南山城の石仏T

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  京都府の南部、木津川に沿った木津川市加茂町・相楽郡笠置町・和束町は石仏の宝庫である。特に、浄瑠璃寺・岩船寺と浄土信仰の霊地として栄えた加茂町当尾(とおのお)地区は国宝や重文の仏教美術品とともに鎌倉時代の優れた磨崖仏・石仏が多くあり、石仏の里として知られている。
 また、奈良時代創建の笠置寺は本尊が巨大な弥勒磨崖仏で弥勒信仰の聖地であり修験道の行場である。この弥勒磨崖仏は元弘の変〔1331〕の兵火に焼かれて現在はその姿はとどめていないが、線刻の磨崖仏としては、傑作といわれる虚空蔵石磨崖仏など多くの石造美術品がある。


 

大門仏谷磨崖仏 京都府木津川市加茂町北大門

   平安時代後期 高260p 花崗岩

 他の当尾石仏群から一体だけ離れているため、訪れる人も少なく、「笑い仏」とくらべるとあまり知られていない。 しかし、当尾石仏中、最古最大の磨崖仏であり、堂々たる体躯や幅のある丸い厳しい顔の表情など、近畿地方を代表する磨崖仏の一つである。
  二重光背形を浅く彫り、 その中をさらに彫りくぼめて、裳懸座に座る如来形を半肉彫りしている。 手の部分の一部が不明瞭で印相がわからず、 像名は阿弥陀・釈迦・弥勒など諸説がある。造立年代については奈良時代後期・鎌倉時代など諸説があるが、幅広い丸顔や豊満な仏身の表現から平安後期造立説が有力である。

   


東小会所阿弥陀石仏  京都府木津川市加茂町東小
   弘長二年(1262)鎌倉中期 高133p 花崗岩

  浄瑠璃寺の東方、藪の中地蔵から北へ少し入った東小高庭の集落にある会所の前の広場にこの石仏が安置されている。長方形の石の表面に彫りしずめを作り、その中に定印の阿弥陀座像を半肉彫りにしている。 洗練された技法の「笑い仏」に較べると顔はやや硬い表現となっているが、 それだけ厳しく引き締まり、石の硬質感をうまく生かしていて、魅力的である。近くの藪の中磨崖仏と顔や衣紋の表現がよく似ており、同作者の彫刻と考えられる。首が深くくびれて切れているように見えるためか「首切り地蔵」と呼ばれている。(刑場跡にあったためという説もある。)
 舟形内の像の横に「弘長2年(1262)‥‥」の銘があり、当尾の在銘石仏としてはもっとも古い。石材の上に低い突起があるのでもとは笠をのせたことがわかる。


藪の中三尊磨崖仏 京都府木津川市加茂町東小

   弘長二年(1262)鎌倉中期 像高111p・153p・113p 花崗岩

 東小高庭の集落の南、府道を隔てた樹林の中に「藪の中地蔵」または「やぶの地蔵」と呼ばれる磨崖仏がある。露出する二つの岩面にそれぞれ船型の彫り窪みをつくり、向かって左から阿弥陀・地蔵・十一面観音の各像を厚肉彫りしたものである。中尊の地蔵菩薩は像高153pで、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ引き締まったおおらかな面相の重厚感のある秀作である。
 右の岩に彫られた像高111pの定印阿弥陀座像は東小会所阿弥陀石仏によく似た硬い表現の磨崖仏である。像高113pの十一面観音は右手に錫杖を持つ長谷寺型の観音像で穏やかな女性的な顔である。「弘長二年」の紀年銘や願主とともに「大工橘安繩 小工平貞末」と石工名の刻銘があり、尾の在銘石仏としては東小会所阿弥陀石仏とともにもっとも古い。

   



唐臼の壺阿弥陀・地蔵磨崖仏 京都府木津川市加茂町東小

   康永二年(1343)南北朝初期 像高69p・78p 花崗岩

 藪の中地蔵から岩船寺方面に府道を進むと、府道から分かれて「笑い仏」「岩船不動磨崖仏」などを巡って岩船寺へ行くハイキングコースがある。その道を400mほど進と「カラスの壺」と呼ぶ三差路の辻があり、そこに「唐臼(からす)の壺磨崖仏」がある。
  辻に面した小さな田んぼに巨岩が突き出ていて、その岩の真ん中に船型の彫りしずめをつくり、像高69pの阿弥陀座像を半肉彫りしたもので、左側の岩肌にも地蔵菩薩が刻まれている。両像とも衣紋や顔は誇張したく表現で共に康永二年(1343)の紀年銘を持ち南北朝時代の作である。阿弥陀像の右横には火袋を彫り込んだ線刻の灯籠が刻まれている。

 



さんたい阿弥陀三尊磨崖仏(笑い仏)京都府木津川市加茂町岩船
        永仁七年(1299)鎌倉後期 阿弥陀 高76p 花崗岩

  大門仏谷磨崖仏とともに、当尾の里を代表する石仏である。岩船寺から西南500mの山裾に露出する大きな花崗岩の岩に、 舟形に彫りくぼめをつくり、 蓮座に座した定印の阿弥陀像と蓮台を持つ観音像と、合掌する勢至菩薩像を半肉彫りにしている。
 「永仁七年(1299)二月十五日、願主岩船寺住僧‥‥‥大工末行」と3行にわたる刻銘があり、宋から渡来した石大工伊派の一人、伊末行の作とわかる。花崗岩の岩肌を生かして柔らかい丸みのある表現になっていて、 「笑い仏」 という愛称もつけられている。


岩船不動磨崖仏(一願不動) 京都府木津川市加茂町岩船
   弘安十年(1287)鎌倉中期 像高121p 花崗岩

 「唐臼の壺磨崖仏」から岩船寺へ向かうハイキングコースをしばらくすすむと、三差路に出るその辻を右に数メートル行くと「笑い仏」があり、左の山道を進むと岩船寺に出る。その山道を数メートル進んだところから下りた谷間の藪の中に露出した大きな岩面に薄肉彫りさた岩船不動磨崖仏がある。やや斜め向きの顔は両眼を見開き、眉をつり上げた憤怒相で、剣を右手にかまえ、索を左手に持った不動明王立像である。風化が少なく、午後になると木漏れ日があたり、憤怒相であるがどこか穏やかな顔が浮かび上がり、印象的である。
 像の向かって右下方に「弘安十年丁亥 三月廿八日 於岩船寺僧□□令造立」の刻銘がある。

 

みろくの辻弥勒磨崖仏 京都府木津川市加茂町岩船

   文永十一年(1274)鎌倉中期 高207p 花崗岩

 「笑い仏」から細い道を東へ400mほど行くと、府道47号線に出る。この交差点がみろくの辻である。この辻の南の露出した岩肌に「みろくの辻の弥勒仏」が彫られている。
 二重光背型の深い彫り窪みをつくり、その表面を平らにして磨き如来立像を線刻したものである。像はやや右下を見下ろすように斜めを向き、右手を与願印、施無印とする。宇陀市の室生区にある大野寺弥勒磨崖仏と同じ姿で、大野寺弥勒磨崖仏と同じく元弘の変(1331年)で消失した笠置寺の大弥勒仏の模刻である。像の脇に「文永十一年(1274)」の紀年や偈や願主名などと共に「大工末行」と石工名も刻まれている。「笑い仏」と同じく伊末行の作である。
 


岩船寺三体地蔵磨崖仏 京都府木津川市加茂町岩船

   鎌倉後期 中尊像高約90p 花崗岩

 「みろくの辻磨崖仏」の府道を隔てた向かいに細い山道がある。この山道を進むと岩船寺に出られる。その山道を200mほど行った右手の高い岩壁に、三体地蔵磨崖仏が彫られている。
  四角形の彫り窪みをつくり、像高90p程の三体の地蔵を半肉彫りしたもので、三尊とも右手に短い錫杖を斜めに持ち、左手で宝珠を胸の前で持った地蔵立像で中尊は少し大きい。三体とも穏やかな顔の優れた容姿の地蔵菩薩である。

 


岩船寺の石仏 京都府木津川市加茂町岩船

   鎌倉時代後期 不動像高115p 地蔵像高78p 花崗岩

 岩船寺は開基は行基と伝える古寺で、本尊は阿弥陀如来像で10世紀を代表する仏像として知られている。三重塔(室町時代)は中世後期の代表作ともいわれており、重要文化財に指定されている。現在は真言律宗の寺院で紫陽花の寺としても知られている。
 岩船寺には鎌倉時代から室町時代にかけての多くの石造物か残されていて、五輪塔・十三重石塔などが重要文化財となっている。不動明王を奥壁に刻んだ石室も建造物として重要文化財に指定されている。
 この石室は屋形風の石造建築で奥壁と二本の柱で寄せ棟造りの屋根を支えたもので、奥壁に頭上に蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣を構え、左手に索を持つ不動明王立像を浅く半肉彫りされている。石室の下は霊水を溜めるようにできていて、この水が眼病に効くとしてもらいに来る人が多かったという。「応長第二(1312)初夏六日  願主盛現」の刻銘がある。
 石室の左には覆堂がもうけられ地蔵石仏が安置されている。二重円光背を背にした像高78pの地蔵座像を厚肉彫りしたもので、里人から厄除け地蔵として信仰されている。覆堂は近年になって建てられたもので、それまでは紫陽花の花に囲まれて美しい姿を見せていた。鎌倉後期の作と思われる。


長尾阿弥陀磨崖仏  京都府木津川市加茂町西小
   徳治二年(1307)鎌倉後期  高76p 

  加茂町西小から浄瑠璃寺へ向かうバス道(府道752号線)のカーブした所の崖上に笠を載せた長尾阿弥陀磨崖仏がある。
 突き出た岩の表面を平らにして方形の彫り窪みをつくり、像高76pの蓮華座にのる定印阿弥陀如来座像を半肉彫りしたもので、「徳治二年」の紀年銘がある。光の関係か面相ははっきりしないが、よく見ると穏やかな整った顔である。「徳治二年丁未廿九日造立之願主僧行乗」の刻銘がある。


南山城の石仏U