天部諸尊像石仏[
閻魔十王
  
  
 
 閻魔は、梵語ののヤマ( Yama)の音訳で、焔摩・夜摩とも書く。古代インドの神話ではヤマ(閻魔)は人類最後の死者とされ、天上界であって死後世界の支配者であった。のちに転じて地獄の主となり、死者の生前の罪を裁く法王の性格も備えた。仏教に取り入られて焔摩天となり、運命、死、冥界を司る。密教においては各方位を守護する八方天、十二天の一尊となり、南方を守護する。その像容は左手に人頭幢を持ち、右掌を仰ぐ二臂像である。石仏としては単独像は見当たらず、竹成五百羅漢焔摩天像のように十二天像の一体としての造立が見られるのみである。

 閻魔が中国の冥界観と混淆して特異な発達を見せたのが、死者の裁判官としての閻魔王である。中国土着の冥府の支配者の泰山府君が泰山王として、閻魔の異称の平等王など、冥府における十人の裁判官、十王が唐代末に、中国における死者の七日ごとの供養と結びつき成立する。十王とは、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王、以上の十神をいう。

 死してのち未来の生を受けるに至っていない亡者は初七日に秦広王の庁で裁判を受けるに始まり、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百力日、一カ年、三年の十回まで次々に各王の庁舎で罪の軽重を判定され、次の世の生処を定められるといわれている。そして生前にあらかじめ十王に対して供養を行なった者は、死後十王の裁判を受けるとき業報を軽くすることができるといわれ、十王信仰は鎌倉時代以降、庶民の間に広がり、十王の造像も行われた。十王の像容は中国宋代の裁判官の服制で方形の冠をかぶり、道服を着て笏を持つた忿怒相が一般的である。
 
焔摩天

  石仏としての十王の造像も鎌倉時代から始まる。鎌倉〜室町時代の十王石仏の多くは地蔵石仏と共に造立された。その代表と言えるのは臼杵石仏の堂が迫石仏地蔵十王像である。大分県の倉成磨崖仏十王像、轟の淵十王像、堂の迫磨崖仏十王像も地蔵菩薩と共に造立されたものである。近世になると閻魔王像や十王像は大量につくられ、村々のの閻魔堂などに祀られた。従者として判決文を記録する司命と司録という2人の書記官(倶生神)、人頭杖、奪衣婆などもつ造像された。宮崎の鵜戸神宮閻魔王磨崖仏は厚肉彫りの倚座像で、保存状態は良く、整った木彫仏を思わせる石仏である。
天部諸尊像石仏 Index
T 梵天・帝釈天・十二天 U 金剛力士 V 四天王
W 毘沙門天(多聞天) X 深沙大将・弁才天・摩利支天 Y 大黒天・鮭立磨崖仏・竹成五百羅漢
Z 十二神将・十六善神・蔵王権現 [ 閻魔・十王 \ 青面金剛



天部諸尊像石仏[ (1)   臼杵堂が迫石仏地蔵十王像
大分県臼杵市深田  「鎌倉時代」
 ホキ石仏第二群(ホキ石仏)に続いて、ホキ石仏第一群(堂が迫石仏)がある。4つの龕に分かれていて、最初の龕(第4龕)は地蔵十王像を厚肉彫りする。中央の地蔵菩薩は右手は施無畏印、左手に宝珠を持つ古様で、石仏では珍しい右脚を折り曲げ、左足を垂らして座る像高約130pの半跏椅像である。左右に上下2段で5体が並ぶ十王像は鮮やかな色彩が残っている衣冠束帯の道服の姿で、十王像は怪異な顔が多いが、この十王像はそれぞれ穏やで誠実な裁判官といった顔立ちである。



天部諸尊像石仏[ (2)   倉成磨崖仏十王像
大分県杵築市山香町倉成  「南北朝時代」
十王像・童子形像・地蔵立像・倶生神像・十王像
倶生神像・十王像・童子形像・地蔵立像・倶生神像
倶生神像・十王像・童子形像・地蔵立像
倶生神像・十王像・童子形像
 石切場入口の北東を向いた岸壁に、彫られている。地蔵菩薩を中心に左右に倶生神像・十王像・童子形像の3体の計7体の像を厚肉彫りする。向かって右の十王像と童子形像は頭部が欠けていて痛みが激しい。2回目に訪れた時は左の十王像と一部と倶生神像は下に落ちてしまっていた。左右の童子形像は願主の夫婦像とも考えられ次に紹介する堂の迫磨崖仏と同じように極楽往生を願って彫られた摩崖仏である。残った地蔵立像と十王像は整った優れた彫りである。



天部諸尊像石仏[ (3)   堂の迫磨崖仏
大分県豊後高田市大岩屋 応暦寺裏山 「南北朝時代」
六観音・十王像・六地蔵
十王像
施主夫婦像・倶生神(司録像)
 応暦寺の本堂の左横から奥の院へ通ずる山道の傍の崖の上に、横に細長い3つの龕が彫られ、左から六観音・十王像・六地蔵・施主夫婦像・倶生神(司録像)を半肉彫りする。司録像は筆を持っている。おそらく、倶生神に夫婦の善行を記録させ、死後、冥界の十王に、報告させて、極楽往生を願ったものと思われる。六観音・六地蔵は六道輪廻の苦しみから救済を願ったものであろう。 いずれも、50cm前後の小像であるが、印象に残る磨崖仏である。



天部諸尊像石仏[ (4)   轟の淵十王像
大分県杵築市溝井 「南北朝時代」
轟地蔵
十王像
 轟地蔵は、観光客で賑わう杵築の城下から、5qほど離れた山の中の「轟の淵」という小さな渓谷にまつられている地蔵である。杵築城主木付頼直のひとり娘だった豊姫が安岐城主田原頼泰との婚約が噂によって破談になったことを嘆いてこの淵に身を投げた。これを哀れんで父頼直はこの地蔵を彫り安置して、娘の冥福を願ったと伝えられている。

 轟の淵は最奥に滝があって、一帯は行場の景観である。滝に向かって右手岩盤上に岩屋があり、その最上段に地蔵は安置されている。前面の傾斜には多くの小さい地蔵と不動石仏が並べられている。十王像は川の手前の平地に並べられている。それぞれ像高60pほどの丸彫りで、十王石仏として最も古い作例の1つである。写実的な表現で一体一体、個性を活かして丁寧に彫られた秀作である。轟地蔵と同じ、南北朝時代末期の作で、地蔵と共に極楽往生を願って像立されたのであろう。



天部諸尊像石仏[ (5)   富貴寺十王石殿・十王石仏
大分県豊後高田市田染蕗2395 「南北朝時代」
十王石殿
十王石仏
十王・奪衣婆
 富貴寺は、平等院鳳凰堂・中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられる国宝の大堂で知られた寺院である。その境内には多くの石造文化財があり、県の有形文化財に指定されている物がある。その内の1つが参道にある2基ある十王石殿で、2基で一対をなしている。それぞれ、入母屋造の屋根の石殿の細長い軸部に3体の十王像、小さい面に2体の十王像を刻む。2体の十王像の間には浄破璃の鏡※1と人頭幢※2が彫られている。撮影した時は磨崖仏を中心に撮影していて、興味はなく2ショット撮っただけで細部は写さなかった。

 富貴寺大堂の西側には十王石仏が並べられている。撮影した時は苔むしていて、あまり興味がなく江戸時代の物と思っていた。この度、掲載に当たって写真を見直してみると、轟の淵十王像までとはいかないが、苔むしているが一体一体しっかりと彫られていて、轟の淵十王像と変わらない時期の作に見えた。豊後高田市のHPで調べる見ると市の有形文化財に指定されていて南北朝時代の作としていた。向かって右端の像は  ※2奪衣婆である。

※1 浄破璃の鏡(じょうはりのかがみ)‥死者の生前の善悪の行為を映し出すという鏡  ※2 人頭幢(にんずどう)‥人頭杖または檀拏幢ともいう。閻魔天の持ち物で、亡者の罪の軽重を判定する。先端に乗っている忿怒相の人頭の口から火をはけば重く、白蓮華が生じれば軽いという。  ※2奪衣婆(だつえば)‥三途の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取る鬼婆。 



天部諸尊像石仏[ (6)   楢本磨崖仏十王
大分県宇佐市安心院町楢本 「室町時代」
 山中の杉林の中の安山岩層に数十体に及ぶ多くの磨崖仏が上下二段に、薄肉彫りされている。まず、目にはいるのは上段の不動明王で、顔は大きく誇張された表現になっていて、やや荒っぽい。その他、上段には薬師三尊・釈迦三尊・毘沙門天・仁王などの像が彫られている。

 下段は、1m前後の薄肉彫り像や半肉彫りの像が数多く彫られている。十王・地蔵・阿弥陀三尊・不動・多聞天・十二神将などである。阿弥陀如来座像と比丘形座像を刻んだ磨崖宝塔もある。

 不動明王横に「応永35年(1428)」の銘があるので室町時代の作であることがわかるが、作風から見て、すべて同じ時期につくられたとは考えにくい。下段の諸像の方が整っていて、気品がある。これらの像は、上段の大作よりやや古い時期の作ではないだろうか。

 十王像は下段にあるが破損や剥落が激しく、確認できたのは3体で、2体は頭部のみが残っていた。残り1体は十王と思って載せたが、翁像のようにも見え、十王像と違うのかもしれない。



     
天部諸尊像石仏[ (7)   治田地蔵十王磨崖仏
三重県伊賀市治田 「室町時代」
 名阪国道「五月橋インター」の東方、名張川に沿って南へ2qばかり進むと、名張川の右岸にある山添村村立のキャンプ場がある。そのキャンプ場の対岸に大小の岩壁が見える所がある。その岩壁の向かって右端の岩面に薄肉彫りと線刻を組み合わせて彫られた大きな地蔵立像がある。地蔵菩薩の右下と左下に十王像が彫られている。治田地蔵十王磨崖仏である。

 地蔵立像は右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿で、衣紋の線は大まかで、顔も品位が感じられず鎌倉期の磨崖仏に比べると劣る。しかし、川岸の岩の魅力と高さ4mという大きさがそれを補い、一見の価値のある磨崖仏である。像の左右の十王は左が閻魔王、右が太山王である。

 近くに吊り橋があり、歩いて対岸に渡ることができ、近くの岩に残りの十王が彫られていることか確認できる。下流に高山ダムがあるため雨期には下方が水没してしまう。



   
天部諸尊像石仏[ (8)   羅漢寺十王石仏
大分県中津市本耶馬渓町跡田1519番地 「室町時代」
倶生神像・閻魔王像
五官王
 無数の奇峰と渓谷が織りなす美しい景観で知られる耶馬溪の荒々しい岩山・羅漢山の中腹に位置する「羅漢寺」には五百羅漢をはじめとして多数の石仏が岩屋やその周辺にある。中心となっている岩屋は「無漏窟(むろくつ)」で釈迦三尊を中心に梵天・帝釈天・四天王・十大弟子などと五百羅漢が安置されている。一部は窟の周辺に広がっている。

 十王石仏は岩屋に建てられた「普済楼(ふさいろう)」にある千体地蔵と呼ばれる石仏群にある。大型の地蔵を囲むようにおびただしい数の小型の地蔵で構成された石仏群で、十王石仏はその千体地蔵の前に並んでいる。木彫の十王像のように一体一体、表情豊かな十王像である。これらの石仏は室町時代に来山した普覚円智という禅僧の造立と伝えられている。小型の地蔵はいくつかの図像のパターンがあり、これらは地蔵座像や十王などの造立以降、多くの人々によて奉納されてきたものである。



   
天部諸尊像石仏[ (9)   別府十王石仏
三重県伊賀市別府195 「元禄2(1689)年 江戸時代」
 近鉄大阪線の「青山町」駅の近くの道ばたに「足止め地蔵尊」と呼ばれる石仏がある。実際は地蔵でなく十王石仏である。幅152p、高さ58pの厚い花崗岩の中央に蓮華座に座った閻魔王、左右に5体づつ、立像の十王像を半肉彫りしたもので、横長の笠石をのせている。十王に閻魔王も含まれるので、笏を持たない右端の像は司録像かもしれない。左右の十王像のうち、十王らしい方形の冠を被っているのは2体のみで、後は十王らしく見えない。こけしのような可愛らしい姿の十王像である。中尊の左右に「元禄二年巳年 三月十六日」の記銘がある。



   
天部諸尊像石仏[ (10)   浄土の十王石仏
奈良県天理市福住町浄土 「江戸時代」
 福住浄土の都祁氷室神社の近くの道端に、 総高160cmの笠石仏形式の十王石仏がある。身部表面に枠取りをして三段に十一体の像を半肉彫りする。上段中央の像は阿弥陀像で、他は笏を持ち道服を着た座像の十王像である。年号を刻むが摩滅して読めない。江戸中期の作と思われる。近世になると各王を一体ずつ別々に彫ったもののほか、このように1つの石に10体を全部彫刻したものや、石祠や石憧の各面に10体を分けて彫刻しているものが多く見られるようになる。



天部諸尊像石仏[ (11)   鵜戸神宮磨崖仏閻魔王像
宮崎県日南市宮浦鵜戸鵜戸山  「明和2(1765)年 江戸時代後期」
閻魔大王像
四天像
 鵜戸神宮は山幸彦、海幸彦の物語で知られる山幸彦(彦火火出見尊〔ひこほほでみのみこと〕)と海神のむすめ豊玉姫命〔とよたまひめのみこと〕の子どもの「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」を祀る神社で、国定公園日南海岸の風光明媚な海岸にあり、参拝客・観光客が絶えない。明治以前は「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と称した寺院でもあった。

 その鵜戸神宮駐車場の南西側の小さな山の岩肌に、不動明王磨崖仏と閻魔大王磨崖仏と四天像と称される磨崖仏がある。(新駐車場の登り口に案内板がある。)「鵜戸山仁王護国寺」の第47世の別当隆岳が明和元年(1764)から同2年に仏師延寿院に彫らしたのがこれらの磨崖仏である。不動明王は北斜面の突き出た三角形の岩に厚肉彫りしたもので、江戸時代の磨崖仏としては出色の作である。

 山の南側の車道に沿った樹林下の小広場には、大型の転石が数個並んでいて、左端の石には閻魔王の厚肉彫りの倚座像が彫られている。保存状態は良く、整った木彫仏を思わせる石仏である。右手の石には四天像と称される、亡者や獄卒などを彫った像がある。



天部諸尊像石仏[ (12)   竹成五百羅漢十王像
三重県三重郡菰野町竹成2070 「江戸末期」
閻魔王像
 竹成五百羅漢は高さ約7mの四角錐の築山をつくり、頂上に金剛界大日如来と四方仏を置き、その周りに如来・菩薩・羅漢をはじめとした500体ほどの石像を安置したもので、七福神や天狗、猿田彦などもあり、大小様々な石仏・石神が林立する様は壮観で、見応えがある。江戸末期、当地竹成出身の真言僧神瑞(照空上人)が喜捨を求めて完成したもので、発願は嘉永5(1852)年で、桑名の石工、藤原長兵衛一門によって慶応2(1866)年に完成した。

 ほとんどの石仏は築山に並べられているが、十王石仏と照空上人像は入口の左側に平地にある。十王像は二段の基壇がつくられそこに安置されている。上段の中央にひときわ大きな閻魔大王像があり、その前に浄破璃の鏡(じょうはりのかがみ)と人頭幢(にんずどう 人頭杖)が置かている。上段に閻魔大王を含む5体、下段に5体の十王が並べられていて、少し離れた場所には奪衣婆も置かれている。



Z十二神将・十六善神など    \青面金剛