弥勒・釈迦石仏50選U
鎌倉時代2・南北朝時代〜現代
  
 
 京都にも鎌倉時代につくられた弥勒石仏か多くある。ただ、如来像の弥勒の印相、釈迦如来と同じで、大和の弥勒石仏のように、弥勒仏と断定できる石仏は少ない。清涼寺弥勒宝塔・霊鑑寺弥勒石仏・一乗寺北墓弥勒石仏・恵光寺弥勒石仏などが鎌倉時代の弥勒石仏で、全て如来像である。大沢の池石仏群の弥勒石仏は蓮華を持った菩薩像である。木津川市岩船のみろくの辻弥勒磨崖仏は大野寺弥勒磨崖仏と同じ消失した笠置寺の大弥勒仏の模刻である。大阪の交野市にも鎌倉時代の弥勒仏(神宮寺弥勒石仏)がある。

 室町時代以降の弥勒石仏は如来形弥勒はあまり見られなくなる。如来形弥勒は奈良県のみろく丘弥勒石龕仏(南北朝時代)・白毫寺弥勒石仏(江戸初期)などがあげられるぐらいである。弥勒石仏は菩薩形の弥勒が中心となり、多くは宝冠をいただき腹前の両手で宝塔を棒持する弥勒石仏が一般的になる。十三仏の一体として表現される場合の像容も両手で宝塔を棒持する弥勒像である。

 鎌倉時代の釈迦石仏としては三重県伊賀市の花の木三尊磨崖仏や大分市の曲石窟釈迦石仏などがあげられる。福井県の瀧谷寺石龕開山堂内の十三仏の弥勒像は蓮華座に結跏趺坐する如来形像で腹の前で定印風に両手を組み、その上に宝塔をのせている。釈迦如来は施無畏・与願印の座像である。軟質な笏谷石という石材を生かした優れた半肉彫り像である。岩谷十三仏の弥勒像は露出した岩場の所々に置かれた一石一尊仏十三仏の弥勒像で、像高70p程の丸彫り像である。宝冠を被った菩薩像で腹前で両手を組み、その上に宝塔をのせる。簡略的な表現の像であるが丁寧に彫られていて、素朴で愛らしい。哲学者のような風貌の釈迦如来で、魅力的な十三仏である。

 江戸時代の釈迦石仏には誕生仏や涅槃像なども見られる。京都伏見の石峰寺五百羅漢は、釈迦誕生より涅槃に至るまでの釈迦の一代を物語る石仏群になっている。その数は約500体(寺説)で、大きさは2m〜数十pで、表情・姿態はいずれも奇抜軽妙である。伊藤若沖が原画を描いた石仏群らしい洒脱な石仏群である。陶ヶ岳寝釈迦磨崖仏・鈴熊寺涅槃石・法安寺磨崖仏釈迦涅槃像は涅槃釈迦の磨崖仏である。苦行釈迦の石仏として江戸末期の竹成大日堂五百羅漢苦行釈迦と昭和初期の大王寺苦行釈迦石仏などがある。

 愛宕念仏寺釈迦石仏は、"現代の円空"といわれた仏像彫刻家、愛宕念仏寺住職でもあった西村公朝の作でユニークでかわいい姿の釈迦石仏である。奈良の喜光寺の釈迦初転法輪像はグプタ王朝の時代の傑作サールナート博物館の初転法輪像の模刻で、平成になってインドから将来したものである。
弥勒・釈迦石仏50選T 



弥勒・釈迦石仏50選(26)  霊鑑寺弥勒石仏
京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町12   「鎌倉時代」
  送り火で有名な大文字山(如意ヶ岳)の麓一帯は鹿ヶ谷と呼ばれ、法然院・安楽寺・霊鑑寺と古寺が連なっている、静閑な風情のある地である。三つの寺は、すべて非公開寺院で、春と秋の特別拝観の時のみ公開される。

 弥勒石仏のある霊鑑寺は南禅寺派の門跡寺院で、江戸初期に後水尾天皇が皇女を開基をして創建し、代々、皇女が住職をつとめた名刹で、谷御所、鹿ケ谷比丘尼御所とも呼ばれる。

 弥勒石仏は山門を入った前庭の片隅にある。高さ95p・幅63p・厚さ45pの花崗岩製で、光背は自然石おもかげを残す舟形光背で、蓮華座に坐す像高52pの如来を厚肉彫りする。右手は、胸前に挙げて施無畏印。左手は膝前に手のひらをに伏せて置くようにみえるが摩滅して判然としない。

 小さな石仏であるが調和のとれた重量感のある石仏である。 この石仏も叡山系の石仏で、光背に五個の梵字を陽刻している。大日如来の法身真言をあらわしている。



弥勒・釈迦石仏50選(27)  一乗寺北墓弥勒石仏
京都府京都市左京区一乗寺竹ノ内町   「鎌倉時代」
 遠州好みの優れた庭園や書院・障壁画を伝える洛北の名刹、「曼珠院門跡」の門前を右に折れ、武田薬品の薬草園の裏から東に進んで小川にかかる石橋を渡ると広大な共同墓地、一乗寺北墓にでる。

 石仏は墓地の入口、比叡の峰を背にして西を向いて安置されている。花崗岩製で、高さ175p、幅120p、厚さ70pの石材を舟形につくり、蓮華座に坐す座高95pの如来を厚肉彫りする。右手は胸前に挙げた施無畏印で、左手は膝前に手のひらを上にして親指を捻じている。

 石仏の前の石灯籠には「正徳三年(1713)弥勒尊前」の刻銘があるので、弥勒如来として信仰されていたことがわかる。風化摩滅がすすんでいるが、鎌倉石仏らしい、端正な調和のとれた石仏である 




弥勒・釈迦石仏50選(28)  恵光寺如来石仏
京都府京都市左京区静市市原町1142   「鎌倉時代」
弥勒如来?・阿弥陀如来
弥勒如来?
 叡電「市原」駅より鞍馬街道を南へ200mほど行くと、道の西側に慈雲山恵光寺がある。参道を登った右手の丘の下に6体の石仏が並べられている。

 中央の石仏が最も大きく優れた作風である。総高152pの花崗岩をつかい、舟形光背に像高120pの如来座像を厚肉彫りしたもので、右手は胸近くにあげた施無畏印、左手は膝上においた与願印を結ぶ。印相から釈迦如来もしくは弥勒如来と考えられる。おだやかな顔やひきしまった体躯など鎌倉中期の様式をしめす。

 中央の石仏の左右はともに像高80pほどの定印の阿弥陀如来で、中央の石仏と同じく舟形光背の厚肉彫りである。これらも鎌倉後期の作と考えられるが、中央の石仏とくらべると表情は硬い。



弥勒・釈迦石仏50選(29)  清涼寺弥勒宝塔石仏
京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町   「鎌倉時代」
弥勒如来
多宝塔
 清涼寺弥勒宝塔石仏は山門を入った右手にある石仏で高さ2mこえる大きな船型の花崗岩に、上に天蓋を陽刻して、その下に蓮華座に坐す如来像を半肉彫りしたもので、別石の反花座の上に乗っている。右手を胸前にあげて施無畏印、左手は膝前におろして触地印と思われる印相である。裏側に宝塔とその中にいる釈迦・多宝の2体の如来が彫られているので、弥勒仏と考えられる。



弥勒・釈迦石仏50選(30)  大沢の池釈迦如来・弥勒菩薩
京都市右京区嵯峨大沢町   「鎌倉時代」
釈迦如来
弥勒菩薩
 大沢の池のほとりには鎌倉時代の優れた石仏群がある。胎蔵界大日・薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒などの鎌倉時代の古仏が並んでいて京都を代表する石仏である。この石仏群の中心となるのは、大きな木の左にある薬師とその左に並ぶ釈迦・胎蔵界大日・阿弥陀・阿弥陀の各如来と少し離れた場所にある弥勒菩薩で、2つ目の阿弥陀を除く5体が胎蔵界五仏として作られたもの考えられる。光背を刻出せず、大きな岩を背負ったおおらかで迫力のある石仏群である。



弥勒・釈迦石仏50選(31)  みろくの辻弥勒磨崖仏
京都府木津川市加茂町岩船三大   「文永11年(1274) 鎌倉時代」
 「笑い仏」から細い道を東へ400mほど行くと、府道47号線に出る。この交差点がみろくの辻である。この辻の南の露出した岩肌に「みろくの辻の弥勒仏」が彫られている。

 二重光背型の深い彫り窪みをつくり、その表面を平らにして磨き如来立像を線刻したものである。像はやや右下を見下ろすように斜めを向き、右手を与願印、施無印とする。宇陀市の室生区にある大野寺弥勒磨崖仏と同じ姿で、大野寺弥勒磨崖仏と同じく元弘の変(1331年)で消失した笠置寺の大弥勒仏の模刻である。像の脇に「文永十一年(1274)」の紀年や偈や願主名などと共に「大工末行」と石工名も刻まれている。「笑い仏」と同じく伊末行の作である。



弥勒・釈迦石仏50選(32)  神宮寺弥勒石仏
大阪府交野市神宮寺2丁目   「鎌倉時代」
 大阪府交野市の交野山の山麓に弥勒石仏がある。神宮寺集落の南西の谷沿いの神宮寺旧石器時代遺跡のすぐ東にある。高さ175p、幅96pほどの駒形の花崗岩の表面を削り、二重円光背を刻んで、蓮華座に坐す像高90p程の如来像を薄肉彫りする。右手は胸元に上げて施無畏印、左手は膝上に置いて手の甲を見せた触地印で、弥勒仏と考えられる。なで肩で穏やかな顔の弥勒仏で、流れるような衣紋表現など鎌倉時代の作風を示す。



  
弥勒・釈迦石仏50選(33)   花の木三尊磨崖仏
三重県伊賀市大内岩根     「徳治元(1306)年 鎌倉後期」
釈迦如来
 上野市大内の花の木小学校の校門を入ってすぐ、校庭の右側に廃道があり、その廃道沿いに巨大な岩塊が露出している。その南面に幅220p、高さ148pの長方形を彫りくぼめ、像高約1.2mの三体の立像を厚肉彫りする。
 向かって右から、釈迦・阿弥陀・地蔵で、釈迦は施無畏・与願印、阿弥陀は来迎相、地蔵は錫杖・宝珠を持つ。各尊の間には蓮花瓶を浮き彫りに配している。地蔵の上部に「徳治第一年九月日 願主沙弥六阿弥」の刻銘があるという。(摩耗していてるため、見た目ではわからない。)各尊とも、写実的で力強い秀作である。



   
弥勒・釈迦石仏50選(34)   日神墓地の釈迦石仏
三重県津市美杉町太郎生   「鎌倉時代」
  旧美杉村(現在は津市美杉町)は西は奈良県の御杖村・曽爾村、北は名張市・伊賀市に接し、伊勢湾に流れる雲出川の上流に位置する山里である。伊勢の国司で守護大名でもあった畠山氏の拠点として国府がおかれ、伊勢本街道の宿場町としてさかえた歴史の村でもある。

 村の西の太郎生(たろう)地区は大阪湾に注ぐ名張川の上流にあたり、平家の落武者が住みついたと伝えられる地である。名張から国道368号線を南へ名張川に沿って15qさかのぼると美杉村で、最初の集落が太郎生(たろう)地区の飯垣内(はがいと)である。飯垣内のバス停より名張川を渡って飯垣内の集落を抜け、曲がりくねった道を上りきった所にある小さな集落が日神(ひかわ)である。そこに、三重県指定文化財の日神墓地石仏群がある。

 日神墓地は平家六代墓ともよばれ、墓域は柵で囲まれている。入口の鉄扉を開けて上った正面突き当たりに、石龕があり、奧に高さ1.2mの安山岩に舟形光背を彫りくぼめ、蓮花座に座す半肉彫りの定印阿弥陀如来石仏が安置されている。整った張りのある阿弥陀石仏で、ほほえむ眼や口元が若々しく魅力的である。体躯や衣紋もゆったりとしていて写実的で、鎌倉中期から後期の様式を示している。

 阿弥陀石仏龕の手前右側には奧より薄肉彫りの阿弥陀如来立像・釈迦如来立像・地蔵菩薩立像など鎌倉後期の様式の小石仏が並んでいる。

 釈迦石仏は矩形の自然石に舟形の彫りくぼみをつくり、その中に円光背を背負い、右手を上げて施無畏印を、左手を下げて与願印を結ぶ、蓮華座に立つ釈迦如来を半肉彫りしたもので、穏やかで清楚な表情の石仏である。


弥勒・釈迦石仏50選(35)  曲石窟釈迦石仏
大分県大分市大字曲  「鎌倉時代」
 大分川の右岸に標高50mほどの丘陵があり、丘陵上に森岡小学校がたっている。その丘陵の東南の一角に南に開いた2つの石窟がある。

 向かって右の石窟は、間口3m、奥行7m、高さ6mの大きな石窟で、中に像高3mに及ぶ丸彫りの座像の石仏が安置されている。頭・胸・腰・両膝部の合計5つの石材を組み合わせて作ったもので、釈迦如来と伝えられている。木造彫刻の寄せ木の技法を石仏制作に生かしたもので、臼杵石仏や元町石仏と同じように木仏師が制作に関わった可能性が考えられる。鎌倉時代の作である。石窟の入口の壁には門神として、向かい合うように高さ約150mの多聞天と持国天の二天を半肉彫りする。石窟の内部には小龕が作られ、幾つかの石仏が置かれている。



弥勒・釈迦石仏50選(36)  みろく丘弥勒石龕仏
奈良県天理市柳本町  「永和4(1378)年 南北朝時代」
 長岳寺の北東に「みろく丘」と呼ぶところがあり、そこに南北朝時代の弥勒石龕仏がある。目が細く、低い鼻で、個性的な表情の石仏で、印象に残る。「永和4年(1378)」の紀年とともに「大工僧善教」の銘があり、南北朝時代後期に善教という人が作ったことがわかる。この弥勒仏と同じ作風の石仏もこの付近には多くあり、建治型石仏とともに、この地方の石仏の特色となっている。



弥勒・釈迦石仏50選(37)   瀧谷寺石龕開山堂弥勒・釈迦像
福井県坂井市三国町滝谷1-7-15  「元亀3年(1572)年 室町後期」
弥勒如来
釈迦如来
 笏谷石製品は、三国湊から全国各地に送られた。その三国にある瀧谷寺(たきだんじ)は、1375年叡憲(えいけん)上人によって創建された越前屈指の名刹で、境内には重要文化財に指定された鎮守堂や国の名勝の山水庭園がある。国宝の金銅毛彫宝相華文磬や絹本着色地蔵菩薩(重文)や朝倉孝景が寄進した天之図(重文)などがある。

 その瀧谷寺の境内には十三仏を内部の側壁に刻んだ石室(石龕開山堂)がある。江戸時代、高野山奥の院の越前松平家石廟や富山県高岡市瑞龍寺石廟など、側壁に半肉彫り像を刻んだ石廟や石室が各地につくられた。瀧谷寺石室はその先駆けである。

 蓮華座に結跏趺坐する如来形像で腹の前で定印風に両手を組み、その上に宝塔をのせている。釈迦如来は施無畏・与願印の座像である。軟質な笏谷石であればこそできた石造品である。



弥勒・釈迦石仏50選(38)   岩屋十三仏弥勒・釈迦石仏
山口県下関市豊浦町大字川棚 中小野 岩屋  「室町後期」
弥勒菩薩
釈迦如来
 岩谷(いわや)十三仏は下関の奥座敷として知られる川棚温泉の北東6kmの中小野・岩屋という山あいの集落にある。公園として整理された露出した岩場の所々に1mにも満たない十三の石仏が安置されている。

 岩谷十三仏は、山口を支配した大内義隆が家臣の陶晴賢の叛乱に敗れた時、一時身をひそめたという岩谷が浴八丈岩に納められていたもので、現在、大小の岩が組み合わされた庭園風の公園の、岩の上に並べられている。

 一体一体、丁寧に彫られていて、柔和で愛らしい顔の千手観音像やすました穏やかな表情の大日如来や弥勒菩薩、哲学者のような風貌の釈迦如来など魅力的な石仏群である。



弥勒・釈迦石仏50選(39)  白毫寺弥勒石仏
奈良市白毫寺町392  「慶長15(1610)年 江戸初期」
 船型光背を負った像高118pの蓮華座の上に立つ半肉彫りの如来像である。右手は肩まで上げて施無畏印、左手は下げて甲を見せて指をのばす印相(触地印)で弥勒仏と考えられる。光背に江戸初期の慶長15(1610)年の年号が刻まれている。



弥勒・釈迦石仏50選(40)  蓮華寺の五智如来
京都市右京区御室大内20  「江戸初期」
釈迦如来
 真言宗御室派大本山の仁和寺の駐車場の隣に真言宗御室派別格本山五智山があり、境内には五智如来石仏をはじめ、多くの石仏が並んでいる。

 蓮花寺は平安時代後期に創建され寺院で、その後、鳴滝音戸山に移され荒廃し、江戸時代初期、江戸の材木商樋口平太夫家次(入道して常信と名を改める)により、再興された寺院である。常信は蓮華寺復興に当たり、木喰僧・坦称上人に五智不動尊像の修理と五智如来石仏の彫刻を依頼。五智如来石仏は音戸山山頂に安置された。蓮花寺はその後、火災により焼亡、昭和9年、御室の地に移され現在に至っている。五智如来石仏は昭和33年(1958)に音戸山から運び、ここに安置された。

 五智如来石仏は座高1.2mの半丈六仏で、胎蔵界大日如来を中心に右より薬師・宝生・大日・阿弥陀・釈迦と伝えられている。無光背の一石丸彫り像で、反花座八角基壇の上の蓮華の上に座している。風化も少なく、当初のノミの跡までうかがえる。釈迦如来像は向かって左端の像で禅定印の釈迦如来座像である。



弥勒・釈迦石仏50選(41)   白滝山(竜泉寺)の釈迦三尊磨崖仏
広島県三原市小泉町4543 「江戸時代」
 白滝山は因島以外に三原市小泉町にもある。 三原市の白滝山へ行くに は、三原駅前より、「小泉小学校前」 行きのバスに乗り、終点で下車し、そこから登山道を約4km歩く。

 その白滝山の山頂付近に「竜泉寺」がある。この寺の本堂裏の白滝山山頂は「八畳岩」 と呼ばれる巨大な花崗岩の露頭で、その「八畳岩」の岩壁に、釈迦三尊と、十六善神の磨崖仏がある。 八畳岩の正面から向かって左上が釈迦三尊像で、右が十六善神像などで、ともに半肉彫りされている。十六善神像は玄奘三蔵と深沙大将を取り囲むように彫られている。十六善神の石像は非常に珍しく、 他にあまり例を見ない。 造立年代は不明であるが、釈迦三尊像は近世の作品だと思われる。十六善神像と玄奘三蔵・深沙大将などは室町時代と伝えられている。

 釈迦三尊像は、蓮華を両手で持って雲の上の蓮華座に座す釈迦と、雲の上に立つ迦葉尊者立像・阿難尊者立像の三尊像で、釈迦は親しみやすい丸顔の顔で、脇侍の羅漢の人間くさい姿と対照的である。迦葉・阿難を脇侍とした釈迦三尊像は曹洞宗などの禅宗で見られる。竜泉寺は元は真言宗の寺院で江戸時代に曹洞宗の寺院になったというので、釈迦三尊像は江戸時代の作と考えられる。



弥勒・釈迦石仏50選(42)   陶ヶ岳寝釈迦磨崖仏
山口県山口市名田島 陶ヶ岳 「江戸時代初期」
 山口市の南、鋳銭司から秋穂にかけての陶ヶ岳・火の山・亀山と続く火ノ山連山は標高300mほどの低い山である。しかし、巨岩が重なる、素晴らしい眺めの山々である。北の端にある岩屋山につぐ陶ヶ岳は標高252mの山で、頂上付近は巨岩が露出していて、頂上に立てば360度の展望が広がる。その頂上の巨岩の西の下部に涅槃の釈迦の磨崖仏と十六羅漢の磨崖仏がある。

 松永邸(松永周甫薬園)の登山口から雑木林の中の山道を20分ほど登る陶ヶ岳観音堂(金剛山岩屋寺)跡にでる。石段、石碑、観音磨崖仏が残る。陶ヶ岳観音堂跡からロープをたよりに急な崖を5分ほど登ると陶ヶ岳山頂につく。磨崖仏は山頂手前の登山道を左にそれると頂上の巨岩の東側に出る。そこに狭いテラスがあり、寝釈迦像(涅槃釈迦)と十六羅漢の磨崖仏が彫られている。

 寝釈迦像磨崖仏は巨岩の壁の下方に縦約50cm、横約110pの矩形の彫り込みをつくり、縦37cm、横99cmの矩形の平らな涅槃台を彫りだし、そこに右脇を下にして足を重ねて横たわる釈迦像を薄肉彫りしたもので、江戸時代初期頃のものと見られる。納衣などの線は抽象的でのびやかさに欠けるが、おだやかな顔が印象に残る。



弥勒・釈迦石仏50選(43)   済法寺釈迦磨崖仏
広島県尾道市栗原東1丁目15-6 「江戸時代初期」
 済法寺は、通称「拳骨和尚」と呼ばれた、物外不遷大和尚で知られた寺である。拳骨和尚は力持ちとして知られ境内には和尚が背負ったという背負い石や動かしたという手水鉢がある。

 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏がある。江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができる。

 釈迦磨崖仏は山の頂上にあり、現在は山は草木に覆われていて近づけない。最初訪れた時は、草木もあまり生えておらず、釈迦如来の彫っている岩の下まで近づくことができた。岩の上の尖った部分に船形の彫りくぼみを彫り、その中に二重円光背を背負った禅定印の蓮華座に座す釈迦如像を半肉彫りする。



弥勒・釈迦石仏50選(44)   鈴熊寺涅槃石
福岡県築上郡吉富町大字鈴熊233 「江戸時代」
 福岡県の瀬戸内海側も豊前である。吉富町は山国川下流の町で、大分県中津市と接する。その吉富町の中央部の丘陵上に鈴熊寺がある。その丘陵の巨大な花崗岩の露岩に涅槃仏と五百羅漢を薄肉彫りする。寺伝によれば、鈴熊寺中興の祖、牛道法師が彫ったという。

 写真を撮った時は夕刻で、ストロポも持っていなかったので、あまりよい写真ではないが、釈迦涅槃像の磨崖仏は珍しいので、ここに載せた。釈迦の周りに集まり嘆き悲しむ羅漢や菩薩や人々は、釈迦の足元で釈迦の足をなでる老女と悲しみのあまりに気を失い死人のように俯せに倒れている阿難尊者以外は、頭部だけを所狭しと彫り出していて、頭のこぶでできた山のように見え、異様な風景である。



弥勒・釈迦石仏50選(45)   石峰寺五百羅漢
京都市伏見区深草石峰寺山町 「江戸時代」
釈迦誕生仏
釈迦三尊(説教場)
釈迦(十八羅漢の場)
 石峰寺は、伏見稲荷大社の南に続く低い丘陵地帯の中腹に位置する禅宗の寺院である。黄檗宗を開いた隠元の孫弟子に当たる、黄檗宗六世千呆(せんがい)禅師によって、正徳三(1713)年に創建された。

 石峰寺には、異色の画家、伊藤若沖(1716〜1800)が下絵を描き、石工たちに彫らしたという、石仏群がある。若沖は、京都の錦の青物問屋の生まれで、青物問屋の主人として17年間を過ごしたあと、家督を弟に譲り40歳以降、画道三昧に過ごしで、中国の院体花鳥画を手本にして、緊張感の高い独自の花鳥画を完成した人で、戦後、とみに評価を高めている画家である。「動植綵絵」(宮内庁・御物)三十幅のような幻想的な傑作や野菜を釈迦や羅漢に見立てた「果蔬涅槃図」などの宗教画がある。

 石峰寺石仏群は安永(1772〜1781)の半ば頃より天明元(1781)年まで、6〜7年でつくられたもので、本堂の背後の裏山の小道に沿って、釈迦誕生より涅槃に至るまでの一代を物語る石仏群になっている。したがって、石峰寺五百羅漢と呼ばれて有名であるが、主役は羅漢ではなく、あくまでも羅漢は釈迦の一生の物語を飾る劇の脇役といったところである。

 石仏群は、「天上天下唯我独尊」と姿を示す釈迦誕生仏から始まり、出山釈迦、二十五菩薩来迎石仏や十八羅漢石仏、釈迦説法の群像、托鉢修行の羅漢〔羅漢(托鉢)〕の群像、釈迦涅槃の場面、賽の河原〔賽の河原地蔵〕と続いていく。その数は約500体(寺説)で、大きさは2m〜数十pで、表情・姿態はいずれも奇抜軽妙である。「果蔬涅槃図」の作者が原画を描いた石仏群らしい洒脱な石仏群である。

 北条五百羅漢や山野五百羅漢や瓜生十六羅漢・香高山五百羅漢などと比べると、石や岩の美しさ生かしているとは言い難く、石仏としては劣る。しかし、一種の釈迦の一代を描いた絵巻物として見たとき、この石仏群は、魅力を増すことになる。

 若沖は妹と二人、石峰寺の古庵に住み、生涯独身で過ごし、寛政十二年(1800)、85歳で没した。墓は賽の河原の石仏群を下った石峰寺墓地にある。



弥勒・釈迦石仏50選(46)   竹成大日堂五百羅漢
三重県三重郡菰野町竹成2070   「慶応2(1866)年 江戸末期」
苦行釈迦
弥勒菩薩
 御在所山の麓、湯の山温泉で知られる菰野町の北部、菰野町竹成の大日堂境内に三重県の史跡に指定されている五百羅漢石仏がある。大日堂は文明13(1481)年作の大日如来像(県指定有形文化財)を本尊とする寺で現在本尊を納めた小さなお堂と、前庭築山の五百羅漢石仏が残るのみである。

 五百羅漢石仏は高さ約7mの四角錐の築山をつくり、頂上に金剛界大日如来と四方仏を置き、その周りに如来・菩薩・羅漢をはじめとした500体ほどの石像を安置したもので、七福神や天狗、猿田彦などもあり、大小様々な石仏・石神が林立する様は壮観で、見応えがある。

 苦行釈迦はガンダーラの苦行釈迦のように、結跏趺坐し正面をしっかり向いた孤高の姿の像ではなく、半跏像で、膝の上にやせた細い手を置いて、弱々しく下を向いた姿である。弥勒石仏は二重円光背を背負った厚肉彫り像で、宝冠を被り、腹前で宝冠を持った像である。



弥勒・釈迦石仏50選(47)   法安寺磨崖仏
佐賀県唐津市北波多岸山447 「昭和27年(1952)」
 法安寺は、朝鮮出兵(文禄の役)の時、あらぬ嫌疑を受け、豊臣秀吉により改易された、平安末期から肥前松浦地方で活躍した豪族、波多一族の追善供養のため、小野妙安が大正12年に開いた寺院である。昭和27年(1952)、小野妙安は開山30年に当り、信者とはかり、釈迦涅槃の像をはじめ不動明王・弘法大師等諸仏像百数十体を大石壁に浮彫りして、四国八十八ケ所霊場を建立したという。(法安寺HP参照)

 本堂の対面の岩山に四国八十八ケ所霊場磨崖仏が彫られている。山頂まで細い参道に沿って四国八十八ケ所霊場の本尊を始め多数の2mを超える大きな磨崖仏が刻まれている。不動明王・弘法大師・阿弥陀・薬師・大日如来など様々な仏像が見られる。

 本堂から四国八十八ケ所霊場の参道へ向かうととまず目に入るのが、見事に彩色された大きな波切不動である。右手に持つ剣を頭の上に振りかざし、左手で太い羂索を肩に担ぐように持った不動像で、燃えさかる火焔の前に立つ青い体躯の不動明王で迫力がある。剣を頭の上に振りかざした不動は全国的に見ると珍しいが、唐津市の漁港や田川市の英彦山天宮宮などに見られる(全て昭和期の作)。

 次に目を引くのが大きな一枚岩に彫った蛇体不動(倶利伽羅剣)・毘沙門天などの5体の像である。その付近から登山道になり、四国八十八ケ所霊場の本尊や弘法大師像など多数の磨崖仏が彫られている。ほとんどが2mを超える量感豊かな厚肉彫りで、15番国分寺薬師如来像・30番善楽寺阿弥陀如来像は貞観彫刻を思わせる整った力強い像である。32番禅師峰寺十一面観音・70番本山寺馬頭観音や山の中腹にある高野大明神とその隣の弘法大師像は土俗的な怪奇さを持った独特な表現になっている。時代は違うが鵜殿窟磨崖仏と共通する雰囲気を持った磨崖仏である。
釈迦涅槃像
 本堂から四国八十八ケ所霊場の参道へ向かうととまず目に入るのが、見事に彩色された大きな波切不動である。その波切不動の右手上に全長10mの巨大な釈迦涅槃像が彫られている。第9番札所法輪寺の本尊で、昭和27年2月12日に建立されたものである。
弥勒菩薩
 四国八十八カ所の第14番・常楽寺の本尊を表したもので、宝髻を結った菩薩像座像で、腹前で両手を組み、その上に宝塔をのせる。1.5mを超える量感豊かな厚肉彫りで、整った力強い像である。



弥勒・釈迦石仏50選(48)   大王寺苦行釈迦石仏
山口県下関市大字田倉116-155 「昭和初期」
 大王寺は、城下町長府の北、四王司山の麓にある寺で、昭和の初め馬場覚心によって開かれた。馬場覚心は独立して一派を開き、現在、一切宗の本山となっている。ここは石仏の寺でもある、昭和初期の石仏300余体が祀られている。苦行釈迦はブロンズ彫刻を思わせる写実的な表現の石仏である。ラホール博物館の苦行釈迦などのガンダーラ仏を参考にしたと思われる。



弥勒・釈迦石仏50選(49)   愛宕念仏寺釈迦石仏
京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5 「現代」
 嵯峨野の念仏寺としては化野念仏寺が知られているが、もう一つ念仏寺がある。愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)がそれである。8世紀中頃、稱徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建されたのがはじまりである。平安時代、醍醐天皇の命により、千観内供(伝燈大法師)が復興し、千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺と改め、天台宗の寺院となった。

 その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなっていた。1922年それらを移築して現在地での復興を目指し、1955年に天台宗本山から住職を命じられた仏師の西村公朝氏によって現在の姿に復興された。

 西村公朝氏は昭和56年、寺門興隆を祈念して、境内を羅漢の 石像で充満させたいと発願して、素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』がはじめられ、10年後の平成3年に「千二百羅漢落慶法要」かなされた。

 1200体の羅漢は玄人はだしの写実的な表情の羅漢もみらけるが、いかにも素人が彫ったと見える素朴でユニークな羅漢が多く、それぞれの作者の願いや思いが溢れたものになっている。境内には観音堂が建てられその中に、西村公朝氏の彫った目の不自由な人が触ってもよい仏像、ふれあい観音が安置されている。

 本堂横の一段高い場所に「多宝塔」があり、大勢の羅漢達に囲まれて説法をする姿の釈迦の石像が安置されいる。この像も西村公朝氏の制作で、四頭身のかわいい姿の釈迦如来である。

 西村公朝氏(1915-2003)は東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒業し、三十三間堂の十一面千手千体観音像をはじめとして、千数百体におよぶ仏像修理にたずさわり、仏像彫刻家としても活躍、“現代の円空”といわれた。元、美術院国宝修理所所長、東京芸大教授。『仏像の再発見』『やさしい仏像の見方』なとの一般向けの仏像解説書の著書でもある。



弥勒・釈迦石仏50選(50)   喜光寺釈迦初転法輪像
奈良市菅原町508 「平成8年(1999) 現代」
 喜光寺は奈良時代、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したとされ、行基菩薩の入滅の地として知られる古寺である。現在、天文13年(1544)に建て直され本堂と平成になって建てられた南大門、行基堂が主な建物である。本堂には平安時代の丈六の阿弥陀如来(重要文化財)が祀られている。

 本堂の西の境内には多くの蓮の花が植えられた鉢が置かれていて、蓮の花は本堂や石仏とマッチして絶好の被写体となっている。蓮の鉢が置かれた境内の奥には、インドから将来された仏足石・初転法輪像と室町後期から江戸時代の約150体の石仏が並べられている。
 釈迦がはじめて説法したというインドのサールナートから平成8年(199)に将来した釈迦初転法輪像である。

 サールナートには「鹿野苑」(ろくやおん)と呼ばれる園があって、そこで、釈迦が5人の修行者に「四諦八正道」を説いたとされる。この最初の説法を、初めて法の車輪が回ったということで、「初転法輪」という。釈迦初転法輪像はその時の釈迦の姿を表現したものである。

 喜光寺の釈迦初転法輪像とそっくりな仏像がサールナート考古博物館にあり、喜光寺像はこの像を模刻したものと考えられる。サールナート考古博物館の初転法輪像はグプタ王朝の時代の5世紀頃の作とされる傑作である。
 釈迦の最初の説法(初転法輪)を表した像で、その時の印を「転法輪印」と言い、両手を胸の前で法輪を転ずる形とする。インドでは「輪」は世界を支配する帝王の象徴で、法輪は最高の真理を意味している。「法輪を転ずる<転法輪>」とは最高の真理を余に宣布することで、釈迦の説法を指す。
光背の左右には二人の天人が対称的に置かれ、花模様も美しい。
台座レリーフ
 中央に法輪があり、それを囲んで右に3人、左に2人の計5人の弟子となった修行者がいる。左端には母と子が描かれている。また法輪の両側に鹿が2頭配置され、鹿野苑での説法であることを表わしている。
釈迦初転法輪像と仏足石
 初転法輪像の前には仏足石が置かれている。この仏足石は釈迦が修行した前正覚山の石を使って成道の地ブッダガヤの仏足石を模写し、平成8年(1996)に初転法輪像とともにインドから将来したものである。


弥勒・釈迦石仏50選T