観音石仏50選U
江戸時代〜現代
  
 
 江戸時代になると各地に観音信仰に関わる講がつくられ、多数の観音石仏がつくられた。全国各地に西国三十三観音霊場礼巡りの講がつくられ、西国三十三所観音をミニチュア化して、一寺院や一山に三十三所観音石仏がつくられていった。観音のやさしい姿から女性が多く信仰するようになり、墓碑として、女性を中心とした月待や念仏などの供養塔の主尊として観音石仏が多数見られる。また、牛馬の供養と結びついて関東・中部地方を中心に馬頭観音石仏が多数つくられた。 
観音石仏50選T 



  
観音石仏50選(29)   香高山五百羅漢観音磨崖仏
奈良県高市郡高取町壺坂  「江戸時代初期」
 西国三十三所観音の6番札所、壺阪寺(南法華寺)は、お里・沢市の物語で知られる『壺阪霊験記』の舞台でもある。その壺阪寺の奥の院といわれるのが、この香高山五百羅漢である。

 壺阪寺より高取城跡へ行く道を1qほどすすむと、五百羅漢の道標が立っている。その道標から山道を少し行くと、数百体の羅漢を半肉彫りした岩があらわれる。像高約50pほどの像が所狭しと並んでいる。そこから数メートルほど上ったところにも、数百体の羅漢が同じように彫られていて、壮観である。ここからさらに上ると地蔵・十王像、五社明神、弘法大師蔵、阿弥陀来迎二十五菩薩と磨崖仏が次々と現れてくる。最初の五百羅漢岩から左下へ下った奧には、大日如来の半肉彫り像と梵字で表した両界曼陀羅が彫られている。

 観音磨崖仏は2カ所に分かれた五百羅漢磨崖仏の2カ所目の五百羅漢の上部の岩に彫られていて、円形の彫りくぼみをつくり、その中に蓮華座に座す、右手を膝に置き、左手で未敷蓮華を持った十一面観音像を半肉彫りする。香高山の磨崖仏なかでは最も保存状態がよく、大型で整った像である。



観音石仏50選(30)   般若寺三十三所観音石仏
 奈良市般若寺町221  「元禄16年(1703) 江戸時代」
千手観音・十一面観音・千手観音
十一面観音
千手観音
馬頭観音
十一面観音・千手観音・十一面観音
千手観音
 奈良にも江戸時代以降の三十三所観音石仏は多くあるが磨崖仏はなく、優れた石仏はあまり見当たらない。その中で最も知られているのが奈良市の般若寺の三十三所観音である。江戸時代中期の1703年(元禄16年)に山城国の寺島氏が病気平癒の御礼に寄進したもので、その端正な姿は、夏から秋にかけて美しく咲いたコスモスとマッチして絶好の被写体となっている。

 般若寺は創建は飛鳥時代と伝わる古刹て、天平のころ平城京の鬼門を鎮護する寺として栄えた。しかし、平安時代に平重衡の焼き討ちにあい衰退する。鎌倉時代に病者や貧者の救済に力を尽くた叡尊と弟子の忍性によって再興された。宋から招かれた石工・伊行末の傑作として有名な鎌倉時代の十三重石塔が境内の中心に立っている。国宝に指定されている楼門は鎌倉時代の建立で十三重石塔や西国三十三所観音石仏と初夏のヤマブキ、梅雨時のアジサイ、秋のコスモスと折々の花々が境内を彩る。 



観音石仏50選(31)   信貴山三十三所観音碑
奈良県生駒郡平群町大字信貴山2280 「江戸時代」
西国三十三所観音(1番〜7番)
西国三十三所観音(4番千手観音・5番千手観音・7番千手観音・6番如意輪観音)
西国三十三所観音(8番〜15番)
西国三十三所観音(10番不空羂索観音・9番十一面観音)
西国三十三所観音(16番〜22番)
西国三十三所観音(27番如意輪観音・26番千手観音?・28番聖観音・29馬頭観音)
西国三十三所観音(30番千手観音・31番聖観音・33番十一面観音・32番千手観音)
 信貴山朝護孫子寺は、奈良県生駒郡の信貴山にある信貴山真言宗総本山の寺で、本尊は毘沙門天。聖徳太子の創建と伝えられ、太子が寅の年、寅の日、寅の刻に毘沙門天王が出現されることで御加護を受け、物部守屋を討伐したことに始まる。そのため、張り子の虎が至る所に置かれている。「信貴山の毘沙門さん」、「信貴山寺」などと呼ばれ、”商売繁盛”、”必勝祈願”、”金運招福”、”合格祈願”など庶民信仰の場として広く親しまれ、参拝者が絶えない。「如意融通宝生尊(融通さん)」を祀る成福院や金運を始めとした幸運を呼びこむ「銭亀善神」を祀る銭亀堂で知られた千手院、宿坊として知られた玉蔵院などの塔頭がある。

 成福院から本堂の方へ進むと三宝荒神を祀る三宝荒神堂と宝庫の飛倉館がある。そこからまっすぐ緩やかな階段状の参道が本堂まで続いている。飛倉館の東に参道から分かれるように多宝塔へ行く階段がある。その階段脇に三十三所観音碑がある。

 高さ70p、幅27×25pの石柱の四方に西国三十三ヶ所観音霊場の本尊を薄肉彫りであらわしている。南面には1番青岸渡寺の如意輪観音と、2列で6体、2番から7番霊場の観音像を配する。東面には8番から15番霊場の観音像8体を2列で、北面には16番から25番霊場の観音像10体を2列と3列で、西面には26番から33番霊場の観像8体を2列で配する。各観音像の横には霊場を表す番号を刻む。

 三十三ヶ所観音霊場石仏は江戸時代各地で造立されたが、石柱にこのように三十三ヶ所観音像をすべて表したのは珍しい。



観音石仏50選(32)   広沢池千手観音石仏
京都市右京区嵯峨釣殿町28  「寛永18(1641) 江戸初期」
 観月の名所と知られていた広沢池は嵯峨野らしい風情を今も残し、観光客も少なくのどかな景観を見せている。その池中の観音島に江戸時代の千手観音石仏が静かに立っている。

 明治以降音羽山から移されたもので像高160pの丸彫りの頭上に十一面千手観音で、背面の銘から、蓮花寺五智如来石仏と同じく寛永18(1641)に樋口平太夫が願主となって坦称上人によって造立されたことがわかる。

 この石仏と同じ背面銘の石仏が平等寺・本圀寺で2体ずつ見つかっていて、蓮花寺五智如来石仏とともにこれらの5体の石仏が音羽山にあったことがうかがえる。



観音石仏50選(33)   茂頭観音磨崖仏
鹿児島市五ヶ別府町茂頭  「享保14(1729)年 江戸時代」
 茂頭(もつ)観音は人里離れた山の中にあり、鹿児島市内の同じ観音磨崖仏でも梅ヶ渕観音と比べると訪れる人も少なく、あまり知られていない。しかし、磨崖仏としての出来映えは勝るとも劣らない。

 茂頭観音は茂頭の鹿児島本線の踏み切り手前を左折して茂頭公民館へ行く踏み切りも渡らず、山間の農道を約1Kmほど東へいった山の中にある。鹿児島市のホームページを参考に訪れたが、ホームページの地図の茂頭観音の位置が少しずれていて探すのに苦労した。

 高さ約1.2m、横幅2mの大きな岩の全面を彫り窪めて、聖観音座像を半肉彫りで刻んだ磨崖仏である。頭に弥陀の化仏を置いた宝冠をかぶり、左手に開敷の蓮華を持ち、右手は膝の上で与願印を結ぶ。ふくよかで美しい顔が素晴らしい。岩の美しさを活かした量感豊かな表現で、自然の岩の持つ厳しさとともに自然の岩の持つ温かさを感じさせる磨崖仏である。

 参道入口の鳥居の横の案内板に、「伊集院の曹洞宗雪窓院住職の伊東稔法和尚の子の佑義が、享保14(1729)年、ここに寺をたて、その時からここを寺山と呼ぶようになり、この観音像も、その時につくられたものではないかといわれている」という旨が書かれていた。地元の人は寺山観音とよんで、大切に供養しているようで、訪れたときには美しい花が供えられていた。



観音石仏50選(34)   梅ヶ渕観音磨崖仏
鹿児島市伊敷町6550−5  「江戸時代」
 梅ヶ渕観音ぱ、商売繁盛、厄除け、結婚、受験などさまざまなご利益があるということで多くの人が参拝する観音磨崖仏である。2010年の1月3日に訪れたが初詣の車で道が渋滞していて、駐車場に車を入れることができず、拝観することができなかった。2010年の8月ようやく、やさしい柔和な観音様を拝むことができた。

 高さ4m以上もあろうと思われる大岩の上部に楕円形の彫り窪みをつくり、宝冠をかぶり、両手を腹の前で定印に組み、結跏趺坐する菩薩像を厚肉彫りで刻んだ磨崖仏である。大きく垂れ下がった衣は薄肉彫りで表現していて、垂れ下がった衣の部分を含むと高さ2m近い大作である。

 定印を結び岩の上に坐し、衣を垂らした表現の観音像としては白衣観音があるが(『仏像図彙』参照)、この像は頭から布をかぶっていないので、白衣観音とは断言できないが、仏画を参考に江戸時代以降に彫られた像であると考えられる。鹿児島市の甲突川に架かっていた五つの石橋を作った肥後の石工、岩永三五郎が彫ったという説があるという(梅ヶ渕観音の参拝者の祈願をするために建立された梅ヶ渕観音院のホームページ参照)。

 五ヶ別府町の茂頭観音とともに、鹿児島市を代表する観音磨崖仏である。茂頭観音に比べると量感や力強さにやや欠けるが、繊細で端正な表現の観音像である。岩の上に坐す観音を厚肉彫りと薄肉彫りを使い分けることにより見事に表していて、茂頭観音とまた違った岩の持つ良さを活かした造形となっている。 



観音石仏50選(35)   大化五重谷磨崖仏
大分県豊後大野市緒方町大化今山、切小野谷 「江戸時代」
 大化五重谷磨崖仏は神社から切小野谷磨崖仏ヘ下りる山道を途中で右にそれて進んだ谷の小さな丸木橋を渡った崖の上に彫られている。凝灰岩の岩肌に二重光背状に彫り窪みを作り両手で蓮華を持った像高1mの観音菩薩立像を半肉彫り出したもので、彩色が鮮やかに残っている。切小野谷磨崖仏に比べるとより稚拙な表現であり、江戸時代の作と思われる。



観音石仏50選(36)   黒滝山三十三所観音磨崖仏
広島県竹原市忠海中町4丁目9-1 「 天保4(1833)年」
22番穴太寺 聖観音
9番南円堂 不空羂索観音
7番岡寺 如意輪観音
 JR呉線の忠海駅を下車し、北西に10分ほど歩くと地蔵禅院という寺がある。その寺の横手が黒滝山の登山口である。 約30分ほどで山頂に達する。 この登山道に沿って西国三十三観音磨崖仏が岩肌に彫られている。 天保4(1833)年に完成した江戸時代の磨崖仏で、 三重県の石山観音磨崖仏とともに西日本の代表的な西国三十三所観音磨崖仏である。

 石山観音磨崖仏のような厚肉彫りではなく、浮き彫りである。造形的な品格はあまりないが、信仰的な迫力を感ずる磨崖仏が多い。2番穴太寺の本尊の聖観音の蓮華座には男性のシンボルが彫られている。9番南円堂の本尊不空羂索観音は本来は一面三目八臂であるがここでは三面になっている。7番岡寺の本尊如意輪観音は浮き彫りというより板彫風で、より素朴な表現になっている。



観音石仏50選(37)   石山観音磨崖仏
三重県津市芸濃町楠原 「江戸時代」
如意輪観音(西国第1番、青岸渡寺)
十一面観音(西国第2番、紀三井寺)
千手観音(西国第12番、岩間寺)
十一面観音(西国17番、六波羅蜜寺)
如意輪観音(西国第27番、円教寺)
聖観音(唐招提寺像模刻)
 磨崖仏100選(84)で鎌倉時代の磨崖仏として紹介した石山観音磨崖仏の石山観音は江戸時代に彫られた磨崖仏の三十三ヶ所観音から名づけられている。

 入口の巡拝路コース案内にしたがって進むと那智山青岸渡寺本尊如意輪観音から始まる三十三ヶ所観音霊場を巡礼できる。江戸時代、西国三十三ヶ所観音の巡礼巡りの信仰の盛行とともに、西国札所の各寺院の本尊の観音を模した観音石仏が並べられ、簡単に三十三ヶ所観音霊場の巡礼巡りができるように、三十三ヶ所観音霊場のミニチュアとして三十三ヶ所観音が一寺院や一山につくられたもので、全国各地に多数見られる。

 磨崖仏の三十三ヶ所観音は福島県(福島県の磨崖仏参照)を除いたら少なく、西日本ではこの石山観音と広島県竹原市黒滝山がよく知られている。特に、石山観音磨崖仏は大型の厚肉彫りの磨崖仏で福島市の岩谷観音磨崖仏とともに江戸時代の磨崖仏の秀作である。特に、西国第27番の如意輪観音や西国17番の十一面観音観音、第12番の千手観音などは破綻のない整った像である。第一番札所の青岸渡寺本尊の如意輪観音磨崖仏の前の石水鉢に、明和9(1772)年の年号があり、観音諸像はこの頃の造立と考えられる。      



観音石仏50選(38)   岩谷観音磨崖仏
福島県福島市信夫山 「江戸時代」
十一面観音(西国三十三番、華厳寺)
千手観音(西国二十四番、中山寺)
馬頭観音(西国二十九番、松尾寺)
千手観音(西国四番、施福寺)
宝剣と宝珠を持つ観音
千手観音(西国三番、粉河寺)
 福島市の町のすぐ北にそびえる信夫山、その東端の中腹に岩谷観音がある。岩谷観音は応永二十三年(1416)に観音堂が建立されたのにはじまる。江戸時代、宝永六年(1709)頃から岩谷一面に、西国三十三所観音をはじめとして、庚申・弁財天・釜神などが彫られた。風化は著しいが厚肉彫りで像容の優れたものが多い。

 特に西国三十三番、谷汲山華厳寺の十一面観音はその中でも傑作である。気品のある面相で、量感もあり江戸時代の作とは思えない。西国二十四番、中山寺の千手観音は彫りは浅いが、彩色も残り愛らしい像である。(中山寺の本尊は十一面観音だが、ここではなぜか千手観音になっている。)2体並んだ像高83pの千手観音像は穏やかな幼い顔で心がいやされる(赤い着色の残る左の像は2番施福寺像・右の像は宝珠と宝剣を持つ像)。その他、3番粉河寺の千手観音・29番松尾寺の馬頭観音など優れた像が多い。       



観音石仏50選(39)   岩角山の観音磨崖仏
福島県本宮市和田東屋口 「江戸時代」
養蚕観音
准胝観音
千手観音
如意輪観音(西国十四番、園城寺<三井寺>)
如意輪観音(西国七番、岡寺)
十一面観音(西国八番、長谷寺)
馬頭観音(西国二十九番、松尾寺)
 本宮市と二本松市との境に位置する岩角山(いわつのやま)に、仁寿元年(851年)慈覚大師が開基したとつたえられる岩角寺(がんかくじ)がある。岩角山はわずか標高337メートルの小さな山ながら、うっそうとしたしげった杉の木々や、、山中に点在する巨岩奇石そして那須連峰や阿達太良山を一望できる山頂からの眺めなど、魅力的な山である。福島県指定名勝及び天然記念物に指定されている。その点在する巨岩奇石に三十三所観音を始めとして阿弥陀・大日・虚空蔵・地蔵・不動などの菩薩像が約150体(78体は観音像)の刻像がある。岩谷観音と違って厚肉彫りは養蚕観音と呼ばれる養蚕神社の本尊像のみで、あとは数体の半肉彫り・薄肉彫り像を除いて、線刻の磨崖仏となっている。岩角山観光協会の案内板には八百八体の仏が刻まれていると記されている。現在、約200体の磨崖仏(磨崖梵字も含む)が確認されている。<小林源重著「ふくしまの磨崖仏」>

 これらの磨崖仏は元禄年間以降に彫られたもので、その中でも最も古いものが、養蚕神社の本尊として堂の中に祀られている元禄3(1690)年の紀年銘を持つ養蚕(こがい)観音とよばれる厚肉彫りの聖観音である。この観音は二本松城主丹羽光重が元禄3(1690)年に霊夢のお告げにより、養蚕業を興すにあたり刻ませたもので、顔は丹羽公に似ていると言われている。

 丹羽光重は住僧豪伝和尚とともに、岩角寺を再興し、養蚕観音造立をはじめて毘沙門堂などの諸堂の再建、三十三所観音などの線刻磨崖仏造立をすすめた。三十三所観音など線刻磨崖仏には奉納した寄進者施主名が刻まれていて、人々の信仰に支えられて岩角寺が栄えたことがわかる。

 養蚕観音とともにこの磨崖仏群の白眉は案内地蔵と呼ばれる像高300pの薄肉彫りの地蔵立像で、城主丹羽光重が亡くした子どもへの供養のために刻んだものである。中腹の観音堂付近の大岩の上部に彫られた准胝観音像は一面六臂の半肉彫りで、三カ所の格狭間を設けた立派な蓮華座の上に坐す。稲荷神社近くの岩に彫られた千手観音と虚空蔵菩薩のように薄肉彫りの像も見られる。

 三十三所観音は、この時代の線刻の磨崖仏の秀作である。7番岡寺如意輪観音・8番長谷寺十一面観音・14番三井寺如意輪観音像は素朴であるが伸びやかな線で描かれた絵画的な表現の線刻像である。8番長谷寺十一面観音などには彩色の跡が残る。西国8番霊場長谷寺の本尊の十一面観音は錫杖を持った立像であるが、岩角山の線刻像では錫杖を持たない座像になっている。29番松尾寺馬頭観音は7番岡寺如意輪観音などと違う石工の作と思われ、線は7番像などのような線の伸びやかさに欠くが、細かいところまで丁寧に表現し線刻像である。三十三所観音以外の線刻像は追刻と思われ、やや硬い表現となっている。



観音石仏50選(40)   滝八幡磨崖三十三観音
福島県西白河郡矢吹町滝八幡 「江戸時代」
千手観音?・聖観音・如意輪観音
如意輪観音
千手観音
如意輪観音
馬頭観音
  県立矢吹病院の裏の隈戸川の川岸の崖に先丸形の光背龕を彫り込め、その中に一体一体、三十三所観音が半肉彫りされている。 小像であるが、整った端正な磨崖仏である。一様に長帽子型宝冠を頂いていて、聖観音と十一面観音の識別ができない。川岸に一列に刻まれているため、増水時には石仏に近づけない。現在、歴史公園としてきれいに整備されいる。



観音石仏50選(41)   大供磨崖三十三観音
福島県郡山市田村町大供坂ノ上 「江戸時代」
如意輪観音(西国七番、岡寺)
准胝観音(西国十一番、上醍醐)・千手観音(西国十二番、岩間寺)
如意輪観音(西国十四番、三井寺)
千手観音
千手観音
  安永2年〜5年(1773〜1776年)に造立された、三十三所観音磨崖仏。悪性の疫病で苦しんでいたこのあたりの村の人が、疫病退散を願って、各戸から寄付を募り、造立したという。将棋の駒のような舟形光背龕に半肉彫りされている。パターン化された小像であるが、素朴な美しさがある。  



観音石仏50選(42)    硯石磨崖三十三観音
福島県白河市表郷番沢字大平 「江戸時代」
如意輪観音・千手観音・馬頭観音
十一面観音・十一面観音・千手観音・千手観音
馬頭観音
准胝観音
千手観音
 白河市と旧表郷村(現白河市)の境にある関山の頂上に、行基菩薩が開山と伝えられる満願寺がある。奥の細道を行く芭蕉も登ったという。その南側の登山口に硯石磨崖三十三観音がある。

 南斜面に約50mにわたって、杉の間に露出している安山岩に、三十三所観音磨崖仏が刻まれている。他に大日如来・来迎阿弥陀三尊像も見られる。てんてんと露出している岩に方形の龕を彫り窪め2〜4体の蓮華座に乗った観音像を厚肉彫りする。(10体ほどは一つの龕に彫られている。)像高は50〜40p程でこけが生えて風化が進んでいるが、彫りはしっかりしていて、かなりの腕の石工の作と思われる。江戸時代の作と思われる。



観音石仏50選(43)    石崎磨崖三十三観音
福島県白河市表郷梁森石崎142 「江戸時代」
六観音
聖観音・如意輪観音・千手観音・聖観音・千手観音・千手観音
千手観音
如意輪観音
十一面観音
 JRバス「梁森」駅の南の石崎の都々古和気神社の西方、樫の木の森の中にあるてんてんと露出している安山岩に三十三観音などが刻まれている。

 観音像の多くが薄肉彫りに近い半肉彫りで、硯石の磨崖三十三所観音と比べると、写実性にかける。しかし、向かって右の上段にある六観音は厚肉彫りで、六体とも右手で胸元で蓮華をそっと持った姿で、女性的な優しい顔が魅力的である。左端近くにある如意輪観音を含む6体の観音や十一面観音などは厚肉彫りで、卵形の独特の顔をしていて、この磨崖仏群ではもっと印象に残る。



観音石仏50選(44)   守屋貞治の観音石仏
 長野県を中心に江戸時代の文化・文政・天保年代に優れた地蔵石仏や観音石仏を造ったのが、高遠の石工、守屋貞治である。諏訪の温泉寺の住職・願王和尚に帰依し個性的である種の精神性を感じられる石仏を次々と造立していった。
 
北の原墓地十一面観音
長野県駒ヶ根市赤穂14616  「文化2(1805)年 江戸時代」
 北の原墓地にある原家の十一面観音座像は貞治41歳の作で、単体の十一面観音の処女作である。福岡東墓地聖観音や光前寺佉羅陀山地蔵と同じ頃の作品であるが、「円形微笑型表現」ではなく、あっさりとした口元でやさしい初々しい顔の像である。旧三和森墓地より昭和2年に移したものである。
 
福岡西墓地准胝観音
長野県駒ヶ根市東伊那 大久保6174  「文化4(1806)年 江戸時代」
 貞治の四十代の代表作の一つは福岡西の福沢家墓地にある准胝観音である。杉の木立に南面して花崗岩の角石の大石の上に反花と三重の蓮華座を載せその上に丸彫りの准胝観音が坐す。「読誦大乗妙典塔」と基壇の角石いっぱいに刻む。塔と言うにふさわしく総高2.53mにもなる大作である。

 丸彫りのため、諸手を光背に彫りつけることができず、剣・金剛杵・宝輪・鈴などを持っ手を直に曲げて背後に一つ一つ独立して、彫りつけていて、高い技量が伺える作品である。口元は善福寺如意輪観音や光前寺佉羅陀山地蔵と同じ円形微笑型表現で、微笑みを浮かべた穏やかでひきしまった顔もすばらしい。
 
善福寺准胝観音
長野県駒ヶ根市東伊那 大久保6174  「文化年代 40歳台」
 善福寺の裏山の西国三十三所観音石仏のひとつで11番上醍醐の本尊にあたる准胝観音である。善福寺の西国三十三所観音石仏は上記の18番六角堂の如意輪観音とこの像以外は他の石工の作で、造立年代は記録がなくはっきりしないが、駒ヶ根市市のホームページでは文化・文政期(1804〜1830頃)の作としている。

 西国三十三所観音石仏の多くは貞治作の18番六角堂の如意輪観音と同じく船型光背を背負った小像であるが、この像は像高50pを超える像である。蓮葉を組み合わせた基壇の蓮華座に円形光背を背にした馬口印を結んだ十八臂の座像を厚肉彫りしたものである。口元は18番如意輪観音や福岡西墓地准胝観音と同じ円形微笑型表現で、福岡西墓地准胝観音とともに貞治の40代を代表する傑作の1つである。

 施主は上穂村(現駒ヶ根市)に生まれた歌人小町谷吉英でェ成から文化の初年に掛けて活躍した伊那南部で活躍した文化人で、仏教を深く信じ、貞司に依頼してこの像以外にも上穂追分に不動明王像を造立した。
 
建福寺西国三十三所観音石仏
長野県伊那市高遠町西高遠1824 「文化・文政年代 江戸時代」
千手観音(5番葛井寺) 
馬頭観音(29番松尾寺) 
十一面観音(33番華厳寺) 
 高遠の城下町を見下ろす高台にある建福寺は、城主保科氏の菩提寺であり、臨済宗の名刹として知られている。この建福寺には、貞治の石仏として、西国三十三ヶ所観音や延命地蔵尊・願王地蔵尊などがある。

 貞治が40歳代末から50代初めの文化年間に完成したと思われる建福寺の西国三十三所観音像は、黒光りをする青石に彫られたもので、温泉寺などの像と比べると顔も丸く、独特の顔をした観音像である。29番松尾寺馬頭観音像は迫力のる憤怒相で貞治の馬頭観音像の中でも傑作の一つである。その他、5番葛井寺千手観音像や14番三井寺如意輪観音など建福寺西国三十三所観音像のどれをとっても貞治の代表作の1つと言える。
 
海岸寺百観音
山梨県北杜市須玉町上津金1222 「文化11(1814)年頃〜文政7(1824)年 江戸時代」
十一面観音観音(西国8番長谷寺) 
不空羂索観音(西国9番南円堂) 
十一面観音観音(西国24番中山寺) 
如意輪観音(西国27番圓教寺) 
 八ヶ岳の南、津金山の南腹に構える海岸寺は、行基菩薩が庵をひらいたのが始まりという古刹である。 応安年間(1368〜1375年)に鎌倉・建長寺より石室善玖和尚を招いて、律宗から、臨済宗に改め、海岸寺の開祖としたという。海抜約千mの位置にあり、 南アルプスの連峰と相対する眺望を誇っている。

 その海岸寺にある百観音石仏や地蔵石仏は一部を除いて、全て、守屋貞治が、 願王和尚と親交のあった桃渓和尚の依頼を受け、文化11年頃から10年の歳月をかけて彫ったものである。貞治の代表作といってもよい作品群で、油が乗り切り、気力充実した50代の傑作である。 特に最初に手がけた西国三十所観音の各像は穏やかで引き締まった顔で、精緻な彫りの石仏である。特にここにあげた8番長谷寺十一面観音・27番圓教寺如意輪観音・24番中山寺十一面観音・9番南円堂不空羂索観音などは印象に残る秀作である。
聖観音(秩父13番慈眼寺)
聖観音(秩父29番長泉院) 
如意輪観音(秩父30番法雲寺) 
 海岸寺の古い歴史を物語る長い石段を登ると、まず目にはいるのが江戸時代の観音堂や本堂・経堂などの伽藍とともにこの秩父三十四所観音石仏である。2回目に訪れたときには百合の花が各観音の周りに咲いていた。

 秩父三十四所観音は海岸寺百観音の中で最後に彫ったもので、板東三十三所観音で精彩を欠いていたが、再び西国三十三所観音の時に戻ったように引き締まった作になっている。

 5番語歌堂の准胝観音は貞司四十歳代の力作の福岡西や善福寺の准胝観音と比べると顔つきは細長く穏やかなで優しい眼差しの像で40歳代の准胝観音と違った魅力がある。秩父三十四所観音は西国三十三所観音と違い約3分の2の本尊が聖観音である。貞治はその聖観音をそれぞれ個性的に表現している。13番慈眼寺の聖観音は穏やかに瞑想する青年のような顔立ちであるのに対して、29番長泉院の聖観音は女性的な優しい顔である。19番龍石寺の十一面観音観音も観音像の横に咲く百合のように女性的な顔つきの像である。30番法雲寺は如意輪観音は頬に手を当て遠くを見つめるように思索する引き締まった顔が印象的な像である。
 
温泉寺西国三十三所観音石仏
長野県諏訪市湯の脇 1-21-1 「天保2年(1831) 江戸時代」
十一面観音 
千手観音 
如意輪観音 
 温泉寺の旧参道沿いの覆屋には西国三十三所観音石仏が安置されている。貞治は若い頃の美濃土岐の禅躰寺を第一作に、生涯4ヶ所へ西国三十三ヶ所観音を彫像した。温泉寺が最後の作で、貞治が亡くなる前年の天保2年(1831)に完成している。師の願王和尚代、藩主忠粛公の発願によると寺の縁起に記されている。

 これらの像は貞治の最晩年67歳に制作されたもので眼病悪化のため弟子たちの協力を得て彫られた。貞治が書き残した「石仏菩薩細工」には33体のうち23体を彫ったと記している。しかし、どれが弟子の作か判別しがたく、残りの10体も貞治が関わっていたと思われる。最後の磨きをかけずノミの跡す手法を採っていて、海岸寺百観音に比べるとシャープで気品のある観音像となっている。25番清水寺千手観音などは少女のような清らかなやさしい姿で印象に残る。5体ある如意輪観音もすばらしく、各像それぞれ表情が違う。



観音石仏50選(45)   白滝山の観音
広島県尾道市因島重井町  「文政13(1830)年」
 瀬戸内海の中央に位置し、村上水軍の島として知られている。 因島市は一島一市の町で造船業によって栄えた。現在は本四連絡橋の尾道・今治ルートがとおり、歴史の島・観光の島として注目されている。  その因島の東北端にある白滝山は、 岩神の霊場、霊山として知られ、15世紀のはじめ、 村上水軍の将、村上吉充によって、観音堂が建立された。

 頂上には阿弥陀三尊・釈迦三尊像・伝六夫婦像・三大師の他、五百羅漢や十字架を刻む観音磨崖仏や烏天狗などの様々な約700体の石仏が安置されている。

 これらの石仏は、 文政年間に因島重井町の柏原伝六(一観)が、神道・仏教・キリスト教・儒教の宗教の共通理念を一つに融合して「一観教」を編みだした。「一観教」は、伝六自ら教祖として布教され、信者は文政八年(1825)には数千人を数えたという。白滝山の石仏群(五百羅漢)は柏原伝六(一観)が文政10年(1827年)発願し、弟子の柏原林蔵を工事責任者として、 尾道より、石工を呼び寄せ彫らせたもので、3年後の文政13(1830)年に完成したという。。

 白滝山の石仏群は江戸時代後期、一人の教祖によって生まれた新興宗教が生み出した、自由奔放な表現の個性的な石仏群という点で、信州修那羅の石神仏と共通している。

 しかし、石仏から受ける印象は修那羅とは大きく違う。瀬戸内という風土の為か、全然じめついたところがなく、非常に明るい。この明るさが瀬戸内の石仏の魅力で、十字架を刻む観音磨崖仏や慈母観音など観音石仏も多く見られる。
 
威徳観音? 
 尾根の西側に並べられた石仏群の中の一体である。ここも羅漢像が多いが、この像のように女性的な像や素朴な幼児のような石仏が混ざっている。この像は蓮華があるので三十三体観音の威徳観音と思われる。ただ、「仏像図彙」などでは威徳観音は左手に蓮華を持っているが、この像では左手を頬に当てている。立てている片足は「仏像図彙」と同じ左足である。
 
十一面観音 
 尾根の東側に並べられた石仏群の中の一体。素朴な庶民の面相で胸の前で静かに手を合わせて祈る十一面観音である。
 
不動明王・馬頭観音?
 観音堂から頂上に向けて最初にある大きな石仏が釈迦三尊像である。その南側の釈迦十大弟子の像の前にある2体の石仏である。左側は不動明王で左の像は合掌する女性のように見える像である。この女性のような像の額の上に突き出た突起のような物があり、これが馬頭だとすると、二臂の馬頭観音ということになる。一般に馬頭観音は三面八臂の忿怒相が一般的であるが、石仏では忿怒相ではない二臂像が多く見られる。白滝山の石仏では女性のような穏やかな顔の像がかなり見られる。
 
衆寶観音
 不動明王・馬頭観音と同じく釈迦三尊像の南側にある石仏である。直角三角形の三角形石材に頭光背を負って手をついて、片足を立て片足を伸ばしてくつろぐような姿の観音像である。「仏像図彙」で調べると衆寶観音と思われる。ただ、「仏像図彙」の衆寶観音像を左右反転した姿である。
 
千手観音 
 観音堂の前にある展望所横の、上に烏天狗が飾られた岩に薄く半肉彫りされた千手観音である。十字架観音像として知られた像である。千手観音は一般に頭の横に上げた両手で錫杖と宝戟(三叉戟)を持つている。左手に持つのが宝戟で、この像で十字架に見えるのが宝戟である。「一観教」がキリスト教の影響もあると言うことで十字架とされるが、宝戟(三叉戟)は十字架のように表現される千手観音もよく見られる。
 
慈母観音 
 観音堂の山門の手前の大きな岩の上部に彫られた磨崖仏で、赤子をいやすように抱く、子育観音である。像の下には大きい慈母観音と刻銘がある。他の観音の石仏と比べるとやや硬い表現である。
 


観音石仏50選(46)   修那羅と霊諍山の観音石仏
 長野県の筑北村坂井の修那羅山安宮神社と千曲市八幡大雲寺裏山の霊諍山は幕末から明治時代にかけてユニークで魅力的な石神仏が多くあることで知られている。そのユニークな石神仏のなかには観音石仏も見られる。
 
修那羅の観音石仏
長野県東筑摩郡筑北村坂井眞田11572 修那羅山安宮神社「江戸時代末期〜明治時代」
 修那羅峠は長野県東筑摩郡坂井村(現在は筑北村坂井)と小県群青木村の境にある峠である。その峠に、地元の人がショナラさまと呼ぶ、「修那羅山安宮神社」がある。修那羅大天武と称する一修験行者が江戸時代末期の安政年間に、土地の人の熱望により雨乞いの法を修して信頼を得、古くから鎮座する大国主命の社殿を修し、加持祈祷をもっておおいに人々の信仰を集めたのが、安宮神社のはじまりである。

 この神社のまわりにおよそ700体の石造物が立ち並んでいる。その内、230体ほどが、石神仏像で、ユニークな表現の像や他に例類を見ない異形像が多く、非常に魅力的な石神石仏群である。これらの像の多くは高さ40p前後の小像で、幕末から明治時代にかけて、修那羅大天武の信奉者や一帯の地域の人々が建立したものである。そういう意味では、修那羅の石神仏は大天武という一修験者の教化活動の所産であるとともにこの時代、この地域の庶民信仰の集約でもある。

 修那羅の観音石仏としては修那羅の石神仏を代表する千手観音やブナ観音と呼ばれる観音・子育て観音などがある。
 
子育観音1
 観音菩薩は地蔵菩薩とともに現世利益を説く菩薩として庶民の信仰を集めている。修那羅の石神仏の多くは個人の祈願として奉納されたものが多く、女性や子どもの思いが込められている。修那羅には聖観音・千手観音・十一面観音など多くの像がある。特に目立つのは子どもを抱いた子育観音と思われる像である。子育地蔵と区別がつきにくいが、子育地蔵と同じように、子宝に恵まれるように願ったり、子どもの無事成長を祈って奉納されたものである。

 この像は三石氏が「酒泉童子」や「左うちわ神」と名付けた裸形神などと同じように衣服などの装飾物を省いた、いかにも”修那羅的”な表現の子育観音である。
 
子育観音2
  母親が胸の前で愛おしそうに赤子を抱いたような姿の子育観音で、味わい深い像である。「巳年女長壽」「小宮山與兵衛」と記銘があり、出生した女子の無事な成長と長寿を祈って父親が建立したことがわかる。
 
ブナ観音
  ブナの木の洞に安置されている十一面千手観音である。ブナの木に埋もれそうになっていることから、三上氏は「ブナ観音」、俳人の加藤楸邨氏は「樹胎仏」と名付けた。姿も彫りもよくできた像である。
 
千手観音
 この像は三面十臂でちょつと千手観音には見えない。庚申塔(青面金剛像)とされたこともあったようである。右側に千手観音という装飾的な文字が刻んであり、千手観音であることがわかる。

 手袋のような手や子供のような顔など、非常にユニークで可愛らしい千手観音である。千体的に彫りが浅く平面的だが、それだけ見事な省力化がなされ、デザイン的にも面白い表現になっていて、修那羅を代表する石仏の一つと言える。
 
霊諍山の観音石仏
  長野県更埴市郡(現在は千曲市)にある霊諍山の石仏・石神群は、昭和50年代のはじめ、浅野井坦氏によって紹介されてから、 全国の石仏愛好家から知られるようになった。 修那羅と似た奇妙な像が多数あり、修那羅との濃密な関係も含めてそのユニークな存在がクローズアップされている。ほとんどが明治時代およびそれ以降に造られたものと思われるが、民衆の自由な発想による造像でありその信仰形態とともに注目すべきところである。観音石仏は数少ないが、滝見観音など珍しい観音石仏も<みられる。
長野県千曲市八幡大雲寺裏山  「明治時代」
 
滝見観音
 三十三体観音の一員で、その8番目に置かれる滝見観音である。片膝をついて断崖座り滝を見上げる観音で、石仏としては三十三体観音として造立される場合が多く、独尊の作例は少ない。「仏像図彙」にそっくりな姿態の滝見観音があり、「仏像図彙」を参照して刻まれたと思われる。
 
不空羂索観音?
 霊諍山の石仏の中には線彫り像が摩利支天像以外に2体ある。1体は蔵王権現でもう1体はこの観音像である。この2体は浮き彫りと組み合わせた摩利支天像と違った素朴で味わい深い像である。この像は蓮台に立つ三眼八臂の像で羂索を持つことから不空羂索観音と思われる。ただ頭部の宝冠は十面の顔にも見えるので十一面千手観音かもしれない。



  
観音石仏50選(47)   覚苑寺准胝観音
山口県下関市長府安養寺3-3-10  「昭和7年」
 覚苑寺は毛利長府藩三代目藩主綱元が建てた黄檗宗の寺院で、和同開珎の長門鋳銭所跡があることで知られている。その覚苑寺の裏山、准胝山にこの磨崖仏がある。准胝山へ続く道は、西国三十三ヶ所観音霊場の分霊場になっていて、覚苑寺境内奧の墓地から山頂にかけて西国三十三ヶ所観音石仏安置されている。

 一番青岸渡寺如意輪観音、二番金剛宝寺(紀三井寺)十一面観音と順に観音石仏をみて10分ほど登ると、右側に2m余りの上部が三角形の大きな岩が見えてくる。その岩に准胝観音磨崖仏が彫られている。

 岩の上部に岩の形に添って舟形の光背を彫り込みつくり、そこに施無畏・与願印で蓮華座に座る菩薩像が半肉彫りで刻まれている。准胝観音は石仏としては珍しく、西国三十三ヶ所観音石仏などでみられるのみである(第十一番上醍醐寺が准胝観音である)。准胝観音は儀軌では、三眼十八臂になっていて、石仏では三眼八臂が多い。このような二臂は珍しく、横の石碑に準提観世音と刻まれていなければ准胝観音とはわからない。(准胝観音は準提観音・准泥観音・准提仏母・天人丈夫観音などの異名がある)

 手や腕・衣紋の表現は写実性に欠けるが、モダンで秀麗な容顔が印象的で、山口県の近代の磨崖仏としては出色の出来である(準提観世音の石碑に昭和七年四月の銘がある)。



  
観音石仏50選(48)   大窪寺の観音石仏
香川県さぬき市多和兼割96  「近代」
聖観音
千手観音
馬頭観音
馬頭観音
 四国八十八カ所霊場の結願の霊場「大窪寺」(香川県さぬき市)の阿弥陀堂前の広場の右側の銀杏の木の下には高さ120mほどの基壇に像高40p〜70pの丸彫りの近作の様々な石仏が安置されている。最上段の金剛界大日如来と弘法大師像を中心に如来・菩薩・明王・天部諸像や神像を曼陀羅風に安置したもので、馬頭明王や稲荷明神など特異な像があり興味深い。観音像としては聖観音、2体の馬頭観音(馬頭明王)、千手観音、子安観音、不空羂索観音などがある。近代の作であるが、詳細に彫られていて、引き締まった写実的な顔で、ブロンズ像のような雰囲気の石仏群である。



  
観音石仏50選(49)   法安寺磨崖仏の観音像
佐賀県唐津市北波多岸山  「昭和27(1952)年〜」
十一面観音
如意輪観音・子安観音
馬頭観音
千手観音
 法安寺は、波多一族の追善供養のため、小野妙安が大正12年に開いた寺院で、法安寺の磨崖仏は昭和27年(1952)、頃から、釈迦涅槃像をはじめとした、四国八十八ケ所霊場の本尊や弘法大師等諸仏像百数十体を大石壁に彫り出したもので、ほとんどが2mを超える量感豊かな厚肉彫りである。四国霊場32番禅師峰寺十一面観音・70番本山寺馬頭観音は土俗的な怪奇さを持った独特な表現になっていて、時代は違うが鵜殿窟磨崖仏と共通する雰囲気を持った磨崖仏である。その他、千手観音、聖観音など多数の観音像がある。


 
観音石仏50選(50)   高鍋大師の石仏群
宮崎県児湯郡高鍋町大字持田  「昭和33年」
 個人の宗教的情熱によってつくられた石仏群として宮崎県の高鍋大師がある。高鍋大師は四国八十八ヶ所霊場の勧請と持田古墳群の古墳に眠る古代の人々の霊を鎮めるために岩岡保吉氏(1889-1977)が約1haの土地を購入、私財を投じ地元の方々と共に半生をかけて建造した約700体の石仏群で、「十一めんくわんのん」と名付けた巨大なトーテムポールを思わせる像などユニークな石仏が多くある。
十一めんくわのん(十一面観音) 
 高鍋町の観光マスコットキャラクター「たか鍋大使くん」のモデルとなった石仏である。小さな石材をつなぎ合わせて作った高さ6mを超える像で、岩岡保吉氏が75歳の昭和33年の作である。像の向かって右の端に「十一めんくわのん」と刻銘がある。歯を見せてにっこり笑った顔が印象的で、頭の上に積み上げられた顔もすべて笑っているように見える。普通十一面観音は二臂であるが、この像は十六臂?または十二臂?で十一面千手観音と考えられるが、岩岡保吉氏は仏像の儀軌・図像などに頓着せず自由奔放に制作している。
十二めんやくし 
 「十一めんくわのん」とよく似た、トーテンポールのような他面多臂像であるが、像の向かって右の端に「十二めんやくし」と刻銘がある。「「十一めんくわのん」と同じ岩岡保吉氏が75歳の作である。顔は歯を見せていないだけで「十一めんくわのん」とそっくりである。一番上の両手の上に輝く太陽を乗せ、左手には「あサ日カカやく」右手には「ゆう日サん」と刻まれている。その他の手には「あくまカぜ」「をしはらい」「くサ木くすり」と刻んであるので薬師如来と同じ御利益を願って制作されたことがわかる。


観音石仏50選(1)