天部諸尊像9 青面金剛 |
青面金剛は、病魔病鬼を広める夜叉神で、大畠洋一氏によると「陀羅尼集経」に説く四臂三眼青面金剛像は、仏教がヒンズー経に対抗するためにつくられたシヴァ神の形を借りた忿怒神マハーカーラの絵図が中国に流れ「病を流行らす悪鬼」と誤伝されたもので、病を流行らす悪鬼であった青面金剛は後に病魔を駆逐する善神となり、金剛夜叉明王をモデルに正面金剛夜叉明王(一面六臂二眼)がつくられ、庚申塔として江戸時代に数多く造像される六臂像の青面金剛の基本形となったという。(日本の石仏2001 98「青面金剛進化論」)。 青面金剛に結核(伝尸病)の予防治療を祈る修法があることから、道教の三尸の駆除をこの尊に祈願することが行われ、中世以降、庚申信仰の本尊として祀られるようになった。庚申の夜、三尸虫が人間の罪状を天帝(帝釈天)に告げるのを防ぐため、人々は寝ずに庚申待ちの行事を行い夜を明かす。平安貴族に始まるが、江戸時代になると庶民に広がり多数の庚申講がつくられ、みんなで寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。 青面金剛の造像は庚申塔としてつくられた石造物が圧倒的に多く、庚申講の流行とともに江戸時代に全国各地でつくられた。青面金剛の像を刻む庚申塔は承応3(1654)年の神奈川県茅ヶ崎市の庚申塔を最初に、年を追って増加し江戸中期には関東地方だけでなく各地方で数多く造立される。最初の茅ヶ崎市の塔は四臂で二猿つきのもので、その後その像形も二・四・六・八臂となり、持ち物もいろいろなものが見られる。しかし、最も多いのが六臂である。 ここでは九州・四国の青面金剛を刻む庚申塔を紹介する。庚申塔は一般には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相の青面金剛と、日月や猿、鶏、夜叉、童子などが配される。宮崎市内に「天部諸尊像2金剛力士」で紹介した串間延寿院・円立院父子が彫った三猿や夜叉などを配さない単独像の青面金剛像がある。八坂神社青面金剛像・伊満福寺奥の院青面金剛像・伊満福寺青面金剛像がそれである。ともに六臂像で船型の光背を背負った厚肉彫り像である。 延寿院作の八坂神社青面金剛像と伊満福寺奥の院青面金剛像は上に上げた左手には法輪を持ち、他の手は軽く掌握をらせ、中を開けて持ち物を差し込めるようにしている。円立院作の伊満福寺青面金剛像はあげた左右の手には日輪・月輪らしきものを持ち、他の手は八坂神社像と同様である。延寿院・円立院父子が住職を務めた護東寺跡にも厚肉彫りの青面金剛像がある。四臂像で上げた左手には宝珠を持つ。 大分県の国東半島は700基をこえる庚申塔があり、その多くは青面金剛像を刻む。中でもよく知られている庚申塔は有寺の丸彫りの青面金剛像である。二臂像で右手に三叉戟を持つがそれが十字架に見えキリスト像を思わせる。他の庚申塔は六臂で法輪・弓・矢ショケラなどを持ち、日月や猿、鶏、夜叉、童子などを配したものが多い。真木大堂古代公園庚申塔は浅い半肉彫り像で青面金剛像の左右に地蔵菩薩のような童子像を、下に三猿や四夜叉像を刻む。天念寺庚申塔は法輪・弓矢・ショケラなどを持つ。泉福寺庚申塔は花頭窓風の彫り窪みいっぱいに弓矢などを持った顔の大きい青面金剛像と二童子・二鶏を刻む。 四国にも庚申塔は多くあり、特に徳島県阿波市の見坂庚申塔・香川県さぬき市の槇川庚申塔などは大型で優れた庚申塔である。見坂庚申塔は、二鶏を刻んだ基壇の上に、三猿と二匹の邪鬼の上にのる大きなショケラと法輪・弓矢・剣・三股戟を持った青面金剛を半肉彫りしたもので、破風部分に月日を刻んだ立派な屋根をのせる。 槇川庚申塔は男根の形をした石材の上部を花頭窓風の屋根にして残し、邪鬼の上に力強く立つショケラと法輪・弓矢・剣・三股戟を持った青面金剛を半肉彫りしたもので、この地区の人が三国一と自慢する庚申塔である。 徳島県阿波市の古虚空蔵庵には61基の庚申塔がたてられている。その中には猿田彦の丸彫り像や種子と文字を刻んだものもあるが六臂の青面金剛を刻んだ塔がほとんどである。その内、同じ石工の作と思われる二基の像をのせた。一基はショケラと法輪・弓矢・剣・三股戟を持った青面金剛像、もう一基はショケラの代わりに羂索を持つ青面金剛像である。 奈良県宇陀市大宇陀の大願寺には「お茶目庚申」と呼ばれる庚申塔がある。素朴で愛らしい青面金剛像である。短い手で羂索や法輪などを持つ。青面金剛の顔や猿や鶏も漫画ティックな表現である。庶民信仰の石塔らしくこのようなユーモラスな庚申塔は全国によく見かけられる。 |