仏群の中の2体である。向かって左が羅漢、右が子安観音と思われる。羅漢は「仏像図彙」で調べると因掲陀(いんかだ)尊者のようである。子安観音の顔は子を慈しむ母親のように見える。



        
令和8年7月27日  白滝山の石仏6
衆寶観音
 不動明王・馬頭観音と同じく釈迦三尊像の南側にある石仏である。直角三角形の三角形石材に頭光背を負って手をついて、片足を立て片足を伸ばしてくつろぐような姿の観音像である。「仏像図彙」で調べると衆寶観音と思われる。ただ、「仏像図彙」の衆寶観音像を左右反転した姿である。
 
合掌像
 この石仏も釈迦三尊像の南側にある石仏である。過去七仏の基壇の石仏や山門前の合掌像によく似た石仏である。基壇の石仏などに比べると立体感があり、赤子の様に見える。
 
十六羅漢
 釈迦三尊前にある十六羅漢のうち3体の羅漢である。真ん中の羅漢は上部に七番の刻銘があり十六羅漢の第七の迦哩(かり)尊者であることがわかる。向かって左の像は虎と並んでいるので十六羅漢の第六の跋陀羅(ばっだら)尊者、右の像は十六羅漢の第八の弗多羅(ほつたら)尊者と推測できる。



        
令和8年7月26日  白滝山の石仏5
釈迦三尊や過去七仏の周辺の石仏
 多宝塔・観音堂のエリアから数段の石段を上ると白滝山までの尾根を整地して山頂の阿弥陀三尊まで多くの石仏が並んでいる。上の画像は展望台から写真である。
 一番奥の瓦葺の建物が観音堂。一番奥の大きな3体の座像が釈迦三尊でその周りに四天王・十六羅漢・十大弟子。その手前の3体の後ろ姿の像が目立つのが過去七仏。その手前の3体の座像が3大師座像。一番手前の大きく写った二体の座像が伝六(一観)夫妻像。整地された尾根の左右の端に並んでいるのが五百羅漢などの石仏。
 
過去七仏
 過去七仏は釈尊以前に娑婆世界に現れたとされる六仏に釈尊を加えた七仏のことで、毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、倶留孫仏(くるそんぶつ)、倶那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)をさす。当然、七仏は悟りを開いた七人の仏、つまり如来であるので如来形であらわすのが普通であるが、この過去七仏は地蔵菩薩と同じ比丘形である。釈迦三尊の周りにある十大弟子とよく似ていて、素人ぽさが残る像である。石工ではなく工事責任者の伝六(一観)の弟子柏原林蔵の作という説もある。
 
基壇の石仏
 過去七仏の基壇にの周りに刻まれた浮き彫り像で、まん丸い顔で胴体もリズミカルに丸や曲線で表した像で、自由で素朴で明るい像形である。合掌する像が多いが宝珠や塔などを持つ像も見られる。
 
不動明王・馬頭観音?
 観音堂から頂上に向けて最初にある大きな石仏が釈迦三尊像である。その南側の釈迦十大弟子の像の前にある2体の石仏である。左側は不動明王で左の像は合掌する女性のように見える像である。この女性のような像の額の上に突き出た突起のような物があり、これが馬頭だとすると、二臂の馬頭観音ということになる。一般に馬頭観音は三面八臂の忿怒相が一般的であるが、石仏では忿怒相ではない二臂像が多く見られる。白滝山の石仏では女性のような穏やかな顔の像がかなり見られる。



 
令和8年7月25日  白滝山の石仏4
天狗
 千手観音が彫られた岩の上に3体の天狗が乗っている。鼻高天狗2体と烏天狗である。白滝山が修験道とも関係があったことがうかがえる。因島の対岸の様々な石仏がある尾道の竜王山にも天狗像がある。
鼻高天狗
烏天狗



   
令和8年7月24日  白滝山の石仏3
多宝塔と基壇の磨崖仏
 山門を入るとまず目につくのが巨大な自然石(巨岩)をそのまま基壇として利用し、その上に石造りの塔をそびえ立たせた、多宝塔である。基壇には羅漢や観音、不動など8体の磨崖仏があり、白滝山の石仏造りに集まった多くの石工たちが、各自1人1作を競い合うようにしてこの岩に魂を込めて彫り上げたと言われている。参道の大きな岩に掘られた慈母観音の手本となった初代慈母観音もこの中にあるのだが4回も訪れていて気がつかなかった。
正面から撮影した多宝塔、基壇を含めて高さは6mはあると思われる。基壇正面の磨崖仏の払子を持った羅漢は迦諾迦伐嗟(かなくかばっさ)尊者。
観音菩薩
足を大きく踏み出して剣を振り下ろすように両手で持った不動明王(波切不動?)。像の下に「石工太兵衛」の刻銘がある。
子安観音。参道の大きな岩に掘られた慈母観音の手本となった初代慈母観音。
 
千手観音
 観音堂の前にある展望所横の、上に烏天狗が飾られた岩に薄く半肉彫りされた千手観音である。十字架観音像として知られた像である。千手観音は一般に頭の横に上げた両手で錫杖と宝戟(三叉戟)を持つている。左手に持つのが宝戟で、この像で十字架に見えるのが宝戟である。「一観教」がキリスト教の影響もあると言うことで十字架とされるが、宝戟(三叉戟)は十字架のように表現される千手観音もよく見られる。



                         
令和8年7月22日  白滝山の石仏2
弥勒菩薩
 仁王門を過ぎて登って行くと、三叉路になり右側が島四国85番八栗寺への参道、左側が表参道となる。その表参道を登ると程なく数体の石仏に囲まれて大きな岩の上に載っているのがこの弥勒菩薩です。案内の地図では大日如来となっていたが膝の上で両手で持っているのは宝塔で、あきらかに弥勒菩薩である。真っ青な空を背景にして大きな岩の上の弥勒菩薩は 印象的でした。
 
慈母観音摩崖仏
 観音堂の山門の手前の大きな岩の上部に彫られた磨崖仏で、赤子をいやすように抱く、子育観音である。像の下には大きい慈母観音と刻銘がある。他の観音の石仏と比べるとやや硬い表現である。
 
山門前の小石仏
 観音堂の前の小さな山門前に向かい合うように安置されている2体の像の1体で、頭巾をかぶった幼児のような像である。同じように合掌する像が尾根づたいに並んだ石仏の中などに見られる。
「膝の羅漢」と呼ばれる石仏です。この石仏の膝を撫でて願えば足の病がよくなると言われている。



   
令和8年7月22日  白滝山の石仏1 展望台からの風景
白滝山の石仏
広島県尾道市因島重井町 白滝山
 瀬戸内海の中央に位置し、村上水軍の島として知られている。 因島市は一島一市の町で造船業によって栄えた。現在は本四連絡橋の尾道・今治ルートがとおり、歴史の島・観光の島として注目されている。  その因島の東北端にある白滝山は、 岩神の霊場、霊山として知られ、15世紀のはじめ、 村上水軍の将、村上吉充によって、観音堂が建立された。
 頂上には阿弥陀三尊・釈迦三尊像・伝六夫婦像・三大師の他、五百羅漢や十字架を刻む観音磨崖仏や烏天狗などの様々な約700体の石仏が安置されている。
 これらの石仏は、 文政年間に因島重井町の柏原伝六(一観)が、神道・仏教・キリスト教・儒教の宗教の共通理念を一つに融合して「一観教」を編みだした。「一観教」は、伝六自ら教祖として布教され、信者は文政八年(1825)には数千人を数えたという。白滝山の石仏群(五百羅漢)は柏原伝六(一観)が文政10年(1827年)発願し、弟子の柏原林蔵を工事責任者として、 尾道より、石工を呼び寄せ彫らせたもので、3年後の文政13(1830)年に完成したという。

 白滝山の石仏群は江戸時代後期、一人の教祖によって生まれた新興宗教が生み出した、自由奔放な表現の個性的な石仏群という点で、信州修那羅の石神仏と共通している。
 しかし、石仏から受ける印象は修那羅とは大きく違う。瀬戸内という風土の為か、全然じめついたところがなく、非常に明るい。この明るさが瀬戸内の石仏の魅力である。



                   
展望台からの風景・阿弥陀三尊
 展望台からの北への展望です。手前の2体の石仏は伝六夫婦像です。数基のクレーンが見える所は造船所のドック、沖の島は佐木島です。対岸の尾道の街も見えます。
展望台の横の阿弥陀三尊像です。勢至菩薩は左手で宝珠を持っています。宝珠持ちの勢至菩薩は初めて見ました。
阿弥陀如来と勢至菩薩の後ろ姿と展望台からの西への展望です。向島、因島大橋が見られます。
勢至菩薩と因島大橋




 
令和8年7月21日  大隅の田の神さあ 錦江町・南大隅町
半下石の田の神
鹿児島県肝属郡錦江町馬場半ヶ石 「昭和3年(1928)」
 錦江町の内陸部の半ヶ石集落の中にある農夫姿の田の神の田の神である。右手にメシゲ、左手にスリコギを立てて持ち右足にぞうり、左足に下駄を履いた珍しい像である。像の後ろの案内板には「この田之神像は、昭和3年福原矢吉氏の作によるもので、頭にシキをかぶり、右手にしゃもじ、左手にすりこぎを持っている。また、右足に草履、左足に下駄をはいているのが特徴で、県下でも珍しい。半下石地区一帯の水田を守り、豊作をもたら神様として大切にされている。」と書かれていた。



 
川北の田の神神
鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北久保 「享保16年(1731)」
 「川北の田の神」は享保16(1731)年に建てられたもので、大隅半島では最も古い紀年銘を持つ。台に俵と三つの丸い団子のようなものが彫ってあり、頭巾風にメシゲをかぶり、膨らんだ裁着け袴(たっつけばかま)をはき、メシゲとスリコギを逆八の字に持つ神職立像型の田の神である。県の有形民俗文化財に指定されている。



   
令和8年7月20日  大隅の田の神さあ 旧鹿屋市6
芝原の田の神
鹿児島県鹿屋市上野町芝原
 鹿屋市立野里小学校の西側の高須川の谷沿いは水田地帯になっていて、その水田地帯の水路脇に2体の田の神が並んで立っている。向かって左の田の神(芝原の田の神1)はメシゲと鈴を持った田の舞型の田の神で、右の田の神(芝原の田の神2)は旅僧型の田の神である。
 
芝原の田の神1  「文政12年(1829)」
 鹿屋市の特色ある田の神像の一つは、メシゲと振り鈴を持ち、上衣の衿から胸にかけて可憐な飾りがついている田の神舞を踊る田の神像である。その代表的な像が「野里の田の神」(県指定民俗資料有形文化財)とこの「芝原の田の神1」である。共に八角柱台石の上の角台石の上に立つ赤い凝灰岩に彫られた田の神像である。大きなシキを肩にたらし、襟元に波形の飾りのついた上衣で、腹を大きく膨らましている。大きく膨れた裁着け袴を着け、メシゲを右手でたらして持ち、左手に振り鈴を持っている。
 像高は野里の田の神よりやや小さい65㎝で、顔つきは野里の田の神より庶民的で、「野里の田の神」のような伸びやかさにやや欠ける。「野里の田の神」より78年新しい「文政12年(1829)」の建立である。野里の田の神の撮影時と同じく背後の空にはさば雲が広がっていた。
 
芝原の田の神2  「享和年間(1801~1804)」
 「芝原の田の神2」の旅僧型の田の神は石材は赤い凝灰岩ではなく「西横間の田の神」と同じ黒赤色の本城石で、東串良町の「岩弘中の田の神」とよく似た田の神である。被ったシキは肩まで垂れているが頭巾風ではない。頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持ち右足を半歩出している。これは托鉢して巡る修験者の僧を表したものである。像の背後に「享□□□ 五月吉日」 「鹿屋下名 田崎」などの刻銘があり、享和年間(1801~1804)の像立でもとは現在の鹿屋市田崎町にあったものと考えられる。



 
祓川町川東の田の神
鹿児島県鹿屋市祓川町川東  「安永9(1780)年」
 祓川小学校の南東の田んぼの中に土を盛り上げて作った円墳のような小さな丘がありその上に「祓川町川東の田の神」が立っている。頭巾風のシキをかぶり顔を傾けて両田の神舞を踊る農民風の田の神である。両手の先は破損していて持物はわからないが、残った手の向きなどから両手でメシゲを持っていたのではないかと思われる。被ったシキの背面に「安永九年」(1780年)の紀年銘があり、18世紀後半の作であることがわかる。背後の山々を背景にした丘の上の田の神の姿は忘れられない。(Google mapのストリートビューで確かめてみると、現在は土の丘はなくなりコンクリートで固められた低い台形の土地の上に立っている。)



   
令和8年7月19日  大隅の田の神さあ 旧鹿屋市5
鶴の田の神
鹿児島県鹿屋市上高隈町鶴 
 鹿屋市の特色ある田の神像の一つは神職神舞型で、高隈地方に7体ほどある、烏帽子を被り、神舞を舞う神職を彫ったもので、手には振り鈴を持つ。鶴の田の神はその中の1体で、両手は欠けていて、振り鈴などは確認できないが、烏帽子を被り、やや前屈みで中腰で神舞(かんめ)を舞う姿を表した田の神である。鹿屋市の山中の小さな集落の外れの棚田の上の畑に祀られていて、下の棚田や水田を見下ろしている姿は絶好の被写体である。



野里の田の神
鹿児島県鹿屋市野里町山下 「寛永4年(1751)」 
 大隅地方の特色ある田の神像として、神像型・神職型流れでは神職型座像と神舞神職型を、仏像型・僧型の流れでは、女性的な表現の僧型立像と旅僧型を取り上げてきたが、もう一つ、この地方特色ある田の神像がある。神舞神職型とメシゲ持ち田の神と融合したもので、シキを被り、右手にメシゲを持ち左手に振り鈴を持つた田の神舞を踊る田の神像である。上衣の衿から胸にかけて可憐な飾りがついていた野里の田の神はこの型の田の神の代表的な作である。「寛永4年(1751)」の作で県の民俗有形文化財に指定されている。
 野里の田の神の周りは美しい田んぼが広がっていて、田の神像のある風景の撮影には絶好の場所である。3回目に訪れたときは桃色の田の神像が美しいさば雲が広がる空に映えていた。桃色の凝灰岩でつくられたこの型の田の神像は1㎞ほど離れた上野町芝原の田の神などこのあたりに数点見られる。



令和8年7月18日  大隅の田の神さあ 旧鹿屋市4
大隅の田の神さあ11
(旧鹿屋市2・錦江町・南大隅町)
 鹿屋市と肝属郡の特色ある田の神とし仏像型・僧型の流れでは、女性的な表現の僧型立像と旅僧型を、神像型・神職型流れではメシゲとスリコギを持つ神職座像の田の神を今まで取り上げてきたが、旧鹿島市にはまだこの地方独特の特色ある田の神がある。その一つが神像型・神職型流れの神舞神職型の田の神である。中腰で神舞(カンメといい神楽のこと)を舞う神職を表した田の神で高隈町付近にみられ、烏帽子を被り、袂の短い上衣に、長袴をつけて振り鈴を持った田の神である。ここではその中で最も古く優れている「上別府の田の神」と赤・黒・白で見事に彩色された「中津神社の田の神」、下の棚田や水田を見下ろしている絶好の被写体である「鶴の田の神」を紹介する。

 旧鹿屋市の特色ある田の神のもう一つが神舞神職型とメシゲ持ち田の神と融合したシキを被り、右手にメシゲを持ち左手に振り鈴を持つた田の神舞を踊る田の神像(田の神舞神職型)である。野里町にある県の指定有形民俗文化財の「野里の田の神」と「芝原の田の神1」がそれである。「野里の田の神」の周りは美しい田んぼが広がっていて、田の神像のある風景の撮影には絶好の場所である。

 「大隅の田の神さあ11」では他に両手でメシゲを持ち田の神舞を踊る農民風の田の神で田んぼの中の小さな丘の上に立つ鹿屋市の「祓川町川東の田の神」と農夫姿の田の神で右足にぞうり、左足に下駄を履いた珍しい像である錦江町の「半ヶ石の田の神」を紹介する。そして大隅半島では最も古い紀年銘を持つ県の有形民俗文化財の南大隅町の「川北の田の神」で「大隅の田の神」ページの締めくくりとする。



上別府の田の神
鹿児島県鹿屋市下高隈町上別府 「明和2年(1765)」
 鹿屋市の高隈町付近には中腰で神舞(カンメといい神楽のこと)を舞う神職を表した田の神像が、何体か見られる。その中で最も古く(「明和2年(1765)」)、優れているのが上別府の田の神である。
 烏帽子をつけ、袂の短い上衣に、長袴をつけている。右は振り鈴を持っていたと考えられるが欠けてない。左手は輪を作って孔がある。弊などをさして持たしたと思われる。御幣を腰に2本さしている。顔は歯を出して笑っていて、調和のとれた整った舞姿の田の神像である。



 
中津神社の田の神
鹿児島県鹿屋市上高隈町高隈中央
 中津神社の参道の手前の石垣の上に祀られている神舞を舞う田の神像である。中腰で烏帽子をつけ、赤・黒・白で見事に彩色されている。デフォルメされた下膨れの顔である。白塗りの顔で頬とおちょぼ口は赤く塗られているため、おかめの面をかぶっているように見える。同じような顔の神舞神職型の田の神は高隈町谷田にもある。



    
令和8年7月17日  大隅の田の神さあ 鹿屋市串良町の田の神3
下小原の田の神
鹿児島県鹿屋市串良町下小原
 串良町下小原はシラス台地の笠之原台地の南端にあり下小原集落の東と北は広い畑作地帯で西は串良川沿いの水田地帯である。 下小原集落の集落の西の県道沿いに赤い小さな鳥居がポツンとあり、鳥居をくぐると記念碑と水神などの石祠があり神々が祀られている。「下小原の田の神」はそれらの横に置かれていて、鳥居のほうではなく水田に向かって立っている。典型的な旅僧型の田の神像でシキを肩まで垂らして被り、頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを斜め横にして持つている。顔は一部破損しているが穏やかな顔つきに見える。



 
令和8年7月17日  大隅の田の神さあ 旧鹿屋市の田の神3
牟田畑の田の神
鹿児島県鹿屋市南町牟田畑  「嘉永2年(1849)」
 「牟田畑の田の神」は鹿屋市南町の鹿屋市立南小学校の西北西約0.4㎞の県道近くに石祠と並んで祀られている。(Google Earthで確かめてみると「南小田んぼ入口」の案内板のすぐ近くである)。この田の神も旅僧型の田の神で鹿屋市吾平町の「下名真角の田の神」「大牟田の田の神」とよく似た優れた田の神である。他の旅僧型の田の神と違って踏み出そうとする右足より左足が前にある。背面に「嘉永二年(1849年)」の刻銘があり「下名真角の田の神」などから半世紀後に像立されたものである。

 田の神像の近くにに建てられている案内柱に「ここの田の神は、嘉永二年(1849年)に建立され、農作業の安全・五穀豊穣・婚礼の縁起神として、先祖代々から地域の人々の心のよりどころとなっている。当初は、現在地の東方約十メートル前方にあったが、田んぼの造成工事に伴い平成19年8月30日に移動願ったものである。」と書かれていた。



 
令和8年7月16日  大隅の田の神さあ 旧鹿屋市の田の神2
川東町堂の下の田の神
鹿児島鹿屋市川東町  「昭和31(1956)年」
 「川東町堂の下の田の神」は川東町簡易郵便局の南200mの水路脇の大きな木の下にある昭和31年に像立された旅僧型の田の神である。裁着け袴をはき、胸に宝珠描いた頭陀袋をさげ、メシゲとスリコギを持つことや、頭が大きく4頭身の体形など旅僧型の田の神の特徴を備える。ただ、シキは肩までたらした頭巾風のシキではなく、スリコギを左の手に持ち、メシゲを右手で立てて持つことなどは違っている。
 メシゲやスリコギを持っ手はカニの足のようで写実性に乏しいが、顔の表情や内股で右足を半歩進める姿勢は独特のものがあり、作者の個性が出た現代の田の神像の秀作である。



 
獅子目入口の田の神
鹿児島県鹿屋市獅子目町
 獅子目町集落の入り口にある「獅子目入口の田の神」も旅僧型の田の神である。シキをかぶり頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持つ托鉢僧姿の田の神であるが、旧吾平町や東串良町の田の神と比べるとボリューム感のある造形でどっしりとした田の神である。



    
令和8年7月15日  大隅の田の神さあ 旧鹿屋市の田の神1
岡泉の田の神
鹿児島県鹿屋市野里町岡泉 「享和3年(1803)」 
 「岡泉の田の神」は野里町の岡泉公民館の前に広がる水田地帯にある。肝付町(旧高山町)などによく見られる大きな袖のついた長衣を着たすらりとした姿の田の神である。両手で杖のように鍬を持ち、背後には斜めに大きなワラヅトを負い、ワラヅトにはメシゲがさしてある。肝付町(旧高山町)の「西横間の田の神」と同じ本城石の赤みがかった黒石で刻まれていて袖口・衿などに赤いベンガラの彩色の後が残る。台座に「享和三乙(癸?)亥年 奉建立田ノ御神 三月吉日」の刻銘がある。顔面は摩滅しているが、田んぼの中に祀られていて風情がある。



永野田の田の神
鹿児島県鹿屋市永野田
  永野田の田の神も大きな袖のついた長衣を着たすらっとした僧型立像の田の神である。他の僧型立像の田の神と違って左手で稲穂を担ぐように持つ、稲穂を担ぐように持つ田の神像はあまり見られないが、19世紀になってあらわれる大黒天像と融合した大黒天型の田の神像には金嚢(袋)のかわりに稲穂を背負う像が見られる。下伊倉の田の神などよりも新しい時代のものと思われる。



 
令和8年7月13日  大隅の田の神さあ 鹿屋市串良町の田の神1
大隅の田の神さあ10
(鹿屋市串良町・旧鹿屋市1)
 「大隅の田の神さあ10」は東串良町の西、肝付町の北にある旧串良町(鹿屋市串良町)の田の神と合併前の平成の大合併前の鹿屋市の地域の田の神を紹介する。旧串良町にはメシゲとスリコギを持ち膝を立てた趺座の形で組む神職座像の田の神が見られ、それも口や顔をゆがめた個性的な顔をした田の神像であることを田の神の写真集などで確かめて訪れた。しかし見つけることが出来たのは串良川沿いの土手で口をゆがめて笑う「堂園の田の神」と市の有形民俗文化財の「中郷の田の神」と磨滅の進んだ「下中の田の神」の3体のみであった。旧串良町では他に旅僧型の「岡崎上の田の神」・「馬庭の田の神」を載せた。

 旧鹿屋市の田の神はこの「大隅の田の神さあ10」と「大隅の田の神さあ11」に分けて紹介する。「大隅の田の神さあ10」では旧鹿屋市1として大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像の田の神と托鉢僧姿の旅僧型の田の神を掲載している。 女性的な表情の僧型立像の田の神としてツト負い鍬持ちの「岡泉の田の神」と左手で稲穂を担ぐように持つ「永野田の田の神」を載せた。旅僧型の田の神では昭和31年に造られた作者の個性が出た現代の田の神像の秀作の「川東の田の神」と19世紀に像立されたオーソドックスな旅僧型の田の神「牟田原の田の神」「獅子目入口の田の神」を載せた。 



中郷の田の神
鹿屋市串良町有里中郷  「天保5(1834)年」
 メシゲとスリコギを持ち膝を立てた趺座の形で組む神職型座像型の田の神である。上衣、下衣は直衣、指貫風で、被っているシキは頭巾というより兜のように見える。右手でスリコギを膝の上で立てて持ち、左手でメシゲを斜めにして持つ。顔は口や目が少し破損しているためか、厳しい表情に見える。霧島市の隼人塚石造四天王を思わせる迫力のある田の神である。背後に「天保五甲午三月初丑奉建立串良有里村中方限」の刻銘がある。鹿屋市の有形民俗文化財に指定されている。



堂園の田の神
鹿児島県鹿屋市串良町細山田堂園
 大隅半島の神職型座像の田の神像は広津田の田の神や森山の田の神のように安座する像もあるが、メシゲとスリコギを持ち膝を立てた趺座の形で組む神職型座像が多く見られる。
 特に鹿島市串良町の串良川流域の神職型座像の田の神は口や顔をゆがめた個性的な顔をした田の神像が多く。映画「望郷」(1993年・斎藤耕一監督)のロケ地となった串良川沿いの土手にある。神職というより田の神舞を踊る農民のように見え、口をゆがめて笑う庶民的でユーモラスな田の神である。


令和8年7月14日  大隅の田の神さあ 鹿屋市串良町の田の神2
下中の田の神
鹿児島県鹿屋市串良町細山田下中
 「下中の田の神」は下中集会所の横の道路わきに六地蔵塔の横に安置されている。大きく風化した田の神で、目鼻口や衣紋などは磨滅してわからない。座像の田の神に見えるが、下半身は破損した部分も見られ何とも言えない。シキを被り、右手に小さなメシゲを横向けて持っていることはわかるが、左手の持ち物はわからない。一見した時は椀のように見えたが、左手は肘あたりから欠けていて椀と思えるぶぶんは下に繋がっていて立てた膝のようにも見える。風化磨滅していく姿に石の生命感が感じられような気がして載せた。向かって左の六地蔵塔も破損した石幢の六地蔵部分と頭部がなくなった石仏を組み合わせて建てたものである。



 
岡崎上の田の神
鹿屋市串良町岡崎 岡崎上  「文化2年(1805)」
 「岡崎神の田の神」は岡崎上公民館前の木の下にある。訪れた時は基壇は本来のものでなく軽量ブロックになっていた。シキを肩まで垂らして被り、頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持つ旅僧型の田の神像である。顔は磨滅しているのが惜しい。背後の支え石に「文化二年(1805)」の紀年銘がある。鹿屋市の有形民俗文化財に指定されている。




       
令和8年7月12日  大隅の田の神さあ 鹿屋市吾平町の田の神3
苫野の田の神
鹿屋市吾平町上名苫野 
 上名の下苫野の県道沿いの森の前に2体の田の神が灯篭と石祠(水神?)とともに並んでいる。2体とも左手にメシゲと右手にスリコギを持った田の神であるが、向かって左の像(苫野の田の神1)は「車田の田の神」と似た田ノ神でメシゲとスリコギを斜めに立てて持ち、左の田の神(苫野の田の神2)は旅僧型の田の神でスリコギを立てて持ちメシゲを横にして持つ。鹿屋市の有形民俗文化財に指定されている。
 
苫野の田の神1
 左の像「苫野の田の神1」は「車田の田の神」とそっくりな田の神である。メシゲとスリコギを持つ像で、シキをアミダにかぶっていてるため、シキが光背のように見える。頭の上と胸元にも小さな仏像が刻まれている。「車田の田の神」の頭上の小さな仏像は頭の上に載せているように見えるが、この像の頭上の小さな仏像は頭には載せず仏像の光背の月輪のようにかぶったシキの内側の上に刻まれている。
 
苫野の田の神2
 右の像「苫野の田の神1」は旅僧型の田の神である。シキを頭巾のようにかぶり、右手でスリコギを立てて持ち左手でメシゲを横にして持つ。長い袖のある上衣と裁着け袴を着けて、右足を半歩踏み出している。「大牟礼の田の神」などと比べると小さくおおざっぱな表現の像であるが渋い顔つきが印象に残る。



 
令和8年7月11日  大隅の田の神さあ 鹿屋市吾平町の田の神2
大牟礼の田の神
鹿児島県鹿屋市吾平町上名中大牟礼 
  大隅地方で特色ある僧型の田の神として、シキを後に頭巾風に長く垂らして被り、胸に大きな頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持つ托鉢僧姿の田の神がある(旅僧型)。鹿屋市や肝属郡を中心とした地域では最も多い田の神像である。旅僧型の田の神は肝付町宮下川北の「明和8(1771)年」の像や「安永4(1775)年」の下名真角の田の神などが古く、多くは19世紀以降の作である。
 大牟礼の田の神はその中でも比較的古く19世紀初頭の作と思われる。長衣を着たすらっとした僧型立像の田の神と同じくシキを後ろに長くたらして被るが、裁着け袴をはき、胸に宝珠描いた頭陀袋をさげ、スリコギを持つことや、頭が大きく4頭身の体形など僧型立像の田の神とはかなり違っている。右足は左足より少し上げて台座にのせて、托鉢する姿を表している。顔は一見、童顔風であるがよく見ると山伏僧らしい厳しさが感じられる風貌である。数多い旅僧型田の神の中では下名真角の田の神ととも優れた田の神像である。鹿屋市の有形民俗文化財に指定されている。



 
車田の田の神
鹿児島県鹿屋市吾平町上名車田 
 車田の田の神は、岩を丸彫りにした像で、余った岩に山水と磨崖仏風の小さな浮き彫り像を刻み添えている。メシゲとスリコギを持つ像で、渦巻き模様のシキをアミダにかぶっていてるため、シキが光背のように見える。頭の上と胸元にも小さな仏像が付けてある珍しい田の神像である。
 山水は修験道場としての山を示し、その山で修行する効験あらたかな僧を田の神としたのではないだろうか。穏やかな面相と端正な姿の僧型田の神像である。刻銘がないが、かなり古い時代のものと考えられる。鹿屋市の有形民俗文化財に指定されている。



 
令和8年7月10日  大隅の田の神さあ 鹿屋市吾平町の田の神1
中福良の田の神
鹿児島県鹿屋市吾平町上名中福良
 大隅半島の中部の肝付町(旧高山町)や東串良町・鹿屋市にはワラヅトを背負い鍬を持つた、シキを肩に垂らしてかぶり、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型の田の神がある。これらは薩摩半島の僧型のメシゲ・鍬持ち・ワラヅト負いの形が、伝わって、変化して生まれたものと考えられる。
 このような鍬持ち、ワラヅト負いの田の神の代表と言えるものの一つが鹿屋市吾平町(あいらちょう)の「中福良の田の神」である。鍬は薩摩半島の僧型田の神と違い、両手を鍬の柄に置き、メシゲは背負ったワラヅトにさしている。近くの肝付町の東大園によく似た田の神があり、それには「明和8年(1771)」の紀年銘があることから、この像も同じ頃の作と思われる。八幡神社の境内にあり「八幡神社の田の神」として鹿屋市の 有形民俗文化財に指定されている。



 
下名真角の田の神
鹿児島県鹿屋市吾平町下名真角   「安永4(1775)年」
  長衣を着たすらりとした鍬持ちやメシゲ・宝珠持ちの田の神以外に大隅地方で特色ある僧型の田の神として、シキを後に頭巾風に長く垂らして被り、胸に大きな頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持つ托鉢僧姿の田の神がある(旅僧型)。鹿屋市や肝属郡を中心とした地域では最も多い田の神像であるため大隅型とも呼ばれる。
 下名真角(しもみょうますみ)の田の神は旅僧型の田の神の代表作の一つである。右手にはスリコギ、左手にはメシゲ、この二つを直交する位置に持たせ、右足は左足より少々上げて台石にのせて、歩く姿を表している。シキの下には総髪姿のはえ際がくっきりしていて、山伏僧の風貌がうかがえる。この型の田の神の最も古いのは「明和8(1771)年」で、この田の神はそれとほぼ同じ頃の「安永4(1775)年」の作である。



     
令和8年7月9日  大隅の田の神さあ 肝付町の田の神4
花牟礼池の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町新富 花牟礼  「明治14年(1881)」
 「花牟礼池の田の神」は花牟礼池の北の道路沿いに頭部がない石仏と並んで立っている。シキを肩まで垂らして被り、頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを斜め横にして持つ旅僧型の田の神像である。丸顔の優しそうな顔の田の神である。「宮下南の田の神」に比べると着衣や頭陀袋などを細かいところまで表現しているが形式的である。下半身が破損していて破損した脚などが隣に置かれていて、一見すると座っているように見える。背後の支え石にいっぱいに「明治十四年」の刻銘がある。支え石も下の半分が破損されていて、壊れた石材のかけらなどを下に入れて倒れないようにしている。



下宮下の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町宮下
 「下宮下の田の神」は「下宮下」のバス停近くの道路際に水田に向かって立っている。撮影した時にはヒサカキ?が植えられていて、植木に挟まれて田の神は立っていて 一部陰になった写真しか撮れなかった。この像もシキを肩まで垂らして被り、頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを斜め横にして持つ旅僧型の田の神像である。破損したのか立つ脚が短い。面長の引き締まった顔が印象に残る。



  
令和8年7月8日  大隅の田の神さあ 肝付町の田の神3
波見下の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町波見波見下
 旅僧型の田の神が急増するのは十九世紀初頭以降である。十九世紀初頭には鹿屋市の大牟礼田の田の神・大脇の田の神塚・芝原の田の神などの秀作もあるがそれ以降は形式化・画一化が進んで、上衣や裁着け袴(たっつけはかま)など着衣などのしわや衣紋を省略した、おおざっぱな表現のものが多くなる。
 波見下の田の神は十九世紀初頭以降の作と思われ、着衣など形式化は見られるが、頭に被ったシキは編み目をしっかりと表現していて、全体に丁寧に彫られた秀作である。特に顔は西横間の田の神によく似た女性的な優しく引き締まった顔で印象深い。
 側面から見ると台石に座っているように見えるが、座っている角石は背後の支え石と考えられる。下名真角の田の神など僧旅僧型の田の神の多くは台石と共石で踏み出そうとする像を支えるための支え石を置いている。



 
宮下南の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町宮下   「慶応4(1868)年」
  19世紀後半になると旅僧型の田の神像は形式化が進んで、上衣や裁着け袴(たっつけばかま)など着衣などのしわや衣紋を省略した、おおざっぱな表現のものが多くなる。そのような田の神の一つが宮下南(みやげみなみ)の田の神である。
 この田の神は写実的な表現という点では下名真角の田の神などと比べれば劣り、体躯は金属でできたロボットのようである。顔も素朴で、下名真角の田の神の托鉢僧らしい厳しさや、波見下の田の神のような女性的な優美さとはほど遠い。しかし、この抽象的で素朴な表現が、素朴で愛らしい顔が石の持つ素材の力を引き出し、この田の神の魅力となっていて、私のお気に入りの田の神の一つである。
 「慶応4(1868)年」刻銘があり、江戸時代最後の年の作である(慶応4(1868)年ぱ9月から明治元年となる)。



                              
令和8年7月7日  近くの水田地帯にて
オオヨシキリ幼鳥
 水害対策の遊水池予定地は水田の面影は全くなくなりオギがどんどん増えて、4分の1ほどはオギ原になっています。そのオギ原のあちこちでオオヨシキリが喧しく鳴いていました。オギ以外にオオアレチノギクが一面に生えた草地があり、そこに3羽の小さめのオオヨシキリがいて草から草へと飛び移っていました。幼鳥と思われます。
 
トビ
高い上空を旋回していたトビが電柱にとりました。



令和8年7月6日  大隅の田の神さあ 肝付町の田の神2
大隅の田の神さあ9
(肝付町・鹿屋市吾平町)
 「大隅の田の神さあ9」は東串良町の南にある肝付町と肝付町の西隣の旧五平町(鹿屋市吾平町)の田の神を掲載する。この地域の田の神も東串良町と同じくすっきりと端正な姿の僧型立像の田の神と托鉢僧姿の旅僧型の田の神が多い。

 すっきりと端正な姿の僧型立像の田の神はシキを背後に長く垂らして被り、大きな袖のついた長衣を着ている。ワラヅトを背負い、両手を重ねて鍬の柄を杖を支えるように持った田の神(肝付町の「野崎の田の神1・2」・「西横間の田の神1」・鹿屋市吾平町の「中福良の田の神」) と、俵の上に立って手にはメシゲと宝珠を持ち帯にヒョウタンと木の葉杯を下げている田の神(「塚崎の田の神」)がある。これらの像は18世紀中旬から19世紀初めのもので、共に目鼻立ちが美しく女人風の田の神像である。

 托鉢僧姿の旅僧型の田の神はこの地方では最もよく見かける田の神である。西日本新聞発行の「田の神サア百体」小野重郎著では高山町(肝付町)の「川北の田の神」が明和8(1771)年としているが「川北の田の神」を見つけることが出来なかった。私が見た中では鹿屋市吾平町「下名真角の田の神」が古く安永四年(1775)の刻銘があった。「下名真角の田の神」は19世紀初頭の作と思われる鹿屋市吾平町「大牟礼の田の神」や肝付町の「波見下の田の神」などはよく似ていて頭巾風のシキを肩から背にかけて垂らして被り、長い袖のある上衣と裁着け袴を着け、胸に宝珠を着けた角形の頭陀袋を首から下げている。右手に太く短いスリコギ、左手にメシゲを持つ。村々を巡る山伏の托鉢僧の様である。片足を少し持ち上げて歩く姿を表している。

 着衣や頭陀袋、スリコギ、メシゲの位置、右足を持ち上げて歩く姿まで全く同一形の田の神が昭和時代まで次々と像立された。「下名真角の田の神」「大牟礼の田の神」「波見下の田の神」以外にこのページ「大隅の田の神さあ9」では肝付町の「花牟礼池の田の神」「宮下南の田の神」「宮下下の田の神」、鹿屋市吾平町の「苫野の田の神2」を載せた。

 すっきりと端正な姿の僧型立像の田の神と旅僧型の田の神以外ではメシゲとスリコギを持って、渦巻き模様のシキをシキを光背のようにアミダにかぶった鹿屋市吾平町の「車田の田の神」がある。頭の上と胸元にも小さな仏像が付けてある珍しい田の神像である。



      
西横間の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町新富西横間 「天保七年(1836)」
 肝付町の「西横間の田の神1」は、ワラヅトを背負い鍬を持つ田の神像で天保八年(1836)の紀年銘を刻む。 傷みが少なく、目鼻立ちが美しい女人風の顔が素晴らしい。この田の神の横には、右手にスリコギ、左手にメシゲを持つ男性的な顔の田の神(「西横間の田の神2」)が、まるで夫婦のように並んでいる。
 
西横間の田の神1
 この地方に産する本城石と呼ばれる赤黒い石材に刻んだ、ツト負い鍬持ちの僧型立像の田の神である。赤黒い石材と袖口・衿・唇などの赤いベンガラの彩色が、調和とれた姿態と端正な女人風の顔を引き立てている。背後に「天保七申年十一月吉日」の刻銘があり、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像の田の神としては比較的新しいが「野崎の田の神2」「塚崎の田の神」と比べても遜色はない。
 
西横間の田の神2
 「西横間の田の神1」と同じく本城石と呼ばれる赤黒い石材に刻んだ田の神像である。この像も赤いベンガラの彩色が残っている。右手にスリコギを立てて持ち、左手にはメシゲを横にして持つ。旅僧型の田の神と考えられるが、被っているシキは頭巾風ではなく笠状である。修行を積んだ僧のような穏やかな顔つきで、「西横間の田の神1」と対照的である。




   
令和8年7月4日  大隅の田の神さあ 肝付町の田の神1
野崎の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町野崎東大園 「明和8年(1771)」・「寛保2(1743)年」 
 大隅半島の中部、鹿屋市や肝属郡のシキを肩に垂らしてかぶり、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像の田の神が多くある。その多くが両手で鍬を体の正面で杖を支えるように持った田の神である。このような女性的な表情の鍬持ちの僧型立像の田の神の最の最も古い紀年銘を持つ像は肝属郡肝付町野崎東大園にある。2体並んだ田の神の向かって右にある像(野崎の田の神1)がそれで、寛保2(1743)年の刻銘がある。左側の像(野崎の田の神2)には明和8年(1771)の刻銘がある。この2体は女性的な表情の鍬持ちの僧型立像の田の神で唯一、県の有形民俗文化財に指定されている。リニューアル前は「東大園の田の神」としていたが、鹿児島県の指定文化財の名前に合わせて「野崎の田の神」とした。
   
 
野崎の田の神1
 寛保2(1743)年の刻銘がある向かって右の田の神像である。シキを肩に垂らしてかぶり大きな袖のついた長衣を着てワラヅトを背負い鍬を持つた田の神である。顔は大きく破損されて痛々しい。
 
野崎の田の神2
 左にある「野崎の田の神2」は鹿屋市吾平町の中福良の田の神と共にこの地方の鍬持ちの僧型立像の田の神の代表的な像である。黒い凝灰岩の丸彫り像で、克明な藁の編み目を刻んだ肩までたらしたシキや帯紐を前で大きく結んだ、袖の長い着流しの長衣などの精緻な表現と優しい眼差しが印象的な田の神像である。背後にワラヅトを斜めに負い、ツトの上にはメシゲがかざしてある。


塚崎の田の神
鹿児島県肝属郡肝付町野崎塚崎  「延享2年(1745)」
 塚崎の田の神はワラヅトを背負い鍬を持つた「東大園の田の神」などと同じように大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の田の神である。鍬を持たず、2俵の俵の上にスラリと立って、手にはメシゲと宝珠を持ち、帯にはヒョウタンと木の葉杯を下げている。顔は女性的で「西横間の田の神」とならぶ美しい容貌である。「野崎の田の神」などから派生した亜型の僧型立像の田の神である。
 「延享2年(1745)」の紀年銘があり、この亜型の僧型立像の田の神はメシゲ・宝珠持ちの像もワラヅトを背負い鍬を持つた像と同じ頃から造立が始まったと考えられる(ワラヅトを背負い鍬を持つた像の最も古い紀年銘は2体の東大園の田の神の1体の「寛保3年(1743)」)。他に東串良町新川西下の下伊倉の田の神もメシゲ・宝珠持ちのスラリとした田の神像である。



   
令和8年7月2日撮影  近くの水田地帯にて
セッカ・オオヨシキリ・チョウゲンボウ
セッカをようやく撮影できたのですが、とまっている場所はフェンスでした。
オオヨシキリは電線にとまって鳴いていました。
草原にとまっている鳥を見つけて、セッカと思ってカメラを向けましたがオオヨシキリでした。
 車に乗って水田地帯を周っているとホバリングしているチョウゲンボウを見つけました。ホバリングのシーンは撮れませんでした。なんとか、遠くの民家のテレビアンテナにとまっているところを撮影しました。



 
令和8年7月2日  大隅の田の神さあ 東串良町の田の神2
安留(やすどめ)の田の神
鹿児島県肝属郡東串良町川東安留
 この像もシキを肩に垂らしてかぶり、藁苞を背負い、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像の田の神は旅僧型の田の神と共に鹿屋市・肝属郡のよく見かける田の神である。肝付町の「東大園の田の神」や鹿屋市吾平町「中福良の田の神」などがそれにあたる。この「安留の田の神」もシキを頭巾風にかぶり大きな袖のついた長衣を着た旅僧型の田の神で鍬を杖のように両手で体の正面に持っている。像高82㎝で背負った藁苞にメシゲを着けている。顔の損傷がひどいのが残念である。



 
下伊倉の田の神
鹿児島県肝属郡東串良町新川西下伊倉 「文化4年(1807)」 
 この像も「安留の田の神」と同じくシキを肩に垂らしてかぶり、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像である。田の神は安留の田の神」のようにワラヅトを背負い鍬を持つ像以外に、米俵にのりヒョウタンをさげメシゲと宝珠を持つ像がり、肝付町野崎の「塚崎の田の神」とこの「下伊倉の田の神」がそれである。
 下伊倉の田の神は像高96㎝、台石の高さ60㎝(俵も含む)の大型の田の神で、右手にメシゲ、左手に宝珠を持ち、帯紐に大きなヒョウタンと木の葉の形の杯を下げている。正面から見ると塚崎の田の神と同じくすらっとした姿であるが、横から見ると量感がある。顔は端正であるが男性的な相貌である。「文化4年(1807)」の紀年銘があり、県の有形民俗文化財に指定されている。



7月 9月