Photo Gallery「石仏と野鳥」新版 2022年8月 
 

 
7月 9月
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令和4年8月31日  近くの水田地帯にて
タカブシギ幼鳥・トウネン・イカルチドリ
 28日、トウネンを撮影した休耕田にトウネンより少し大きいシギが数羽いました。白い色が目立ったのでアオアシシギかなと思ったのですが、モニターで見るとクサシギかタカブシギの幼鳥のようです。家へ帰って見直すと上面は白斑が大きく、頸側から胸側にかけては淡褐色で目立たない縱斑があるのでタカブシギのようです。
 タカブシギの幼鳥の他に1羽のイカルチドリと2羽のトウネンがいました。この休耕田には幼鳥も含めて数羽のイカルチドリがいたのですが、この日は1羽しかイカルチドリはいませんでした。28日には1羽だったウネンは2羽に増えていました。



   
令和4年8月30日撮影  近くの水田地帯にて
タマシギ親子
8月30日に撮影した休耕田タシギ親子です。最近は少し待てば必ずタマシギ親子が姿を見せます。
水の張った休耕田の中ににタマシギの親がいました。
4羽の雛は畦にいました。
タマシギ親子はこの日撮影していたときは東側の畦周辺にいました。
この画像は休耕田の南側から北側へ回って撮影しました。



   
令和4年8月29日  近くの水田地帯にて
タマシギ親子・ジシギ
 ここ数日、4羽の雛をつれたタマシギが同じ休耕田にいます。ただ、隣の水田に多くの時間にいてなかなか姿を見せません。日曜日の昨日は他府県も含めて多くの人が来ていてカメラかたくさん並んでいて、タマシギはあらわれても畦までで、水の張った休耕田には降りませんでした。

 今日は二人の人がいただけで、タマシギ親子は警戒があまりないのか、水の張った休耕田によく降りて来ました。タマシギ親子は1回だけでしたが畦から畦へと水の張った休耕田をゆっくりと横断しました。
 ちらっとタマシギの親子を見たのですが、すぐに隣の水田に隠れてしまいなかなか姿を見せませんでした。あきらめて、右の畦にいるタシギを撮ろうとしていた時、左の畦地角の休耕田に降りているタマシギ親子を見かけました。
タマシギ♂は3羽の雛をつれて休耕田を移動し始めました。
雛は4羽だったので、あと1羽はどこにいるかな見てみると、畦の近くにいました。
タマシギ親子はスピードを上げて水の中を休耕田の真ん中に移動し始めました。
畦近くに残っていた雛も追いついて4羽になり、休耕田の真ん中のタニシの卵か着いた草の生えた場所に向かいました。
休耕田の真ん中のタニシの卵か着いた草の生えた場所でしばらく動きませんでした。
しばらくすると4羽の雛をつれて右の畦に向かって動き出しました。
右の畦に上って休耕田の横断を終えました。
タマシギ親子が水の張った休耕田を横断した先の畦には先客の2羽のジシギがいました。
 タマシギ親子がジシギと出会ったときタマシギの親は口を開けてジシギを威嚇しました。しかし、ジシギは無視して動きませんでした。その後、タマシギ親子はジシギを無視して休耕田に降りたり畦に上がったりを繰り返していました。
2羽のタマシギの雛がジシギの近くにいたのですが、お互いに無視していました。
 タマシギ親子が再び休耕田を横断して、もといた畦に戻るのを期待したのですが、このまま草の裏に隠れ動きませんでした。期待して待ったのですが、待ち疲れてしまい、タマシギの撮影を終えました。



   
令和4年8月28日撮影  近くの水田地帯にて
トウネン・クサシギ・マガモのエクリプスなど
 28日の日曜日いつもの水田地帯でいろいろな野鳥を撮影できたのですが、いざパソコンに取り込もうとした時、うっかりとフォルダーごと削除してしまいました。今日ようやく復元ソフトを使って復元できました。そこで28日に撮影した野鳥をアップします。
 いつもイカルチドリがいる休耕田に、イカルチドリ以外に白い色が目立つイカルチドリと同じぐらいの大きさの鳥がいるのに気がつきました。望遠レンズで覗いて見るとトウネンのようです。遠くてピントがしっかり合った写真になりませんでしたが何とか撮影できました。この水田地帯でトウネンを見たのは4年ぶりです。
いつもクサシギのいる水田の畦に行きました。クサシギがいる畦の隣の湿地にカルガモとマガモのエクリブスかいました。
クサシギです。



   
令和4年8月28日  天理市の石仏11・12
天理市の石仏U(桃尾の滝・龍福寺道の石仏)
 
 石上神宮から3q離れた山中に桃尾の滝がある。落差23mの滝で、「布留の滝」として古今集に詠まれ、古くから親しまれている。春日断層崖に沿う滝の中では最大の規模である。桃尾の滝は奈良時代に創建された桃尾山蓮華王院龍福寺の境内地になっていた。この桃尾の滝は行場として利用されていたと思われる。龍福寺は明治時代の廃仏毀釈によって断絶した。

 滝の近くの岩肌に鎌倉時代の迫力ある線彫りの不動三尊磨崖仏がある。その近くには伊行経作の如意輪観音石仏や不動石仏がある。滝から龍福寺への龍福寺道にも南北朝時代の不動や地蔵の磨崖仏があり、多くの板碑も置かれている。龍福寺道から脇道にそれた所に墓地があり、墓地の奥に江戸時代初期の地蔵磨崖仏がある。

 龍福寺は奈良時代に建立された寺院で、石上の神宮寺とも伝えられる。廃仏毀釈によって断絶した。現在、龍福寺跡には大和桃尾山大親寺という寺があり、不動堂や本堂が建てられている。境内には最近になって彫像された法華経二十八品に関わる石仏や四国八十八ヶ所霊場石仏が並んでいる。



天理市の石仏11 桃尾の滝不動三尊磨崖仏
奈良県天理市滝本町  「鎌倉時代」
 桃尾の滝の向かって左の岩壁の岩面を高さ138p、幅70pの長方形の枠どりをつくり、その中に像高132pの不動明王を板彫り状に浮き出し、線彫りで面相や着衣を線彫りで表したもので勇壮で力強い像である。脇持のコンガラ童子・セイタカ童子も板彫り式線刻である。火焔は枠の外まではみ出す。技法的にも類の見ない像で滋賀県の富川磨崖仏ほどの雄大さはないが同じように岩の厳しさに正面から取り組んでいて迫力がある。鎌倉時代中期の作である。



 
天理市の石仏12 桃尾の滝如意輪観音石仏
奈良県天理市滝本町   「南北朝時代」
 桃尾の滝如意輪観音石仏は二重円光背を負って坐す像高43pの厚肉彫り像で、小作りながら技巧的に優れた石仏である。右足の膝を立て、両足裏を重ねて座り、六臂像である。一本の右手は頬杖をし、一本の地につけている。他の手で宝珠・念珠・蓮華・宝輪を持つ。左手は像の左に「奉起立行経」の刻銘があり、鎌倉後期から活躍する名工伊行経の作であることがわかる。



   
令和4年8月26日  地元の山の上の公園にて
サシバ幼鳥
 公園の上空を5羽の鳥が旋回するように飛んでいました。はじめはカラスと思ったのですが、ゆっくりと飛ぶ姿はどうやらタカ科の鳥のようです。ただ、上を見上げての撮影で、露出補正する暇もなかったため、暗くてタカの名前はわからず撮影しました。
 体下面は褐色の縱紋だったのでオオタカの幼鳥かなと思いながら撮影していたのですが、露出補正して見直して見ると脇腹は横紋でした。翼指は5枚で、サシバの幼鳥のようです。



   
令和4年8月26日  近くの水田地帯にて
タマシギ親子・コサギ
 24日にタマシギを見た休耕田から水田4枚分離れた休耕田にオシドリ親子がいました。世話をしている雄親と雛が4羽いました。コサギも同じ休耕田にいて、オシドリ親子の近くにも来ました。



   
令和4年8月24日  近くの水田地帯にて
タマシギ
 最近は毎日のようにこの水田地帯に来ているのですが、一番のねらいはタマシギです。しかし、ちらっと姿を見ただけてまだ、まともに撮影していません。今日ようやくタマシギを撮影できました。
 休耕田の畦でタマシギが抱卵しているようなのですが、なかなか姿を見られません。ようやく撮影できた草の間から姿を見せたタマシギ♂です。
他の所を回って戻って見ると、タマシギは水辺に出ていました。口を大きく開けたり、羽づくろいをしていました。
雄がいた場所から10mほど離れた同じ畦からタマシギの雌があらわれて、水の張った休耕田に入りました。。
 雌のオシドリが水の張った休耕田をゆっくりと横切りました。真ん中に来た時、雄のタマシギが飛んできました(少し前まで撮影していた雄がどうかはわかりません)。雄雌2羽は向かい合ったりして、仲良く隣の草の生えた休耕田に消えていきました。



   
令和4年8月22日撮影  近くの水田地帯と近くの川にて
クサシギ・イカルチドリ幼鳥?・アオアシシギ
 19日以来のクサシギです。この畦でよくイソシギを見かけるのですが、いつもカメラを向けると飛び去ってしまいます。今日は飛び立たずたっぷりと撮影できました。
19日と同じく畦の奥にクサシギがいました。19日は遠くてピントがなかなか合いませんでしたが今日は何とか写せました。
 反対側に回って写しました。こちらから写そうとするといつも気づかれ飛び去ってしまいます。今日はそっと近づき撮影することができました。
 一ヶ月ほど前アオアシシギを撮影した水の張った休耕田にイカルチドリの幼鳥がいました。(コチドリの幼鳥と迷ったのですが、嘴が長いように見えたのでイカルチドリとしました。)
アオアシシギは休耕田から、水量が少なくなった砂地が広がった近くの川の河原に戻って来ていました。



   
令和4年8月21日  近くの水田地帯にて
アオアシシギ・ケリ
18日にアオアシシギを撮った休耕田に、アオアシシギとケリがいました。



   
令和4年8月20日  自宅の庭より
イソヒヨドリ
 毎日のようにイソヒヨドリの鳴き声が斜め向かいの会社の寮の建物から聞こえます。非常階段の一番上の踊り場にどうやら巣があるようです。ここのドアは長い間、開き閉めしていないようです。この頃は手すりの上にとまることは少なかったのですが、今日は久しぶりに手すりの上にとまって鳴いていました。



   
令和4年8月19日  近くの水田地帯にて
クサシギ・ヒバリ・コサギ・ケリ
 前日に引き続いて近くの水田地帯に行きました。アオアシシギは見られず、クサシギ・ケリ・コザキ・ダイサギ・カルガモとムクドリの群れを見ただけでした。
クサシギは田んぼの畦にいたのですが、遠くてまともな写真になりませんでした。近づくと飛び去ってしまいました。
水の張った休耕田でよく見かけるのはコサギです。
ヒバリもよく見かけます。
アオアシシギがいないかと近くの川に寄ったのですが、アオアシシギと思ってカメラを向けるとケリでした。



   
令和4年8月18日  近くの水田地帯にて
アオアシシギ
 昨日の夜から朝にかけての大雨で川が増水して河原がなくなったためか、アオアシシギは川の近くの水の張った休耕田に来ていました。



   
令和4年8月17日  天理市の石仏9・10
天理市の石仏9 長岳寺奥の院道地蔵石仏・阿弥陀石仏
奈良県天理市柳本町    「貞和5(1349)年 南北朝時代」
 長岳寺奥の院は長岳寺から登山道を3.5qほど歩いた山の中にあり、鎌倉時代の優れた不動石仏がある。その奥の院へ行く登山道の道脇に、柳本墓地地蔵石仏とよく似た作風の地蔵石仏が置かれている。

 高さ1mほどの花崗岩の自然石を船型の彫り窪みをつくり、蓮華座に坐す、宝珠と錫杖を持った地蔵菩薩を半肉彫りしたもので、貞和5(1349)の紀年銘がある。柳本墓地地蔵石仏や弥勒丘弥勒石龕仏とは30年ほど隔たっているが善教作風の濃い地蔵石仏である。近くには同じ作風の阿弥陀石仏もある。



天理市の石仏10 長岳寺奥の院不動石仏
奈良県天理市柳本町  「元徳2年(1330) 鎌倉後期」
 長岳寺の東にある大和を代表する山城跡のある龍王山へ行く登山道を2qほど上ったところに、分かれ道があり、そこから数百m進むと長岳寺奥の院不動石仏がある。舟形の火焔光背を背負った像高153pの不動立像の厚肉彫り像である。引き締まった顔や衣紋・風になびく検索など写実的な表現の優れた不動石仏である。近くにこの不動の勧進碑があり、勧進者名と「元徳弐年庚午正月廿七日」の刻銘がある。



令和4年8月16日  天理市の石仏7・8
天理市の石仏7 みろく丘弥勒石龕仏
奈良県天理市柳本町  「永和4(1378)年 南北朝時代」
 長岳寺の北東に「みろく丘」と呼ぶところがあり、そこに南北朝時代の弥勒石龕仏がある。目が細く、低い鼻で、個性的な表情の石仏で、印象に残る。「永和4年(1378)」の紀年とともに「大工僧善教」の銘があり、南北朝時代後期に善教という人が作ったことがわかる。この弥勒仏と同じ作風の石仏もこの付近には多くあり、建治型石仏とともに、この地方の石仏の特色となっている。



   
天理市の石仏8 柳本墓地地蔵石仏
奈良県天理市柳本町583    「永徳3年(1383) 南北朝時代」
 長岳寺の南にある柳本墓地には角張った顔、細い目、低い鼻、小さな口の個性的な表情の地蔵石仏がある。墓地入口付近に東向きに立っていて、高さ143pの不整形石の正面に船型の深い彫り窪みをつくり、宝珠と錫杖を持つ地蔵を半肉彫りしたもので、他のこの時代の地蔵石仏と違った迫力があり、魅力的である。永徳三年(1383)の紀年銘がある。柳本墓地地蔵石仏は「大工僧善教」の刻銘のある永和四(1378)年の「みろく丘弥勒石龕仏」と顔の表情や衣紋表現などよく似ている。従って、柳本地蔵石仏も善教の作と考えられる。柳本町には他にも、同じ頃の紀年銘の持つ同様の作風の石仏が見られる。



   
令和4年8月14日撮影  近くの水田地帯にて
コチドリ・ケリ・イカルチドリ・イソシギ
水の張った休耕田が何カ所かあり、その中の水が引き始めた休耕田にコチドリがいました。5羽以上いました。
前頭に黒色のない幼鳥も混ざっています。
コチドリの幼鳥と思えた右の1羽は嘴が長く体も大きく、イカルチドリのようです。
イカルチドリです。
3カ所の水の張った休耕田にケリがいました。
 ケリを撮影した後、アオアシシギがいた川に行って見たのですが、アオアシシギは見あたりませんでした。撮影したのはイカルチドリの幼鳥とイソシギです。イカルチドリは川面に突き出た石や岩に4羽ほどいたのですが、カメラを向けると飛び立ち、少し離れた石の上にいた1羽を撮っただけです。
イソシギです。



   
令和4年8月13日  近くの川と水田にて
イカルチドリ・ケリ・アオアシシギ
 7日にアオアシシギを見た川に行きました。最初はイカルチドリしか見られませんでしたが、しばらくするとアオアシシギらしき鳥を見つけました。飛び立ったので追いかけると対岸の砂地にそれらしき鳥を見つけました。ケリの近くにアオアシシギがいました。
川の近くの水田のケリです。2羽いました。



令和4年8月12日  天理市の石仏5・6
天理市の石仏5 光蓮寺跡阿弥陀石棺仏・地蔵石仏
奈良県天理市柳本町830 「建治2(1276)年・貞治3(1364)  鎌倉時代・南北朝時代」
阿弥陀石棺仏
地蔵石仏
 古びた家屋が残る柳本の街の細い路地を入ったところにに光蓮寺跡があり、小さな毘沙門堂と石仏を集めた仮堂がある。仮堂の中心となっているのが、高さ113cm、幅49cm、厚さ26cmの石棺の一部を使用したと考えられる長方形石材に、舟形光背を深く彫りくぼめ、その中に来迎阿弥陀立像を厚肉彫りしたこの石仏である。鎌倉中期の建治2(1276)年の刻銘がある。面長で、細身で、技巧的な個性の強い石仏で、このような石仏は柳本の町や長岳寺周辺には30体ほどあり、そのおおくが建治年間(1275〜1278)の刻銘がある。

 阿弥陀石棺仏の前に目が細く、低い鼻で、個性的な表情の地蔵石仏が置かれている。高さ55p、下幅45pの矩形状の石材の表面に船形の彫りくぼみをつくり、錫杖と宝珠を持った地蔵立像を半肉彫りしたものである。「□冶三年‥」の刻銘があり、この後、紹介する「大工双善教」の刻銘のある「みろく岡弥勒石龕仏」と同じ様式である。他の善教様式の石仏と同じ南北朝時代の作で、貞治3(1364)の造立と考えられる。



天理市の石仏6 柳本町五智堂周辺の石仏
奈良県天理市柳本町159-3  「南北朝時代」
双仏石
地蔵石仏
阿弥陀立像石仏
阿弥陀座像石仏・仏頭石
 柳本の町の中に長岳寺の飛び地があり、五智堂と呼ばれる真ん中に太い心柱がある傘のような建物か立っている。その近くの道ばたに20体近い石仏が集められていて、その中に南北朝時代の双仏石がある。高さ53p、幅70pの花崗岩の石の正面に船形光背を二つつなげて彫りくぼめ、像高35pの阿弥陀と地蔵の立像を半肉彫りしたもので、柳本付近でよく見られる善教作の石仏に通じる作風である。天理市福住の泥かけ地蔵とともに双仏石の先駆けとなる石仏である。

 他にも善教様式の地蔵石仏もある。光蓮寺跡の地蔵石仏と同じく矩形の石材の表面に船形の彫りくぼみをつくり地蔵立像を半肉彫りしたものであるが、錫杖宝珠型ではなく、両手で宝珠を持った像である。また、鎌倉時代の建治様式の石仏もある。船形の自然石の表面いっぱいに船形の彫りくぼみをつくり来迎印の阿弥陀立像を半肉彫りしたものである。他に厚肉ぼりの弥陀定印の阿弥陀座像石仏や角材の上に仏頭をのせたような石仏などもある。



令和4年8月11日  天理市の石仏3・4
天理市の石仏3 専行院阿弥陀石棺仏・地蔵石棺仏
奈良県天理市柳本町1474   「鎌倉時代」
阿弥陀石棺仏
建治二年地蔵石棺仏
地蔵石棺仏
 柳本町の東に卑弥呼の時代の鏡、三角縁神獣鏡が多数出土したことで知られる黒塚古墳がある。その古墳の南に藩主であった織田一族の菩提寺、専行院(せんぎょういん)が建つ。本堂の前にこの阿弥陀石棺仏が立っている。

 高さ121cm、幅91cm、厚さ30cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に立つ阿弥陀来迎像を厚肉彫りする。建治年間の刻銘はないが、面長で、細身、大きく裾広がりにつくった裳裾など建治2(1276)年の光蓮寺阿弥陀石棺仏と同じ作風である。

 阿弥陀石棺仏の右には建治2(1276)年の地蔵石仏、また、境内の無縁仏内にも石棺材を使った地蔵石仏がある。これらも光蓮寺阿弥陀石棺仏と同じ作風である。




天理市の石仏4 中山観音堂阿弥陀石棺仏        
奈良県天理市中山町493  「鎌倉時代」
長岳寺の田んぼを隔てた北の小さな集落が天理市中山町で、そこには小さな観音堂がある。境内に十数基の小石仏が集めてられている。その中にこの阿弥陀石棺仏がある。

 高さ89cm、幅42cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に坐す像高31cmの定印阿弥陀像を半肉彫りする。建治年間の刻銘はないが光蓮寺などの建治年間の石仏につながる石仏で鎌倉時代の作と思われる。光蓮寺や専行院の阿弥陀石棺仏に比べると彫りは浅く、穏やかな端正な顔である。

 他に建治年間の石仏によく似た小型の阿弥陀石仏もある。山形の石材の表面を平にして、その中に舟形の彫り窪みをつくり来迎院の阿弥陀立像を半肉彫りしたものである。。



   
令和4年8月10日  天理市の石仏1・2
天理市の石仏
 
   
   
 天理市は1954年(昭和29年)に山辺郡の丹波市町、福住村・添上郡櫟本町・磯城郡柳本町など6つの町村が合併して発足した奈良県下で4番目の市である。名称は天理教に由来する。中心部に天理教本部・天理大学・各地方教会の詰所など天理教関連の施設が集中していることなどから、天理教の宗教都市として知られている。そのように天理教のイメージの強い都市であるが、歴史は古く日本最古の道として知られる山辺の道が通り、崇神天皇陵・景行天皇陵や多くの三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳などの古墳や、国宝の七支刀で知られる石上神宮をはじめ大和神社、長岳寺などの寺社などの文化遺産が豊富にある。

 石仏も「長岳寺弥勒石棺仏」「桃尾の滝不動三尊磨崖仏」「七廻峠地蔵石龕仏」など古く優れたものが多くある。特に柳本町の長岳寺周辺には古墳の石材を転用した「長岳寺弥勒石棺仏」・「専行院阿弥陀石棺仏」などの石棺仏や僧善教という石工の作品群など特異な石仏や「長岳寺奥の院不動石仏」「長岳寺地蔵笠塔婆」など鎌倉時代の整った石仏もあり石仏愛好家にとっては是非とも訪れたい場所である。

 石上神宮から3q離れた山中に桃尾の滝があり、滝の近くの岩肌に鎌倉時代の迫力ある線彫りの「桃尾の滝不動三尊磨崖仏」や南北朝時代の如意輪観音石仏や不動石仏がある。桃尾の滝から山道を登っていくと、奈良時代に建ったといわれる龍福寺跡があり、その道沿いにも不動や地蔵の磨崖仏がある。龍福寺は廃仏毀釈によって断絶し、その後大和桃尾山大親寺として不動堂や本堂が建てられた。境内には最近になって彫像された法華経28品に関わる石仏や四国八十八ヶ所霊場が並んでいる。

 ここでは「天理の石仏T」として長岳寺周辺の石仏を「天理市の石仏U」として桃尾の滝周辺の石仏を紹介する。また、天理市の東部の福住地区には「七廻峠地蔵石龕仏」や「どろかけ地蔵」などの鎌倉〜南北朝時代の石仏があるが、これらは「大和高原の石仏U」で紹介している。




   
天理市の石仏T(柳本町・長岳寺の石仏)
 
 奈良県の天理市柳本付近には長岳寺を中心として鎌倉時代から南北朝時代にかけての石仏が多くあり、石仏愛好家にとっては魅力的な所である。
 
 古墳の石材を転用した石棺仏や僧善教という石工の作品群など特異な石仏の宝庫である。

 特に、長岳寺の弥勒石棺仏は鎌倉中期の作風を示し、おおらかな雄大な表現の石仏でこの地方を代表する石仏である。また、竜王山中腹の長岳寺の奥の院には、大和地方の不動明王の傑作である鎌倉末期の不動石仏がある。

 柳本の町や長岳寺周辺には鎌倉後期の建治年間(1275〜1278)の銘が刻まれた小石仏がいくつかあり、同じ作者の作と思われる。銘がないが同じ作風の石仏とあわせると30体を越える。このうち、5体ほどが石棺仏である。面長で、細身で、技巧的な個性の強い作品群である。

 長岳寺の北東に「みろく丘」と呼ぶところがあり、そこに南北朝時代の弥勒石龕仏がある。目が細く、低い鼻で、個性的な表情の石仏で、印象に残る。「永和4年(1378)」の紀年とともに「大工僧善教」の銘があり、南北朝時代後期に善教という人が作ったことがわかる。この弥勒仏と同じ作風の石仏もこの付近には多くあり、建治型石仏とともに、この地方の石仏の特色となっている。





天理市の石仏1 長岳寺地蔵笠塔婆
奈良県天理市柳本町508 「元享2(1322)年」
 山の辺の道に残る長岳寺は天長元年(824)淳和天皇の勅願により弘法大師が大和神社の神宮寺として創建したと伝えられる古刹である。現在でも、運慶・快慶などの慶派の仏像の先駆けと言える本尊の阿弥陀三尊像(藤原時代)など多くの文化財を有している。鎌倉時代の石造文化財も多くあり、境内の東の弥勒丘に立つ弥勒石棺仏はこの地方を代表する石仏である。

 本堂前野東隅に立つ笠塔婆は、高さ153p、幅約30pの柱状で、上面に船型の彫り窪みをつくり、像高45pの地蔵菩薩を半肉彫りしたものである。地蔵菩薩の下には2体の比丘像が薄肉彫りしている。力強さはないが端正な表現の地蔵菩薩である。「元享二(1322)年」の紀年銘がある。



天理市の石仏2 長岳寺弥勒石棺仏
奈良県天理市柳本町508 「鎌倉時代」
 長岳寺本堂から東南の丘の上に、この石仏がまつられている。高さ240p、幅180p、厚さ30cmの組合せ石棺の蓋石と思われる石材に、蓋裏の面に二重光背形を彫りくぼめ、その中に像高194p弥勒如来立像を蓮華上に半肉彫りする。像は右手を施無畏印、左手は垂れて掌を前にする与願印ではなく、のど地蔵と同じ掌を伏せる蝕地印(降魔印)である。大和の弥勒石仏によく見かける印相である。風化も少なく、美しく保存されていて、おおらかな雄大な表現の石仏である。



   
令和4年8月9日  近くの川と水田にて
イカルチドリ・イソシギ・ケリ
7日にアオアシシギを見た川に行きました。アオアシシギは姿がなく、イカルチドリとイソシギしかいませんでした。
アオアシシギと期待したのですが、イソシギでした。
イカルチドリは若鳥のようです。
 7日、イソシギを写した対岸の砂地のイカルチドリです。大きなアオアシシギはピントを合わせることができたのですが、イカルチドリは小さくピンボケです。
川の近くの水田のケリです。いつもの年は多くのケリがいるのですが、今年は少なく、見たのはこの1羽のみです。



令和4年8月8日  大和高原の石仏29〜31
大和高原の石仏29 室生寺軍荼利明王磨崖仏
奈良県宇陀市室生78  「享保12年(1727) 江戸時代」
 金堂前の東側の大きな岩に、約1mの舟形を彫りくぼめ、 像高約80cmの軍荼利明王を半肉彫りする。10本の手を持つ異様な姿の石仏であるが、 日笠をかぶったような炎髪とユーモラスな顔がどことなく親しみをもてる。稚拙な表現であるが、 江戸時代の庶民の信仰の息吹が感じられる石仏である。向かって左に、「煩悩即菩提 生死即涅槃」と刻む。       
アクセス
近鉄「室生口大野」駅より「室生龍穴神社」行きバス乗車、「室生寺」下車。
自動車 名阪国道「福住IC」より北へ0.5q、左折して県道186号線を1.8q。西へ徒歩0.6q。



   
 
大和高原の石仏30 大内峠十三仏
奈良県宇陀市榛原内牧 大内峠
 室生村上田口へ抜ける旧道の峠にある。高さ220p、幅220p、 奥行き180p自然石の岩に彫られている。岩の上に笠のような平たい石が載っている。地蔵像は形式化した彫りで、 鎌倉期の地蔵のような力強さに欠けるが、岩自体の魅力がそれを補ぎなっている。背後には樹木が茂り、 手前には石楠花の花が咲き、風景的にも素晴らしい。 線刻像では西面の阿弥陀三尊像の彫りがよい。
アクセス
近鉄「榛原」駅より「曽爾村役場」行きバス乗車(1日4〜5本)、「上内牧」下車、国道369号線を東へ1.5q。左折して山道を数百メートル。
自動車  名阪国道「針IC」より国道369号線を南(曽爾村方面)へ19.9qで「大内峠十三仏」へ向かう山道の入口。山道を数百メートル。



 
大和高原の石仏31 大願寺庚申塔
奈良県宇陀市大宇陀拾生736  「天保14(1843)年 江戸時代」
 奈良県宇陀市大宇陀の大願寺には「お茶目庚申」と呼ばれる青面金剛の庚申塔がある。境内の片隅に小さな覆堂があり、文字碑の庚申塔とともに安置されている。訪れた時には覆堂には「身代わり申」が吊され、文字碑の前には「申」と刻まれた瓦が置かれていた。

 「お茶目庚申」は素朴で愛らしい青面金剛像で、四臂で左の二臂で三叉戟と羂索を持ち、右の二臂で法輪と蛇を持っている。青面金剛の顔や猿や鶏は漫画ティックな表現である。庚申塔は庶民信仰の石塔らしくこのようなユーモラスな庚申塔は全国によく見かけられる。
アクセス
近鉄大阪線「榛原駅」駅より「大宇陀」行きバス乗車、終点下車すぐ(道の駅「宇陀路大宇陀」の西)。
自動車 名阪国道針ICから約30分(17.9q)で道の駅「宇陀路大宇陀」(国道369号を宇陀市榛原方面へ8.3q、「玉立橋東詰」交差点を右折して南南西へ3.6q、「篠楽」交差点を右折。国道370号を南へ5.9q)



   
令和4年8月7日  近くの川にて
アオアシシギ・イカルチドリ
昨日、見られなかったアオアシシギを求めて近くの川に行きました。
 昨日、イカルチドリらしき鳥かいた川面に突き出た岩のような石の上にイカルチドリより大きい鳥を見つけて、遠かったですがカメラを向けました。撮影した後、見直して見るとやはりアオアシシギでした。よく見るとイカルチドリも近くに3羽いました。
近づくとアオアシシギとイカルチドリは飛び立ちました。アオアシシギは対岸の砂地に飛び降りました。



   
令和4年8月6日  近くの川にて
ホオジロ
 水の張った休耕田にいたアオアシシギが近くの川にいると聞いたので行って見たのですがアオアシシギは見られませんでした。川ではオギにとまって鳴いているホオジロとホオジロの幼鳥を撮影しました。
ホオジロの幼鳥です。



令和4年8月5日  大和高原の石仏27・28
大和高原の石仏27 つちんど墓地阿弥陀三尊石仏
奈良県宇陀市室生小原847 「永仁6年(1298) 鎌倉後期」
 つちんど墓地の奥まった所に、阿弥陀三尊を、一体ずつ、別石で彫られている。中尊の光背面に永仁6年の紀年を刻す。中尊は高さ約1.8mの細長い板状 石の表面に、二重光背形の彫りくぼみをつくり、像高1.3mの来迎印相 の阿弥陀如来を半肉彫りする。 顔は優しく温厚な表情で印象的である。一方、衣紋や全体の彫りは、硬く抑揚に欠ける表現である。しかし、その硬さが、石の美しさを引き出していて、 木彫の仏像にはない魅力を作り出している。
アクセス
近鉄「室生口大野」駅よりタクシー9.8q。
自動車 名阪国道「小倉」より「やまなみロード」を南東へ2.9q、右折して山道を1.4q。



   
大和高原の石仏28 滝山(下笠間)阿弥陀磨崖仏
奈良県宇陀市室生区下笠間 「永仁2年(1294) 鎌倉後期」
 笠間川対岸の岸壁に、二重光背式の彫りくぼめを作り、その中に連座上にたつ来迎相の阿弥陀像を半肉彫りする。 頭光には、 放射光が線彫りされている。優雅でおおらかな面相の磨崖仏で、鎌倉後期の磨崖仏の秀作である。

 絵画的な柔らかい表現で、 同じ時代のつちんど墓地の阿弥陀石仏とは違った魅力がある。
アクセス
近鉄「室生口大野」駅よりタクシー11.8q。
自動車 名阪国道「小倉IC」より「やまなみロード」を南東へ4.9で左折し、すぐに左折して県道781号線を北東へ2.7q。



   
令和4年8月4日  近くの水田地帯にて
カルガモ親子
農業用水路にカルガモの親子がいました。



   
令和4年8月3日  自宅のベランダより
イソヒヨドリ
 この2日間、熱中症警戒アラートが出ていて、鳥の撮影に行く気がしません。買い物に行く以外、外に出るのは庭の水まきだけです。午後4時頃水まきをしているとイソヒヨドリの鳴き声が斜め向かいの会社の寮の建物から聞こえました。慌ててカメラを2階に取りに行って、そのまま2階のベランダから、非常階段のフェンスにとまっているイソヒヨドリを撮影しました。



   
令和4年8月1日撮影  自宅の庭より
イソヒヨドリ
 イソヒヨドリの鳴き声が斜め向かいの会社の寮の建物から聞こえました。この建物の外階段の手すりやテレビアンテナで鳴いているイソヒヨドリの雄を毎年よく撮影しています。この日も、階段の踊り場にイソヒヨドリがいました。ここで1ヶ月前写し時は幼鳥でしたが成長した姿になっていました。



   
令和4年8月1日  広い史跡公園にて
セッカ
 久しぶりに少し遠くの史跡公園に行きました。広いオギやヨシの草原では少し前までうるさく鳴いていたオオヨシキリはいなくなり、セッカの鳴き声「ヒッヒッ ヒッヒッ」「チャッ チャッ チャッ」だけが響きます。オギの茎や所々にある木の上にとまったりするのですが遠くてなかなかピントが合いませんでした。


7月 9月