弥勒石仏

 

大和の弥勒石仏 京都・近江の弥勒石仏  関山石仏群と
湯田中弥勒石仏
各地の弥勒石仏 

  弥勒菩薩は釈迦の次に仏となることが約束された菩薩で、釈迦の入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行・説法しているという。将来において過去仏の釈迦の業績を受け継ぐところから、当来仏とされ、弥勒如来とか弥勒仏とも呼ばれ、しばしば如来の姿で表される。平安・鎌倉期の石仏の多くは弥勒仏である。

 弥勒の信仰は我が国においても早い時代から盛んであったようで、広隆寺像(飛鳥時代・木彫)や中宮寺像(飛鳥時代・木彫)など多くの遺品が残されている。これらの初期の弥勒信仰は、弥勒菩薩の兜率天(天界にある弥勒浄土)に往生しようと願う信仰(上生信仰)から生まれたものである。

 石仏としては1991年、弥勒堂立替に伴う発掘調査で出土した石光寺(奈良県葛城市)の弥勒仏や奈良県宇陀市向淵の飯降磨崖仏などが古く、白鳳時代から奈良時代前期の作と思われる、共に痛みが大きく完全な姿では残っていない。奈良時代の弥勒石仏仏としては笠置寺の本尊の線彫りの弥勒磨崖仏が知られているが、元弘の乱によって焼かれ弥勒仏の姿は見出せない。

 奈良市の頭塔の北面石仏は、塔四方仏の北方に配されていることから、弥勒仏と考えられる。完全な姿で残っている弥勒石仏としては最古のものである。平安時代前期(奈良時代後期の説もある)の作と思われる滋賀県の狛坂寺跡磨崖仏は朝鮮の新羅時代の南山の七仏庵磨崖仏とよく似た優れた磨崖仏で中尊の如来像は弥勒仏(阿弥陀仏説もあり)と思われる。

 平安後期になると末法思想の広がりと共に、厭世観が強まり、未来への憧れから弥勒の下生を願い、弥勒浄土への往生を願って弥勒信仰が広がる。この時代経塚が多く作られたのも弥勒信仰と関わっている。弥勒が兜率天から下生する際に真っ先に救済してもらおうと、人々は書写した経を筒に納めて山中に埋めたのである。石仏では金屋石仏(説法印弥勒仏)や比叡山香炉ヶ岡弥勒石仏、禅華院にある雲母坂の石仏などが平安後期の作である。信越地方にある「いけ込み式」あるいは、「植え込み式」と表現される地面に直接、植え込んだ新潟県妙高市の関山石仏群や長野県の湯田中弥勒石仏なども平安後期の作である。

 大和では特に弥勒信仰が盛んで、鎌倉時代、多くの弥勒石仏がつくられた。弥勒菩薩への信仰は奈良法相宗の寺、興福寺などで盛んであった。未来世救済の仏としての信仰のほかに、法相宗では第一祖を弥勒とするからでる。鎌倉時代に台頭した新仏教(浄土教など)に対する旧仏教側の代表的な僧として知られる貞慶(解脱上人)は笠置寺に隠棲して弥勒信仰を広めた。その、笠置寺の本尊の大弥勒像を模して、 承元3年 (1209) に完成させたのが奈良県宇陀市の大野寺弥勒磨崖仏で ある。

 大和の鎌倉時代の弥勒石仏は柳生街道沿いの朝日観音・夕日観音と呼ばれる弥勒磨崖仏や月ヶ瀬ののど地蔵・瀧倉神社弥勒石仏などがある。天理市の長岳寺弥勒石棺仏や桜井市の談山神社弥勒石仏も鎌倉時代の優れた弥勒石仏である。鎌倉時代以降は弥勒石仏は大和ではあまり見られなくなり、天理市のみろく丘弥勒石龕仏(南北朝時代)・白毫寺弥勒石仏(江戸初期)などのみである。

 京都にも鎌倉時代につくられた弥勒石仏か多くある。清涼寺弥勒宝塔・霊鑑寺弥勒石仏・一乗寺北墓弥勒石仏・恵光寺弥勒石仏などが鎌倉時代の作で全て如来像である。大沢の池石仏群の弥勒石仏は蓮華を持った菩薩像である。また、善導寺釈迦三尊石仏の向かって右の脇持は弥勒仏である。他に京都府南部の和束町に弥勒磨崖仏がある。

 大阪府交野市の神宮寺跡弥勒石仏は鎌倉時代の弥勒仏である。全国各地にも弥勒石仏か見られるがその多くが室町時代以降の作で、独尊と十三仏の造像があり、それぞれ立像と座像が見られる。いずれの場合でも腹前の両手で宝塔を棒持する菩薩形像が一般的である。十三仏の弥勒造像として山口県の岩谷十三仏・深谷十三仏、福井県の瀧谷寺石龕開山堂などが室町時代のものである。

 

参照文献

「日本石仏事典」 庚申懇話会遍 雄山閣
「奈良県史7 石造美術」 清水俊明 名著出版
「京都の石仏」  佐野精一  サンブライト出版  
「石仏の美V 古仏への憧れ」 佐藤宗太郎  木耳社