磨崖仏100選V
南北朝時代・室町時代・江戸時代・昭和時代 
 
磨崖仏100選一覧  時代別一覧  所在地別一覧  
磨崖仏100選T   磨崖仏100選U


 
磨崖仏100選(61)   赤水岩堂観音磨崖仏
鹿児島県霧島市横川町赤水城ヶ崎岩堂  「建武2(1335)年 南北朝時代」
 天降川の中流域は新川温泉郷で妙見温泉や天降川温泉なと風情ある温泉が多くある。その新川温泉郷の北の端がラムネ温泉と塩浸温泉である。ラムネ温泉から北は天降川沿いの道もなくなり天降川は深い渓谷になる。その渓谷近くの岸壁に岩堂観音磨崖仏がある。岩堂観音磨崖仏へは、谷の北の尾根づたいに細い農道を降りていく。案内板がなければたどり着けない山の中にある。

 秘境を思わせる深い谷の大岸壁に、高さ1.4m、幅3.5m、深さ0.5mの龕を穿ち、阿弥陀三尊を厚肉彫りする。中尊は上品上生の阿弥陀如来で非常に量感のある充実した磨崖仏である。左右に観音・勢至の立像がある。

 阿弥陀如来といえば、定朝作の平等院阿弥陀如来座像に代表されるような情感豊かな優美な仏といったイメージが強い。しかし、この阿弥陀如来は、逞しく力強く、どことなく上野公園の西郷さんの銅像の顔に似ていて、平等院像とは、また違った阿弥陀如来の慈悲の奥深さを感じられる秀作である。  建武2年(1335)の銘があり、南北朝時代初期の作である。 


 
磨崖仏100選(62)   小路磨崖仏 
 鹿児島県薩摩川内市東郷町三ヶ郷小路 「永正14年(1517)  室町時代後期」
 中世の山城、東郷渋谷一族の鶴ヶ丘城跡の岸壁に彫られた磨崖仏である。小像であるが宝冠や衣に赤い着色が残り印象的な磨崖仏である。

  宝冠をかぶっている為、一見して胎蔵界大日如来にみえる。しかし、上部に(キリーク)とあるので阿弥陀如来であることがわかる。

 この像は紅玻璃式阿弥陀如来座像で、大衆に人気のあった阿弥陀如来を密教の最高仏、大日如来に近づけようと、宝冠をかぶらせた上に仏身全体を玻璃(ガラス) 光沢で赤を塗った阿弥陀如来で、高野山櫻池院の絹本図幅に遺存するのから始まったという。石仏ではわが国唯一のものである。永正十四年丁丑(1517年)九月八日の銘がある。


 
磨崖仏100選(63)   上畑磨崖仏
大分県竹田市上畑 桑迫 「 室町時代後期」
 竹田市炭竈の宮城台小学校の西の約600m上畑へ向かう道の北の山中にある。案内板が道沿いにあり、そこから急な階段を上ると、岩肌に張り付くように作られたお堂が見えてくる。凝灰岩の崖に、4つの深い龕を作り、13体の像を厚肉彫りに彫り出されている。

 メインとなるのは右から2つ目の第二龕で、像高110pの釈迦如来立像を中尊に左に地蔵菩薩(像高108p)右に観音菩薩(像高108p)を刻む。写実的な所もあるが、衣紋等の表現は形式的で室町末頃の制作と思われる。しかし、彩色が残り、4頭身で、こけしのような素朴な味わいのある三尊である。他の3つの龕には併せて5組の夫婦像と思われる比丘・比丘尼像が刻まれている。


 
磨崖仏100選(64)   木下磨崖仏
大分県豊後大野市大野町十時木下 「南北朝時代」
 国道57号線沿いの大野町の中心地から北西の大野町十時木下にある。十時バス停から徒歩20分のもと吉祥庵と称された禅堂があったと伝えられる付近の、南面の岸壁に彫られている。

 岸壁面の下部に、高さ50pの長い壇を作り、壇上の壁面に、幅560p高さ108pの長い龕を彫り込み、中に比丘形6体と如来形2体 ・菩薩像2体が厚肉彫りされている。 向かって右端には別の龕があり、願主と思われる大きめの比丘像が彫られている。国東の県指定の堂の迫磨崖仏が思い起こされる。


 
磨崖仏100選(65)   大化切小野谷磨崖仏(今山磨崖仏)
大分県豊後大野市緒方町大化今山、切小野谷 「室町時代」
 豊肥本線緒方駅の南6qの山中にある。国道502号線、緒方井上付近から県道634号線を南に1380mほど行った所に今山磨崖仏という案内板があり、その案内板に沿って1100mほど行くと神社に到着する。そこから案内板に沿って、細い山道を下ると切小野谷とよばれる谷にたどり着く。大化切小野谷磨崖仏は谷を少し上った東を向いた高さ約4bの垂直な岸壁にある。

 高さ2.6b幅1.16bの龕を彫り、中に髪の毛を逆立て、右手で剣を構え、左手を腰に当てて羂索を持つ不動明王立像を半肉彫りする。胸には垂れた両乳房が刻まれている。おそらく、昔は乳のでない婦人の参詣を集めていた、いわゆる乳不動であったと思われる。


 
磨崖仏100選(66)   下市磨崖仏
大分県宇佐市安心院町下市 「室町時代」
矜羯羅童子・不動明王・薬師如来・阿弥陀如来
 宇佐市安心院支所の北西、安心院大橋の近くの三女神社の西側の小丘陵の東と南の崖に10体ほどの仏像を彫られている。東崖には岩壁の亀裂を巧みに生かして、天部形像(多聞天?)・観音座像・阿弥陀如来座像・薬師如来立像・不動明王座像・矜羯羅童子の各像を薄肉彫りする。岸壁が南側へ曲がりこむ角には、阿弥陀如来座像2体が彫られ、南崖の上部には薄肉彫りの阿弥陀如来像が彫り出されている。

 この磨崖仏の西側は、「下市百穴」と呼ばれる横穴古墳群になっている。また、この磨崖仏の南西は、スッポンの養殖場て゛、現在、安心院町はスッポンのと葡萄の産地として知られている。


 
磨崖仏100選(67)   楢本磨崖仏
大分県宇佐市安心院町楢本 「室町時代」
不動明王
十二神将
 山中の杉林の中の安山岩層に数十体に及ぶ多くの磨崖仏が上下二段に、薄肉彫りされている。まず、目にはいるのは上段の不動明王で、顔は大きく誇張された表現になっていて、やや荒っぽい。その他、上段には薬師三尊・釈迦三尊・多聞天・仁王などの像が彫られている。

 下段は、1m前後の薄肉彫り像や半肉彫りの像が数多く彫られている。十王・地蔵・阿弥陀三尊・不動・多聞天・十二神将などである。阿弥陀如来座像と比丘形座像を刻んだ磨崖宝塔もある。

 不動明王横に「応永35年(1428)」の銘があるので室町時代の作であることがわかるが、作風から見て、すべて同じ時期につくられたとは考えにくい。下段の諸像の方が整っていて、気品がある。これらの像は、上段の大作よりやや古い時期の作ではないだろうか。


 
磨崖仏100選(68)   倉成磨崖仏
大分県杵築市山香町倉成 「南北朝時代」
倶生神像・十王像・童子形像
 石切場入口の北東を向いた岸壁に、彫られている。地蔵菩薩を中心に左右に2体の十王像と、その他、倶生神像2体、童子形像2体の計7体の像を厚肉彫りする。堂の迫磨崖仏と同じように極楽往生を願って彫られた摩崖仏である。十王像は迫力豊かな秀作である。


 
磨崖仏100選(69)   棚田地蔵磨崖仏
大分県杵築市山香町大字下字棚田 「室町時代」
 旧道沿いの棚田集落の民家の裏の山際の岩壁に7体の地蔵が彫られている。厚肉彫りで、彩色されていて、瓦葺きの立派な覆堂を兼ねた礼堂が建てられている。

 中央の地蔵像は結跏趺坐し、定印の掌に宝珠を持つ座像で、他の像より一廻り大きい。像の額から上は欠損している。向かって左には錫杖が立てかけるように別個に彫られている。中尊の左には3体の地蔵立像が彫られていてる。中尊の左横の地蔵の持つ宝珠は蓮台のように見える。向かって右には2体の地蔵立像と地蔵菩薩半跏像が彫られている。破損していてわかりにくいが半跏像は左手を頬に当てた思惟像のように見える(弥勒菩薩などの思惟像は普通は右手)。


 
磨崖仏100選(70)   堂の迫磨崖仏
大分県豊後高田市大岩屋 応暦寺裏山 「南北朝時代」
六観音・十王像・六地蔵
施主夫婦像・倶生神(司録像)
 応暦寺の本堂の左横から奥の院へ通ずる山道の傍の崖の上に、横に細長い3つの龕が彫られ、左から六観音・十王像・六地蔵・施主夫婦像・倶生神(司録像)を半肉彫りする。司録像は筆を持っている。おそらく、倶生神に夫婦の善行を記録させ、死後、冥界の十王に、報告させて、極楽往生を願ったものと思われる。六観音・六地蔵は六道輪廻の苦しみから救済を願ったものであろう。 いずれも、50cm前後の小像であるが、印象に残る磨崖仏である。


 
磨崖仏100選(71)   千光寺阿弥陀三尊磨崖仏
広島県尾道市東土堂町 「室町時代後期」
  千光寺には石仏ブームのきっかけとなった若杉慧の「野の仏」によって、全国的に知られるようになった阿弥陀三尊磨崖仏がある。 参道の階段の隅にある像高50pほどの小さな磨崖仏であるが、 かわいらしいこけしのような磨崖仏である。室町時代末期の作と思われる。


 
磨崖仏100選(72)   白瀧山竜泉寺磨崖仏
広島県三原市小泉町 「室町時代」
深沙大将・常啼菩薩・玄奘三蔵・勇猛心地善神・吠室羅摩拏善神(多聞天)
提頭ら宅善神・法湧菩薩・抜除罪垢善神
 白滝山は因島以外に三原市小泉町にもある。 三原市の白滝山へ行くに は、三原駅前より、「小泉小学校前」 行きのバスに乗り、終点で下車し、そこから登山道を約4km歩く。

 その白滝山の山頂付近に「竜泉寺」がある。この寺の本堂裏の白滝山頂は「八畳岩」 と呼ばれる巨大な花崗岩の露頭で、その「八畳岩」の岩壁に、釈迦三尊と、石仏では珍しい十六善神の磨崖仏がある。十六善神磨崖仏は浅い半肉彫りの磨崖仏でやや誇張された表現であが、岩壁いっぱいに等身大の像が彫られていて迫力がある。

  十六善神は大般若経とこの経を読誦する守護する十六の薬叉善神である。形像は、主に二臂の憤怒相の武神形につくられ、武器や宝塔などの持物を執る。十六善神とは提頭ら宅善神(だいずらたぜんじん・持国天))・毘盧勒叉善神(びるろくしゃぜんじん・増長天)・摧福毒害善神(さいふくどくがいぜんじん)・増益善神(ぞうやくぜんじん)・歓喜善神(かんきぜんじん)・除一切障難善神(じょいっさいしょうなんぜんじん)・抜除罪垢善神(ばつじょざいくぜんじん)像・能忍善神(のうにんぜんじん)・吠室羅摩拏善神(べしらまなぜんじん・多聞天)・毘盧博叉善神(びるばくしゃぜんじん・広目天)・離一切怖畏善神(りいっさいふいぜんじん)・救護一切(くごいっさいぜんじん)・摂伏諸魔善神(しょうふくしょまぜんじん)・能救諸有善神(のうぐしょうぜんじん)・師子畏猛善神(ししいもうぜんじん)・勇猛心地善神(ゆうもうしんちぜんじん)の十六神である。

  竜泉寺磨崖仏では他に般若経の授持伝来に関係深い法涌菩薩・常啼菩薩・玄奘三蔵・深沙大将の像が刻まれている。

 「八畳岩」 上に登ることができ、大三島や生口島などの島々、周辺の山々が見渡せ、素晴らしい眺めである。 谷を隔てて南に見える山が、江戸時代の磨崖三十三所観音のある黒滝山になる。


 
磨崖仏100選(73)   山崎六地蔵・不動磨崖仏
岡山県総社市下原字山崎 「室町時代」
六地蔵
不動明王・六地蔵
 総社市下原の高梁川岸近くに六地蔵と不動の磨崖仏がある。露出した花崗岩の断崖を、幅約3.6m、高さ3mに削り取り磨き、これを3区に分け、1区に2体つづの地蔵を舟形の中に半肉彫りしたもので、岡山県の重要文化財に指定されている。

   各像の高さは40pほどで、六体とも左手に宝珠を持ち、右手に錫杖を持つ延命地蔵で、頭部が大きく愛らしい表情が印象に残る。下に単弁の蓮座を線彫りする。六地蔵は、六道に輪廻転生する衆生を救済する地蔵の姿を表したもので、印相・持ち物は六体異なるのが本来の姿であるが、時代が下るに従って六体とも同じ像形のものも作られるようになった。

 「恭借十万信男信女力労為法界衆生利益故」 「應永五戈寅八月 日 北斗代 大願主道清 宮」 の銘文があり、室町初期の応永5年(1398)年に大願主道清が十万の男女信徒の合力を得て法界衆生の為に造立したのがわかる。

 六地蔵の左端に地蔵とほほ同じ大きさの不動明王座像が半肉彫りされている。この不動も六地蔵とおなじような穏やかな表情であるが、彫りは伸びやかさに欠ける。制作年代は六地蔵より下ると思われる。


 
磨崖仏100選(74)   石槌山毘沙門天磨崖仏
岡山県倉敷市真備町尾崎石田、石槌山 「室町時代後期」
井原鉄道の備中呉妹駅の北方1kmに戦国時代の山城(砦)跡でもある標高165mの鳥が嶽(呉妹富士)がある。その鳥が嶽と峰続きの東500mの石槌山(129m)の岩壁にこの毘沙門天磨崖仏がある。高さ390cm,横370cm,奥行290cmの巨岩の南面に、像高180mの邪鬼を踏まえた毘沙門天立像を薄肉彫りする。

 甲冑をつけ左手に宝塔、右手に宝棒を持つ。日差山・庚申山の像と比べるとより立体的な表現で、甲冑も精緻に彫り込んでいて、ベンガラによる色彩も残り、力強い堂々とした作品である。備前の毘沙門天磨崖仏の中では白眉の作といえる。

 室町時代後期の作とすれば、戦国時代、鳥が嶽を砦とした毛利氏が武運の守護として、勝軍祈願して作られたものと考えられる。毘沙門天は護法身としての性格と、その武装した姿により、王城鎮護や城郭や町の守護神としての信仰もあったようで、この像もそのような意味合いでも造立されたのかもしれない。

 真備町石田の集落の東の端に石槌山への登山口があり、案内板が立っている。登山口から10分足らずで毘沙門天磨崖仏の前に着く。毘沙門天の前は視界が開け、小田川と呉妹の集落を見下ろせる。


 
磨崖仏100選(75)   觜崎屏風岩地蔵磨崖仏
兵庫県たつの市新宮町觜崎  「文和3年(1354) 南北朝時代」
 觜崎屏風岩地蔵磨崖仏は兵庫県の揖保川沿いの屏風岩とよばれる大岩壁に彫刻された磨崖仏である。

 船型の彫り窪みの中に高さ203pの地蔵立像を厚肉彫りする。彫りの深い大きな顔で肩幅も広く、重厚な表現で、左手に錫杖、左手に宝珠を持ち沓をはく。「文和三年(1354)十月廿四日」と南北朝時代の造立銘がある。


 
磨崖仏100選(76)   切畑大円小松阿弥陀三尊磨崖仏
大阪府豊能郡豊能町切畑大円小松 「南北朝時代」
 切畑大円小松阿弥陀三尊磨崖仏は府道の横の崖の上にあり、磨崖仏に行く道はなく、草におおわれた崖をよじ登るしかない。高さ75p、横幅3mの岩面に舟形の彫り込みを3つつくり、像高27pの定印阿弥陀座像と中央の阿弥陀に体を向けた観音・勢至菩薩を厚肉彫りする。肉付けがよく、丸みのある彫りの童顔の顔は愛らしく魅力的である。


 
磨崖仏100選(77)   北出橋阿弥陀磨崖仏
奈良市阪原町中村 「南北朝時代」
阪原北出橋近くの白砂川の川岸の大きな岩に彫られている。川の清流と溶け合った風景は素晴らしく、入江泰吉や佐藤宗太郎など多くの写真家がこの風景を撮っている。

 方形の枠の中に壺形の光背を深く彫りくぼめて、像高91pの来迎阿弥陀像を半肉彫りしたもので、文和五(1356)年の北朝の年号を刻む。保存状態も良く、南北朝時代を代表する磨崖仏である。品の良い整った顔であるが、上出阿弥陀磨崖仏に比べると力強さに欠ける。


 
磨崖仏100選(78)   経堂ヶ谷不動磨崖仏
奈良県桜井市多武峰経堂ヶ谷 「延文3(1358)年 南北朝時代」
 経堂ヶ谷不動磨崖仏(像高75p)は多武峰の谷の岩に火焔形光背を彫り窪めて半肉彫りで刻まれた磨崖仏で鬼のような恐ろしい顔の不動立像である。顔の割に装飾的な彫りが目立ち力強さに欠ける。南北朝時代中期の「延文3(1358)年」の造立年号の記銘がある。


 
磨崖仏100選(79)   唐臼の壺阿弥陀磨崖仏
京都府木津川市加茂町東小 「康永二年(1343) 南北朝時代」
 藪の中地蔵から岩船寺方面に府道を進むと、府道から分かれて「笑い仏」「岩船不動磨崖仏」などを巡って岩船寺へ行くハイキングコースがある。その道を400mほど進と「カラスの壺」と呼ぶ三差路の辻があり、そこに「唐臼(からす)の壺磨崖仏」がある。

  辻に面した小さな田んぼに巨岩が突き出ていて、その岩の真ん中に船型の彫りしずめをつくり、像高69pの阿弥陀座像を半肉彫りしたもので、左側の岩肌にも地蔵菩薩が刻まれている。両像とも衣紋や顔は誇張したく表現で共に康永二年(1343)の紀年銘を持ち南北朝時代の作である。阿弥陀像の右横には火袋を彫り込んだ線刻の灯籠が刻まれている。


 
磨崖仏100選(80)   寺田毘沙門堂北向三体地蔵磨崖仏
三重県伊賀市南寺田 「南北朝時代」
伊賀上野の東、上野市南寺田の集落の山裾に毘沙門寺が建っている。この寺の前の細い山道を300mほど進むと、道の右側に横長の大きな岩がある。岩に横長の長方形を彫りくぼめ、敷茄子つきの蓮華座に座し、右手で、短めの錫杖を斜めにして持つ地蔵菩薩を3体、厚肉彫りにする。整った端正な地蔵菩薩で印象的である。

 北向きにあるため、陽がささず、自然光ではなかなかよい写真が撮れないが、趣のある石仏である。同時代のよく似た地蔵菩薩が寺田の集落の地蔵堂にもある。敷茄子つきの蓮華座に座し、短めの錫杖を斜めにして持つ、地蔵菩薩は久居市の宝樹寺にも見られる。


 
磨崖仏100選(81)   岩谷観音磨崖仏
福島県福島市信夫山 「江戸時代」
十一面観音(西国三十三番、華厳寺)
千手観音(西国二十四番、中山寺)
 福島市の町のすぐ北にそびえる信夫山、その東端の中腹に岩谷観音がある。岩谷観音は応永二十三年(1416)に観音堂が建立されたのにはじまる。江戸時代、宝永六年(1709)頃から岩谷一面に、西国三十三所観音をはじめとして、庚申・弁財天・釜神などが彫られた。風化は著しいが厚肉彫りで像容の優れたものが多い。

 特に西国三十三番、谷汲山華厳寺の十一面観音はその中でも傑作である。気品のある面相で、量感もあり江戸時代の作とは思えない。西国二十四番、中山寺の千手観音は彫りは浅いが、彩色も残り愛らしい像である。(中山寺の本尊は十一面観音だが、ここではなぜか千手観音になっている。)       


 
磨崖仏100選(82)   岩角山磨崖仏
福島県本宮市和田東屋口 「江戸時代」
養蚕観音
案内地蔵
如意輪観音(西国十四番、園城寺<三井寺>)
 本宮市と二本松市との境に位置する岩角山(いわつのやま)に、仁寿元年(851年)慈覚大師が開基したとつたえられる岩角寺(がんかくじ)がある。岩角山はわずか標高337メートルの小さな山ながら、うっそうとしたしげった杉の木々や、、山中に点在する巨岩奇石そして那須連峰や阿達太良山を一望できる山頂からの眺めなど、魅力的な山である。福島県指定名勝及び天然記念物に指定されている。巨岩奇石の多くには線刻の磨崖仏が彫られていて、岩角山観光協会の案内板には八百八体の仏が刻まれていると記されている。現在、約200体の磨崖仏(磨崖梵字も含む)が確認されている。<小林源重著「ふくしまの磨崖仏」>

 これらの磨崖仏は元禄年間以降に彫られたもので、その中でも最も古いものが、養蚕神社の本尊として堂の中に祀られている元禄3(1690)年の紀年銘を持つ養蚕(こがい)観音とよばれる厚肉彫りの聖観音である。この観音は二本松城主丹羽光重が元禄3(1690)年に霊夢のお告げにより、養蚕業を興すにあたり刻ませたもので、顔は丹羽公に似ていると言われている。

 丹羽光重は住僧豪伝和尚とともに、岩角寺を再興し、養蚕観音造立をはじめて毘沙門堂などの諸堂の再建、三十三所観音などの線刻磨崖仏造立をすすめた。三十三所観音など線刻磨崖仏には奉納した寄進者施主名が刻まれていて、人々の信仰に支えられて岩角寺が栄えたことがわかる。

 養蚕観音とともにこの磨崖仏群の白眉は案内地蔵と呼ばれる像高300pの薄肉彫りの地蔵立像で、城主丹羽光重が亡くした子どもへの供養のために刻んだものである。三十三所観音は素朴な表現であるが伸びやかな線で描かれている。三十三所観音以外の線刻像は追刻と思われ、やや硬い表現となっている。那智観音堂の近くの岩には半肉彫りの准胝観音像がある。正徳2年(1712)の紀年が彫られている。       


 
磨崖仏100選(83)   鮭立磨崖仏
福島県金山町山入字石田山2692 「江戸時代」
鬼子母神・湯殿権現・深沙大将・九頭竜権現・風神・雷神
飯綱権現
 鮭立集落の南西の山麓の小高いところに凝灰岩の洞窟があり、その壁面に像高14pから60pに至る大小様々な刻像が、交互に40〜50体びっしりと、不動明王を中心に密教系の諸仏・天部や垂迹神像が半肉彫りされている。深沙大将(じんじゃだいしょう)や牛頭天王(ごずてんのお)・荼枳尼天(だきにてん)・飯綱権現(いづなごんげん)など石仏としては数少ない像もある。また、一洞窟に、これほど多種多様の像が刻まれているのも珍しい。飯綱権現像や愛染明王像などには彩色の跡が残っていて、もとは、美しく彩色されていたと思われる。

 この磨崖仏は天明の飢饉や天保の飢饉の惨状を見て、現在の岩淵家の祖先である修験者の法印宥尊とその子の法印賢誉が五穀豊穣と病魔退散を祈って彫ったと伝えられている。

 浅く細長い洞窟で3つほどに分かれていて、中央部の壁面は壁全体が奥まった形に掘りこまれていて、その左面と正面に40体ほど像が刻まれている。正面の中央には不動明王と:八大童子が彫られている。不動明王は像高50pほどで、龕を穿ちその中に彫られている。龕の周りは火焔光背になっていて上部は面両側の表壁をつなぎ透かし彫りにしている。八大童子は矜羯羅童子と制た迦童子はともに像高23pで、龕の両側下に彫られている。他の6童子は龕の上部と下部に彫られている。不動明王の向かって右の龕は飯豊山神社を祀る祠になっている。向かって左には龍頭観音・牛頭天王・梵天・釈迦三尊などが並んでいる。

 左面には28体の像が彫られている。左端には45p〜53pの比較的大きな像が並んでいて、左から鬼子母神・箱根権現(or湯殿権現)※2・深沙大将・九頭竜権現でこの磨崖仏で最もよくで紹介されている部分である。その右には、風神と雷神が並び、その右は4段に分かれて、荼枳尼天・淡島様・愛染明王・聖観音・渡唐天神・弁財天など諸像が所狭しと彫られている。左面の右端は摩滅が進んだ尊名不明の像(文殊菩薩?)と飯綱権現が上下に並んでいる。

 3つに分かれた右側には青面金剛・大黒天・水神・地天などが彫られているが、中央の諸像よりは摩滅が進んでいる。左側の壁面は彫られた像は見当たらない。小形ながらどの像も儀軌に準じて彫られていて、一種の曼荼羅のようになっていて魅力的である。砂岩も含んだ軟質な凝灰岩のため摩耗がすすみ、顔の細かい表情がわからず、印相や持ち物の識別が困難な像が何体かあるのが惜しい。

※1 深沙大将の磨崖仏としては他に大分県の高瀬石仏・広島県の竜泉寺白滝山磨崖仏がある。
※2 閻魔王という説が一般的であるが、閻魔王の多くは片手で笏を持つ座像であるのが通常で、閻魔王とは思えない。「仏像図彙」(元禄3年に刊行の「仏神霊像図彙」の復刻版)の伊豆箱根権現もしくは出羽湯殿権現にそっくりなことや湯殿権現・箱根権現は修験道に関わる神であることによって湯殿権現(or箱根権現)とした。
       


 
磨崖仏100選(84)   石山観音磨崖仏2
三重県津市芸濃町楠原 「江戸時代」
如意輪観音(西国第27番、円教寺)
如意輪観音(西国第1番、青岸渡寺)
十一面観音(西国17番、六波羅蜜寺)
 磨崖仏100選(84)で鎌倉時代の磨崖仏として紹介した石山観音磨崖仏の石山観音は江戸時代に彫られた磨崖仏の三十三ヶ所観音から名づけられている。

 入口の巡拝路コース案内にしたがって進むと那智山青岸渡寺本尊如意輪観音から始まる三十三ヶ所観音霊場を巡礼できる。江戸時代、西国三十三ヶ所観音の巡礼巡りの信仰の盛行とともに、西国札所の各寺院の本尊の観音を模した観音石仏が並べられ、簡単に三十三ヶ所観音霊場の巡礼巡りができるように、三十三ヶ所観音霊場のミニチュアとして三十三ヶ所観音が一寺院や一山につくられたもので、全国各地に多数見られる。

 磨崖仏の三十三ヶ所観音は福島県(福島県の磨崖仏参照)を除いたら少なく、西日本ではこの石山観音と広島県竹原市黒滝山がよく知られている。特に、石山観音磨崖仏は大型の厚肉彫りの磨崖仏で福島市の岩谷観音磨崖仏とともに江戸時代の磨崖仏の秀作である。特に、西国第27番の如意輪観音や西国17番の十一面観音観音、第12番の千手観音などは破綻のない整った像である。第一番札所の青岸渡寺本尊の如意輪観音磨崖仏の前の石水鉢に、明和9(1772)年の年号があり、観音諸像はこの頃の造立と考えられる。      


 
 
磨崖仏100選(85)   車谷不動磨崖仏
滋賀県湖南市花園 「江戸時代」
 岩根山の中腹にある。善水寺は和銅年間(708年〜715年)に草創され、最澄(伝教大師)によって中興された、国宝の本堂をはじめ多くの文化財をもつ、古刹である。その善水寺の周辺には近江を代表する不動磨崖仏が2つある。一つは、善水寺の近くにある不動寺の岩根山不動磨崖仏である。南北朝時代の初期の作であるが、拝殿があるため、正面からの写真は撮れず磨崖仏100選には入れなかった。

 もう一つはここで紹介する岩根山の北西の車谷と呼ばれる谷にはある巨大な車谷不動磨崖仏である。高さ6mあまりもある花崗岩の巨岩に、像高4mの不動磨崖仏立像を半肉彫りしたもので、江戸時代の作である。顔をはじめ衣紋の表現など形式的で写実性に欠けるが、近江では富川磨崖仏につぐ大作で、蔵王権現のように、左足膝を左に張って、右足を大きく踏み込みこんだ姿が動きがあっておもしろい。周囲の自然ととけ合った姿は魅力的で絶好の被写体となっている。   


 
磨崖仏100選(86)   福林寺跡多尊地蔵磨崖仏
滋賀県野洲市小篠原 「江戸時代」
 野洲中学校の東の裏山の中に福林寺跡磨崖仏がある。野洲中学校の東側の遊歩道に沿って小川があり、その小川にかかる小さな橋を渡り、林道を10mほど進むと、観音と阿弥陀・地蔵の3体の磨崖仏がある。形式化した室町時代の作風であるが、一番大きな観音菩薩像は端正な作で福林寺跡の磨崖仏群の中では秀作である。

 その3体の磨崖仏のある岩の奧にある、木の下の平たい岩の側面には、十三体の地蔵菩薩と思われる小さな像が並べて浮き彫りされている。いずれも両手を胸前に合掌していて、顔はすべて独特の丸顔で、ユーモアあふれる群像である。制作年代は江戸時代のと思われる。稚拙な作品であるが、福林寺跡磨崖仏の中では最も印象に残る石仏である。 


 
磨崖仏100選(87)   香高山五百羅漢
奈良県高市郡高取町壺阪香高山  「江戸時代初期」
五百羅漢
五社明神
二十五菩薩
 西国三十三所観音の6番札所、壺阪寺(南法華寺)は、お里・沢市の物語で知られる『壺阪霊験記』の舞台でもある。その壺阪寺の奥の院といわれるのが、この香高山五百羅漢である。

 壺阪寺より高取城跡へ行く道を1qほどすすむと、五百羅漢の道標が立っている。その道標から山道を少し行くと、数百体の羅漢を薄肉彫りした岩があらわれる(五百羅漢4)。像高約50pほどの像が所狭しと並んでいる。そこから数メートルほど上ったところにも、十一面観音や大黒天とともに数百体の羅漢が同じように彫られていて、壮観である。一見すると、こけしのようにすべて同じ顔、姿に見えるが、よく見ると一体ずつ姿態・表情は違い、個性が感じられる。

 香高山五百羅漢の魅力は羅漢だけではない。香高山の全山にわたって岩肌に様々な仏像が彫られていて、興味が尽きない磨崖仏群である。
 最初の五百羅漢岩から左下へ下った奧には、両界曼陀羅が彫られている。金剛界曼陀羅、胎蔵界曼陀羅とも大日如来のみを薄肉彫り像であらわし、残りは梵字であらわした、珍しい石造の両界曼陀羅である。

 五百羅漢岩から上へ登るに連れて、 地蔵・十王像、五社明神 (五社明神、毘沙門天・雨宝童子、仙人) 弘法大師像、阿弥陀来迎二十五菩薩と磨崖仏が次々と現れてくる。そして、頂上には釈迦如来が彫られていて、香高山全山が仏の世界を描いた一種の曼陀羅のようになっている。一体一体は50p前後の小像で、必ずしも優れた作とはいえないが、千体近く彫られたこの石仏群は、見る我々を圧倒する。      


 
磨崖仏100選(88)   室生寺軍荼利明王磨崖仏
奈良県宇陀市室生区室生  「享保12年(1727) 江戸時代」
 金堂前の東側の大きな岩に、約1mの舟形を彫りくぼめ、 像高約80cmの軍荼利明王を半肉彫りする。

 10本の手を持つ異様な姿の石仏であるが、 日笠をかぶったような炎髪とユーモラスな顔がどことなく親しみをもてる。稚拙な表現であるが、 江戸時代の庶民の信仰の息吹が感じられる石仏である。向かって左に、「煩悩即菩提 生死即涅槃」と刻む。       


 
磨崖仏100選(89)   庚申山毘沙門天磨崖仏
岡山市新庄上、庚申山  「江戸時代」
 岡山市新庄上の庚申山(74.2m)は、高松水攻めの際毛利方の吉川元春が本陣を構えた丘陵である。麓から真っ直ぐに300段ほどの急な階段が帝釈天を祀る帝釈堂(庚申堂)までつづく。その帝釈堂のある山上には花崗岩の巨岩がむらがり、その一つに毘沙門天を刻んだ磨崖仏がある。

 大きな花崗岩の岩の突き出た部分を平らにし、邪鬼を踏まえた等身大の毘沙門天像を薄肉彫りしたもので、右手で鬼の片足を抱え、左手で宝塔を捧げる。兜のシコロ部分が大きく金太郎人形の髪型のように見える。誇張した姿態の表現や顔つきなど、五月人形を思わせる毘沙門天像である。

 帝釈天は須弥山の頂上(喜見城)にすみ、四天王以下、三十三将を従え、天軍を指揮する仏法守護の主神である。高さ70mほどの小さな丘であるが毘沙門天を刻むこの岩をはじめ、巨岩がむらがる庚申山は仏法守護神の中心、帝釈天を祀るにふさわしい地であるといえる。


 
磨崖仏100選(90)   鷲峰山毘沙門天磨崖仏
岡山県小田郡矢掛町東三成、鷲峰山  「安永6(1777)年 江戸時代」
 鷲峰山(じゅぶうざん)は矢掛町と真備町の町境にある390mの山である。この山も信仰の山で中腹に棒澤寺(跡)がある。真言宗御室派の古刹で、盛時には8坊を擁する備中南部の大寺院であったが、昭和32年大火で、堂宇を焼失してしまい、現在焼け残り荒れ果てた倒壊寸前の堂・山門・庫裏があるのみである。(国指定重要文化財の画像3点は災害から逃れ、現在は岡山県立博物館に寄託されている。)

 現在、棒澤寺には町指定の重要文化財となっている石門と宝篋印塔が残っている。ともに中世の立派な石造品である。宝篋印塔はお堂の裏の一段高いところにはあり、そこから鷲峰山へ続く登山道がある。その登山道を10分足らず登ったところに毘沙門天磨崖仏への案内板が立っていて、そこを左へ少し入ったところに大きな岩が重なった岩場がある。その岩場の奥、南向きの岩壁に鷲峰山毘沙門天磨崖仏がある。

 約4m四方の巨岩の岩壁に光背として舟形の彫りくぼみをつくり、そこに岩座に立つ毘沙門天を半肉彫りしたもので、左手に宝塔、右手に宝棒を持つ。輪宝火焔付光の頭光や甲冑の装飾など細かいところまで精緻に彫り込んでいて、吉備の毘沙門天磨崖仏では最も写実的な作品である。石鎚山毘沙門天磨崖仏と並ぶ傑作で、矢掛町の重要文化財に指定されている。

 像の右に銘文があり、安永6(1777)年8月に浅野又三郎によって奉納されたものであることがわかる。また、像の右下には片山新助という石工名も刻まれている。


 
磨崖仏100選(91)   太田磨崖仏
大分市太田鶴迫  「宝暦10〜13年(1760〜1763) 江戸時代」
 大分市太田の鶴迫という集落の裏に太田磨崖仏はある。凝灰岩の崖に間口3.8m、高さ77p、奥行き1.25mの龕を彫り、中央に像高113pの地蔵菩薩半跏像とその左右に各3体の地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので、木造の覆堂で囲まれている。中尊の半跏像は左手に宝珠を持ち、左手首は欠落している。向かって左の3体の真ん中の像は両手に鐃を持つ。朱や緑・青・白などで彩色されていて、光背も描かれている。刻銘から江戸時代中期の宝暦年間に造られたことがわかる。


 
磨崖仏100選(92)   瑞光庵磨崖仏
大分県豊後大野市緒方町越生  「江戸時代」
 豊肥本線緒方駅の北東、1.5q、徒歩20分。田んぼを横切って、坂を上ると、深く大きな岩窟がある。その奥に、異様な雰囲気の不動明王像が刻まれている。 目はつり上がり、大きな口をくいしばって、 右手に剣、左手に羂索を持っている。 火焔と唇の赤と剣と歯の白の色が鮮やかである。 近世の地方的な作であるか、庶民のエネルギーを感じさせる磨崖仏である。


 
磨崖仏100選(93)   上坂田磨崖仏
大分県竹田市上坂田  「嘉永6年(1853) 江戸時代後期」
 豊肥本線竹田駅から西約10q、竹田市炭竈の宮城簡易郵便局の北西の山中の石窟に彫られている。上坂田東公民館の西200mに小さな鳥居があり、そこが上坂田磨崖仏への入り口である。そこから山道を数百b上ると上坂田磨崖仏のある石窟に着く。

  高さ3m、幅6m、奥行き6mの石窟の向かって右の側壁の一番奥に半肉彫りした像で、通称「安楽様」「しょうりょう様」などといわれている。 大きな顔に三角形の鼻が彫られ、口から歯をむき出し、両肩から羽根をはやしていて、 胴は作られていない。 山岳信仰との関係が考えられるが、詳しいことはわからない。石窟内に「嘉永6丑年(1853)」の銘がある。大きいだけでなく、不気味な凄みのある像である。


 
磨崖仏100選(94)   鵜戸神宮磨崖仏
宮崎県日南市宮浦鵜戸鵜戸山  「明和元(1764)年・明和2(1765)年 江戸時代後期」
不動明王
閻魔王像
 鵜戸神宮は山幸彦、海幸彦の物語で知られる山幸彦(彦火火出見尊〔ひこほほでみのみこと〕)と海神のむすめ豊玉姫命〔とよたまひめのみこと〕の子どもの「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」を祀る神社で、国定公園日南海岸の風光明媚な海岸にあり、参拝客・観光客が絶えない。明治以前は「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と称した寺院でもあった。

 その鵜戸神宮駐車場の南西側の小さな山の岩肌に、不動明王磨崖仏と閻魔王磨崖仏と四天像と称される磨崖仏がある。(新駐車場の登り口に案内板がある。)「鵜戸山仁王護国寺」の第47世の別当隆岳が明和元年(1764)から同2年に仏師延寿院に彫らしたのがこれらの磨崖仏である。

 不動明王は北斜面の突き出た三角形の岩に火焔光背とともに像高1.27mの不動明王立像を厚肉彫りしたものである。極彩色に塗られていたらしく、光背などに色彩が残る。力強い表現で江戸時代の磨崖仏としては出色の作である。

 山の南側の車道に沿った樹林下の小広場には、大型の転石が数個並んでいて、左端の石には閻魔王の厚肉彫りの倚座像が彫られている。保存状態は良く、整った木彫仏を思わせる石仏である。右手の石には四天像と称される、亡者や獄卒などを彫った像がある。


 
磨崖仏100選(95)   清泉寺跡磨崖仏
鹿児島市下福元町草野  「江戸時代」
武装忿怒立像
仁王像(阿形)
 鹿児島市の南部(旧谷山市)の海岸近くの小さな谷の崖にこれらの磨崖仏は彫られている。この谷付近以外は住宅地になっていて、ここだけは別世界のようである。1998年、最初に訪れたときは荒れ果てて草がぼうぼうと生えていて探すのに苦労した。

 谷は3つほどに分かれていて一番手前の小さな谷の崖に鎌倉時代の作と思われる阿弥陀如来座像がある。風化がすすみ目鼻などは残っていないが、おおらかな力強さを感じる磨崖仏である。

 左の谷はコンクリートで固められ、水路といった感じであるが、その谷の左の崖に仁王(金剛力士)像が2体彫られている。国東半島の石像仁王と表現がよく似ていて、おそらく江戸時代の作であろう。2010年8月に訪れたときには、対岸の谷山大観音の横に仁王像へ行く参道が作られ、間近に拝観することができた。

 清泉寺跡磨崖仏で一番、目立つのは真ん中の谷の大きな崖に半肉彫りされている江戸時代の作の2体の武装忿怒立像磨崖仏である。像高は2mほどであるが蔓草に覆われた岩の崖から今にも飛び出すような迫力がある。彫りは、平安・鎌倉期の磨崖仏のような鋭さに欠けるが、岩自体の魅力がそれを補っていて、江戸期の磨崖仏の最高傑作といえる。 


 
磨崖仏100選(96)   茂頭観音磨崖仏
鹿児島市五ヶ別府町茂頭  「享保14(1729)年 江戸時代」
 茂頭(もつ)観音は人里離れた山の中にあり、鹿児島市内の同じ観音磨崖仏でも梅ヶ渕観音と比べると訪れる人も少なく、あまり知られていない。しかし、磨崖仏としての出来映えは勝るとも劣らない。

 茂頭観音は茂頭の鹿児島本線の踏み切り手前を左折して茂頭公民館へ行く踏み切りも渡らず、山間の農道を約1Kmほど東へいった山の中にある。鹿児島市のホームページを参考に訪れたが、ホームページの地図の茂頭観音の位置が少しずれていて探すのに苦労した。

 高さ約1.2m、横幅2mの大きな岩の全面を彫り窪めて、聖観音座像を半肉彫りで刻んだ磨崖仏である。頭に弥陀の化仏を置いた宝冠をかぶり、左手に開敷の蓮華を持ち、右手は膝の上で与願印を結ぶ。ふくよかで美しい顔が素晴らしい。岩の美しさを活かした量感豊かな表現で、自然の岩の持つ厳しさとともに自然の岩の持つ温かさを感じさせる磨崖仏である。

 参道入口の鳥居の横の案内板に、「伊集院の曹洞宗雪窓院住職の伊東稔法和尚の子の佑義が、享保14(1729)年、ここに寺をたて、その時からここを寺山と呼ぶようになり、この観音像も、その時につくられたものではないかといわれている」という旨が書かれていた。地元の人は寺山観音とよんで、大切に供養しているようで、訪れたときには美しい花が供えられていた。


 
磨崖仏100選(97)   梅ヶ渕観音磨崖仏
鹿児島市伊敷町6550−5  「江戸時代」
 梅ヶ渕観音ぱ、商売繁盛、厄除け、結婚、受験などさまざまなご利益があるということで多くの人が参拝する観音磨崖仏である。2010年の1月3日に訪れたが初詣の車で道が渋滞していて、駐車場に車を入れることができず、拝観することができなかった。2010年の8月ようやく、やさしい柔和な観音様を拝むことができた。

 高さ4m以上もあろうと思われる大岩の上部に楕円形の彫り窪みをつくり、宝冠をかぶり、両手を腹の前で定印に組み、結跏趺坐する菩薩像を厚肉彫りで刻んだ磨崖仏である。大きく垂れ下がった衣は薄肉彫りで表現していて、垂れ下がった衣の部分を含むと高さ2m近い大作である。

 定印を結び岩の上に坐し、衣を垂らした表現の観音像としては白衣観音があるが(『仏像図彙』参照)、この像は頭から布をかぶっていないので、白衣観音とは断言できないが、仏画を参考に江戸時代以降に彫られた像であると考えられる。鹿児島市の甲突川に架かっていた五つの石橋を作った肥後の石工、岩永三五郎が彫ったという説があるという(梅ヶ渕観音の参拝者の祈願をするために建立された梅ヶ渕観音院のホームページ参照)。

 五ヶ別府町の茂頭観音とともに、鹿児島市を代表する観音磨崖仏である。茂頭観音に比べると量感や力強さにやや欠けるが、繊細で端正な表現の観音像である。岩の上に坐す観音を厚肉彫りと薄肉彫りを使い分けることにより見事に表していて、茂頭観音とまた違った岩の持つ良さを活かした造形となっている。 


 
磨崖仏100選(98)   久山磨崖三十三観音
長崎県諫早市久山町1159−1  「文政11(1828)年 江戸時代」
 久山町の小さなアパートの間の路地の突き当たり、丘の麓の岩肌に彫られた磨崖三十三観音である。慶厳寺磨崖三十三観音と同じく、舟形の彫り窪みをつくり、西国三十三ヶ所観音を半肉彫りしたもので、像は慶厳寺磨崖三十三観音より小さく、やや稚拙な表現となっている。慶厳寺磨崖三十三観音と同じく、彩色の跡を残す。

 崖面の中央に 「文政十一年子天 二月吉祥日 四良兵工 政五郎 虎五郎 宅次郎 赤松 当所 巡礼中 石工 三次良」の刻銘があり、文政11(1828)年に彫られたことがわかる。石工以外の人名は巡礼の世話人・施主である。他にも施主と思われる在銘が多く見られ、西国三十三カ所観巡礼の普及・広がりがうかがえる。 


 
磨崖仏100選(99)   法安寺磨崖仏
佐賀県唐津市北波多岸山 「昭和27年(1952)」
波切不動
阿弥陀如来像(四国霊場30番 善楽寺)
大日如来・倶利伽羅不動・毘沙門天・千手観音
法安寺は、朝鮮出兵(文禄の役)の時、あらぬ嫌疑を受け、豊臣秀吉により改易された、平安末期から肥前松浦地方で活躍した豪族、波多一族の追善供養のため、小野妙安が大正12年に開いた寺院である。昭和27年(1952)、小野妙安は開山30年に当り、信者とはかり、釈迦涅槃の像をはじめ不動明王・弘法大師等諸仏像百数十体を大石壁に浮彫りして、四国八十八ケ所霊場を建立したという。(法安寺HP参照)

 本堂の対面の岩山に四国八十八ケ所霊場磨崖仏が彫られている。山頂まで細い参道に沿って四国八十八ケ所霊場の本尊を始め多数の2mを超える大きな磨崖仏が刻まれている。不動明王・弘法大師・阿弥陀・薬師・大日如来など様々な仏像が見られる。

 本堂から四国八十八ケ所霊場の参道へ向かうととまず目に入るのが、見事に彩色された大きな波切不動である。右手に持つ剣を頭の上に振りかざし、左手で太い羂索を肩に担ぐように持った不動像で、燃えさかる火焔の前に立つ青い体躯の不動明王で迫力がある。剣を頭の上に振りかざした不動は全国的に見ると珍しいが、唐津市の漁港や田川市の英彦山天宮宮などに見られる(全て昭和期の作)。その波切不動の右手上に全長10mの巨大な釈迦涅槃像が彫られている。第9番札所法輪寺の本尊で、昭和27年2月12日に建立されたものである。

 次に目を引くのが大きな一枚岩に彫った蛇体不動(倶利伽羅剣)・毘沙門天などの5体の像である。その付近から登山道になり、四国八十八ケ所霊場の本尊や弘法大師像など多数の磨崖仏が彫られている。ほとんどが2mを超える量感豊かな厚肉彫りで、15番国分寺薬師如来像・30番善楽寺阿弥陀如来像は貞観彫刻を思わせる整った力強い像である。32番禅師峰寺十一面観音・70番本山寺馬頭観音や山の中腹にある高野大明神とその隣の弘法大師像は土俗的な怪奇さを持った独特な表現になっている。時代は違うが鵜殿窟磨崖仏と共通する雰囲気を持った磨崖仏である。      


 
磨崖仏100選(100)   奇絶峡摩崖三尊大石仏
和歌山県田辺市上秋津 奇絶峡  「昭和41年(1966)」
阿弥陀三尊
 奇絶峡は田辺市の会津川の上流にある渓谷で、不動滝を中心に大小無数の奇岩とともに桜や新緑、紅葉と四季折々の渓谷美を見ることができる景勝地である。不動滝の右手上方には、大きな一枚岩に彫られた磨崖仏が奇絶峡摩崖三尊大石仏である。

 昭和41年(1966)、田辺市の橋本豊吉氏の誓願を受けて田辺市や観光協会、地元の秋津愛郷会の発願によって昭和41年(1966)に造立されたもので、堂本印象画伯の原画を基にし、幅22m高さ16mの一枚岩に半肉彫りされた阿弥陀三尊磨崖仏である。

 中央の阿弥陀如来が高さ7.3m、脇侍の観音・勢至の各菩薩が4.9mもあり、近づいて見上げるとその大きさに圧倒される。阿弥陀如来は上品上生の定印の阿弥陀座像で、脇侍の観音・勢至は交脚して腰掛ける。交脚して腰掛ける像は日本の石仏ではあまり見られないが、敦煌莫高窟の最古の窟の1つの275窟の本尊弥勒菩薩などが知られていてる。この摩崖三尊大石仏は交脚菩薩像を初めとして顔や全体的な表現は西域やインドの仏像を思わせる異色の磨崖仏である。


磨崖仏100選一覧  時代別一覧  所在地別一覧  
磨崖仏100選T   磨崖仏100選U